壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

手毎にむけや

2011年10月31日 20時42分17秒 | Weblog
          ある草庵にいざなはれて
        秋涼し手毎にむけや瓜茄子     芭 蕉

 即興の句であるから、軽く口をついて出た感がある。庵主への挨拶の心があるのは言うまでもない。
 「むけや」は、「むかん」に比較して、他へ広く呼びかける親しさがある。自分でも皮をむきながら、一座の人々に語りかける、軽くはずんだ気持を他に及ぼしてゆく、そういう気持である。

        残暑しばし手毎に料(りょう)れ瓜茄子   (初案)
        秋さびし手毎にむけや瓜茄子  (『泊船集』)
の句形もあるが、挨拶として見ると、初案の「残暑しばし」より、「秋涼し」の方が、はるかにふさわしいことは言うまでもない。また、「秋さびし」では孤独の感があらわにすぎて、挨拶の心が十分には生きてこない。

 「ある草庵」というのは、金沢の斎藤一泉の松玄庵。庵は犀川のほとりにあったという。
 「手毎(てごと)にむけや」は、てんでに瓜の皮をむいたり、茄子(なすび)を手にしたりしようよ、ぐらいの意。茄子は瓜に引かれて出たので、「むけや」は瓜の方にかかるわけである。

 「秋涼し」が季語。「涼し」だけだと夏であるが、それを初秋爽涼の感に生かし用いたもの。「新たに涼し」「初めて涼し」などの言い方もある。

    「秋の涼しさがいっぱいに満ちているこの座敷で、瓜や茄子のご馳走は
     まことにありがたい。皆てんでにむいて自由にいただこうではないか」


      おほばこの実を踏んでゆく人のあり     季 己

暮秋

2011年10月30日 22時16分36秒 | Weblog
          老杜(ろうと)を憶(おも)ふ
        髭風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ     桃 青

 杜甫の詩にすがり、その詩の一句を倒置法により、新たに取り込むことによって、発句の表現の中に転生せしめようとした句である。杜詩の摂取は、そのパロディを目指していることにおいて、まだ多分に外面的なものである。
 しかし、疎髥(そぜん)の風になびくさまが、いかにも悲歌慷慨の士らしく生きているし、その奥には、芭蕉自らの嘆ずる姿も感得される。
 漢詩の中にふみこんで、それをそのまま素材化しようとしたところには、天和期における新しいものをつかみ取ろうとする情熱と迫力の一面をうかがうことができる。

 「老杜」は杜甫のこと。大杜ともいい、小杜(杜牧)と区別する。芭蕉の最も傾倒した中国の詩人。
 「髭風を吹いて」は「風髭を吹いて」を倒置したもの。
 「暮秋歎ずるは誰が子ぞ」は、杜甫の詩によったもので、暮秋を歎ずるのは誰であるかの意。「誰が子」は誰と同じである。「暮秋」には、人生の暮秋の意も含まれている。

 季語は「暮秋」で、多分に漢詩的な情感をあらわす道具立てとして扱われている。

    「暮秋の蕭条たる風に髭を吹かれながら、暮秋を歎ずるあの人はいったい
     どこの何者であろう」


      フードもて投げ餅ひろふ暮の秋     季 己

『去来抄』6 続・凩(こがらし)

2011年10月29日 20時48分46秒 | Weblog
        凩に二日の月のふきちるか     荷けい     
        凩の地にもおとさぬしぐれ哉     去 来


 ――荷けいは、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に行った時、その門に入った俳人である。後に『俳諧七部集』と呼ばれる蕉門の代表的撰集のうち、『冬の日』『春の日』『曠(あら)野』の三集を編集し、初期の蕉門で重きをなした。ことに『曠野』に収める「凩に」の句が、発表直後から評判になり、これにより「凩の荷けい」と呼ばれ、一躍有名になった。
 一方、去来の「凩の」の句は、其角編の俳書『いつを昔』に、荷けいの「凩に二日の月の吹ちるか」とともに、「凩の地迄落さぬしぐれかな」の句形で収められている。
 いやでも、この二つの句が比較されることになってしまったのである。おそらく、この時点では、荷けいの句は、「凩の荷けい」の愛称とともに大いに喧伝されていたことだろう。
 すっかり自信をなくした去来が、弱々しく胸中を吐露したところ、芭蕉からまったく予期せぬ反応が返ってきた。大喜びした去来は、さっそく、『去来抄』にまとめたのが、この一条なのである。

