次の日の朝、五郎右衛門はお鶴に起こされるまで、ぐっすりと眠っていた。
お鶴は五郎右衛門の体の上にまたがり、筋肉の盛り上がった胸を撫でていた。
「朝か」と五郎右衛門は目を開けると聞いた。
「わかんない」とお鶴は首を振って、五郎右衛門の体の上に上体を倒した。
五郎右衛門は優しく、お鶴を抱きしめた。お鶴を抱きながら首を傾けて、焚き火の方を見た。焚き火は燃え、所々にローソクが灯っていた。
「お前が火を点けたのか」
お鶴は五郎右衛門の胸の上でうなづいた。
五郎右衛門はお鶴の長い髪を撫でた。
「ねえ、滝に打たれるの」
「ああ」
「寒くないの」
「寒いさ‥‥‥寒いが、そのうちに体が熱くなって来る」
「風邪ひかないでね」
「ああ‥‥‥昨夜(ユウベ)の話はどうなったんじゃ」
「覚えてたの」とお鶴は顔を上げた。
「忘れてくれればよかったのに‥‥‥」
「わしはできるが、そなたは忘れられまい」
「そうね‥‥‥仇を討たなくちゃね」
「戦闘開始じゃな」
「‥‥‥でも、まだ、夜かもしれないわ」
お鶴は五郎右衛門の胸を撫でていた。五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。
どうして、お鶴の仇がわしなんじゃ‥‥‥五郎右衛門は運命を恨んだ。ずっと、このまま、お鶴を抱いていたかった。お鶴の言う通り、まだ、夜なのだという事にしておきたかった。岩屋から出ない限り、いつまで経っても明日は来ないと思いたかった。しかし、五郎右衛門は意を決して、お鶴を下ろした。
お鶴の顔を見ないようにして立ち上がると、ふんどしを締めた。
「それ、洗った方がいいわ」とお鶴が後ろで言った。
「滝で洗う」と五郎右衛門は振り返った。
裸のお鶴が座っていた。ぼんやりした顔をして五郎右衛門を見上げていた。
五郎右衛門の心がまた傾きかけた。お鶴から目をそらし、慌てて着物を着ると刀をつかみ、お鶴から逃げるように外へと飛び出した。
外は雪が降っていた。何もかもが真っ白だった。
『こんな日は修行なんかやめて、お鶴と一緒に楽しく過ごそう』と誰かが言った。
『馬鹿言うな、女子(オナゴ)なんかに惑わされるんじゃない。修行を続けるんじゃ』とまた、誰かが言った。
五郎右衛門は岩屋の入り口で寒そうに足踏みしながら迷っていた。
『お鶴が待っている。一日くらい休んだって大丈夫さ』
「ウォー」と五郎右衛門は大声で叫びながら、甘い言葉を振り切るようにして雪の中に飛び出して行った。
冷たい滝に打たれた後の五郎右衛門は、昨夜の事はすっかり忘れたかのように、決められた日課をこなして行った。
いつもと変わらぬ一日だった。しかし、お鶴が側にいた。
お鶴は一旦、寺に帰って着替えて来た。なんと今度は男の格好をして颯爽(サッソウ)とやって来た。長い髪を後ろで束ね、袴(ハカマ)をはき、腰に刀を差していた。亡くなった亭主の形見だという。スラッとした体つきのお鶴は男装姿もよく似合っていた。
男装姿のお鶴は食事の支度をしてくれた。そして、どこからともなく飛び出して来ては、五郎右衛門に斬り付けて来た。
飯を食っている時、木剣を振っている時、突然、どこからか現れ、五郎右衛門にかかって来た。五郎右衛門はお鶴の刀を軽くかわし、お鶴の事など完全に無視しているがごとく、飯を食い続け、木剣を振り続けていた。
座禅をしている時は、後ろから忍び寄って斬ろうとするのだが、どういうわけか、お鶴は投げ飛ばされ、五郎右衛門は座禅をしたままだった。何度やっても同じだった。五郎右衛門を斬るどころか、触れる事さえできなかった。それなのに、お鶴の体は傷だらけになっていった。
