続・蛙独言

ひとりごと

前稿、コメントのこと。

2010-06-24 18:34:47 | 日記
ちょっとバタバタで、あれこれ更新記事を考えてはいたんだけれど、書けていない。
前稿で平河さんからコメントがついているので、その点を少し。
蛙の場合、ちとインチキ臭いけれど、仲間うちの「発言」は「問題、あるじゃろうがッ」なんて思うことはあっても、できるだけ「良い方向で評価したい」って気分はある。
大学の先生なんてのが「言う台詞」は、ちょっとの「隙間」も「許せないッ!」ちゅうような反応をしてしまうよなぁ。
ここいらへんを「コンプレックス」なんて言われてしまうかも知んないけど、蛙に言わせれば「君らは『それ』で飯、喰ってるんじゃろうがッ!」なんて思うからだね。
村崎について言えば、「よく分かってはいない」から「こんなことになるんだろう」ということで「嫌悪感」は持たないし、幾分か「同情的」なんだね。
ホントに分かっていないよなぁ。
蛙にすれば、例えば角岡君の著作なんかも「そりゃ違うじゃろうッ!」という点は多々あると思うけれど、それなりに「彼なりに」ということで、噛みついたりはしないし、まぁ「みんなで考えればいいじゃん」てな受け止め方だわなぁ。
「本」を出すなら、やっぱり売れた方がいい。
それが、「問題解決」にマイナスの作用を及ぼすものであるなら、しっかり批判はしなければならないけどね。
蛙が「考えていること」は、「外」の人々が「の現実」をあまりに知らなさ過ぎることがいけないってことだから、左程、マイナスな影響が無いようなら「何でもあり」ってこと。
角岡君などは加古川の同盟の運動に「不参加」ということだから、悪く言う人もある。
難しいところだね。
蛙などは、「同盟に参加してようがしてなかろうが『自分の思うところ』をしっかりやってくれてたらいいんでないかい」なんて思うから、ちょっとも構いはしないけれど、実際、「参加していれば負う責任」を遂行するための大変な苦労を担っていたりしたら、「お気楽だよね」って愚痴のひとつも言いたい気分は分かる。
こりゃもう、自分がしている「行為」が「ただ自分自身の為」って納得できてるかどうかだわなぁ。
それと、平河さんは「住井すえ」について評価点数が高いようだけど、ありゃ「いけんよ」って蛙は思う。
彼女は「戦時」に明らかに「戦争協力」の立場で仕事をしていたのだし、そのことを「昔のことはわすれてしまったわぁ。ホホホッ。」なんて誤魔化す態度は絶対に許すことはできないなんて蛙は思ってる。
勿論「橋の無い川」なんて反吐が出そうで読んでいない。
どうも、よくないなぁ。
蛙は「の側」にあまりに「甘く」、「外の側」に偏見を持ち過ぎてるんかしらん?

「橋はかかる」を読んだ。

2010-06-22 17:12:52 | 日記
今日も仕事の帰りに本屋に寄ったんだね。
駅の本屋は「講談社学術文庫」とか「岩波現代文庫」を置いていなくて「お目当て」のソシュールがらみの新刊本は無かったんだ。
ほいで「ちくま文庫」に柳澤さんの「われわれはなぜ死ぬのか」てぇのがあったから買ってきた。
最初のページから随分難しい話だった。
「柳澤さんってなんでこんな難しい話、本にするんやろうかいねぇ」なんて蛙がゆうたら、ムスメは「からだ、動かへんからちゃうかねぇ」なんて言う。
「関西弁で書いてくれたらえぇのになぁ」なんてゆうたら、「そんなん、説得力、無くなるやん」って。
「平成9年2月」に書かれた本だけど、文庫におさめられたのは今年の2月。
これもとても「面白そう」なんだ。
読了後、またなんか書いてみようかなぁ。

この前本屋に行ったときに「村崎太郎+栗原美和子 『橋はかかる』 ポプラ社」を買って「アッ」という間に読み了えてしまって、次に何を読もうかって考えてたんだ。
で、この本の「評」なんだけど、これは相当難しい。
表題は「橋の無い川」を意識してのことなんか知らん。

まず「最初的」には「多くの人」に読んでもらいたいということは思った。
特に「解放運動」に関わる人々、直接的には「解放同盟員」には「必読」くらいな想いも無いではない。

「村崎+栗原」については、蛙はハナっから「おかしいんちゃうんかい」って想いが強くあったんだ。
「男と女」とか「結婚」とかいう話は蛙はもっとも苦手にするところだけれど、「この二人」の結びつきが「頭で考えてする」風に見えた。
それは当たっていたろう。
蛙も「運動」に参加した初めの頃、「目一杯の苦悩と闘いながら『敵』と『正対』している」この女性を「自分が支えるとしたら生涯の伴侶として選ぶことなのだろうか」など考え、「それはどこか違っているのではなかろうか」などと悩ましい想いを持ったことがあった。
「若かったなぁ」と思う。
「男と女」とか「結婚」とか、そんなに「難しく考える」こと自体が多分間違いなのだろう。
「おりゃぁおめぇが好きなんじゃ」「うちもあんたが好きなんよ」ってぇのでいいんだと今は思う。
「頭で考えた」結びあいは結局「破局」ってことになるだろう。
それだから「村崎と栗原の結婚はどこか無理がある」みたいに思っていた。
栗原の「太郎が恋をする頃までには…」や村崎の「ボロを着た王子様」は、手に取ろうとも思わなかった。
ただ、「同盟」の中では「この二人」を高く評価する風潮はあったから、「どんなもんじゃい?」ってことで「橋はかかる」を読んだんだ。

