携帯で動画を見るときはパケット定額で
その後を知っているボクらには想像ができるはず。その時はみんないるからまだ大丈夫、でした
避難勧告って慣れてくると全く動かない人が出てきます
台風が来ました。ネットで「また何もないんだろう」みたいなやり取りを見ていて、自分の判断をしない人達って結構いるんだなと思いました。内心不安があって誰かに大丈夫だと言って欲しいんじゃないかな、と。言うだけで良いなら言ってあげたい。だいたいは大丈夫。あなたの状況まではわからないけれど。それは悪いことじゃありません。実際に何もないことが多いから。間違ってるとも思わない。警報や避難勧告って何も起こらないための予防活動です。さらに動物としてなら完全に正しい。自然界にうっかりさんは必要です。情報を共有し準備を整えたシマウマさんばかりならライオンはやっていけない
一日目震度6でも多くの高齢者が自宅に留まりました。そして再度揺れて…
死傷者のほとんどは二日目でした
いろいろあり過ぎて何年も経った気もしますが、今年の熊本震災で避難所は二日目に激増していました。付き添われて来たケースが多く、単純に動けなかった人達が多いんだろうと思っていました。でも
いままで大丈夫だったから今度も大丈夫。これが多数の(わたしも)感覚でした。多数は、だいたいは正しい。ただ、いま"自分のいるその場で"感覚の多数は正しいでしょうか。平常でないときの感覚、いつもが判断基準にならないときの感覚は正しいのでしょうか。具体的にがけ崩れの心配はない場所だとか避難準備は済ませ避難手段も確保を終えたわけでもない。根拠もなくただ留まる人達は少なくなかった
周りが動いてないうちはまだ大丈夫、その感覚ちょっと疑ったほうが良くはないですか?
感覚を根拠に感覚で判断をする。いわゆる「カン」と呼んでいるものです。情報の取捨選択はほとんどいらず、経験を積めばそれなりに精度も上がります。いちいち悩まなくていいじゃない。これが生き物のフツウです。カンでだいたいは合っています。わたしも日常生活はほぼカンで済ませています
その時も同じ感覚を持つひとは間違いなく多数でした。身近で「大丈夫だよねえ(希望)」に「大丈夫大丈夫(希望)」、「〇〇さんもああ言ってるから大丈夫だ(安心)」でなにもしないことを決めてしまう。大丈夫だと決め込んで避難準備すらしない。公的機関からの客観的な情報も入れようとしない。残念なことに高齢者にこれがとても多かった。いつもやらないことには体力が必要です。それに、これまで大丈夫だった経験が(幸運にも)多かった場合、カンでの判断はかなり難しくなる
大丈夫って感覚にすがりたい。そんなシマウマをライオンが待っています
熊本震災はあれだけの揺れで「大したこと」はありませんでした。死者は「たかだか」50名弱。テレビやネットで眺めているだけじゃ遠いセカイの出来事です。自分の身に降りかかって来るまで実感はまるでない。でもそこには現実の死が存在します。そのなかでも一日目で避難所へ行けば死なずに済んだ人が多かったと聞きます。余裕ができたら対策しよう、それではいきなり本番かもしれません
台風の避難が空振りだったとしても将来のための避難訓練とか地域のイベントぐらいに捉えておいたらいい。家族で避難手順の打ち合わせしておくだけでも立派な対策です。実際にやってみれば台風以外にも応用がききます。避難袋に実際に詰めて持ってば実感が違います。やってみた後でから初めて気付くこともたくさんあって無駄になりません(処方薬とサプリは避難後に気付いた)。「分ってるよ」の気分とカンだけじゃその時には大きな抜けが出る。ヒトとして、知恵を使って減らせるものは減らしたい。次は命が救われるかもしれません
5月15日。避難覚書
あなたのカンを支えているのはあなた自身の経験です
少しずつでも経験しておこうよ。身近で知恵を集め普段から支えあっておこう。普段の備えや避難準備ぐらいすぐに始めよう。自分の親ぐらいは避難を勧めてあげよう。テレビやネットだけ眺めていても避難体験とはまだ言えないと思います。空振りを煩(わずら)わしがって、自分と自分の家族を死なせたくはないですもん
その感覚ちょっと疑ったほうが良くはないですか。ヒトとして生き延びるためにね(藤田)
>なぜ災害経験者ほど避難勧告を無視するのか(ダイヤモンドオンライン・パソコン向け)
>そんな場合に必要なのは、情報収集活動でなく、避難行動なのです。
2003年5月、宮城県を大きな揺れが襲いました。マグニチュードは7.1。石巻市で震度6弱、気仙沼市では震度5強を記録した「2003年宮城県沖地震(*2)」です。
一帯は、言わずと知れた三陸海岸。津波で1896年には2万人以上、1933年には3000人の死者・行方不明者を出しています。
でもヒトは、避難しませんでした。
群馬大学 片田敏孝教授らの調査によれば、気仙沼市の住人のうち即座に避難したのはわずかに8%(*3)。残りは避難でなく情報収集行動に走りました。テレビの前に座り、自らに迫る(かもしれない)大災害の予告情報(=津波警報)を待っていたのです。
なかでも、沿岸住民の4割は「海の様子を見に行き」ました。
たしかに昔、この地域には引き潮の後に津波が来たことがあります。でも今度は違うかもしれません。違ったら、一体どうするつもりだったのでしょう。津波は遠洋から時速800km(*4)で迫ってくるというのに。
リスクに対して、ヒトはこれ程に大きく読み間違えます。「正常化の偏見」に負けぬよう、気をつけましょう。情報収集活動でなく、即座の避難行動を心がけましょう。(ここまで引用)
