続・蛙独言

ひとりごと

差別糾弾 8

2014-05-24 17:57:37 | ひとりごと

ながながと書いてきたので、ここいらで「まとめ」をと思っているが、その前に蛇足をひとつ。

「テアトロ」という雑誌をパラパラめくっていて、「PLAY GUIDE」というページに目がとまった。

5月~6月の公演案内なのだが、そこに「マームとジプシー」という語句が書かれていた。

「それ」はどうやら劇団の名前らしい。

ネットで検索してみたところ、2007年から出発をしているようだ。

「ジプシーキング」のように古くからある楽団ならばともかく、最近に設立された劇団が「差別用語」である「ジプシー」を劇団名に選んだことは「人権感覚」の無さを指摘されても仕方あるまい。

「あらゆる差別に反対」している「全国演鑑連」が「このこと」を放置しているのはどういうことだろうか。

中西氏の抗議に対してそのように言ってはみたが、「あらゆる差別に反対する」という立場が口先だけのことに過ぎないということが分かろうというものだ。

 

それはともかく、「しのだづま考・応援団」の運動の進め方であるが、一番大切なことは、この問題を可能な限り広く、多くの人々に報せていくことだと蛙は思う。

第二には、「しのだづま考」の公演をなんとか、数多く実現していくことではないだろうか。

その上で、「全国演鑑連」との対応を粘り強く続けていく。

 

現状のままで「全国演鑑連」と強く対決していく路線は好ましいことではないと蛙は思う。

それはそのまま「生身のままで」共産党と対決していくということになるからだ。

「いや、それでも共産党と対決していけばいいのだ」という意見も多かろう。

口惜しいけれど、「応援団」側の力はまだまだ小さい。

 

例えば、辛淑玉さんが野中弘務氏との対談をもとに上梓した「差別と日本人」であるが、この時、共産党とその支持者から辛さんはもの凄いバッシングを受けている。

この「本」については蛙はあまり高く評価はしていない。

何故かなら、「解放同盟」をあまりに美化しすぎていることと、野中弘務を高く評価するといった誤解をうんだからだ。

確かに「問題の本質を理解する」、その一助になるという意味では、もっと読まれていいとは思うが。

 

「全解連」は当時、その機関紙で2ページ全面を使って口汚く罵っていたし、共産党支持者からは「辛さんを信じていたのに」などと絶縁宣言が出されたりもしたようだ。

彼女には相当堪えたと聞いている。

けれども、そのあと、彼女は彼女の道をまっすぐに歩き続け、多くの人々からの支持を集め続けてきている。

「うちのめされる度に強くなっていく」、そうでなければ「生きては行けない」、辛さんの場合はそのようであったろう。

 

翻って考えてみるに「応援団」の力は、まだ、あまりに弱過ぎると蛙には思える。

それが蛙の誤解ということであればいいのだが。


差別糾弾 7

2014-05-20 13:23:40 | ひとりごと

このシリーズは「しのだづま考」を巡る差別発言事件についての蛙の考えを書いているわけだが、肝心の解放同盟はどういう風に対応しようとしているのかという点に触れておきたいと思う。

「蛙の考えるところ」ということで、同盟の動きを正しく察知しているわけではないが。

 

地名総監事件ではそれを購入した企業を糾弾する中で、差別をなくする側に各企業が立とうということで「同企連」が結成されている。また、宗教界の差別事件の糾弾でも、同様に「同宗連」が結成されている。

一般に「差別事件」があった場合、それが確認された地方自治体で「同和問題についての啓発」が積極的に行われるように要請をしてきている。

これらのことは高く評価されてしかるべきだろう。

古い話になるが、蛙のムラの女子高校生の「郵政就職差別事件」では「統一応募用紙」の義務化という成果があった。

同盟の場合、勿論「差別に対する怒り」が底流にあるのだが、糾弾闘争を展開するにあたって「獲得目標は何か」ということが思慮されるのが通例だ。

また、同盟は、中央本部・各府県連・支部という組織形態になっているが、それ程「縦」の関係は強くなく、蛙からみればかなりアナーキーなものである。

普通、差別事件が起こったとして、糾弾は、まず支部、府県連段階で取り組みがはじまり、内容によっては中央段階という順序で進められることになっている。

 

今回の場合、まず東京都連で論議がなされ、内容から言ってその後に中央本部の取り組みということに普通はなる。

 

中西氏は同郷ということもあって中央本部組坂委員長にも相談には行っているようだ、

10数年前の話を今になって蒸し返すのはどういうことかとかいった疑問も言われているらしい。

中西氏は心外だろうが、自分の立場を強めるために同盟を利用する輩もこれまで数多くあった経験から事情がよく分からない同盟員には「そのように見える」ということも考えておかなければならない。

中央本部委員長といっても独裁者でないから、それなりの機関決定がなければ動けない。

また、下部組織も中央の指示なしには動けない。

「獲得目標」も具体的には明らかではない。

また、相手が相手だから、共産党とやりあうことになるのも目に見えていた。

 

