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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 張中丞傳後敍(三ノ二)

2013-09-10 18:05:40 | 唐宋八家文
張中丞傳後敍 三ノ二
當二公之初守也、寧能知人之卒不救。棄城而逆遁。苟此不能守、雖避之他處何。及其無救而且窮也、將其創殘餓羸之餘、雖欲去必不達。二公之賢、其講之矣。守一城捍天下、以千百就盡之卒、戰百萬日滋之師、蔽遮江淮、沮遏其勢。天下之不亡、其誰之功也。當是時、棄城而圖存者、不可一二數。擅強兵坐而觀者、相環也。不追議此、而責二公以死守。亦見其自比於逆亂、設淫辭而助之攻也。
愈嘗從事於汴・徐二府、屢道於兩府、親祭於其所謂雙廟者。其老人往往説巡・遠時事云。南霽雲之乞救於賀蘭也、賀蘭嫉巡・遠之聲威功績出己上、不肯出師救。愛霽雲之勇且壯、不聽其語、強留之、具食與樂、延霽雲坐。霽雲慷慨語曰、雲來時、睢陽之人不食月餘日矣。雲雖欲獨食、義不忍、雖食且不下咽。因抜所佩刀斷一指。血淋漓以示賀蘭。一座大驚、皆感激爲雲泣下。雲知賀蘭終無爲雲出師意、即馳去。將出城、抽矢射佛寺浮圖。矢著其上甎半箭。曰、吾歸破賊必滅賀蘭。此矢所以志也。愈貞元中、過泗州、船上人猶指以相語。城陥。賊以刃脅降巡。巡不屈。即牽去將斬之。又降霽雲。雲未應。巡呼雲曰、南八、男兒死耳、不可爲不義屈。雲笑曰、欲將以有爲也、公有言、雲敢不死。即不屈。

二公の初め守るに当たってや、寧(なん)ぞ能(よ)く人の卒(つい)に救わざるを知りて、城を棄てて逆(あらかじ)め遁(のが)れんや。苟(いやし)くも、此れ守ること能わずんば、避けて他処に之くと雖も何の益かあらん。その救い無くして且つ窮するに及んでや、その創残餓羸(そうざんがるい)の余を将(ひき)いて、去らんと欲すと雖も、必ず達せじ。二公の賢、そのこれを講ずること精(くわ)し。
一城を守りて天下を捍(ふせ)ぎ、千百尽くるに就(なんなん)とするの卒を以って、百万日々に滋(ま)すの師と戦い江・淮(わい)を蔽遮(へいしゃ)して、その勢いを沮遏(そあつ)す。天下の亡びざる、それ誰の功ぞや。是の時に当たって、城を棄てて存を図る者は、一二もて数うべからず。強兵を擅(ほしいまま)にするに、坐して観(み)し者、相環(めぐ)れり。これを追議(ついぎ)せずして、二公を責むるに死守を以ってす。亦その自ら逆乱に比(くみ)し、淫辞を設けてこれが攻を助くるを見る。
愈嘗て汴・徐二府に従事し、屡しば両府の間に道(みち)し、親(みず)からその所謂双廟なるものを祭る。その老人往々巡、遠の時の事を説いて云う。
南霽雲(なんせいうん)の救いを賀蘭に乞うや、賀蘭は巡・遠の声威(せいい)功績己(おのれ)の上に出ずるを嫉み、肯(あ)えて師を出して救わず。霽雲の勇にして且つ壮なるを愛して、その語を聴かざるも、強いてこれを留めて、食と楽とを具え、霽雲を坐に延(ひ)く。霽雲慷慨して語って曰く「雲来る時、睢陽の人食らわざること月余日なり。雲独り食らわんと欲すと雖も、義として忍びず。食らうと雖も且(まさ)に咽を下らざらんとす」と。因(よ)って佩(お)ぶる所の刀を抜きて、一指を絶つ。血り淋漓として、以って賀蘭に示す。一座大いに驚き、皆感激して雲の為に泣(なみだ)下る。雲は賀蘭の終(つい)に雲の為に師を出す意無きを知り、即わち馳せ去る。将(まさ)に城を出でんとして、矢を抽(ぬ)き寺の浮図(ふと)を射る。矢その上甎(じょうせん)に著(つ)くこと半箭なり。曰く「吾帰って賊を破らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。この矢は志(しる)す所以なり」と。
愈貞元中、泗州を過(よぎ)るに、船上の人猶指さして以って相語れり。城陥る。賊刃を以って脅かし巡を降(くだ)さんとす。巡屈せず。即ち牽(ひ)き去って将にこれを斬らんとす。また霽雲を降さんとす。雲未だ応ぜず。巡、雲を呼びて曰く「南八、男児死せんのみ、不義の為に屈すべからず」と。雲笑って曰く「将に以って為す有らんとせんと欲するなり。公に言有り、雲敢えて死せざらんや」と。即ち屈せず。