 そこで、荷けい・去来の両句であるが、両句とも「凩」がテーマである。荷けいは「凩」に「二日の月」を、去来は「凩」に「しぐれ」を「取合せ」たものである。
 「二日の月」は、それまで作句の対象として注目されることはなかった。荷けいが「凩」との関わりの中で発見した対象として、高く評価できるのである。
 それに対して、去来の句の「しぐれ」は、「凩」とともに、オーソドックスな冬の季語である。
 となると、荷けいの句は、「二日の月」の発見と、それを「ふきちるか」と把握、表現した点と、二つの面白さがあることになる。
 去来の句は、「しぐれ」に対して「凩」が「地迄おとさぬ」勢いで吹きつけていると把握、表現した、この一点に評価がかかっているのである。

 芭蕉の言として、「体格はまづ優美にして、一曲あるは上品(じょうぼん)なり。また工(たく)みを取り、珍しき物に寄るはその次なり」とある。それゆえ、「荷けいが句は、二日の月といふ物にて作せり。その名目(みょうもく)をのぞけば、させる事なし」との言も出てくるのであろう。
 対する去来の句に対して、芭蕉の「全体の好句なり」との評言を、額面通りに受け取ってはならない。落胆している去来に対する、芭蕉の思いやりが働いていることを、去来はまったく気づかなかったのである。
 去来の一句における、まさに眼目とも言うべき措辞「地迄おとさぬ」の「迄」の部分が、芭蕉によって「ただ、地迄とかぎりたる迄の字いやし」ということで、「地にもおとさぬ」と斧正されたのであるから、「全体の好句なり」は、多分に社交辞令的な言葉であることが理解し得るはずである。
 それを額面通りに受け取って喜んでいる去来。去来の甘さがよくわかる一条である。

 単語の魅力や表現技巧に頼った句は、人目をひき、作者も得意になりがちである。しかし、部分が目立ちすぎて、全体の情感はさほどでもない、ということがしばしばある。こういう句を「名目(みょうもく)の句」というのでしょう。技巧に巧みなベテランほどこうした危険を抱えているといえる。
 魅力のある語も、気の利いた言い回しもないが、景は具体的で、情感があり、季語の本情の把握も確かな句を「全体の好句」というのである。

 最後に、「地迄」と「地にも」違いを。
 「まで」というと、視線を地面のほうにさそって限定し理屈で説明した感じになる。
 「にも」だと、重点は凩にあって、句柄が大きくなる。この斧正(添削)は、ぴたりと勘所を押さえてみごとである。思わず「座布団五枚」と言いたくなる。さすがは芭蕉先生である。


      生姜湯をうましと飲めば秋深む     季 己

『去来抄』6 凩(こがらし)

2011年10月28日 20時59分50秒 | Weblog
        凩に二日の月のふきちるか     荷けい
        凩の地にもおとさぬしぐれ哉     去 来


 この二句について、わたし去来は、
     「荷けいさんの句は、二日の月というものをもって来て、それが吹き
      散るかと、才気の生き生きと出ているところなど、わたしの句より
      ずっとすぐれていると思います」
と言った。
 先師芭蕉先生は、
     「荷けいの句は、二日の月という素材の珍しさで、句を仕立てている。
      その二日の月という物の名を除くと、それほどの句ではない。お前の
      句は、これといって取り立てて言うような素材をもってきて作ったと
      も見えない。けれども、全体としては味わいがあってよい句である。
      ただ、地迄と限定した迄という字が、気品を落としている」
と言われて、「地にも」と直された。
 初めの句形は、「地迄おとさぬ」であった。


      筑波嶺の白雲うすし暮の秋     季 己

世の中は

2011年10月27日 21時18分12秒 | Weblog
          人に米をもらうて
        世の中は稲刈る頃か草の庵     芭 蕉

 読む人によっては、いやみな作と感じるかも知れない。横から眺めて、隠棲をひとり高しとする気持ととると、「世の中は」のひびきが、いやみな感じをうながすようである。
 しかし、収穫の秋に入ったことにはっと気づいた、その自然な驚きの気持のあらわれととると、かなり味わい深い作である。

