五郎右衛門が木剣を構えて、空(クウ)を睨んでいると、「五右衛門さ~ん」とお鶴が帰って来た。
大きな風呂敷包みを背負い、酒を抱えながら川にかかった丸木橋を渡って来た。
「疲れちゃった」とお鶴はハァハァ言いながら笑った。
「何じゃ、それは」
五郎右衛門は風呂敷包みを木剣で突っついた。
「あたしの所帯道具よ」とお鶴は風呂敷包みを降ろした。
お鶴は風呂敷包みの上に腰を下ろすと、「ああ、重かった」と溜め息をついた。
「あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」
お鶴は上目使いに五郎右衛門を見上げた。
「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」
「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか。あたし、もう帰る」
お鶴はプイと膨れると、酒を抱えながら岩屋の中に入って行った。
「おい、忘れ物じゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に言った。
「あなた、持って来てよ」と岩屋の中から声が返って来た。
五郎右衛門はお鶴が置いて行った風呂敷包みを見ながら笑うと、また、木剣を構えた。
「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。
お鶴は頭に手拭いをかぶり、張り切って岩屋から出たり入ったりしていた。掃除が終わると山のような着物を抱えて小川に行き、洗濯を始めた。わけのわからない唄を陽気に歌っている。
五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を眺めていた。ふと、和尚の言葉が思い出された。
あの女子(オナゴ)はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥
活人剣‥‥‥
人を活かす剣とは?
眠り猫か‥‥‥
わからん‥‥‥
五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。お鶴は小唄を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気が付かない。
お鶴の洗濯している姿を見ながら、五郎右衛門は隙がないと思った。試しに木剣を構えてみた。お鶴を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。しかし、今のわしはお鶴を斬る事はできない。
当たり前じゃ。相手は女子だし、丸腰じゃ。しかも、何の敵意も持っていない。そんな相手を斬れるわけがない。もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥
「お鶴」と五郎右衛門は声を掛けた。
お鶴は唄をやめ、後ろを振り返った。
「びっくりしたあ。何やってんの」
「お前を相手に剣術の稽古じゃ」
「今は駄目よ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」
お鶴はまた、洗濯を始めた。
五郎右衛門は木剣を下ろした。
わしがこんな事をやったって、お鶴が驚くわけないか。もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応をするんじゃろうか。
逃げようとするか、攻撃しようとするか、何もしないで洗濯を続けるか‥‥‥
逃げようとすれば斬られる。攻撃しようとしても斬られる。何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥
「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ」
五郎右衛門は洗濯をしているお鶴の背中に声を掛けた。
「いい唄でしょ」とお鶴は振り返ると、「今、流行ってるのよ」と髪をかき上げた。
「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」
「あなたは遅れてるのよ」とお鶴はまた、洗濯を始めた。
「確かに、わしは遅れているが‥‥‥お前はよく、色んな唄を知ってるな」
「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り唄なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね」
