太陽日記

北海道移住10年を機に、日記をこちらに引っ越しました。気が向いた時にひっそりと更新します(笑)

昔の再現

2016-05-22 16:00:19 | 日記
 先日の記事でちょこっと触れていた、会津線で撮影した編成のNゲージでの再現、ひとつ出来たのでお披露目。再現したのはこちらの編成。




キハ23+キハ58+キハ52


まずはキハ23 ホントはTOMIXのほうがデキがいいんだけど、一般色しか製品化されていないので、首都圏色が製品化されているマイクロエースの車両をヤフオクでゲット。
ちなみに、アラが目立つので模型の画像は小さめね(笑)

撮影当時はまだ無線アンテナが設置されていないのだが、製品にはアンテナが付いている。外すと取り付け穴が残ってしまうので、瞬間接着剤を盛って穴埋め。
という事は屋根は塗装する事になるので、ついでにディテールの甘い信号炎管も別パーツに交換する事にした。
あと、屋根上の手すりの位置にエラーがあるのにも気付いたので、こちらも別パーツに交換する事にした。


エアブラシなんて高価なモノは持ってないので缶スプレー塗装。素人がやると、どうしても塗装が厚め&ゆず肌になっちゃうね。


加工前の写真を撮り忘れたけど、主に4ヵ所を加工。キハ23は両運転台だけど、幌は片側にしか付いてなく、
しかもマイクロ製は幌の内側の取っ手が表現されていなかったので、先頭に出る側は↓のKATO製キハ52の幌を移設した。


キハ52も、ホントはTOMIXが良かったんだけど、一般色はプレスドア&ドア下に横長の窓がある前期型の設定。
撮影したのは後期型だけど、後期型は首都圏色のみの設定。上手く塗り替える自信が無かったので、ほぼ撮影した個体に近い仕様のKATO製をゲット。
KATO製の最大の欠点はカプラーまわりの表現がショボいこと。そこでTOMIXのボディマウントTNカプラーに交換するつもりでいたところ、
ちょうど上手い具合にそのように改造されたキハ52がヤフオクに出品されていたのでゲット。


しかし、他にも加工したいところはあるので、手持ちのパーツやヤフオクで仕入れたパーツを使って改造。
増設されたタイフォンをどうしようか思案していたのだが、ネットを徘徊しているうちにTOMIXの455系に付属しているパーツを利用している事例を発見。
「それなら持ってるぞ!」と解決♪  1灯シールドビームは銀河のパーツをヤフオクでゲット。デフロスターは同じく銀河で手持ちパーツの中から。
KATOのキハ52はこちら側に幌が付いてるのだが、撮影したキハ52は幌枠のみ。手持ちにキハ35の幌枠があったので、クリーム4号に塗装して装着。
外した幌は↑のキハ23に持って行き、このキハ52の反対側の貫通扉には手持ちの中から適当な幌を見繕って接着した。
あと、クリーム4号の塗装が表面部分にしか行き届いていなくて、窓枠部分に朱色5号がチラ見えしてしまうので筆塗りした。コレが意外と効く。


カプラーまわりはTNカプラーのおかげでリアルになったのだが、もともとキハ58用のカプラーなので、乗務員扉とステップの位置が合っていない。


そこで位置を修正。スノープロウも装着した。あとは盛モカの所属標記とキハ52 155の車番を仙コリとキハ52 143に直したいなぁ
ベンチレーターの別パーツ化も検討中。


33年前に撮影した編成を再現したぞ~
実は真ん中のキハ58も、ちゃんとした非冷房車を再現するのは手がかかる。
屋根パーツをクーラーの無いパーツに交換しても、車体側に冷房用のジャンパ栓や配電盤が表現されているので、
TOMIXのキハ57を仕入れて台車をDT31からDT22に交換している。どうせ中間閉じ込めなんだから、そこまでこだわらなくてもいいんだけどね(^^;

実際に自分が乗車した方の編成は、あとキハ48を手に入れれば再現できるんだけど、こちらもTOMIX製を物色しているのだが、なかなか出物が無い。
出来上がった際にはまたこちらで報告しますね~
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昔の写真・その7