 前書の「人に米をもらうて」というのは、門人に新米を贈られたのを言ったものであろう。

 季語は「稲刈る」で秋。

    「門人に新米をもらったが、草の庵にこもっていて、風雅に明け暮れして
     いるうちに、いつの間にか世の中は、稲刈る頃になっていたのだなあ」


      母のとぐ掌を漏る光り今年米     季 己

雲をりをり

2011年10月26日 20時39分52秒 | Weblog
        雲をりをり人を休める月見かな     芭 蕉

 月の清澄なようすを裏からたたえたもの。
 西行の、
        なかなかに 時々雲の かゝるこそ
          月をもてなす かぎりなりけり
を心に置いての句であるが、その踏まえ方は、詞句を取るという域をはるかに出て、月を見るにあたっての情趣を取り入れている。
 諸本によっては、中七を「人を休むる」とするが、語法的には、この「休むる」の方がよい。

 季語は「月見」で秋。型にはまってはいるが、やわらかみを生み出しているところが注目される。

    「今宵の月は清光限りなく、見入っているうちに心奪われて、われを
     忘れるくらいである。しかし、時おり雲が過ぎて、その雲が月を隠
     している間は、われにかえって、ほっとすることだ」


      木枯のゆくえ暮色の六本木     季 己

須磨の秋

2011年10月25日 22時29分36秒 | Weblog
        見渡せば詠むれば見れば須磨の秋     桃 青

 同じことを異なった表現で三つたたみかけて言った点に談林的な遊びがあり、秋の趣の実感はない。
 「見渡せば詠(なが)むれば見れば」は、いろいろに見れば見るほどの意を、三通りにわけて言ったもの。
        見渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮 (『新古今』・定家)
        ながむれば ちぢにもの思ふ 月にまた
          わが身ひとつの 峰の松風     (『新古今』・長明)
などの句をとる意識があったかもしれない。
 なお、『新古今』所収の「三夕の和歌」は、よく俳諧の種に使われているので、参考までにあげておこう。
        見渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋の 秋の夕暮  (定家)
        さびしさは その色としも なかりけり
          槇立つ山の 秋の夕暮  (寂蓮)
        心なき 身にもあはれは 知られけり
          鴫立つ沢の 秋の夕暮  (西行)

 「詠む」は、物思いにふけりながら、じっと見るの意の中古語。
 「須磨」は、光源氏が流された地として名高い。『源氏物語』に、「またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり」とあるところである。

 秋の雑の句である。

    「須磨の秋は、古典でもあわれ深いものとされているが、実際に
     いろいろ眺めれば眺めるほど、またとなくあわれ深いことだ」


      十月や後姿が日を拒み     季 己

『去来抄』5 続・うらやまし

2011年10月24日 20時12分55秒 | Weblog
        うらやましおもひ切る時猫の恋     越 人

 ――『去来抄』には、変人が本文として使っている去来自筆本と、版本とがある。「うらやまし」の一条は、自筆本と、版本との間に、かなりの異同がある。
 参考のために、両本の異同のある部分だけではあるが、本文を掲げてみる。

    「心に風雅あるもの、一度(ひとたび)口にいでずといふ事なし。
     かれが風流、ここに至りて本性をあらはせり」 (自筆本)

    「心に俗情あるもの、一たび口に不出(いでず)といふ事なし。
     かれが風雅、是(ここ)に至りて本情をあらはせり」 (版本)

 「心に風雅あるもの」と、「心に俗情あるもの」とでは、文全体の解が異なってくる。
 幸いなことに、去来もこの句を「越人が秀作」(浪化宛書簡)とし、芭蕉も「よろしく候」(珍碩宛書簡)と認めているので、「風雅」とすべきであろう。

 長い和歌の伝統が作り出した「雅」に対して、俳諧は「俗」の中に詩をさぐるのが特徴の一つでもある。蕉門で、「風雅」・「風流」といった場合は「俳諧」をさす。また広義には「詩の心」といった意味もある。
 一句の意味は、「さわがしく鳴いていた恋猫も、時期が過ぎれば、すっぱりと思い切ることができる。それが執着を断ち切れない人間には羨ましい」ということであろう。
 笑いの中に人生の真を詠んでいる点に、芭蕉がこの句を高く評価する理由があったのかも知れない。
 芭蕉が俳諧に求めていたものを一言で言えば「高悟帰俗(こうごきぞく)」つまり、「高く心を悟りて、俗に帰るべし」という語になる。
 越人の句は、王朝風雅の恋を踏まえながら、猫の恋の本情を生かして俳諧に転じ、人の真情の表現に成功したもの、と芭蕉には見えたのであろう。

