gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

震災跡地再訪

2017-06-27 00:31:15 | 瑣事拾遺

 


先日、久し振りに宮城の震災跡地に行ってきた。
福島の南相馬で手伝いをして、明後日は仕事で今日中に帰らなければならず、
帰路のルートをナビに打ち込んでいた時、勤務先の同僚から都合により仕事のシフトを
一日代わってほしいとの連絡が入った。
思いがけない一日の余裕が出来たのを幸いに、久し振りに宮城の現状を見てみたいと
即座に仙台に向かう事にした。
南相馬から常磐道に乗れば仙台まではすぐである。
 
ほぼ、3年ぶりの再訪であった。
そこは、5度手伝いに行った場所で、思い入れもひとしお深い場所であった。
というのも、そこのボラセン(ボランティアセンター)でスタッフの一人であったG君との
邂逅が忘れ難い出会いであった事と、手伝いの作業も忘れ難い事であったからである。
G君についての印象は、当初無口で愛想のない若者で、どうやらボラセンのスタッフの一員らしい程度の認識でしかなかった。
第一印象では当節の一般的な若者のステレオタイプの一人であるとの感じを持ったのである。
しかし、その思い込みはある時見事に覆された。
実はそのG君を慕ってくる子供たちの様子が、最初尋常でない感じであり、不審な思いで見ていたのである。
その様子とは、G君の姿が見えないと、大声で「G 」「G」と大声で探し回るのであった。
それは傍目にも必死の様子が見て取れ、怪訝な思いを抱かずにおれなかったのである。
しかし後にその理由が判ってからは、子供たちの思いと、一方で自分の思いの浅薄さを
痛感する事になったのだが・・・。
震災後約1年のそこには仮設住宅が30軒程建てられ、仮設入居者の日常生活の為の仮設の
店舗が何軒か建てられたが、その仮設店舗の開店準備の為の手伝いに行ったのである。
店舗は鮮魚店、花屋、理髪店、雑貨店、ラーメン店、マッサージ店などで仮設の一角に纏まってあるので、年配の人達でも容易に来店できる立地に建てられた。
店舗はプレハブ作りで、内部はゆっくり立ち寄って貰えるように、スペースも比較的余裕を
持った作りになっていた。地元の学校に看板のデザインの依頼をして、投票によって
決められ、それを元に学生やボランティアがそれぞれに協力して、意匠を凝らした看板が完成した。
その商店の開店準備に全国から大勢のボランティアが集まり、立派な商店街が完成した。
従ってそこでの出会いはG君だけでなく、全国から参集した多くの人達との出会いも有った。
未曾有の理不尽な災害に遭遇した非常時に駆け付けた大勢のボランティアの存在は
自分が同胞の一員である存在意義をはっきりと確認出来たとも言えようか。
日本人としての同胞意識と行動は、このような非常時にこそ顕現し、発動するのである。
  G君はあるNPO人のボランティア団体のスタッフの一員として、被災者からの様々な作業要請に対して、道具用具の手配と準備、人員の把握と配置、作業要請場所への案内と確認など、少ないスタッフで大勢のボランティアを捌きながら走り回っていた。
その忙殺ともいえる状況で、彼の姿が見えない時、決まって大声で彼の名前を叫んで
探し回っていた2,3人の小学生の子供達がいた。
大声で「G」「G」と呼び捨てに必死に大声でG君を探し回る子供たちに、初めて来たボランティアの人達は怪訝な思いで見つめていたのである。