お鶴は急に手を止め、五郎右衛門の方に振り向くと、「あなたも唄の一つくらい覚えた方がいいわよ」と言った。
「最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、唄の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、唄くらいできなくちゃ駄目よ。あたしが教えてあげるわ」
「唄なんかいい」
「駄目。剣ばかりやってても駄目よ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ」
心に余裕か‥‥‥お鶴は時々、いい事を言う。
「うん、そうだわ、唄が一番いいわ」とお鶴は急に立ち上がった。
「たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に唄を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない、ね」
お鶴は、それはいい考えだというふうに自信たっぷりに言ったが、「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」と五郎右衛門は反発した。
「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ」
「そうじゃな、しかし‥‥‥」
「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」
その晩、五郎右衛門は久し振りにお鶴と一緒に酒を飲んだ。
岩屋の中はすっかり綺麗になっていた。
お鶴が寝ていた藁の布団は新しい藁に変えられ、散らかっていたゴミもなくなっていた。焚き火の所も余分な灰は捨てられて、すっきりとしている。いつも洗濯物がぶら下がっている縄にも何も下がっていない。お鶴がちゃんと外に干してくれていた。そして、隅の方にお鶴が持って来た鏡台と化粧箱が場違いのように置かれてあった。
お鶴は陽気だった。もう、すっかり元に戻っていた。五郎右衛門はお鶴の回復を心から喜び、乾杯した。
お鶴は初めて横笛を吹いてくれた。
陽気な唄とは打って変わって、その笛からは物悲しい調べが流れた。唄が彼女の表面を現しているのなら、笛は彼女の内面、心から湧き出して来るような感じだった。
彼女の生きざま、悲しさ、苦しさ、寂しさ、そして、それを乗り越えて来た優しさと強さ、それらがしみじみと五郎右衛門の胸に伝わって来た。その調べの中には時折、彼女が持って生まれた楽天的な陽気さも顔を出すが、それが返って、上っ面だけの悲しみではなく、より深い悲しみに聞こえた。
五郎右衛門は酒をかたむけながら、お鶴の笛に聞き入っていた。笛が奏でる世界に浸り切っていた。
お鶴は無心に笛を吹いていた。その姿は美しかった。お鶴だけでなく、人が何かに熱中している姿というのは美しいのかもしれない。
そこには隙がない。
無心‥‥‥
今のお鶴は笛を意識していない。そして、滑らかに動いている指も、笛の穴を押さえている事を忘れているに違いない。
お鶴は笛を吹いている事を忘れ、笛もお鶴に吹かれている事を忘れている。お鶴という女は消え、笛という物も消え、一つになって、音だけが残る‥‥‥
ふと、五郎右衛門は気が付いた。今まで悲しい調べだと思っていたが違う。確かに悲しく、寂しげに聞こえる。だが、それだけじゃない。ただ、それだけだとしたら、聞いてる方はしんみりとなって、心が沈んでしまうだろう。しかし、彼女の曲を聞いていてもそうはならない。なぜか、心が和らぎ、さわやかな気分になる。優しく、ふんわりと包み込んでくれるような、何とも言えない快い気分になって来る。
遥か昔、子供の頃、世の中の事も何も知らず、野山で遊んでいた頃の自分が知らず知らずに思い出されて来た。優しい母親、強い父親に囲まれて、毎日、幸せに暮らしていた。
わしにもそんな頃があったんじゃ‥‥‥と改めて思い出された。
今まで、そんな事を思い出した事は一度もなかった。思い出す事といえば、父と母が殺された事、そして、仇を討つために剣の修行を始め、それからは寝ても覚めても剣の事だけだった。
わしだけでなく、誰もが、そんな子供の頃の事など忘れ去っているじゃろう。お鶴もきっと、幸せな子供時代があったに違いない。だから、こういう曲が吹けるのじゃろう。
不思議な曲じゃ。この曲を聞いたら、どんな荒くれ野郎でも、おとなしくなって、子供の頃の自分に帰るかもしれない。
和尚が言った眠り猫の境地じゃろうか‥‥‥いや、それ以上かもしれん。
お鶴の場合だったら、ネズミと一緒になって遊んでいる猫じゃろう。