2016-05-21 17:48:15 | 日記
 初めての会津は会津線の乗り鉄が目的でしたが、翌1984年11月には只見線と磐越西線の撮り鉄にも行きました。今回は福島・会津磐梯ミニ周遊券を使い、文化の日をからめた11月1~4日の日程… と記憶していたけど、曜日を確認してみたら11月2日は金曜日。普通に学校(当時高校1年生)があるはずだけど、2日の日付けが入った会津宮下の入場券があるから、確かにこの日程で行っているはず。自慢じゃないけど高校は3年間皆勤賞だったので、ズル休みはしていないはず。何かの休みだったのかな?
 今回も上越夜行733Mで向かうのだが、確かその1本前の電車が185系の間合い運用で各停に入るので「せっかくなら特急用車両に乗りたいじゃん!」ということでそれに乗ったと思うんだけど、ネットで調べてみても確証は得られず。思い違いかな?
 日程の前半は同級生のペンちゃんも一緒だった。当時、撮り鉄のカメラバッグといえば「銀箱」。2人して銀箱を持って座席に座ったら、サラリーマン風のおっちゃんに「それ、現金でも入ってるのか?」と聞かれた。んなわけないだろ!(笑)


この撮影旅行の1カットめはEF65PF牽引のあけぼのだった。7番線にいるねぇ。ドコだろ? ネットで調べてみたら、どうやら上野駅の7番線。最初、臨時のあけぼの51号と書いたところ、友人から「あけぼの1号だよ」と指摘があった。てっきり1号は地上ホームからの発車だと思ってた。やっぱり昔の時刻表、取っておけばよかったなぁ(1984年11月1日)


これは高崎駅で撮った急行天の川。デビュー当時は「走るホテル」と言われ、東海道筋の寝台特急で光り輝いていた20系も、もはや急行として余生を過ごしているのみ。
この頃にはもうスユ16は連結されていなかったので、最後尾はカヤ21。20系特有の丸い屋根が見られた。(1984年11月2日)


乗ってみたかったな~(1984年11月2日)


最後尾にクモニ83を連結した733M ここ高崎で39分、次の新前橋で42分も停車する。(1984年11月2日)

 高崎、新前橋くらいまでは終電としての利用客も多いが、そこから先は完全に夜行列車なので車内もだいぶ空いてくる。座席に横になってしばしの睡眠。しかし油断はできない。4:04に小出で下車しなければならないからだ。なんとかペンちゃんと2人して小出で下車。待合室で1時間半ほど待ち、5:36発の只見線始発列車426D会津若松行きに乗車。寝不足なので発車後すぐに寝てしまい、気がついた時には紅葉真っ盛りの中を走っていた。天気はイマイチだったけど、紅葉の素晴らしさにビックリしたのを覚えている。


会津川口駅 左426D キハ58 294 右423D キハ40 560 (1984年11月2日)


そして会津宮下で下車。雑誌で見て「一度は行きたい」と思っていた第三只見川橋梁へ。ス、スバラシイ! 412D 急行奥只見(1984年11月2日)

 列車を待っている間、ペンちゃんと2人、寒さに震えていたら、クルマで来ていた男性が「寒いからクルマで温まりなさい」と招いてくれた。
車内で「ドコから来たの?」などと聞かれているうちに、その男性が名刺をくれた。「真島満秀写真事務所 猪井貴志」プロの鉄道カメラマンだった。
「今度、事務所に遊びにおいで」と言われ、後日、西新宿の事務所にペンちゃんと訪れた。真島さんもチラッとお見かけし、お土産にKRを2~3本もらった。
2009年に真島さんが亡くなり、猪井さんはマシマ・レイルウェイ・ピクチャーズの会長となっている。真島さんと言えば日本を代表する鉄道写真家で、鉄ちゃんなら誰でも知っているカメラマンだが、実は真島さんのクレジットでも実際は猪井さんが撮影した写真も結構ある。猪井さんは真島さんと二人三脚で鉄道写真界を牽引してきたが、常に陽があたるのは真島さんで、猪井さんは裏方に徹している感があった。そんな職人気質なところが好きだ。


会津宮下駅 そうそう、あの頃キオスクがあったよねぇ。三波春夫ショーの看板が泣かせる。磐光パラダイスという磐梯熱海にあるレジャー施設で10日間も行われていたようだ。(1984年11月2日)


会津宮下駅 仙コリ唯一のパノラミックウィンドーのキハ58 1526だ。432D(1984年11月2日)


翌日は磐越西線で撮り鉄。スユニ50が2両もつながっている。おそらく1226レ 豊実~徳沢(1984年11月3日)


クーラーついた車両が多いから、おそらく211D 急行あがの1号かな? 徳沢~豊実(1984年11月3日)


荻野~尾登 おそらく1229レ 牽引しているDD51 681は以前、北海道の追分機関区に所属していたが、1976年4月13日に起きた機関庫火災の際、なんとか搬出に成功し、辛くも焼失から逃れたという経歴を持っていた。(1984年11月3日)