 越人は、芭蕉の十大弟子のひとりで、去来は、もう評価の定まった作者と思っていた。それが、この句によって、ようやく本来の素質が出てきたと師はおっしゃる、そうだったのか、とあらためて顧みる思いであったことだろう。
 では、ここに至って本性を現したという越人は、それまでどんな句を作っていたのだろうか。

        藤の花たゞうつぶいて別れ哉     越 人
        おもしろや理屈はなしに花の雲     越 人
        声あらば鮎も鳴くらん鵜飼舟     越 人

 ひねりがきかせてあるが、読み手の心の深いところに届くものがない。たいした発見も洞察もないのに、目さきを変えておもしろくしようとしているだけ。一応、俳諧の手法は心得ていても、もう一つ風雅の誠に届いていないのが、この時代の越人の句であったことが分かる。


      太子像にこみあぐるもの秋惜しむ     季 己

『去来抄』5 うらやまし

2011年10月23日 20時47分27秒 | Weblog
        うらやましおもひ切る時猫の恋     越 人

 先師が伊賀上野からこの句を書き送って言われるには、
 「心にまことの詩心をもっている者は、いつかそれが口をついて出ないということはない。越人の俳諧は、この句において初めて本来の持ち味を現したのだ」と。
 これより前から越人は、俳人として名が四方に高く聞こえ、人のほめそやす句も多くある。それでも、師は、この句にいたって初めて、越人が本来の持ち味を発揮した、とおっしゃったのだった。


      四阿につづくトンネル萩の径     季 己

子持山

2011年10月22日 21時16分37秒 | Weblog
                東歌・未勘国歌
        子持山 若かへるでの もみづまで
          寝もと吾は思ふ 汝はあどか思ふ (『万葉集』巻十四)


 子持山は今も群馬県にある。榛名山の北、吾妻川の峡谷をへだてて、伊香保温泉から、真っ正面に見える。万葉の子持山が、群馬県のそれだとすれば、この歌は未勘国の歌ではなく、上野(こうずけ)の国の歌ということになる。
 子持山は、室町初期の神道集に「児持山明神」の縁起があり、有名な山であるが、編纂当時は、その場所が分からなかったものとみえる。
 「もみづ」は、秋になって木の葉が紅葉することをいったとすると、情痴の誇張がすぎるようである。紅葉することを意味する以前に、赤色を意味する「もみ」に、動詞化の語尾がついて、明るくなることを言っているものととりたい。
 夜の暗い中に女のもとを去って行かねばならないはずの男女関係なのに、夜が明けて明るくなるまで寝ていよう、というのである。それを問答式にして、お前さんはどう思うかい、と問いかけながら、分かっているさ、もちろんおれと同じ思いだね、といった含みがあるところが面白いのだ。
 「常陸風土記」などには、歌垣の時に共寝した男女が、寝過ごして夜が明けてしまって、とうとうその場で松になってしまった、というような伝えがある。一番鶏が鳴いたら別れねばならないのである。そのタブーを犯すことを空想することは楽しいのだ。


      余命てふ不確かなもの秋長けぬ     季 己

おちこち

2011年10月21日 21時17分54秒 | Weblog
        おちこちおちこちとうつ砧かな     蕪 村

 この句は、音色で砧をうっている家の遠近が知れる、というだけの事実の報告ではない。また、一つの砧の音が風の具合によって、ある時は遠くある時は近く聞こえるというのでもない。
 遠くの砧近くの砧の音を、共にただ一つと限定する必要はなく、また、厳密に一音ごとに交互に聞こえるのだとする必要もない。ただ、遠くの音はほのかに、近くの音は定かに、しかもそれが共にいつまでも打ち続けられ、聞こえ続けるというその感興をうたっているのである。

 上五を「おちこち」と一音を欠く語調にして、すぐ中七の「おちこち」に連結したのは、砧の音の連続感を出すためであろう。
 「おちこち」は遠近の意で、「をちこち」と書くのが正しい。
 この句においては、「遠近」という意味を表現する語が、同時に直接「音」そのものの表現になっている。確かに「おち」の音はやわらかくほのかであり、「こち」の音は固く定かである。
 技巧の極点と感覚の極点を示した一句である。

 季語は「砧」で秋。砧(きぬた)は、木や石の台の上で、洗った衣を槌(つち)で打って、やわらかく練り艶を出すもの。衣(きぬ)打つ。

    「夜、静かに坐していると、遠くの家、近くの家など、あちこちで砧を
     打つ音が聞こえてくる。遠い音と近い音とが呼応するように入り交
     じって聞こえてくる。気のせいか、遠い音は〈おち〉とほのかに、
     近い音は〈こち〉と定かに、いつまででも聞こえてくる」