わからん女子じゃ‥‥‥
お鶴は静かに笛を下ろした。そして、着物の袖で目を拭いた。
「あたし、馬鹿みたい‥‥‥自分で吹いてて、自分で泣いてるわ。どうだった」
「うむ。綺麗じゃった」
「曲が?」
「曲も、お前も」
「うまいのね」
「大したもんじゃ」
「ありがとう」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。
「おい、酒がこぼれる」
「ねえ、五右衛門さん。あたし、本気であなたに惚れちゃったみたい。どうしよう」
お鶴は五郎右衛門に抱き着いたまま、顔を上げた。
「どうする事もないじゃろ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。
「だって、あなた、いつか、ここを出て行くんでしょ」
「ああ。いつかはな」
「その時、あたしはどうなるの」
「お前はずっと、この山にいるのか」
「どうしようか。連れてってくれる?」
「お前は押しかけ女房じゃろう」
「じゃあ、あたし、一緒にいてもいいのね。ずっと、一緒にいてもいいのね」
「ああ」
五郎右衛門はお鶴の背中を抱き締めた。
「嬉しい‥‥‥ねえ、でも、あなた、絶対に死んじゃいやよ。それと、人も殺しちゃ駄目。ね、約束してくれる」
「わしの剣は相打ちじゃ。わしが剣を抜いた時は、相手も死ぬが、わしも死ぬ」
「それじゃあ、絶対に剣を抜かないって約束して、お願い」
「わかった。約束しよう」
「御免ね、我がまま言って」
「いや。ところで仇討ちはやめたのか」
お鶴の体がピクッと動いた。やはり、仇討ちの事は言わなければよかったと思った。
「もう、死んだのよ」とお鶴は五郎右衛門の胸に顔を埋めたまま言った。
「もう、死んだの‥‥‥川上新八郎の妻だったあたしは‥‥‥」
「それでいいんじゃな」
お鶴はうなづいた。わざと笑顔を見せると五郎右衛門から離れ、「お酒、飲みましょ」と言った。
お鶴から左馬助の事を聞いた時、五郎右衛門は左馬助を殺してやろうと本気で思った。しかし、今は考え直していた。よく考えてみると、自分も左馬助と似たような事をしていた事に気づいた。
お雪と一緒にならずに、剣の道を選んだ五郎右衛門も、もし、お雪が他の男と幸せに暮らしていたら、その男を殺してしまったかもしれなかった。その事が恐ろしくて、江戸に帰る事ができなかったのかもしれない。
左馬助の立場に立ったら、きっと、自分も同じ事をしていたに違いない。この先、どこかで左馬助と出会ったら、どうなるかはわからない。しかし、あえて捜そうとは思わなかった。
その晩、五郎右衛門は無理やり、お鶴に唄を歌わせられた。
大きな風呂敷包みを背負い、酒を抱えながら川にかかった丸木橋を渡って来た。
「疲れちゃった」とお鶴はハァハァ言いながら笑った。
「何じゃ、それは」
五郎右衛門は風呂敷包みを木剣で突っついた。
「あたしの所帯道具よ」とお鶴は風呂敷包みを降ろした。
お鶴は風呂敷包みの上に腰を下ろすと、「ああ、重かった」と溜め息をついた。
「あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」
お鶴は上目使いに五郎右衛門を見上げた。
「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」
「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか。あたし、もう帰る」
お鶴はプイと膨れると、酒を抱えながら岩屋の中に入って行った。
「おい、忘れ物じゃ」と五郎右衛門はお鶴の後ろ姿に言った。
「あなた、持って来てよ」と岩屋の中から声が返って来た。
五郎右衛門はお鶴が置いて行った風呂敷包みを見ながら笑うと、また、木剣を構えた。
「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。
お鶴は頭に手拭いをかぶり、張り切って岩屋から出たり入ったりしていた。掃除が終わると山のような着物を抱えて小川に行き、洗濯を始めた。わけのわからない唄を陽気に歌っている。
五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を眺めていた。ふと、和尚の言葉が思い出された。
あの女子(オナゴ)はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。あの女子は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥
活人剣‥‥‥
人を活かす剣とは?