塩川駅 223レ 前夜は塩川にあったYHに宿泊。この辺りは盆地なので、朝の霧は晴れる証。
実はこのDD51 757も、先日の記事にある1027とともに迂回石油輸送列車の牽引機として吹田から会津路に復帰したカマだったが、2012年に廃車・解体されてしまった。(1984年11月4日)


塩川から乗った1222レの牽引機は、奇しくも前日撮影したDD51 681だった。会津若松ではそのDD51 681からED77にバトンタッチ。うわっ!901号機じゃん!屋根上の高圧機器をカバーするドームが見える。(1984年11月4日)


翁島駅 こんなの撮ってたんだねぇ。貫通扉の横の影を見れば、前面窓が傾斜しているのがわかる。901の特徴だ。マイクロエースが製品化しているらしい。ムムムッ!欲しいぞ!(1984年11月4日)


翁島~磐梯町 1227レ こちらは量産型のED77が牽引する客車列車。軸重を軽減するための中間台車がよくわかる。
車番は、ルーペで見るとED77 9とオハフ46 2021に見える。(1984年11月4日)


磐梯町~翁島 3222D  1両目の車番はキハ58 217に見える。2両目はキハ28 36に見えるんだけど、30番台は仙コリに所属した事ないんだよね。361かなぁ…3ケタには見えないんだけどなぁ…(1984年11月4日)


翁島~磐梯町 快速ばんだい 3221M 数年前にNゲージを再開して最初の頃に揃えたのが50系客車と、この455系。(1984年11月4日)


磐梯町~翁島 特急あいづ 1036M すでに東北新幹線が開業していたが、当時は大宮までなので、1往復だけだが乗り換えなしで上野まで行ける「あいづ」は重宝されたに違いない。(1984年11月4日)

 というわけで、この後、会津には何度も撮影に行くのでした。
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昔の写真・その6

2016-05-15 15:50:26 | 日記
 古~いEPSONのフラットベッドスキャナーだけど、EPSONのサイトを見てみたらXP用のドライバがあったのでインストールしたら使えるようになった。中学生の頃のしょぼい写真だけど、恥を忍んでUPします(^^;

 今までの鉄道趣味のなかでも、「撮り鉄」「乗り鉄」ともに一番多く訪れた地域であり、一番思い入れのある場所が福島の会津。初めて会津を訪れたのは1983年(昭和58年)、中学3年の9月だった。主な目的は国鉄会津線に乗りに行く事。今では会津鉄道となり、浅草から東武~野岩鉄道と繋がって東京からのアクセスも楽になったが、当時は会津若松~会津滝ノ原の盲腸線だったので、郡山から入るルートと新潟(新津)から入るルートしか無かった。
 手元に残っているきっぷを見てみると、なぜか福島・会津磐梯ミニ周遊券ではなく、南東北ワイド周遊券を使っている。確かこの時は上野発長岡行きの上越夜行733M(当時はムーンライトなんて名前は無かったね)に乗り、信越本線で新津、そこから磐越西線で会津若松に向かったんだと思う。新津駅でこれから乗る50系客車の普通列車が写っている。写真は全て1983年9月15日撮影。


新津駅 DD51 1027 このカマはその後、大阪の吹田機関区に異動となったが、東日本大震災後の迂回石油輸送列車の牽引機に抜擢され、再び会津路に帰って来たのが話題になった。 奥に見える貨物はスニ40かな?
また、自分では覚えていなかったけど、友人の考察によるとこの列車は2222レで、この時点で11両という長大編成のようだ。


白崎駅で対向列車待ち。途中の馬下で後ろの8両を切り離し、3両という身軽な編成で日出谷を目指す。


交換したのはキハ45系のディーゼルカーだった。


ところで白崎なんて駅あったっけ?と思ったら、今の三川駅だった。この2年後に改称したようだ。


列車は日出谷行きだったけど、なぜか鹿瀬駅で途中下車している。そして駅長さんにおにぎり(めちゃめちゃデカイ)をもらって食べた事をはっきりと覚えている。


会津若松 DE10 47 1968年、富山第一機関区に新製配置。自分と同い年だったのね。右にチラッと見えるのは何だろ?オハフ33かな?


