私の父は、2012年4月8日に亡くなりました。
山口県は、さくらが満開でした。
父は、山口県で、 1931年に生まれた。
おじいさんが、酒屋で失敗。引っ越しして、広島の呉に住んでいました。
父が十三歳か十四歳です。
学徒動員で、広島の呉の海軍工廠で、船の部品(?)を作っていました。
「先輩が『部品がないから、トンカチでカンカン、やっとき・・・』。優しかった。」
呉の空襲は、父は、父のお姉さんとはぐれて、
一人で山に行ったそうです。
「焼夷弾の殻(?)が落ちて、足で蹴って、走った。
おじさんが布団をかぶって、ジッとしたから、『一緒に行こう、行こう』と・・・」
「おさまった時に、家に帰ったら、もう、焼け野原。お姉さんが泣いて・・・
お父さんが死んだと思った・・・」
原爆のピカッ。見ました。
「どこかの弾薬庫でも爆発したんじゃろう」と話したそうです。
お兄さんは、出征でフィリピンで亡くなりました。
おじいさんとおばあさんは、働いて、戦後、山口県の家に、もどりました。
後に、父は結婚して、山口県の家にもどりました。
8月6日、広島原爆の日。
被爆者のおばあさんは、
「戦争はやったらいけん。話そう。話そう。」
と言ってます。