眠り猫か‥‥‥
わからん‥‥‥
五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。お鶴は小唄を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気が付かない。
お鶴の洗濯している姿を見ながら、五郎右衛門は隙がないと思った。試しに木剣を構えてみた。お鶴を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。しかし、今のわしはお鶴を斬る事はできない。
当たり前じゃ。相手は女子だし、丸腰じゃ。しかも、何の敵意も持っていない。そんな相手を斬れるわけがない。もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥
「お鶴」と五郎右衛門は声を掛けた。
お鶴は唄をやめ、後ろを振り返った。
「びっくりしたあ。何やってんの」
「お前を相手に剣術の稽古じゃ」
「今は駄目よ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」
お鶴はまた、洗濯を始めた。
五郎右衛門は木剣を下ろした。
わしがこんな事をやったって、お鶴が驚くわけないか。もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応をするんじゃろうか。
逃げようとするか、攻撃しようとするか、何もしないで洗濯を続けるか‥‥‥
逃げようとすれば斬られる。攻撃しようとしても斬られる。何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥
「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ」
五郎右衛門は洗濯をしているお鶴の背中に声を掛けた。
「いい唄でしょ」とお鶴は振り返ると、「今、流行ってるのよ」と髪をかき上げた。
「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」
「あなたは遅れてるのよ」とお鶴はまた、洗濯を始めた。
「確かに、わしは遅れているが‥‥‥お前はよく、色んな唄を知ってるな」
「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り唄なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね」
お鶴は急に手を止め、五郎右衛門の方に振り向くと、「あなたも唄の一つくらい覚えた方がいいわよ」と言った。
「最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、唄の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、唄くらいできなくちゃ駄目よ。あたしが教えてあげるわ」
「唄なんかいい」
「駄目。剣ばかりやってても駄目よ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ」
心に余裕か‥‥‥お鶴は時々、いい事を言う。
「うん、そうだわ、唄が一番いいわ」とお鶴は急に立ち上がった。
「たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に唄を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない、ね」
お鶴は、それはいい考えだというふうに自信たっぷりに言ったが、「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」と五郎右衛門は反発した。
「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ」
「そうじゃな、しかし‥‥‥」
「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」
その晩、五郎右衛門は久し振りにお鶴と一緒に酒を飲んだ。
岩屋の中はすっかり綺麗になっていた。
お鶴が寝ていた藁の布団は新しい藁に変えられ、散らかっていたゴミもなくなっていた。焚き火の所も余分な灰は捨てられて、すっきりとしている。いつも洗濯物がぶら下がっている縄にも何も下がっていない。お鶴がちゃんと外に干してくれていた。そして、隅の方にお鶴が持って来た鏡台と化粧箱が場違いのように置かれてあった。
お鶴は陽気だった。もう、すっかり元に戻っていた。五郎右衛門はお鶴の回復を心から喜び、乾杯した。
お鶴は初めて横笛を吹いてくれた。
陽気な唄とは打って変わって、その笛からは物悲しい調べが流れた。唄が彼女の表面を現しているのなら、笛は彼女の内面、心から湧き出して来るような感じだった。