湯野上 今は萱葺き屋根が有名な湯野上温泉駅だが、当時は駅名に「温泉」は付かず、駅舎もトタン屋根の先代駅舎。


湯野上 乗った列車の最後尾はキハユニ26 54 真中がたぶんキハ58(車番不明)で、先頭はキハ48 533 あとキハ48をゲットすればNゲージでこの編成を再現できる。


湯野上 キハユニに差してあったサボ。


会津滝ノ原 キハ48 533 ココより手前に列車が来る事は無いのでレールはサビサビだ。


会津滝ノ原 当時は山間のひっそりとした終着駅。ススキの陰からターンテーブルが見える。


会津滝ノ原 車止めも無く、ススキの手前でプッツリと途絶えるレール。この先、野岩鉄道が開業するのは3年後だが、当時はホントに繋がるの?って感じだった。保線小屋がイイ味出してるね~


会津滝ノ原 なんとも地味な駅舎。1986年の野岩鉄道開業時に会津高原駅となり、その後、2006年に会津高原尾瀬口駅と改名。
今では三角屋根のおしゃれな駅舎があるが、この建物もいまだに残っているそうだ。


会津滝ノ原 当時「乗って残そう○○線」という看板は、あちこちのローカル線沿線で見られた。そのほとんどが鉄路を残す事ができなかったが、会津線は東京とレールが繋がったことで生き残る事ができた。今年は野岩鉄道開業30周年の年だそうだ。


湯野上 キハ23(車番不明) 折り返しの列車から交換する列車を撮影。動いてる車内から撮ったのでブレブレだけど、この編成もNゲージで再現しようと、先日ヤフオクでゲット。


湯野上 キハ52 143 ダブルタイフォンに改造されているので143と判明。こちらもキハ52を物色中。このダブルタイフォンも再現するぞ~

 というわけで内地編はまずは会津でした。次も会津かな。
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昔の写真・その5

2016-05-05 17:39:09 | 日記
 学生時代の北海道の写真は一応昨日で打ち止め。写真の専門学校を卒業後は1年半のフリーター兼写真修行を経て、運良くプロカメラマンの端くれになる事ができた。しかし駆け出しのペーペーでは実家住まいとはいえ余裕はなく、北海道からはしばらく遠ざかっていた。そんな中、同じ時期に北海道を周遊券で回っていた高校の同級生の中の2人が北海道の大学に進学し、道民となっていた。実はそのうちの1人が、ココによくコメントをくれるかもめ荘さん。
 プロになって2年ほどすると一応仕事も軌道に乗ってきて、少しは余裕も出てきた。すると、また北海道に行きたくなってきた。そして1993年のGW、彼らを訪ねに渡道した。彼らもすでに社会人になっていたので、クルマであちこち廃線跡などを訪ねた。「やっぱり北海道いいな~」と思い、それから3年連続でGWは北海道に遊びに行った。今日はその時撮った写真。実はほとんどがネガカラーで、コンパクトカメラで撮った写真。一眼レフのようなクオリティではないので、「コレがプロになってから撮った写真か」とか言わないでね(笑)


釧網本線 北浜~浜小清水(1993年5月)
旧北海道色のキハ40 767 海別岳と、わずかに残る流氷。一応コレと↓の写真はカラーポジ。


キハ53 502だから深名線かな?と思ったんだけど、深名線の交換可能駅でポイントのすぐ向こうが左にカーブしてる駅なんてあったっけ?宗谷本線のどこかかな?
増設運転台側の寄り目が特徴の502 (1993年5月)


深名線 円山(1994年5月6日)
ココからカラーネガ。この時は深名線全駅を巡って撮影した。コンパクトカメラで(^^;


深名線 朱鞠内(1994年5月6日)


深名線 朱鞠内~共栄?(1994年5月6日)
果敢にもコンパクトカメラで走りの撮影に挑戦!


日高本線 静内 2228D キハ130 8 (1995年5月7日)
今回、古い写真を見返してみて「あぁ、俺キハ130の頃に日高本線乗りに来てたんだ!」と気がついた。


日高本線 静内 右から2225D 2228D キハ130(1995年5月7日)
この1枚に5両もキハ130が写ってる! 右側の列車に乗って来たんだけど、後ろの1両をココで切り離す作業をしている。新旧の北海道色が混在していた。


日高本線 様似 2225D折り返し2232D キハ130 6 (1995年5月7日)
そして旧北海道色の1両で終点の様似までやってきた。


札沼線 石狩当別 551D キハ141(1995年5月8日)
翌日は札沼線に乗りに来た。50系51形客車をディーゼルカーに改造したキハ141。たぶん札幌からコレに乗って来たと思う。奥から5426Dが向かってきている。


札沼線 石狩当別 キハ53 キハ141(1995年5月8日)
全てのホームに列車が止まった。このキハ53 504は1986年3月の中湧別以来、9年ぶりの再会だ。


札沼線 石狩当別 キハ53 504 キハ53 501(1995年5月8日)
この504が単純に折り返し5425Dになるのかと思ったらそうじゃない。奥に見える501が5425D
504の標記、(平成)2-9 釧路車両所ってなってるけど、その頃は旭川所属のはず。わざわざ釧路まで回送して検査受けたのかな?


