何でも知ってるタカハシ君のうんちく日本史XYZ

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西行が捨てた超エリートコースとは?

2004年12月07日 | 歴史
西行は、もとは佐藤義清(のりきよ)といって、院庁(いんのちょう)の北面に控え、上皇・法皇やその寵愛を受ける女院を警備し、熊野詣などの御幸(ぎょこう)などでは、威儀を正して行列を構成したんだな。この北面の武士は、11世紀の終わりに、白河法皇が院政を開始したときに設置されたんだ。

もともと、皇族を警備するのは近衛(このえ)の兵だった。近衛兵は上皇、法皇も含む皇居を守る軍隊だったけれど、天皇を退位した後にも実権を握る院庁を守る軍隊はなかったんだ。そこで、御随身所(みずしどころ)や武者所(むさどころ)を設置したけれど、白河上皇は満足しなかった。なぜかって? この武者というのは、近衛兵と同じく、律令に定められた武官によって構成されていたんだな。かなり高い官位を継承し、武芸にはげんでいたけれど、戦ったことはめったになかった。これは地方の開拓領主の出身で、命がけで領地を守ってきた武士に比べれば、ものの数にも入らなかったんだな。

それで、院庁の庶務を担当する院司(いんじ)に仕えるかたちで、地方領主出身の武士を近習などに登用したところ、優れた才能を発揮するものが多かった。そこで軍事・警察に関わる組織を統合して、北面の武士としたわけだ。この北面の武士は、朝廷の武官で位が高い「上北面」(じょうほくめん)と地方豪族出身で位の低い「下北面」にわかれていった。そして、戦闘の実力者ぞろいの「下北面」(かほくめん)が北面の武士を代表するようになっていたんだ。

この北面の武士は、セイゴオ先生も言うように、たいへんなエリートコースだった。というのは、地方の開拓領主はどんなに土地や財産があっても、朝廷から官位をえることはできなかった。官位なんかなくてもいいじゃないかとも思うけれど、官位がないということは、国政に発言できないということでもあった。だから、政府への発言権をもつ官位をえて、院のそばに仕える武士は、地方に帰ると実力者として、武士団のトップに立ったわけだ。

それに、内裏に勤める武官は家柄が重視されたけれど、院庁では厳格な規定がなかったし、院は天皇を次々に指名するような権力者で、天皇に命令して、どんな官位でも与えることができた。上皇や法皇に愛された女院も「給」(きゅう)という官職を任命する権限があった。それで、開拓領主たちは院や女院に領地を荘園として寄進し、みずからは荘園の管理者となって、有能な子弟に郎党を付けて、北面の武士として仕えさせ、官位を与えられるよう期待したんだな。

こうした北面の武士が目指した官位は、「五位」(ごい)の位だったんだ。五位以上は、法皇や天皇の前に参列できる殿上人(てんじょうびと)で、「大夫」(たいふ)呼ばれ、それ以下は「地下」(じげ)と言われたんだ。でも、こういう官位はそうやすやすとは手に入らなかった。

郎党を引き連れて、院の北面の武士となること自体、開拓領主の中でも財力ある特別な子弟にのみ許された。というのも、官位を得るには「三位」(さんみ)以上の公卿(くぎょう)の推薦も必要だったから、そこに付け届けをする。そして、国家的な事業に対して莫大な寄進をしなくてはならなかった。これを「成功」(じょうごう)というんだな。この「成功」によって、院政時代の壮麗な六勝寺や鳥羽殿、三十三間堂などの施設や寺院が築かれた。そして貴族の仲間入りをするために、和歌や笛・鼓などの楽器なども習ったんだ。これは大変な投資で、官位を得ることは、莫大な金銭をはたいて買うことでもあったんだな。

佐藤義清も、18歳のとき、佐藤一族の「成功」によって、宮城の門を守る役職、六位に相当する兵衛尉(ひょうえのじょう)に任じられた。佐藤家は東海、近畿、伊勢にわたって領地をもつ富裕な地方豪族で、義清は主家の徳大寺家の推挙もあって、五位以上の位を目指して、鳥羽法皇の北面の武士として仕えたんだ。その肩には、一族の期待が重くのしかかっていた。

