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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

11日目をめざして歩む者(ヨハネ黙示録2;10)

2006-07-08 14:26:22 | ヨハネ黙示録
あなたの受けようとする苦しみを
恐れてはならない。
見よ、悪魔が、
あなたがたのうちのある者をためすために、
獄に入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦難にあうであろう。
死に至るまで忠実であれ。
そうすれば
いのちの冠を与えよう。
         (ヨハネの黙示録2;10 口語訳)



『嵐の中の牧師たち ホーリネス弾圧と私たち』
               辻宣道著 新教出版社1992年



洗礼を受けた直後、
私は辻宣道牧師の著作『嵐の中の牧師たち』に出会った。
以来ずっと辻宣道牧師の著作と
数冊の説教集、随筆集を読み続けてきた。
手元にある辻宣道牧師の本は
書き込みと付箋と手垢でよれよれになっている。
私が一番読みたかったのは、辻宣道牧師の自伝だったが、
自伝としての著作は残されていない。
それで私はこれら何冊かの著作の中から
断片的に語られている戦時下の迫害の体験を
抜き出してノートを作り、自分自身が読むためにまとめた。


私が洗礼を受けた日本のメノナイト教会は
戦時中の迫害の痛みを知らない。
何故なら私達の教会は終戦後、
日本への福音宣教のため
キリストに生命を捧げた宣教師達の手で
福音の種が撒かれ、育てられたからだ。
だから私自身は、
戦前から日本にあるキリスト教諸教会の戦争責任について、
血を流した事のない自分は
ものを言える立場にないと思っている。
私が辻宣道牧師に惹きつけられたのは、
戦時下のキリスト者の戦責などではなく、
辻宣道という一人の人間の生涯に現れた
主イエス・キリストの働きである。
自分で読むためにノートにまとめたものを、
また何度も何度も読み返して、
一人の信仰者の歩みの中に現れた
同行者イエス・キリストの姿を私自身の眼でとらえたかった。
そして辻宣道牧師の証しを通して、私は確信している。
主イエス・キリストは生きておられる。


静岡草深教会を育てた辻宣道牧師。
その信仰の歩み。
「絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。」
           (辻宣道著『教会生活の四季』より)


1942年6月26日、少年辻宣道が12歳の時に
日本キリスト教団弘前住吉教会牧師である父、
辻啓蔵が治安維持法違反容疑で検挙された。
そして1945年1月18日、青森刑務所で死亡した。
享年50歳。
父が獄死した時、少年辻宣道は15歳だった。
父の教会の信条である「新生・聖化・神癒・再臨」のうち
「再臨」が当時の国体否定と解釈された。
来たるべき終わりの日、
キリストが再び地上に現れ、
万物を支配し、神の国が完成する。
では再臨のキリストは天皇より上か下か。
聖書の無謬を確信し、自らをキリスト者と自認する者には
キリスト以外の何ものをも神と崇めることは許されない。
神以外のものを神と崇めることは魂の死を意味する。
しかし天皇以外のものを神とすれば
自分のみならず家族までが生活の全てを剥奪される。
ほとんどのキリスト教会が
「再臨」から目を逸らして生き延びようとした。
その時日本キリスト教団統理であった富田満は
率先して伊勢神宮を参拝し、教会献金で軍用機が献納され、
礼拝では熱心な戦勝祈願がなされた。


日本キリスト教団統理から辻啓蔵に
牧師を辞任するよう手続きを取る事を勧め、
家族に謹慎を命ずる通牒が送られてきた。
辻啓蔵は教会籍を剥奪されたのである。
約1年の拘留の後、啓蔵は懲役2年の刑を宣告された。
拘置所を出て、父は自宅で上告趣意書を下書きしていた。
宣道は父の書いたその上告趣意書の下書きを、
密かに読んでしまった。
絶対に書かれてはならないはずの言葉がそこにあった。
 「聖書絶対無謬ニ立ツ信仰ヲ改メマス」
 「キリスト再臨ニ対シテ疑イヲモチマス」
 「狂信的信仰ヲ白紙ニ清算シマス」
間もなく啓蔵は刑務所に収監された。
親子が言葉をかわす間もなかった。
「清算」の二文字は宣道の脳裏に焼きついたまま残った。