お鶴は五郎右衛門の敵ではなかったが、まったくの素人でもなかった。五郎右衛門は初め、お鶴が刀を振り回して、怪我をしなければいいがと心配した。ところが、お鶴の剣の腕は女とは思えない程、筋がよかった。武家の娘として、幼い頃から剣術の稽古を積んで来たに違いないと思った。五郎右衛門は簡単にお鶴の刀をよけているように見えるが、実は真剣だった。少しでも気を緩めたら、お鶴に斬られてしまうと常に気を張っていた。
「おい、その顔、どうしたんじゃ」と五郎右衛門は夕飯の時、とぼけて聞いた。
「なによ、あなたがやったんでしょ」
お鶴は額(ヒタイ)と頬の擦り傷に唾(ツバ)を付けた。
「綺麗な顔が台なしじゃのう」
「顔だけじゃないわ。体中、傷だらけよ。ほら見て」
お鶴は箸(ハシ)を置くと、着物の袖をまくって腕を見せた。あちこちに、あざや擦り傷ができていた。しかも、着物は泥だらけだった。
「ねえ、どうしてくれるのよ」
「もう、諦める事じゃな」
「あたしだって、やめたいわよ」
「やめればいいじゃろ。こいつはうまいのう」
五郎右衛門はお鶴の作った雑炊(ゾウスイ)をお代わりした。
「おいしいでしょ。これでも、あたし、お料理、得意なんだから」
「仇討ちはやめた方がいいが、飯作りは続けてくれ」
「勝手な事言わないでよ。あたしはね、あなたを憎んでるのよ」
お鶴は雑炊を食べながら五郎右衛門を睨んだ。
「どうして」
「まったく、あなたは鈍感なの。あたしの夫を殺したのはあなたなのよ。あたしは夫を愛してたのよ。とても、とても愛してたのよ。あなたを憎むのは当然でしょ」
お鶴は箸を振り回しながら、しゃべった。
「そりゃそうじゃ」
「でもね、あたし、うまく、あなたを憎めないのよね。どうしてかしら」
「わしがいい男だからじゃろう」
「あなた、冗談を言ってる場合じゃないのよ」
お鶴は箸とお椀を置くと立ち上がり、五郎右衛門に詰め寄った。
「あたしたち仇同士なのよ。ねえ、わかってるの。こうやって一緒にご飯を食べてる事だって、ちょっと、おかしいんじゃない」
「そうでもないぞ。わしは楽しい。今晩も一緒に酒を飲もう」
「あなたは全然、わかってないわ」
お鶴は五郎右衛門に背を向けると雪景色を眺めた。
雪はもう、やんでいた。
お鶴は小川の方を眺めてから、焚き火の側にしゃがんで、のんきに雑炊を食べている五郎右衛門を見つめた。
「ねえ、あなた、こんな所、人様に見られたらどうすんの。あたしの立場がないじゃない。人はみんな、噂をするわ。亭主が死んで、まだ一年も経ってないのに、他に男を作って一緒にお酒を飲んで遊んでるって。みんな、あたしに後ろ指さすのよ。もっと世間体(セケンテイ)ってものを考えてよ」
「どこに世間体ってものがあるんじゃ」
五郎右衛門は辺りを見回した。
「確かに、ここにはないけど。いいでしょ。あたしはあたしに言い聞かせてるのよ。あたしだって、ほんとは今晩もあなたと一緒にいたいの。ずっと、あなたと一緒にいたいの。でも、それはいけない事なのよ。絶対にいけない事なの。だから、あたしはもう帰るのよ。止めたって、あたしは帰るわ。絶対に帰るんだから」
お鶴は焚き火を見つめながら手のひらを火にかざしていた。焚き火の中の燃えさしを手に取ると灰の上に何かを書いていた。
「帰る、帰るって言ってるが、まったく、帰る気配なんて見えんのう」
「うるさいわね。あたしは自分に言い聞かせてるって言ったでしょ。そんなにあたしに帰ってもらいたいの。いいわよ。もう、あんたなんか勝手にするといいわ」
お鶴は立ち上がり、五郎右衛門の木剣をつかむと、それを杖代わりにしてヨタヨタと帰って行った。
「おい、お鶴さん」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に声を掛けた。
「おぬし、面白い女子(オナゴ)じゃのう」
「ふん。もう、体中、痛くてしょうがないよ。明日はきっと起きられないわ」