      蓑虫の心ゆくまで身を揺する     季 己

念仏

2011年10月20日 20時17分22秒 | Weblog
          美濃の国 朝長の墓にて
        苔埋む蔦のうつつの念仏かな     芭 蕉 

 「念仏」は「ねぶつ」と読む。
 謡曲「朝長(ともなが)」に、「夜更け人静まって後朝長の御声にて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ……」とある最後の、自害の様が心にあって、朝長をあわれむ心が発想の契機になっているのであろう。
 語の選択については、『伊勢物語』の「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦楓は茂り、物心ぼそく……駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」に負うていると考えられる。

 「朝長の墓」は、源義朝の次男朝長の墓。朝長は平治の乱で負傷し、足手まといになることをおそれた父義朝の手にかかった人で、『平治物語』にその顛末が詳しい。墓は美濃国不破郡青墓村にある。芭蕉がこの地を通っているのは、貞享元年(1684)野ざらしの旅の折か、元禄二年『奥の細道』の旅の後かのいずれかであろうが、発想からみて、おそらく貞享元年であろう。

 季語は「蔦」で秋。

    「この非業の死を遂げた朝長の跡を弔うと、眼の前には、苔に埋もれ、
     蔦がおおった墓があるのみである。その前に立ちつくしていると、死
     にあたって唱えたという念仏の声が聞こえてくるような感じがする」


      櫨紅葉カヌーいづれも瀬を急ぎ     季 己

『去来抄』4 続・此木戸や

2011年10月19日 23時27分07秒 | Weblog
        此木戸や錠のさされて冬の月     其 角

 ――去来・凡兆のふたりを編集者として、元禄四年(1691)に刊行された俳諧撰集『猿蓑』は、「蕉門」一門の成果を世に問うための、今ふうにいえば、結社の合同句集である。
 編集者であるふたりは、共に京都に住んでいた。一方、其角は、江戸の人で、一句が成った元禄三年(1690)秋も其角は江戸にいた。
 芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵を生活の拠点に定めたのであったが、元禄三、四年頃は、湖南、伊賀、京都を巡遊していた。
 したがって、居住空間を異にしていた其角は、〈此木戸や〉の句を、江戸から京都に送ったのである。ところが、〈此木戸〉の語が、其角の書き方が悪く、「此」と「木」が詰まって一字、つまり「柴」と読んでしまったのだ。

 横書きが主流となった現代でも、似たようなことが起こる。たとえば「仂」という字。これは「働」の異体字で、人名の場合多くは「つとむ」と読む。
 さて、「○○ 仂 様」と書かれた封筒を、「仂」という字を知らない人が「イカ」と二字に読んでしまい、読み間違われたご本人はそれ以来、「イカさま」「イカさま」と呼ばれ続けている、という話を聞いたことがある。
 俳句実作者も、投句に際しては、文字の書き方に十分注意していただきたい。

 上五を「柴戸や」と読み誤ったのは、去来と凡兆のふたりで、元禄八年一月二十九日付の許六宛去来書簡によれば、芭蕉は「此木戸や」と解していたことが分かる。
 この一条は、「柴戸」と「此木戸」、「霜の月」と「冬の月」のいずれを選ぶかという評価が交錯しているのだ。
 其角の原句は、「此木戸や錠のさされて霜の月」であったようだ。
 芭蕉は此木戸と解し、ためらわずに「冬の月」を選び、去来は芭蕉の意見に従っている。だが、凡兆は柴戸と此木戸に優劣を認めていない。
 では、柴の戸はなぜいけないのか。柴の戸から先ず思い浮かぶのは、山家か隠者の庵だろう。これに月を配すと、和歌や連歌、俳諧にもよく見られる平凡な景にしてしまう。俳諧としては何の発見も新味もない。第一、粗末な柴の戸に錠が必要であろうか。去来・凡兆ともあろう人が、どうして気づかなかったのだろう。