かくいう小生も、その光景を初めて目にしたときに、何という子供たちだと呆れて眺めていたのだったが・・・。
その不審がある時に、突然に理解し納得したのである。
それは、要請されていた作業が終わり、使用した道具を洗って倉庫へ返納しようと倉庫を開けたらG君がいた。
各地から寄贈された新しい用具、道具を所定の場所に片付けていたので、ついでに「手伝おうか?」と声を掛けたら
「有難う御座います」意外と素直に返事をしてくれて、少し驚いた。
というのも、G君は少なくとも183cmはあろうかと思える体躯で、いつも寡黙で感情を出さない表情で、一見するととっつきにくい印象であったからで、声掛けしたときは余計な事を言ったと後悔した。
二人で次から次へと返納される道具を所定の場所へ片付けて、30分ほどして漸く終わったと思ったら、例の彼を探す大声が聞こえてきた。
怪訝に思ってG君にその訳を聞いた。
最初G君は話したくなさそうな素振りだったのだが、あの子たちが誤解を受けると可哀そうだからと話をしてくれた。
その理由は次のようなものであった。
「あの子たちは今の状態がやりきれないんですよ」
「あの震災で、今までの生活が一変して、家や家財の一切、そして親戚やいとこ、友達、家族のだれかが亡くなっていたりしている子たちなんです」
「何でわたしたちが?なにかしたの?何で?
「やりきれない思いを誰にも吐露出来ない不満がどんどん蓄積して、僕に対してのみあのような乱暴な言葉で思いの丈を晴らしているんです」
「それであの子たちの不満が軽減出来れば、お安い事ですよ。」
あの子たちは何を言ってるのか自分でもよくわかっているんです」
「自分達が酷い事を言ってるとちゃんとで分かってるんです。」
「あの子達の不満のはけ口はどこにも無いんですよ。」
親や兄弟姉妹、友達みんな酷い目にあってるので誰にも捌け口がない」
「僕に対してのみあんな言い方をするんです」
「こんな僕に甘えてくれているんですよ。年の離れた妹と思ってます」
それだけ話すと、G君は「じゃ、倉庫閉めます。お陰で早く整理出来て、あの子たちのところへ行けます。有難う御座いました」
G君は少しはにかんだ笑顔をして、子供たちの声のする方へ駆け出して行ったのである。
G君の話を聞いて、穴に入りたい気持ちになった。
自分では分別があると思いあがった化けの皮がものの見事に剝がされた一言であった。
あの子供達たちの気持ちの一片さえも分からずに、どの面下げてボランティア気取りをしているんだと
横っ面を引っ叩かれた思いであった。
G君は九州の大学を休学して、ここにボランティアとして来て、既に1年以上になっているということを人伝に聞いた。
勿論、G君当人の思いと、彼の御家族の思いが一致しなければ、居付いて復興援助を続ける事はなかなか出来る事ではなかろう。
熊本震災、鳥取震災にも全国各地から大勢のボランティアが集結し、復旧、復興に汗を流した。
久し振りに来た被災地は、想像以上に変わっていた所と、いまだに痕跡を残しているところが混在した場所であった。
高台から暮れなずむ海岸線を眺めながら、あの子供達のその後の成長に思いを馳せた。
地域の復興と辛い思念が必ずしも併進するとは思わないが、只、着実に生まれ変わっていく場所である事は疑いの余地がなく、
復興から発展へと、後悔から進取へと願わずに居れない。
G君の現況は、地域の一員となって居て、大柄な体躯で相変わらずあちこち飛び回っていたのであった。
 