これほどあからさまな差別事件であっても同盟に期待をよせることなどできないと蛙は思う。

ということで、「応援団」という形での市民運動方式が提案されたと考えるのが自然なようだ。

 

「ひとりは万人のため万人は一人のため」という原理は同盟内では通用しなくなってきている。

それならば「あたらしいスタイル」の糾弾闘争を創り上げようではないか。

蛙の想いはそこにある。


差別糾弾 6

2014-05-19 14:15:07 | ひとりごと

「しのだづま考・応援団」が結成される経緯がよく分からないのでなんとも言えないが、永六輔さんを団長に鎌田慧さん、金城実さん、辛淑玉さんらの呼びかけで今回の「差別事件」を「解きほぐし」、中西和久さんと「しのだづま考」を応援していこうということで多くの人に参加が呼びかけられている。

 

「テアトロ」という雑誌(6月号)に中西さんが寄稿している記事は下記URLから読めるが、facebookに参加していないと読めないのかも知れない、

 

https://www.facebook.com/keizi.tadokoro#!/photo.php?fbid=315150491972101&set=a.250346815119136.1073741828.244467252373759&type=1&theater

 

視力も大分落ちてきてモニタで読むのが辛いので、一応、蛙は購入してきたが、3頁ばかりの記事で1300円もするので誰でも「どうぞ」とは言えないし、大方はこれまでの蛙ブログに書いてきたことでもあるから、後半に書かれている「最近の動き」だけ説明しておこうと思う。

有馬氏の「四つの女の話やろ」という許し難い差別発言について、全国演鑑連のいくつかの集会で中西氏は問題提起をしていったのだけれど、「なしのつぶて」で対応はされることなく、中西氏の行為は全国演鑑連に対する「侮辱」であるとまで言われてしまう。

そうこうするうちに有馬氏は「そんな発言は行っていない」とまで言い、以降、中西氏に対して「うそつき」の烙印が押されてしまう。

中西氏は次のように書いている。

「差別を告発することは命がけである。『泣き寝入り』をすればこれほどの攻撃はなかったかもしれないが、告発をした途端に方々から非難の矢が飛んでくる。これは『いじめの構造』と同じだ。差別を傍観していることは、差別に加担していることである。傍観者は加害者であることを忘れてはいけない。」

その後、「劇団協会長であり文学座演出家の西川信廣氏と公開質問状でやり取りをした。やがて氏は劇団協を代表して、件の発言が『差別』であり、全国演鑑連代表の高橋氏に対しては、中西に『真摯に答える必要がある』『わたしたち演劇をやるものは、たとえ見解が違っても、また激しい議論になったとしても向かい合って直接自分の言葉で語り合うことが必要』との認識を示した。この4月13日、西川氏の呼びかけで『劇団協』『演鑑連』『応援団』三者による公開討論会のための打ち合わせがもたれたが、高橋氏は『演鑑連はあらゆる差別に反対している団体』であり『(差別)発言はなかった』と主張してこの提案を拒否した。演劇界にも出身者はいる。このような差別がまかり通れば『出身者』は泣き寝入りするしかなくなる」

 

この公開討論会に中西氏は大きな期待を寄せていたようだ。

蛙は勿論、中西氏を全面的に支持する立場だが、演鑑連側の拒否は必然だったろうと思う。

「あらゆる差別に反対する団体」であるならば、本人が一旦「そのような発言をした」と認めており、録音テープまであるというのに「(差別)発言はなかった」と言い切る、このような「光景」を蛙は何度見てきただろうか。

同様の手口は共産党の指示によるものだというほかない。

  • 有馬氏の娘、有馬理恵さんに趙 博さんが「公開質問状」を出しているが、彼女は自分の言葉で答えることをせず、直接、弁護士に相談し、弁護士からの内容のない「回答」をかえしてきているのもこの文脈の中にあるのである。

 


差別糾弾 5

2014-05-12 16:13:20 | ひとりごと

前稿で触れたとおり、ふたつ目の困難は「解放同盟対日本共産党」という問題である。

共産党について、その全般的な理論的誤謬についてはそれなりな考えもあるけれども、このシリーズの本題からはずれるので突っ込んだことは割愛するが、ただ、この党が「歴史上、唯の一度も間違いをおこしたことがない」と主張している点だけは批判しておかなければなるまい。

「間違いをおこさない」などと一個の人間であれ組織であれ、そんなことはあり得ない。

「間違い」をおこしたとして、そこから何を学ぶかということが大切なのだ。

この党の傲慢さにはほとほと呆れるほかない。

 

同盟と共産党との「対立」は「同対審答申」の評価を巡ってというところから始まり、それを決定づけたのは「八鹿高校事件」だったのだろうが、今から40年前、1974年のことである。

「事件」の評価は双方の主張にあたってもらうとして、蛙が注目しているのは「次の一点」だ。

 

1976年3月、全国解放運動連合会(全解連)が結成されているが、その議長となった岡映(おかあきら)氏(2006年逝去)は1975年に次のような文章を書いている。

 「人民がみな兄弟だという考え方、平等だという考え方、これは私どもが一番学ばなければならない問題であります。 それがなかった。 差別された人々と自分たちとが別な人間だと、いつのまにか思わされてきた。 しかもそれが、長い間人間扱いされなかった農民の中に最もつよく残っていた。 面白いことですよ。 差別意識は最もひどい差別を受けている人々の中につよく残るのであります。 だから、の中が民主化されていると考えたらまちがっている」