徳大寺家は藤原道長の叔父、公季(きみすえ)から分かれた家系で、院政時代に法皇の信頼をえて、その家運は上昇していた。佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は鳥羽法皇の妃、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の兄であり、璋子に仕えた佐藤義清の前途は洋々と開けているように思れたが、1140年10月、23歳のとき、とつぜん出家してしまう。そのわけははっきりしないけれど、主家の徳大寺家がたどった政略の日々を見ると、義清が感じた武家の運命への予感が的中していたんだな。

佐藤義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、保元の乱に後白河天皇を補佐し、その政権を支えた。このとき、北面の武士の同僚、平清盛と源義朝が戦い、勝った平家は五位どころか、三位以上の公卿を独占。しかし、清盛亡き後、平家は源(木曽)義仲の台頭によって、西海に落ちていった。そして、徳大寺家をついだ実定(さねさだ)は、木曽義仲に憎まれて官位を奪われたが、源義経が義仲を滅ぼすと、院政の中枢に活躍。その後、源頼朝とのパイプ役をにない、平家を追討した源義経を謀叛人として鎌倉方と講和政策を進め、左大臣となったんだ。

こうした変転する世の中に、佐藤義清が徳大寺家の私兵として止まっていたら、たとえ一時の栄華をえても、おそらく大きな挫折にみまわれたにちがいない。義清は、西行となることで、このようなむごい現世を離れ、数寄の道を歩み始め、やがて武士としては得られなかった世界の新たな美しさ、新しい価値観を見いだしていったんだな。



2001 コメント

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。。。 (la)
2008-02-22 10:38:42
なんか奥が深い
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楽しく読ませて頂きました。 (Is)
2008-03-11 19:21:54
すごく分かりやすく解説してあり、もうちょっと知りたいっていう歴史を書かれていてとても面白かったです。忘れていたことも多くて、あ~そうだったかなな~んて思いながらも読めて楽しいです。

是非またいろいろ書いて頂ければ嬉しいですが。
(中傷がひど過ぎますね)
ガンバってください。



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助かりまくり! (猫背)
2008-03-29 04:04:00
旅行に行った時についでにヤって¥7OOOOもらったww
旅費が浮くどころか遊びまくったよヽ( ・∀・)ノ
http://houkei.yycola.net/gyaku/Yv2ZKXYo.html
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俺の女神様w (不死鳥)
2008-04-05 16:30:29
俺にとって女は神様ですw
昨日も会ってきたんだけど、2回もヌいてもらって¥6ΟΟΟΟくれたよ(*^ー゜)b
もうやめれん。。w
http://zakmedia.net/an/choro/U92vBX9X.html
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ディープすぎw (ハメ次郎)
2008-04-10 02:19:14
喉の奥まで咥えられるってあんなに気持ちいいんすねww
てか、反り具合がいいからって+2○○○○してくれたよ。。
イミフなんすけどwwwww( ´,_ゝ`)プッ
http://web-cafe.net/room/doldol/8x4ZkAX9.html
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羞!恥!心! (金太郎)
2008-05-06 23:13:54
まさか家のエレベーターでフ ェ ラされるなんて思ってなかったよ。。ww
「ここでフ ェ ラさせてくれたらもっと報 酬あげるよ♪」
って言葉に負けましたwww
途中で扉が開いた時は焦ったけど、おかげでもっとオッキしたwww
http://b-key.net/fesarinko/GPoECCn5
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勉強になりました (埼玉県高校入試)
2008-05-13 11:59:09
日本史好きの私ですが、思わずいくつも読みいってしまいました!
歴史って奥が深いな~
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石川遼 英語(英会話) ( 石川遼 英語(英会話))
2009-02-21 05:09:34
歴史は、ほんと面白いですねー
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石川遼 英語(英会話) ( 石川遼 英語(英会話))
2009-02-21 05:09:35
歴史は、ほんと面白いですねー
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石川遼 英語(英会話) ( 石川遼 英語(英会話))
2009-02-21 05:09:35
歴史は、ほんと面白いですねー
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