お鶴の後ろ姿を見送りながら五郎右衛門は可愛い女じゃと思っていた。
お鶴は五郎右衛門の体の上にまたがり、筋肉の盛り上がった胸を撫でていた。
「朝か」と五郎右衛門は目を開けると聞いた。
「わかんない」とお鶴は首を振って、五郎右衛門の体の上に上体を倒した。
五郎右衛門は優しく、お鶴を抱きしめた。お鶴を抱きながら首を傾けて、焚き火の方を見た。焚き火は燃え、所々にローソクが灯っていた。
「お前が火を点けたのか」
お鶴は五郎右衛門の胸の上でうなづいた。
五郎右衛門はお鶴の長い髪を撫でた。
「ねえ、滝に打たれるの」
「ああ」
「寒くないの」
「寒いさ‥‥‥寒いが、そのうちに体が熱くなって来る」
「風邪ひかないでね」
「ああ‥‥‥昨夜(ユウベ)の話はどうなったんじゃ」
「覚えてたの」とお鶴は顔を上げた。
「忘れてくれればよかったのに‥‥‥」
「わしはできるが、そなたは忘れられまい」
「そうね‥‥‥仇を討たなくちゃね」
「戦闘開始じゃな」
「‥‥‥でも、まだ、夜かもしれないわ」
お鶴は五郎右衛門の胸を撫でていた。五郎右衛門はお鶴を抱き締めた。
どうして、お鶴の仇がわしなんじゃ‥‥‥五郎右衛門は運命を恨んだ。ずっと、このまま、お鶴を抱いていたかった。お鶴の言う通り、まだ、夜なのだという事にしておきたかった。岩屋から出ない限り、いつまで経っても明日は来ないと思いたかった。しかし、五郎右衛門は意を決して、お鶴を下ろした。
お鶴の顔を見ないようにして立ち上がると、ふんどしを締めた。
「それ、洗った方がいいわ」とお鶴が後ろで言った。
「滝で洗う」と五郎右衛門は振り返った。
裸のお鶴が座っていた。ぼんやりした顔をして五郎右衛門を見上げていた。
五郎右衛門の心がまた傾きかけた。お鶴から目をそらし、慌てて着物を着ると刀をつかみ、お鶴から逃げるように外へと飛び出した。
外は雪が降っていた。何もかもが真っ白だった。
『こんな日は修行なんかやめて、お鶴と一緒に楽しく過ごそう』と誰かが言った。
『馬鹿言うな、女子(オナゴ)なんかに惑わされるんじゃない。修行を続けるんじゃ』とまた、誰かが言った。
五郎右衛門は岩屋の入り口で寒そうに足踏みしながら迷っていた。
『お鶴が待っている。一日くらい休んだって大丈夫さ』
「ウォー」と五郎右衛門は大声で叫びながら、甘い言葉を振り切るようにして雪の中に飛び出して行った。
冷たい滝に打たれた後の五郎右衛門は、昨夜の事はすっかり忘れたかのように、決められた日課をこなして行った。
いつもと変わらぬ一日だった。しかし、お鶴が側にいた。
お鶴は一旦、寺に帰って着替えて来た。なんと今度は男の格好をして颯爽(サッソウ)とやって来た。長い髪を後ろで束ね、袴(ハカマ)をはき、腰に刀を差していた。亡くなった亭主の形見だという。スラッとした体つきのお鶴は男装姿もよく似合っていた。
男装姿のお鶴は食事の支度をしてくれた。そして、どこからともなく飛び出して来ては、五郎右衛門に斬り付けて来た。
飯を食っている時、木剣を振っている時、突然、どこからか現れ、五郎右衛門にかかって来た。五郎右衛門はお鶴の刀を軽くかわし、お鶴の事など完全に無視しているがごとく、飯を食い続け、木剣を振り続けていた。
座禅をしている時は、後ろから忍び寄って斬ろうとするのだが、どういうわけか、お鶴は投げ飛ばされ、五郎右衛門は座禅をしたままだった。何度やっても同じだった。五郎右衛門を斬るどころか、触れる事さえできなかった。それなのに、お鶴の体は傷だらけになっていった。