札沼線 新十津川 キハ53 501 (1995年5月8日)
この当時、新十津川まで来る列車は1日3往復あったけど、今年3月のダイヤ改正で1往復になってしまった。始発が終電って…


札沼線 新十津川 キハ53 501 (1995年5月8日)


札沼線 新十津川 キハ53 501 (1995年5月8日)
放送用ケーブルの位置が504と違うためか、標記の位置も少し違うね。こちらの標記は苗穂工。
というわけでキハ53 500番代ばかりになってしまいましたが、大好きな車両なのでご勘弁を(^^;
とりあえず北海道編はこれにて終了。

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昔の写真・その4

2016-05-04 17:03:03 | 日記
 桜はまだようやく咲き始めたばかりだけど、今日は太陽自治会の花見でした。いつもならば屋外で焼肉なんだけど、今日は生憎の雨なので地域の会館の中で焼肉をやりました。全身焼肉臭いです(^^;

 で、昔の写真シリーズ第4弾。今日は特急編。ちょっと短めです。


函館本線 仁山~大沼 37D 特急おおぞら7号(1986年4月3日)
非電化複線をかっとばすディーゼル特急、カッコイイね!


函館本線 仁山~大沼 37D 特急おおぞら7号(1986年4月3日)
当時、おおぞらは6往復運転されていたが、札幌~帯広が2往復、札幌~釧路が3往復、函館~札幌~釧路が1往復だった。
これはその最も長い区間(函館~札幌~釧路)を走る「おおぞら7号」
667kmを9時間かけて走るという、「おおとり」に次ぐロングラン特急。しかし、キハ183系には食堂車は無い。
もともとは滝川から根室本線を通る特急だったけど、石勝線が開通してからは函館~札幌の特急「北斗」と札幌~釧路の特急「おおぞら」の2本をくっつけたような感じになった。しかし千歳空港(現・南千歳)~札幌は無駄に往復するような感じなので、はたして通しで乗る人はどれだけいたのだろう?
そう言えば、この奥の方に見えるポイントが、まさに2013年に貨物列車が脱線して保線データの改ざんが明るみになった現場だね。


函館本線 塩谷~小樽 11D 特急北海1号(1986年4月2日)
長万部~札幌は、函館本線の通称「山線」を走る特急として2往復が設定されていた。
後ろの踏切は、今はオーバーパスになってるね。


函館本線 仁山~大沼 3027D 特急おおとり(1985年4月2日)
食堂車、グリーン車を含む堂々の9両編成。手前側の2両は北見で切り離される。
禁煙車が1号車と4号車の2両だけというのも時代を感じさせるね。駒ケ岳の頂上が雲に隠れているのが残念。

函館本線 大沼~大沼公園 3027D 特急おおとり(1986年4月3日)
翌年のリベンジはバッチリ! と言いたいところだけど、原版のポジはド・アンダー。フォトショップでここまで復活しました。
ついでにトリミングも結構してます。当時のフレーミングはヘタクソ。他の写真も傾き直したり結構いじってます(^^;


函館本線 仁山~大沼 3027D 特急おおとり(1988年3月12日)
この年は廃止される青函連絡船の撮影目的で渡道したので、函館・大沼ミニ周遊券を利用した。
泊まりは連日イクサンダー大沼YH(なつかし~)だったので、歩いて行けるこのポイントで最終日の「おおとり」を撮影した。翌日が青函トンネル開業&青函連絡船廃止の日。
編成はキハ183の7連に変わっていた。写真、ちょっとブレてます(^^;


千歳線 上野幌~北広島 9011D アルファコンチネンタルエクスプレス(1986年4月2日)
今日のラストはコレ。リゾート特急のはしり「アルファコンチネンタルエクスプレス」 まだ運行開始3ヵ月ほどで、3両編成の頃。
斬新な前面展望にゴールドのカラーリング。あのキハ56がこんなになっちゃうなんて、ぶったまげました。
コレのNゲージも持ってますよ♪
それにしても危ないところで撮ってますねぇ。今だったら捕まっちゃうな(^^;
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