教会は解散させられた。
鼻を啜り、涙を流して祈っていた信徒たちは
どこへともなく散って行った。
宣道たちに近寄る者はなく、一家は生計を絶たれた。
育ち盛りから乳飲み子まで
5人の子供を抱えて母は途方に暮れた。
宣道はカボチャを分けて貰うため、元教会員の農家を訪ねた。
門前払いされた。
「おたくに分けてやるカボチャはないねえ。」
ほんの少し前まで真っ先に証しを語り、
信徒全体から尊敬を集めていた熱心な教会役員の言葉だった。
母は軍の残飯を分けて貰うため街路に並んだ。
宣道たち家族は軍の残飯で生き延びたのである。
それが戦時下のキリスト教徒の現実であった。
「ヤソ・ミソ・クソ・スパイ」
学校で教師や同級生から罵られ、よく殴られた。
多勢に無勢のケンカで散々殴られて家に帰った宣道は
鬱憤を母に向けた。
足払いする。母はどうと倒れる。今で言う家庭内暴力の日々。


1945年1月18日、青森刑務所から電報が来た。
「ツジケイゾウキトク
 モシ シボウノサイハ シガイ ヒキトリニクルカ」
末の弟を背負った母と宣道が駆けつけた時、
父啓蔵はすでに息をしていなかった。
かっと目を見開き、唇もうっすらと開いたままだった。
頬からも、腕や太股からも、
身体中の一切の肉という肉が全て削り落とされた姿。
もう肉体とは呼べない、薄皮が貼りついただけの、
骨組みも露わな人体。
それが講壇で聖書を開いて祈り
説教をしていた父の最期の姿だった。
枕の下に宣道の手紙が挟まっていた。指の跡がついていた。
息子からの手紙を何度も繰り返し読んだのだろうか。


父は座棺の中に胡坐をかかされ、
受刑者2人が縄をかけて担いだ。
火葬場に向かって走る馬橇の激しい振動で末の弟は嘔吐した。
座棺の中から鈍い音がした。
前後左右の揺れに耐えかねた父の頭が
座棺の内壁にぶつかってごつんごつんと音をたてている。
宣道はその音に耐えようと必死だった。
もうキリスト教はいやだ。
本当にキリスト教だけはもういやだ。
もし神が本当にいるなら、こんな目にあわなかったはずだ。


父が獄死して間もなく、
宣道は志願して陸軍通信兵学校に入った。
「使い捨て」の下士官を作る場所だった。
獄死した犯罪者の子という息苦しさから逃れようと死を願った。
しかし1945年8月15日、
日本の敗戦で宣道の願いは叶わなかった。


母と叔父中田羽俊は
息を吹き返したように伝道に力を注ぎ始めた。
宣道にとって虚脱状態の年の暮れ、
空襲警報伝達の器械に過ぎなかったラジオから
クリスマスの賛美歌が聞こえてきた。
父が検挙された朝、拘置所に行った母の留守、
泣きじゃくる弟たちの世話で終わった日の感情が
俄かに甦った。
堰を切って溢れるものをぶつける相手は誰もいなかった。
神の他には。
すぐ信ずるには至らなかったが、
それは信仰の芽生えだったと辻宣道牧師は回想している。


ある日、宣道は夕方の礼拝に出た。
オルガンの伴奏が始まった。
父が検挙され、
教会が解散させられて以来聞かなかった聖歌であった。
生まれた時からずっと聞き続けていたオルガンの音色。
自分はこのオルガンの音の中で育ったのだ。
宣道は自分のあるべき道を確信した。
1946年5月、辻宣道は信仰を告白し洗礼を受けた。
ペンテコステの日だった。
神学校を卒業し、結核療養所に住み込みで働いた。
仕事はリネンの洗濯。
貧しい患者たちの穴とほころびだらけのシーツを広げながら、
宣道は初めて「生きる」ことを本気で考えた。


時代が安寧を取り戻すにつれ、
闘わず同胞を権力者に売り渡した戦時下の
キリスト教会の在り方が問われるようになった。
「教会はもっと果敢に闘うべきだった」
「今度こそは断固殉教を覚悟して闘うべきだ」
そんな声を聞く度に、宣道の脳裏には
あの少年の日に見てしまった上告趣意書の下書きの、
父の書いた「清算」の二文字が異様に濃く浮かび上がった。
「狂信的信仰ヲ白紙ニ清算シマス」信仰を清算する。清算。
闘って敗れたのではなく、逃げ切れずに敗れた者の
痛みと恥に満ちた二文字であった。
父は闘って敗れた人間ではなかった。
本当は刑務所などで死にたくなかったのだ。
信徒たちのいつ果てるとも知れない戦責論議の中で、
焦点がいつの間にか「獄死」に移って行った。
その焦点のずれは、
より救いがたい欺瞞を生み出す危険を孕んでいた。
誰かが憧憬を含んで「殉教」という言葉を使うたびに、
宣道は内臓を酢でしめられる思いがした。
同時に、温厚でケンカをしたこともなかった父の、
不本意に塗りたくられた汚辱を拭ってやりたかった。