創残餓羸 傷つき飢え衰える。 師 軍隊。 江淮 長江と淮水。 蔽遮 さえぎり防ぐ。 沮遏 せきとめる。 追議 追及する。 淫辞 みだらな言葉。 祭 参詣する。 延 まねく。 慷慨 憤り嘆くこと。 淋漓 したたり落ちる。 浮図 寺の塔。 上甎 上部の瓦。 南八 南家の八番目、排行。

張巡・許遠の二公が城を守るとき、救援が来ることが無いと知って、城を棄てて逃げ出すことができようか。たとえ守ることができなくて他の城に行ったとしても何の役に立つというのか。まして救援無くして窮地に立ったとき、傷つき飢えて衰弱した兵をひきいて城を去ったとしても、外に行きつくことはできないであろう。二公の賢明さはこれだけみても明らかである。
一つの城を守ることによって天下の滅亡を防ぎ、千人百人足らずの寡兵で、百万の日ごとに増してくる賊軍と戦い、長江・淮水へと侵攻する敵の侵入を防ぎ遮って、その勢いをせきとめた。天下が滅亡しなかったのは、一体誰の手柄であろうか。この時にも城を棄てて生きながらえようとする者は、一人や二人ではなかった。
一方強兵を指揮して動員できるのに、これを坐視して動かないものが四方を取り巻いていた。これらの者を追求して詮議することをしないで、張巡・許遠を責めるのに、城を死守したことを取り上げるのは、反乱軍の味方をして、でたらめを言って二公を攻撃するのを助けているように思える。
私は嘗て汴州と徐州の役所に勤務していたので、しばしば二つの役所の間を往き来して、二公を祀る廟に参詣したことがあった。廟守の老人が時々張巡・許遠のことを話してくれた。その中に南霽雲のことが語られた。霽雲が使いして賀蘭に救援を乞うたとき、賀蘭は張巡・許遠の声望威光がすべて己れより抜きん出ているのを嫉み、敢えて援軍を出さず、ただ霽雲の勇壮なるを愛で、無理に引き留めて食事と音楽で饗した。霽雲は憤り嘆いて言うには「吾来たる時、睢陽の城中ひと月余りも何も食っていなかった。いま吾一人食おうとしても義として食うに忍びないし、食っても喉を通らないだろう」と。そこで刀を抜いて指一本を断ち切った。血のしたたり落ちるのを賀蘭に突きつけて使者としての証を残した。一同ひどく驚き、且つ感激して皆涙を流した。
霽雲は賀蘭に救援の意志がないことを知ってすぐにその場を立ち去った。城を出ようとする時、矢を抜いて寺の仏塔を射た。矢は深々と屋根瓦に突き刺さった。「わしが帰って敵を破ったなら取って返して賀蘭を滅ぼしてみせる。この矢はその印しだ」と言い残した。
私が貞元年間に泗州を通りかかったとき、同じ船に乗り合わせた人が、指さしながらその時のことを語り合っていた。
城が陥落した。賊は刀でおどして張巡を降伏させようとしたが、張巡は屈しなかった。すぐに引き立てて斬ろうとし、今度は霽雲を降伏させようとしたが、霽雲は答えなかった。張巡が霽雲に呼びかけた。「南八よ、男児は死ぬのみ、不義のために屈してはならんぞ」と。霽雲は笑って「いまひと仕事しようと考えていたところですが公のお言葉があったからには、このまま死なないわけにはまいりませんな」と言い、屈せずに共に斬られた。



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