 次に、其角が悩んだ「霜の月」か「冬の月」か、ということが問題になる。

        此木戸や錠のさされて霜の月
        此木戸や錠のさされて冬の月

 この二つを比べて、取り合わせの点で、どんな違いがあるだろうか。
 「木戸」は、「城戸」とも書き、警戒のため市内の要所に設けた門、あるいは城の外郭の通路を遮る城戸(きど)をさす。市ヶ谷見附の大木戸あたりがふさわしく思う。
 去来は「此木戸」を城門として、その情景を思い描き、定番の俳諧趣味とは違う一種悽愴の趣のある句の世界を導き出している。
 「柴戸」と「此木戸」とでは、句のイメージががらりと変わってしまう。古い隠者趣味をなぞったものと、豪壮な異種の空間を創出したものとの違いは大きい。この違いが大きいからこそ、芭蕉は一字にこだわったのである。

 「霜の月」の方がより直接的で、夜気の厳しい感じは出る。しかし、これでは景を木戸や低い地面のあたりに限定するような感じがある。また、「霜」という語が目立って、錠のさされた木戸のあざやかな視覚性と、焦点が二つあるような感じになってしまう。
 それに対し、「冬の月」は、いかめしい木戸に配された冬の月によって、空間の拡がりが生じ、景は大きくなり、夜更けの荒涼とした情緒で照らし出すような印象があり、視点は錠のさされた木戸に集まる。つまり、「冬の月」は、背景から木戸の情緒を盛り立てる役目をすることになる。
 「冬の月」のこうした働きを、芭蕉はよいと思ったのである。
 
 当時の本は、筆で書いた版下を版木に貼って彫るものだが、『猿蓑』版本は芭蕉の指示に従い、埋め木して「こ乃木戸」と直した跡がうかがえる。ということは、出版はもう進んでいたのだ。芭蕉の筋のとおしかたはたいへんなものである。しかもそれが、自作ではなく、弟子の其角の句であるのにこれほどのこだわりをもったのだ。
 ここには、折角の良句を生かしてやりたいという思いのほかに、『猿蓑』という俳諧撰集に一句でも多くよい句を収録して、一門の成果を世に問いたい、という強い思いがあったのかも知れない。


      朝鵙はけして弱音は吐かぬもの     季 己 

『去来抄』4 此木戸や

2011年10月18日 17時36分34秒 | Weblog
        此木戸や錠のさされて冬の月     其 角

 去来と凡兆のふたりを編集者に、京都で俳諧撰集『猿蓑』を編んでいた時、其角が江戸からこの句を書き送って、「下五を‘冬の月’にしようか、‘霜の月’にしようか迷っています」といってきた。
 ところが、初めわたしたちは、上五の文字が詰まっていたため、「此木戸(このきど)」と読むべきところを「柴戸(しばのと)」と読んでしまった。
 先師(芭蕉)は「其角が‘冬の月’にしようか、‘霜の月’にしようか迷うような句でもない」とおっしゃって、‘冬の月’として『猿蓑』に入集した。
 その後、大津からの先師の手紙に、「あの句の上五は‘柴の戸’ではなく‘此の木戸’である。このようなすぐれた句は、一句でも大切であるから、たとえすでに出版していても、すぐに改めよ」と記してあった。
 この手紙を見て、凡兆は、「‘柴の戸’でも‘此の木戸’でも、大して変わりはないではないか」と言い、違いを認めようとはしない。
 これに対してわたし(去来)は、「この月を、柴の戸に配して見れば、ごくありふれた景色になる。この月を城門に移しかえて景を想像すると、その風情はしみじみとした情趣の反面、ぞっとするほど不気味で、何とも言いようのない雰囲気がある。其角が下五を‘冬’にしようか、‘霜’にしようかと迷ったのももっともだ」といった。


      衣被つるりと我も物忘れ     季 己

      ※衣被(きぬかづき=皮のままゆでた里芋)

気比

2011年10月17日 21時26分19秒 | Weblog
          気比の海
        国々の八景更に気比の月     芭 蕉

 観念が実体の支えを持っていない。八景のケイと気比のケイとが韻を踏んでいる作為的な発想だと思う。そのため極めて感動が弱い句になってしまった。

 「気比の月」は、気比の海にさす月の意味。「気比」は古の「笥飯(けひ)」で敦賀の古名だった。笥飯浦(気比の浦)は今の敦賀湾をさす。ここは前書から見て敦賀の海岸という意で、気比の松原あたりの海の景であろう。

 季語は「月」で秋。この「月」は実体を生かしていない。

    「近江八景などのように、国々にすぐれた景は多いが、更にそれに加えて、
     この気比の海の月は落とすことのできない景というべきだ」


      鰯雲さかなぎらひに風の吹く     季 己