お鶴は五郎右衛門の敵ではなかったが、まったくの素人でもなかった。五郎右衛門は初め、お鶴が刀を振り回して、怪我をしなければいいがと心配した。ところが、お鶴の剣の腕は女とは思えない程、筋がよかった。武家の娘として、幼い頃から剣術の稽古を積んで来たに違いないと思った。五郎右衛門は簡単にお鶴の刀をよけているように見えるが、実は真剣だった。少しでも気を緩めたら、お鶴に斬られてしまうと常に気を張っていた。
「おい、その顔、どうしたんじゃ」と五郎右衛門は夕飯の時、とぼけて聞いた。
「なによ、あなたがやったんでしょ」
お鶴は額(ヒタイ)と頬の擦り傷に唾(ツバ)を付けた。
「綺麗な顔が台なしじゃのう」
「顔だけじゃないわ。体中、傷だらけよ。ほら見て」
お鶴は箸(ハシ)を置くと、着物の袖をまくって腕を見せた。あちこちに、あざや擦り傷ができていた。しかも、着物は泥だらけだった。
「ねえ、どうしてくれるのよ」
「もう、諦める事じゃな」
「あたしだって、やめたいわよ」
「やめればいいじゃろ。こいつはうまいのう」
五郎右衛門はお鶴の作った雑炊(ゾウスイ)をお代わりした。
「おいしいでしょ。これでも、あたし、お料理、得意なんだから」
「仇討ちはやめた方がいいが、飯作りは続けてくれ」
「勝手な事言わないでよ。あたしはね、あなたを憎んでるのよ」
お鶴は雑炊を食べながら五郎右衛門を睨んだ。
「どうして」
「まったく、あなたは鈍感なの。あたしの夫を殺したのはあなたなのよ。あたしは夫を愛してたのよ。とても、とても愛してたのよ。あなたを憎むのは当然でしょ」
お鶴は箸を振り回しながら、しゃべった。
「そりゃそうじゃ」
「でもね、あたし、うまく、あなたを憎めないのよね。どうしてかしら」
「わしがいい男だからじゃろう」
「あなた、冗談を言ってる場合じゃないのよ」
お鶴は箸とお椀を置くと立ち上がり、五郎右衛門に詰め寄った。
「あたしたち仇同士なのよ。ねえ、わかってるの。こうやって一緒にご飯を食べてる事だって、ちょっと、おかしいんじゃない」
「そうでもないぞ。わしは楽しい。今晩も一緒に酒を飲もう」
「あなたは全然、わかってないわ」
お鶴は五郎右衛門に背を向けると雪景色を眺めた。
雪はもう、やんでいた。
お鶴は小川の方を眺めてから、焚き火の側にしゃがんで、のんきに雑炊を食べている五郎右衛門を見つめた。
「ねえ、あなた、こんな所、人様に見られたらどうすんの。あたしの立場がないじゃない。人はみんな、噂をするわ。亭主が死んで、まだ一年も経ってないのに、他に男を作って一緒にお酒を飲んで遊んでるって。みんな、あたしに後ろ指さすのよ。もっと世間体(セケンテイ)ってものを考えてよ」
「どこに世間体ってものがあるんじゃ」
五郎右衛門は辺りを見回した。
「確かに、ここにはないけど。いいでしょ。あたしはあたしに言い聞かせてるのよ。あたしだって、ほんとは今晩もあなたと一緒にいたいの。ずっと、あなたと一緒にいたいの。でも、それはいけない事なのよ。絶対にいけない事なの。だから、あたしはもう帰るのよ。止めたって、あたしは帰るわ。絶対に帰るんだから」
お鶴は焚き火を見つめながら手のひらを火にかざしていた。焚き火の中の燃えさしを手に取ると灰の上に何かを書いていた。
「帰る、帰るって言ってるが、まったく、帰る気配なんて見えんのう」
「うるさいわね。あたしは自分に言い聞かせてるって言ったでしょ。そんなにあたしに帰ってもらいたいの。いいわよ。もう、あんたなんか勝手にするといいわ」
お鶴は立ち上がり、五郎右衛門の木剣をつかむと、それを杖代わりにしてヨタヨタと帰って行った。
「おい、お鶴さん」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に声を掛けた。
「おぬし、面白い女子(オナゴ)じゃのう」
「ふん。もう、体中、痛くてしょうがないよ。明日はきっと起きられないわ」
お鶴の後ろ姿を見送りながら五郎右衛門は可愛い女じゃと思っていた。