岡氏には会ったこともなければ話を聞く機会もなかったが、反対に位置するとは言え、蛙とも一致する点が多くあったのではなかろうかと思う。

民と「一般」とは、「別な人間だと思わされてきた」、ここが重要なのだ。

 

1975年、赤旗紙上に「国民融合論」が掲載されている。

榊利夫が執筆したと思われるが、これが全解連の「理論」の柱になっている。

 

「融合」とはなんだろうか。

「二つの違ったものが融け合う」ということだろう。

岡氏には納得がいかなかったはずだ。

彼は「何の違いもない」と考えていたのだから。

 

これまで蛙は藤田敬一らが主張する「両側から超える」について批判してきたが、この「論」も「両側」という表現で「と『一般』は違う」という立場に立っている。

 

それぞれの「地域」にそれぞれ固有の「歴史」がある。

「被差別」と「それ以外」の地域は明治政府によって隔てられた。

「被差別」でも大きな違いがあったのだが、明治政府によって「一括り」にされてしまう。

蛙の考えでは「そういうこと」になる。

 

岡氏は戦前からの筋金入りの共産党員であり、優れた活動家であったが、「被差別」出身であったが故に党内では幹部候補にもあげられず、「専門」を担当させられたのだから、これもまた「差別」の一例と言えるだろう。

党幹部には東京大学の学閥がある。

 

日本共産党は「差別は解消しつつある」という立場にある。

榊利夫などに「問題」が分かるわけがなく党中央に問題を理解する者はただのひとりもいないのだから、現在形で差別が横行していることを見ようとしない。

 

この党は「民主集中制」などといって、上部機関の決定に下部組織は必ず従わねばならず、岡氏もまた、そうするほかなかったのだろう。

 

差別を糾弾するという場面では、共産党が絡めば必ず「泥仕合」になる。

そういう例をいくつもいくつも見てきた。

 

例えば「週刊朝日」の「橋下徹」に関する差別事件などでは、明らかに差別事件であったので、「その問題」については語ることをしない。

 

「しのだづま」を巡る展開もまた、この党の「影響」を考えないでは理解ができないのである。


差別糾弾 4

2014-05-08 13:33:04 | ひとりごと

ふたつ目について話す前に、「差別」を「糾弾」するのは「誰か」ということを確認しておきたいと思う。

差別についてもそうだが、他の様々な「差別」についても「被差別当事者」だけが糾弾できるものというのは誤解であると蛙は考えている。

「ことば」であれ「行為」であれ、何ごとかの差別事象に出会った時には、「それ」が差別であるならば、誰でも相手に対して「糾す」べきなのだし、その「差別認識」の誤りを指摘しなければならない。

ただ、「それ」が差別であると認識できるのは「被差別当事者」の立場に立ち切れるかどうかという、ただその一点が重大なのである。

例えば、蛙にしたところで「駅舎にエレベーターがない」ということが「障害者差別」にあたるなどということを指摘されるまで理解することができなかった。

「しのだづま」の話で、有馬氏が「四つのおんな」という「ことば」を使ったが、被差別民にとって「四つ」とか「」とかという「ことば」を投げかけられる時、それがどの様な場面であっても、身も心も打ち砕かれる程の衝撃を受ける。

「おさなごのやわ肌に焼き付けられた烙印」のようなものだと蛙はこれまで言ってきた。

差別との闘いの中で一定、そのスティグマを乗り越える力を獲得することができるが、それが衝撃的であることは終に変わることがない。

中西和久が有馬氏と居合わせた人々に求めていることは、「四つのおんな」などと言う「ことば」が口をついて出てくるということがどれほど重大な差別であるかということについての理解であり、有馬氏とそれらの人々が差別をなくする側に身を置いてもらいたいということに他ならない。

 

差別糾弾が解放同盟の「専売」であるという誤解がある。

有馬氏は、中西から「あなたが言われる『四つのおんな』という意味はどういうことか」と質っされて、ただちにそれが「差別発言」であることには思い至ったが、中西の影に「解放同盟」を見たように思ったに違いない。

それだから「解同は暴力団のようなもの」といったような発言がなされたのである。

 

解放同盟と日本共産党との間には深刻な対立がある。

それについての蛙の考えはこれまでも言ってきているが、ここでは立ち入らない。

有馬氏は共産党員であるか或いはその同調者のようであるが、この際、それは重要な問題ではない。

問題なのは「差別発言ではないのか」という指摘に誠実に向き合い、自身の問題認識を深く反省してみるべきだったのである。

 

人は、大概、「自身の考え」というものを持たず、「寄らば大樹の陰」という風に、身の回りにある「組織」や「大方の意見と思われる信念」などを拠り所にするものだ。

石原や橋下が選挙で選ばれるのも、そういうことだ。

大切にして貰いたいのは「私はどう考えるか」ということなのだが。