父はあの時何を考えていたのだろう。
その生涯を終えようとする時、
明瞭な意識の中から母は宣道の問いに答えた。
「お父さんは今度出てきたら、自由に、束縛されずに
伝道したいと言ってたわ。」
父は何を考えていたのだろうか。
何か言い残していなかったか、
それを明確にしておかなければならなかった。
宣道は父を知る人を訪ねて歩いた。
散らされた昔の教会の信徒たちをひとりひとり探し出し、
聞き書きを試みるうちに、宣道はある人を探し当てた。
その信徒は
父が刑務所に収監される前日、会って父と話していた。
「あんたのお父さんはね、今度刑務所を出て来たら、
また伝道を手伝って下さいねって言ってたわ。」
宣道はついに貴重な証言者を見つけた。
官憲に圧殺された父は、
キリストを裏切ったまま獄死したのではなかった。
何とか生き延び、獄を出て再び伝道しようとしていた。
父の上告趣意書の下書きを見た少年の日以来、
父と共に屈辱の道を歩いて来たのだ。
帰り道、溢れてくる涙をどうすることもできなかった。


辻宣道牧師は路傍伝道していた父の姿を回想する。
父、辻啓蔵は大正15年(1926年)、
栃木県足利で開拓伝道を始めた。
自給自足を標榜する派に属していたため、
牧師館や会堂をあてがわれる恩恵に浴する機会はなく、
自前の伝道だった。
まず貸し家を探し、生活の拠点を作って街頭に出かける。
街角に立って胸に抱えた大太鼓を打ち鳴らし、聖歌を歌う。
何事かと集まってくる人々に聖書の話をし、
賛同する者を自宅に招いて詳しい話をする。
すぐに人が集まる訳ではなく、普通は一人も来ない。
しかしひと月ふた月続けるうちに2、3人集まり、
集会らしいものを開くことができるようになった。
街頭の伝道も勢いがつく。
宣道も子供の頃よく路傍伝道に連れて行かれた。
「ただ信ぜよ」と書いたちょうちんを持って街角に来ると
父を囲む半円形ができた。歌う聖歌はいつも同じ。
「信ずる者は誰も、みな救われん」(聖歌424)
父が調子よく大太鼓を叩けば叩くほど宣道の心は沈んだ。
小学校の友達が見に来た時は気が動転した。
翌日学校で同級生らの噂話にプライドを傷つけられた。
中の一人が少しでも冷やかそうものなら
相手をめちゃくちゃに殴りつけた。
父は伝道し、息子はケンカする。
今では路傍伝道など行われなくなった。
しかし刑務所から火葬場へのデコボコ道で神を呪った少年は
父と同じ道に立っていた。


父の教会にはベンチがなかった。
信徒たちは手に座布団を持ち寄って詰め掛け、座る。
靴は脱ぎ捨て。赤ん坊は泣く。喧騒の中の祈りと聖歌。
集会が終わると一同はその場で会食する。
肉の少ないカレーか、あるいは福神漬けにきんぴらごぼう。
父が何も無いところから開拓した教会。
「そんな中で、ぼくらは少年時代を過ごした。
伝道とは整えられたところで何かするのではなく
わが内に燃える思いを叫びとして
表現していくことではないか。
時が良いとか悪いとかいってはいられないのだ。」
         (辻宣道著『もうひとことだけ』より)



辻宣道牧師は語る。
「あてどなく歩く―、まさにそのころの私はそうでした。
しかし神さまはその私に道を用意していたのです。
刑務所から火葬場へのデコボコ道で、
したたかに神を呪った少年がいまこうしてここにある。
しかも父親とおなじ道に立ってここにある。
ふしぎとしかいいようがありません。
神は見えないところで私を導いていたのです。
信仰を持つようになってそれははっきりわかりました。
荒野の中を行くイスラエルの民に、神は昼は雲の柱、
夜は火の柱をもって臨まれたのですが、
神は時に応じて私にも、師を通し、友人を通し、
またさまざまな事件を通して導きの手を与えられました。
だからいまここにこうしてあるのです。
そのことから思います。
絶望してはいけない。
どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
  あなたの受けようとする苦しみを
  恐れてはならない。
  見よ、悪魔が、
  あなたがたのうちのある者をためすために、
  獄に入れようとしている。
  あなたがたは十日の間苦難にあうであろう。
  死に至るまで忠実であれ。
  そうすれば
  いのちの冠を与えよう。」
           (ヨハネの黙示録2;10 口語訳)
これは慰めの言葉です。
10日の間、苦難にあう、しかし11日目はないのです。
苦難は必ず区切られる。
無限に続くと思い込んではなりません。
まさに信仰者とは11日目をめざして歩む者です。」
           (辻宣道著『教会生活の四季』より)



