もうと云おうか、まだと云おうか、それぞれの思いで時間経過の違いはあろうが、あの東北大震災から
やがて6年目を迎える。
小生が震災後6ヶ月を経過して初めて仙台へ行き、被災地の惨状を目の当たりにした驚きは
今でもはっきりとおぼえている。
人為的な破壊(幸いにも戦争による惨状は未だ経験していないが)を超えた広範で有無を言わさぬ徹底的な自然の破壊の状況を
見て、言葉に窮する思いを初めて抱いた。
それ以降、宮城行きが毎月の約束事のようになり、宮城のあちこちへ伺った。
と云っても、せいぜい2~3日の半ば観光気分のような手伝いであったが、それでも全国から駆け付けた大勢の
人達に出会えたことで、自己満足の正当化が出来たのであろう。
冒頭の写真は、震災後1年目の仙台駅前である。
3月8 日に七ヶ浜に来て10日まで手伝いをして、11日は鎮魂の日で作業は無く、又帰宅する日であったので
ボランティアセンターの簡易宿舎を出て、仙台駅へ向かった。
実はかねてから念願であった大崎八幡宮へこの機会に参拝しようと思い、午前中に仙台駅まで戻り、
すぐに八幡宮へ向かったのであった。
広大な神域を散策しながら、震災で受けた破損が未だ修理中の箇所があちこちに見受けられ、震度の
烈しさが容易に想像された。
ゆっくり境内を散策して、本殿に参拝して被災地の復興を祈念し、午後2時頃には仙台駅へ戻った。
一つには新幹線の乗車時間の事と、もう一つは震災の時間に各所で黙祷することが前日から知らされていて、
それに間に合わせる為でもあった。
仙台駅で大勢の人達と共に無念の思いで亡くなった御霊の冥福を祈れればの思いもあったのである。
午後2時30分頃から徐々に人が集まり始めて、運命の1分前の45分には夥しい人で、駅前の立体歩道橋は埋め尽くされた。
駅前に駐車していた十何台タクシーから運転手の方々も出て、皆で一斉に黙祷をした。
未曾有な忌まわしい不幸な災難に遭遇された御霊に、鎮魂の祈りを捧げたその場に居合わせた事で、
今後も可能な限り手伝いに来ることに意を強くした事が思い出される。
尤も、宮城へは3年を経った頃からは力仕事の要請も少なくなり、逡巡する思いと同時に福島の作業要請が徐々に
出始めて、次第に福島の楢葉、富岡へ行く機会に移行したが、残留放射能の問題で作業時間が制約され、
その結果作業が進捗せず、至る所で遅滞せざるを得なかった。
現在は南相馬の全域で立ち入り禁止の区域は解除されてはいるが、除染前段階の作業(玉切り、除草、付帯作業)は、
参加人数の減少により遅々として進展していないのが実情である。
拙稿に既出しているが、小生のパソコンの待ち受け画面然となっている「ふくしまの窓から」について、
今年の3月いっぱいをもってコンテンツが終了するとのアナウンスがされている。
やがて6年が経過しようとする現在、コンテンツ終了も止む無しとの思いもある一方で、せめて浜通りについては
もう暫く継続して貰えないかの思いもある。
浜通り地域については除染も未だ道半ばであり、従ってその地域に故郷のある各地に避難を余儀無くされている
方達にすれば、浜通りの現状が24時間見れるコンテンツ終了は残念で有ろうと惻隠されるのである。
かくいう部外者の小生でさえ愕然としたが、当事者の方達にすれば思いの拠り所が見れなくなる思いは
察して余りあるであろう。
浜通りの中で小生が特に拘っている場所は富岡で、小浜の交差点の歩道橋に「富岡は負けん」の
横断幕を見るたびに涙腺が緩むのである。
コンテンツの当初からずっと交差点の変遷を見続けてきた者のひとりの思いとしては、現在の状況は
感慨深いものがある。
当初の画面では警察のパトカーが頻繁に通行する以外は殆どの車両の通行は無かったのだが、
それも当然と云えば当然で、当時は陸前浜街道は楢葉以北は通行禁止であり、従って富岡まで
の進入は出来なかった。
その状況の中で、偶々小生はボランティアで富岡へ行くことになって、富岡駅や東電第2原発など
間近で震災直後の惨状を見る経験をして、それ以来富岡は小生にとって特別の場所となった。
やがて陸前浜街道の通行禁止が解かれるようになって、南相馬への行きかえりに富岡を通行しては小浜の交差点で
その時々の状況を見てきた。
部外者の安っぽい感愁と云われそうだが、震災の痕跡が又一つ無くなる事に
一抹の危惧を抱くと云えば恕されようか?
八草村の当初の大垣藩への運上課目が杓子、足駄であった事ははっきりしてはいるが、杓子が平杓子であったのか坪杓子であったのか、
又はその両方であったのかは分かっていない。
八草村の親村であった川上村では、熊野杓子系の流れを汲んでいたので平杓子であったが、八草はと云えば近江湖北からの遷移であったので
断定は出来ないが平、坪杓子両方を生産していた可能性を否定できないのだが、平野さんが移住された八草の子孫に聞き取りされた
限りでは、おそらく平杓子だけであったようだ。
杓子師は木地師と塗師との共通作業があり、又板師、指物師、曲げ物師とも近似要素があり、それらのいずれかの技術をも
容易に習得出来たであろう。
割箸、経木、樽丸、曲げ物生産にも相通ずる技術があった。
杓子生産で使用される材木は一般的に坪杓子には山毛欅や栗を用い、平杓子にはヒノキを用いた。
その他には朴、コブリ、モトスなどの木も用材とした。
八草に限って言えば、杓子、足駄のほか、炭窯、板材(長浜仏壇の用材)なども生産したが、
炭竃以外目立った商品の開発はしなかったようだ。
その理由として、おそらく商品開発の余裕が無かったからであろうが、それよりも目先の喫緊の炭需要に対応するために手いっぱい
であったのかも知れない。