その後を知っているボクらには想像ができるはず。その時はみんないるからまだ大丈夫、でした
避難勧告って慣れてくると全く動かない人が出てきます
台風が来ました。ネットで「また何もないんだろう」みたいなやり取りを見ていて、自分の判断をしない人達って結構いるんだなと思いました。内心不安があって誰かに大丈夫だと言って欲しいんじゃないかな、と。言うだけで良いなら言ってあげたい。だいたいは大丈夫。あなたの状況まではわからないけれど。それは悪いことじゃありません。実際に何もないことが多いから。間違ってるとも思わない。警報や避難勧告って何も起こらないための予防活動です。さらに動物としてなら完全に正しい。自然界にうっかりさんは必要です。情報を共有し準備を整えたシマウマさんばかりならライオンはやっていけない
一日目震度6でも多くの高齢者が自宅に留まりました。そして再度揺れて…
死傷者のほとんどは二日目でした
いろいろあり過ぎて何年も経った気もしますが、今年の熊本震災で避難所は二日目に激増していました。付き添われて来たケースが多く、単純に動けなかった人達が多いんだろうと思っていました。でも
いままで大丈夫だったから今度も大丈夫。これが多数の(わたしも)感覚でした。多数は、だいたいは正しい。ただ、いま"自分のいるその場で"感覚の多数は正しいでしょうか。平常でないときの感覚、いつもが判断基準にならないときの感覚は正しいのでしょうか。具体的にがけ崩れの心配はない場所だとか避難準備は済ませ避難手段も確保を終えたわけでもない。根拠もなくただ留まる人達は少なくなかった
周りが動いてないうちはまだ大丈夫、その感覚ちょっと疑ったほうが良くはないですか?
感覚を根拠に感覚で判断をする。いわゆる「カン」と呼んでいるものです。情報の取捨選択はほとんどいらず、経験を積めばそれなりに精度も上がります。いちいち悩まなくていいじゃない。これが生き物のフツウです。カンでだいたいは合っています。わたしも日常生活はほぼカンで済ませています
その時も同じ感覚を持つひとは間違いなく多数でした。身近で「大丈夫だよねえ(希望)」に「大丈夫大丈夫(希望)」、「〇〇さんもああ言ってるから大丈夫だ(安心)」でなにもしないことを決めてしまう。大丈夫だと決め込んで避難準備すらしない。公的機関からの客観的な情報も入れようとしない。残念なことに高齢者にこれがとても多かった。いつもやらないことには体力が必要です。それに、これまで大丈夫だった経験が(幸運にも)多かった場合、カンでの判断はかなり難しくなる
大丈夫って感覚にすがりたい。そんなシマウマをライオンが待っています
熊本震災はあれだけの揺れで「大したこと」はありませんでした。死者は「たかだか」50名弱。テレビやネットで眺めているだけじゃ遠いセカイの出来事です。自分の身に降りかかって来るまで実感はまるでない。でもそこには現実の死が存在します。そのなかでも一日目で避難所へ行けば死なずに済んだ人が多かったと聞きます。余裕ができたら対策しよう、それではいきなり本番かもしれません
台風の避難が空振りだったとしても将来のための避難訓練とか地域のイベントぐらいに捉えておいたらいい。家族で避難手順の打ち合わせしておくだけでも立派な対策です。実際にやってみれば台風以外にも応用がききます。避難袋に実際に詰めて持ってば実感が違います。やってみた後でから初めて気付くこともたくさんあって無駄になりません(処方薬とサプリは避難後に気付いた)。「分ってるよ」の気分とカンだけじゃその時には大きな抜けが出る。ヒトとして、知恵を使って減らせるものは減らしたい。次は命が救われるかもしれません
5月15日。避難覚書
あなたのカンを支えているのはあなた自身の経験です
少しずつでも経験しておこうよ。身近で知恵を集め普段から支えあっておこう。普段の備えや避難準備ぐらいすぐに始めよう。自分の親ぐらいは避難を勧めてあげよう。テレビやネットだけ眺めていても避難体験とはまだ言えないと思います。空振りを煩(わずら)わしがって、自分と自分の家族を死なせたくはないですもん
その感覚ちょっと疑ったほうが良くはないですか。ヒトとして生き延びるためにね(藤田)
>なぜ災害経験者ほど避難勧告を無視するのか(ダイヤモンドオンライン・パソコン向け)
>そんな場合に必要なのは、情報収集活動でなく、避難行動なのです。
2003年5月、宮城県を大きな揺れが襲いました。マグニチュードは7.1。石巻市で震度6弱、気仙沼市では震度5強を記録した「2003年宮城県沖地震(*2)」です。
一帯は、言わずと知れた三陸海岸。津波で1896年には2万人以上、1933年には3000人の死者・行方不明者を出しています。
でもヒトは、避難しませんでした。
群馬大学 片田敏孝教授らの調査によれば、気仙沼市の住人のうち即座に避難したのはわずかに8%(*3)。残りは避難でなく情報収集行動に走りました。テレビの前に座り、自らに迫る(かもしれない)大災害の予告情報(=津波警報)を待っていたのです。
なかでも、沿岸住民の4割は「海の様子を見に行き」ました。
たしかに昔、この地域には引き潮の後に津波が来たことがあります。でも今度は違うかもしれません。違ったら、一体どうするつもりだったのでしょう。津波は遠洋から時速800km(*4)で迫ってくるというのに。
リスクに対して、ヒトはこれ程に大きく読み間違えます。「正常化の偏見」に負けぬよう、気をつけましょう。情報収集活動でなく、即座の避難行動を心がけましょう。(ここまで引用)