手を打てば木魂に明くる夏の月 芭 蕉
夏の夜の明けやすいさまを把握しようとしたものである。そこに一つの驚き・発見があり、表現上の工夫も感じられる。
「木魂(こたま)」を生むのは、下駄の音でもかしわ手の音でもよいが、そこに夏の月があると、夏の夜明けの感じはいっそう具体的になる。「木魂」は、ここは谺(こだま)に同じで、山彦のこと。『日葡辞書(にっぽじしょ)』・『節用集』に「コタマ」と清音に読んでいる。
ところで、この句は『嵯峨日記』四月二十三日の条に、
夏の夜や木魂に明くる下駄の音
を見せ消ちにして、その右側に掲出されたものである。つまり、「夏の夜や」が改められたかたちが、「手を打てば」の句ということである。
「木魂に明くる」も、下駄の音よりは「夏の月」に続く方が、語法としていっそう自然である。
初五も「手を打てば」の方が軽快で、実感に即していよう。「木魂に」の「に」の用い方はまことに微妙で、そこに焦点を合わせるような感じがある。
「手を打てば」は、単なる気まぐれでそれをしたのではなく、二十三日夜の「月待ち」の行事で、暁の月を拝してかしわ手を打つ音であるという説がある。「月待ち」は、月の出を待って、供物を供え、飲食を共にする行事のこと。講組織をもつことが多く、十三日、十七日、二十三日、などの夜に行なわれ、このとき僧や山伏が呼ばれたものだという。
「夏の月」が季語。きわめて実感に富んだ使い方で、木魂がそこにひびいて月の中に消えてゆくような感触がわかる。
見せ消ちの句は、「夏の夜」が季語。下駄の音の木魂のひびき徹るような硬質の感じが生きた使い方である。「下駄の音が遠くこだましてさわやかに聞こえる。その音の中に、いつか明けやすい夏の夜は、しらじらと明けたところだ」の意。
「手を打つと、その音が遠く響き渡り、彼方にかかる夏の半月の中に
消えてゆくようである。その月の色を見やると、今しも夜は、しら
じらと明けてくるところだ」
冷奴またいさかひの隣家かな 季 己
夏の夜の明けやすいさまを把握しようとしたものである。そこに一つの驚き・発見があり、表現上の工夫も感じられる。
「木魂(こたま)」を生むのは、下駄の音でもかしわ手の音でもよいが、そこに夏の月があると、夏の夜明けの感じはいっそう具体的になる。「木魂」は、ここは谺(こだま)に同じで、山彦のこと。『日葡辞書(にっぽじしょ)』・『節用集』に「コタマ」と清音に読んでいる。
ところで、この句は『嵯峨日記』四月二十三日の条に、
夏の夜や木魂に明くる下駄の音
を見せ消ちにして、その右側に掲出されたものである。つまり、「夏の夜や」が改められたかたちが、「手を打てば」の句ということである。
「木魂に明くる」も、下駄の音よりは「夏の月」に続く方が、語法としていっそう自然である。
初五も「手を打てば」の方が軽快で、実感に即していよう。「木魂に」の「に」の用い方はまことに微妙で、そこに焦点を合わせるような感じがある。
「手を打てば」は、単なる気まぐれでそれをしたのではなく、二十三日夜の「月待ち」の行事で、暁の月を拝してかしわ手を打つ音であるという説がある。「月待ち」は、月の出を待って、供物を供え、飲食を共にする行事のこと。講組織をもつことが多く、十三日、十七日、二十三日、などの夜に行なわれ、このとき僧や山伏が呼ばれたものだという。
「夏の月」が季語。きわめて実感に富んだ使い方で、木魂がそこにひびいて月の中に消えてゆくような感触がわかる。
見せ消ちの句は、「夏の夜」が季語。下駄の音の木魂のひびき徹るような硬質の感じが生きた使い方である。「下駄の音が遠くこだましてさわやかに聞こえる。その音の中に、いつか明けやすい夏の夜は、しらじらと明けたところだ」の意。
「手を打つと、その音が遠く響き渡り、彼方にかかる夏の半月の中に
消えてゆくようである。その月の色を見やると、今しも夜は、しら
じらと明けてくるところだ」
冷奴またいさかひの隣家かな 季 己