1994年7月25日午前4時9分。辻宣道牧師召天。
顎下腺癌の肺転移。享年63歳7ヶ月。
最後の著作となった『もうひとことだけ』の中からのメモ。


このごろよく父を想いだす。
「かわいそうに。
50になったばかりなのに牢獄で生命を終えたりして」
がらにもなく涙がこみあげる。
権力は父に言いたくないことを書かせた。
どんなにくやしかったかよくわかる。

50年間、
父啓蔵をいくじなし、弱い人間として軽蔑していた。
長男としてこんなに愛されてきたのにそれに気づかなかった。

伝道者としてもすばらしかったのに。
もっとそのことをいろいろなところで講演したかった。

昨日から父のことを考えてそのことを話したかった。
父は、ぼくのことを愛していたのだ。
長い間そのことを知らなかった。
父は息子を愛していたのだ。
息子から見た父親がどうしてそこだけ欠落していたのだろう。
それにしても
50歳で刑務所で死んだ父がかわいそうでならない。
しきりに涙がわいてくる。

父の大審院に提出する上告書の中の
「清算」という字を見て以来、
ぼくの父に対する感情は凍結してしまったのだ。
ここにきて50年。
僕は死を目の前にして、感情凍結が解除されるとは。
ありがたい。息が切れる。こんなメモ一枚を書くのに。

子どもの頃、母が骨折して入院したことがあった。
その間、父はぼくらに朝食を作ってくれた。
それはおこげ混じりの不細工な握り飯だった。
しかし、ぼくらには最高の味に思えた。
そういえば、
このごろおこげというものをほとんど見たことがない。
今でも父が作ってくれた軽い塩味のおにぎりを思いだす。

(参考文献)
『嵐の中の牧師たち ホーリネス弾圧と私たち』
              辻宣道著 新教出版社1992年
『教会生活の処方箋』辻宣道著 日本基督教団出版局1981年
『教会生活の四季』辻宣道著 日本基督教団出版局1986年
『もうひとことだけ』辻宣道著 日本基督教団出版局1996年


私が洗礼を受けた教会は、迫害の痛みを知らない。
終戦後日本にやって来たメノナイト派の
アメリカ人宣教師たちの手で育てられた教会である。
彼らは貧しい日本人に毛布や食糧を配り、
病床を見舞って聖書を配布した。
戦後生まれた日本のメノナイト派は、
戦時下のホーリネスのように過酷に
「天皇とキリストと、どっちが偉いか」と問い詰められ、
血を流し路頭に迷って残飯で生き延びる、
そんな命がけで信仰を守った経験はない。
しかしメノナイトの信条は平和主義である。
平和に関する勉強会、集会、討論会、座談会。
それらの席上で念仏のように連発される「平和」、
「平和的」「平和主義」果ては「平和論」「平和学」という
机上論用語の氾濫。
今や学術研究の対象にまでなった「平和」と、
救いの確信を得た信仰者の平和との間に
どんな接点があるのか私は知らない。
私はそれよりも聖歌とオルガンの音色に注目する。


辻宣道牧師がこの世の生涯の最後に、
獄死した父のために泣くことができてよかったと心から思う。
辻宣道牧師は昭和5年生まれ、私の父と同年である。
50年前に流すはずだった凍結された涙を
心に溜め込んだまま辻宣道牧師の生涯が終わってしまわなくて
本当によかった。
神を呪い感情を凍結させた少年辻宣道に、
自分のあるべき場所を示し、
主イエス・キリストと自分との関係を見い出させた、
聖歌とオルガンの音色に私は注目する。
絶望に冷え切った魂を捕まえ、
有無を言わせず生きる道に引き戻し立ち返らせる、
そこに見えない御手の力が働いているのを感じる。
迫害も絶望も及ばない、人の力では決して抗い得ない、
主なる神の御手の力強さ。
そこに目を向けるようにと、
聖歌とオルガンの音色は働きかけてくる。
人が礼拝堂に入ると聖歌とオルガンの音色が聞えた。
それだけの事だ。
しかしたったそれだけの何でもない事こそが
見えない御手が伸ばされた瞬間だったのではないだろうか。
少年辻宣道が
礼拝堂で聖歌とオルガンの音色を耳にした瞬間。
それはキリストが
"Εφφαθα"と言われた瞬間だったのではないだろうか。

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