彼女の生きざま、悲しさ、苦しさ、寂しさ、そして、それを乗り越えて来た優しさと強さ、それらがしみじみと五郎右衛門の胸に伝わって来た。その調べの中には時折、彼女が持って生まれた楽天的な陽気さも顔を出すが、それが返って、上っ面だけの悲しみではなく、より深い悲しみに聞こえた。
五郎右衛門は酒をかたむけながら、お鶴の笛に聞き入っていた。笛が奏でる世界に浸り切っていた。
お鶴は無心に笛を吹いていた。その姿は美しかった。お鶴だけでなく、人が何かに熱中している姿というのは美しいのかもしれない。
そこには隙がない。
無心‥‥‥
今のお鶴は笛を意識していない。そして、滑らかに動いている指も、笛の穴を押さえている事を忘れているに違いない。
お鶴は笛を吹いている事を忘れ、笛もお鶴に吹かれている事を忘れている。お鶴という女は消え、笛という物も消え、一つになって、音だけが残る‥‥‥
ふと、五郎右衛門は気が付いた。今まで悲しい調べだと思っていたが違う。確かに悲しく、寂しげに聞こえる。だが、それだけじゃない。ただ、それだけだとしたら、聞いてる方はしんみりとなって、心が沈んでしまうだろう。しかし、彼女の曲を聞いていてもそうはならない。なぜか、心が和らぎ、さわやかな気分になる。優しく、ふんわりと包み込んでくれるような、何とも言えない快い気分になって来る。
遥か昔、子供の頃、世の中の事も何も知らず、野山で遊んでいた頃の自分が知らず知らずに思い出されて来た。優しい母親、強い父親に囲まれて、毎日、幸せに暮らしていた。
わしにもそんな頃があったんじゃ‥‥‥と改めて思い出された。
今まで、そんな事を思い出した事は一度もなかった。思い出す事といえば、父と母が殺された事、そして、仇を討つために剣の修行を始め、それからは寝ても覚めても剣の事だけだった。
わしだけでなく、誰もが、そんな子供の頃の事など忘れ去っているじゃろう。お鶴もきっと、幸せな子供時代があったに違いない。だから、こういう曲が吹けるのじゃろう。
不思議な曲じゃ。この曲を聞いたら、どんな荒くれ野郎でも、おとなしくなって、子供の頃の自分に帰るかもしれない。
和尚が言った眠り猫の境地じゃろうか‥‥‥いや、それ以上かもしれん。
お鶴の場合だったら、ネズミと一緒になって遊んでいる猫じゃろう。
わからん女子じゃ‥‥‥
お鶴は静かに笛を下ろした。そして、着物の袖で目を拭いた。
「あたし、馬鹿みたい‥‥‥自分で吹いてて、自分で泣いてるわ。どうだった」
「うむ。綺麗じゃった」
「曲が?」
「曲も、お前も」
「うまいのね」
「大したもんじゃ」
「ありがとう」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。
「おい、酒がこぼれる」
「ねえ、五右衛門さん。あたし、本気であなたに惚れちゃったみたい。どうしよう」
お鶴は五郎右衛門に抱き着いたまま、顔を上げた。
「どうする事もないじゃろ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。
「だって、あなた、いつか、ここを出て行くんでしょ」
「ああ。いつかはな」
「その時、あたしはどうなるの」
「お前はずっと、この山にいるのか」
「どうしようか。連れてってくれる?」
「お前は押しかけ女房じゃろう」
「じゃあ、あたし、一緒にいてもいいのね。ずっと、一緒にいてもいいのね」
「ああ」
五郎右衛門はお鶴の背中を抱き締めた。
「嬉しい‥‥‥ねえ、でも、あなた、絶対に死んじゃいやよ。それと、人も殺しちゃ駄目。ね、約束してくれる」
「わしの剣は相打ちじゃ。わしが剣を抜いた時は、相手も死ぬが、わしも死ぬ」
「それじゃあ、絶対に剣を抜かないって約束して、お願い」
「わかった。約束しよう」
「御免ね、我がまま言って」
「いや。ところで仇討ちはやめたのか」
お鶴の体がピクッと動いた。やはり、仇討ちの事は言わなければよかったと思った。
「もう、死んだのよ」とお鶴は五郎右衛門の胸に顔を埋めたまま言った。
「もう、死んだの‥‥‥川上新八郎の妻だったあたしは‥‥‥」
「それでいいんじゃな」
お鶴はうなづいた。わざと笑顔を見せると五郎右衛門から離れ、「お酒、飲みましょ」と言った。
お鶴から左馬助の事を聞いた時、五郎右衛門は左馬助を殺してやろうと本気で思った。しかし、今は考え直していた。よく考えてみると、自分も左馬助と似たような事をしていた事に気づいた。
お雪と一緒にならずに、剣の道を選んだ五郎右衛門も、もし、お雪が他の男と幸せに暮らしていたら、その男を殺してしまったかもしれなかった。その事が恐ろしくて、江戸に帰る事ができなかったのかもしれない。
左馬助の立場に立ったら、きっと、自分も同じ事をしていたに違いない。この先、どこかで左馬助と出会ったら、どうなるかはわからない。しかし、あえて捜そうとは思わなかった。
その晩、五郎右衛門は無理やり、お鶴に唄を歌わせられた。