 
 
 

やがて6年を迎える被災地に

2017-02-28 23:10:42 | 瑣事拾遺

 

もうと云おうか、まだと云おうか、それぞれの思いで時間経過の違いはあろうが、あの東北大震災から

やがて6年目を迎える。

小生が震災後6ヶ月を経過して初めて仙台へ行き、被災地の惨状を目の当たりにした驚きは

今でもはっきりとおぼえている。

人為的な破壊(幸いにも戦争による惨状は未だ経験していないが)を超えた広範で有無を言わさぬ徹底的な自然の破壊の状況を

見て、言葉に窮する思いを初めて抱いた。

それ以降、宮城行きが毎月の約束事のようになり、宮城のあちこちへ伺った。

と云っても、せいぜい2~3日の半ば観光気分のような手伝いであったが、それでも全国から駆け付けた大勢の

人達に出会えたことで、自己満足の正当化が出来たのであろう。

冒頭の写真は、震災後1年目の仙台駅前である。

3月8 日に七ヶ浜に来て10日まで手伝いをして、11日は鎮魂の日で作業は無く、又帰宅する日であったので

ボランティアセンターの簡易宿舎を出て、仙台駅へ向かった。

実はかねてから念願であった大崎八幡宮へこの機会に参拝しようと思い、午前中に仙台駅まで戻り、

すぐに八幡宮へ向かったのであった。

広大な神域を散策しながら、震災で受けた破損が未だ修理中の箇所があちこちに見受けられ、震度の

烈しさが容易に想像された。

ゆっくり境内を散策して、本殿に参拝して被災地の復興を祈念し、午後2時頃には仙台駅へ戻った。

一つには新幹線の乗車時間の事と、もう一つは震災の時間に各所で黙祷することが前日から知らされていて、

それに間に合わせる為でもあった。

仙台駅で大勢の人達と共に無念の思いで亡くなった御霊の冥福を祈れればの思いもあったのである。

午後2時30分頃から徐々に人が集まり始めて、運命の1分前の45分には夥しい人で、駅前の立体歩道橋は埋め尽くされた。

駅前に駐車していた十何台タクシーから運転手の方々も出て、皆で一斉に黙祷をした。

未曾有な忌まわしい不幸な災難に遭遇された御霊に、鎮魂の祈りを捧げたその場に居合わせた事で、

今後も可能な限り手伝いに来ることに意を強くした事が思い出される。

尤も、宮城へは3年を経った頃からは力仕事の要請も少なくなり、逡巡する思いと同時に福島の作業要請が徐々に

出始めて、次第に福島の楢葉、富岡へ行く機会に移行したが、残留放射能の問題で作業時間が制約され、

その結果作業が進捗せず、至る所で遅滞せざるを得なかった。

現在は南相馬の全域で立ち入り禁止の区域は解除されてはいるが、除染前段階の作業(玉切り、除草、付帯作業)は、

参加人数の減少により遅々として進展していないのが実情である。

 

 


雑感雑想

2017-02-20 03:15:11 | 瑣事拾遺

 

拙稿に既出しているが、小生のパソコンの待ち受け画面然となっている「ふくしまの窓から」について、

今年の3月いっぱいをもってコンテンツが終了するとのアナウンスがされている。

やがて6年が経過しようとする現在、コンテンツ終了も止む無しとの思いもある一方で、せめて浜通りについては

もう暫く継続して貰えないかの思いもある。

浜通り地域については除染も未だ道半ばであり、従ってその地域に故郷のある各地に避難を余儀無くされている

方達にすれば、浜通りの現状が24時間見れるコンテンツ終了は残念で有ろうと惻隠されるのである。

かくいう部外者の小生でさえ愕然としたが、当事者の方達にすれば思いの拠り所が見れなくなる思いは

察して余りあるであろう。

浜通りの中で小生が特に拘っている場所は富岡で、小浜の交差点の歩道橋に「富岡は負けん」の

横断幕を見るたびに涙腺が緩むのである。

コンテンツの当初からずっと交差点の変遷を見続けてきた者のひとりの思いとしては、現在の状況は

感慨深いものがある。

当初の画面では警察のパトカーが頻繁に通行する以外は殆どの車両の通行は無かったのだが、

それも当然と云えば当然で、当時は陸前浜街道は楢葉以北は通行禁止であり、従って富岡まで

の進入は出来なかった。

その状況の中で、偶々小生はボランティアで富岡へ行くことになって、富岡駅や東電第2原発など

間近で震災直後の惨状を見る経験をして、それ以来富岡は小生にとって特別の場所となった。

やがて陸前浜街道の通行禁止が解かれるようになって、南相馬への行きかえりに富岡を通行しては小浜の交差点で

その時々の状況を見てきた。

部外者の安っぽい感愁と云われそうだが、震災の痕跡が又一つ無くなる事に

一抹の危惧を抱くと云えば恕されようか?

 

 

 

 

 

 

 

 


雑感雑想 八草杓子制作

2017-02-15 03:22:42 | 瑣事拾遺

八草村の当初の大垣藩への運上課目が杓子、足駄であった事ははっきりしてはいるが、杓子が平杓子であったのか坪杓子であったのか、
又はその両方であったのかは分かっていない。
八草村の親村であった川上村では、熊野杓子系の流れを汲んでいたので平杓子であったが、八草はと云えば近江湖北からの遷移であったので
断定は出来ないが平、坪杓子両方を生産していた可能性を否定できないのだが、平野さんが移住された八草の子孫に聞き取りされた
限りでは、おそらく平杓子だけであったようだ。
杓子師は木地師と塗師との共通作業があり、又板師、指物師、曲げ物師とも近似要素があり、それらのいずれかの技術をも
容易に習得出来たであろう。
割箸、経木、樽丸、曲げ物生産にも相通ずる技術があった。
杓子生産で使用される材木は一般的に坪杓子には山毛欅や栗を用い、平杓子にはヒノキを用いた。
その他には朴、コブリ、モトスなどの木も用材とした。
八草に限って言えば、杓子、足駄のほか、炭窯、板材(長浜仏壇の用材)なども生産したが、
炭竃以外目立った商品の開発はしなかったようだ。
その理由として、
おそらく商品開発の余裕が無かったからであろうが、それよりも目先の喫緊の炭需要に対応するために手いっぱい

であったのかも知れない。