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木地師についての一考察(2)

2017-01-26 02:34:14 | 瑣事拾遺
近江三上山の山麓にはイモ畑、イモヶ谷などの地名があり、鋳物師との関係を示唆する。
俵の「たわら」とはタバル(燻)で精錬を意味し、藤太は淘汰で選鉱の意味もある。
小椋谷の筒井八幡社は、渡来系氏族の秦氏が勧請し、且つ鍛冶翁伝説も伴う。
ここで木地師と鉱山師の密接な関係が理解されようが、各地の鉱山師と木地師はお互いに結びついて漂移したものであろう。
鈴鹿山麓には秦氏が広く分布していて、その多くが杣と深く係わっていて、依智秦(えちのはた)は轆轤技術に
秀でた職人であった。
木地師集落に何々畑、・・畑などの地名が多い事も秦氏との関連を暗示する。
山村の人々を「ハトサン」と呼ぶ事があり、それは「畑=秦」の訛から出たのではないか?
木地師、鉱山師ともに山中で生活をする為に焼き畑をしたことに依り、畑はその意味とも考えられるのだが・・。
又、「ハタ」は朝鮮語で「海の人」に由来すると云われ、高句麗からの渡来人であった木地屋をコマヒキと
呼ぶことも有った。
小椋を小倉と表記する事もあり、それは元来「コクラ」と呼び、コクラ=コクリ(高句麗)であったのかも知れない。
さらにコクラの「クラ」が鉱床を意味するのは今更言及するまでもなかろう。
牽強付会のきらいはあるが、あらゆる可能性を無視する事なく、併考しなければならない事はその他にも
いろいろあるのではなかろうか。
木地師と轆轤師が鉱山師と関係するのは、鉱石採鉱に必要な滑車や絞車の制作、金屋の採鉱や選鉱用の木枠は欠くべからざる
用具であり、それらの道具がなければ仕事が成り立たなかったのである。

閑話休題 近江は木地師、轆轤師の本拠地である上に、近江商人として全国に販路を拡大し、数多くの豪商を
輩出したが、どういうわけか姓に「井」がついたものが多いのである。
三井家(伊勢松坂というが実は近江の出)、中井家、高井家、村井家、石井家などいずれも名の知れた豪商である。
近江の三井、島田組と対抗した小野組の屋号も「井筒」であった事や、井伊家(元は駿河)など偶然にしては
余りにも蓋然的である。
近江商人の全国的な活動範囲と、木地師、轆轤師、鉱山師の活動が同調するのは当然であり、山中で生活する木地師
、山師への物資運搬としての役割はお互いの仕事上の補完をするものであり、商人は辺境の地へも依頼が有れば出向いたのであった。
又その出向いた先で、修験者やマタギなどとの交流も有ったであろうし、彼等から種々の知識を獲得する事により、
多岐、多種の生薬知識をもとに、商品を開発して販路の拡大に発展させたことが近江商人としての
確固とした地位を確立した一因ではなかったろうか?
                                              続く

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