「問題」を考える際には、蛙は「二つの側面がある」と考える。
まず第1は、「差別」の「客観的側面」。
それが「どのようにして生まれ、どのようにして受け継がれていくか」、また「それが社会的にどのような意味を持つか」ということ。
第2には、「主観的側面」。
「差別を受ける側」がそれを「どのように受け止めているか」、その「解決」を「〈個人〉のところで、どのように展望しているか」ということ。
「橋はかかる」を読んでみて感じたのは、その第2の「主観的側面」だけが取り扱われているということだが、もとより、「理論書」ではないのだから、それはそれでよいのだろう。

「二つの側面」とゆうのは「一つの事象を眺める主体の姿勢」だ。

村崎と栗原が「切れたまま」の関係で結ばれ、苦悶し、互いの「絆」を確かめていく、そういう経緯が書かれているわけだが、それはあくまで「ふたりだけのこと」であるから、「そこ」から「何か、自身に役立つものがあるか」を汲み取るのは「読者の側」に委ねられているということになる。
「かけられた橋」は「ふたりの間に」ということであって、「この本」から「解放」への「大きな勇気」や「力」が得られることはない。

蛙としては、今後の「ふたり」の活躍を祈るだけだ。

「思うこと」多くて。

2010-06-17 18:58:27 | 日記
蛙の頭の中にはいつも「ことば」が渦巻いてて、ちぃと「狂ってるんでないかい」なんて思うのだけど、それが「表現」としては、なかなか「かたち」にはならないんだわ。
その「範囲」ときたら「物理学・生命科学の最前線」とか「世界経済の現況とその展開」とか「思想・哲学・宗教」などなど、いっつもなんだかんだ「考えて」る。

蛙については「風呂屋の湯船」って酷評があるわけで、「ユーばっかり」、これは的を得ていると思うねぇ。
大切なことは「動いてなんぼ」なんだろうけれど、性格的に「尻込み」って傾向は強い。
「こうすればどんなことになるか、これはどうか」なんて考えてしまって、酷く「動き」は鈍いんだ。
若い時に「わき目もふらず闇雲に」動いてきたことがあって、大切な人を傷つけたりした経験がトラウマになってて、慎重の上にも慎重ってとこ、ある。

歳もいったわけだから、ボチボチでいいんでなかろうかねぇ。

「参院選」と「今後のこの国の行く末」なんてことも色々思うこともあるけれど、「選挙結果」を見てからということにしよう。

世はまさに「ワールドカップ」一色ってぇところだけど、蛙は「全敗」予想。
運よくひとつ勝ったから相当盛り上がってるみたい。
あまりこういうのには関心は無い蛙だけれど、開催地が「南ア」というところは「意義深い」ものを感じる。
開会式に出る予定だったネルソンマンデラ氏が、孫娘の不慮の事故死で出られなかったことはいかにも残念だった。

話はまた「あっち」に飛ぶけれど、6月19日はアウンサンスーチーさんの65歳の誕生日だ。
蛙はふた月ばかり「先輩」になる。
ネットではPFB(ビルマ市民フォーラム)ってのを時々覗いていたりするけれど、以下のページで「署名」の要請があるので、差しつかえなければご協力をお願いしたいと思う。

http://pfbkatsudo.blogspot.com/

ビルマもそうだけれど、世界は実に多くの問題をかかえているよねぇ。

些細なことでも、できることは「何でもしていかなくちゃ」なんて思うよ。



「希望」は見えている

2010-06-15 22:37:53 | 日記
「生命(せいめい)」とは「現象」である。
「よどみに浮かぶうたかた」や「春の野に立つかげろう」と何の変わりもない。
「現象」は存在を許された物質の布置から生まれる。
原初、「虚無」から「重力・クオーク・レプトン」が創成をされて後、測り知れない時間の経過の中で、この「地球」という場所に、最初的には単純な蛋白質が生まれ、そのことから「自己を複製する能力」を持った「生命の歴史」が始まったのだ。
全くの偶然という外ない。
連続する「生命(いのち)」の究極に人間は立った。
「現象」に過ぎない「人間」ではあるが「それ」は「自らを対象化してみる能力」と「外界に対しての操作能力」を手にすることによって、自らを「君臨する王」と錯認をするに至る。
この「経過」は「人間」が「ことば」を手に入れて初めて可能であったろう。
それはまた「呪縛」でもあったはずだ。
それだから、人間は、その「呪縛」からの解放を求め、「錯認」を正していくために、「ことば」の探求へと向かわなければならない。
「自身」が単なる「現象」に過ぎないことを素直に受け入れ、「自然とともに在る」ことを喜びとする、そういう態度が選び取られなければならない。
これはアイヌを初め世界の先住民族の「智慧」=「世界観」でもある。
何が「現世」の「不幸」をもたらしたのか。
「錯認」の「第一歩」は「農耕文明」から始まり「資本制社会」でそれを完成させた。
「人間界」が「階級」に分裂をさせられた。
「させられた」というのは「人間」の「意思」を離れて人間が創りだした筈の「貨幣」の「自己運動」が「この結果」を生み出したからだ。

いづれ「人類」にも「滅びの日」は来るだろうけれど「愚かな道」を歩いて「その日」を自ら手繰り寄せることをしてはなるまい。

悲観的にはならないでいいと思う。
小さいけれど確かに「鼓動」は聞こえるし「希望」も兆しは見えているのだから…