SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

古谷利裕のどこが間違っているか?

2006年05月29日 | Weblog
>経験的自我(発話する私)と超越論的自我(それを聴く私)との同一性を保障する「声-意識(フォネー) 」。例えばデリダは有名な「声と現象」で、このようなデカルト的な図式を精密にしたものとしてのフッサールを批判している。「私は存在する」という発話は、ひとつの表現であり、それは物質的基盤=支持体(この場合、声=空気)を必要とする。そして物質は私の外側に、私とは無関係に存在している。つまり「声」である「私は存在する」は、私から切り離されてある。だからその私の発話は、私の耳に届かない可能性もあるし、テープなどに録音されれば、私の死後(存在しない時)にも、私の声、である「私は存在する」が響くこともある。つまり、「私は存在する」という発話は、必ずしも私の存在を保障するものではない。と。フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念は、このような思考を基盤としている。(偽日記 99/2/18(土)より抜粋)

 愛犬のチャーリィ(柴犬オス5才)が目に涙を浮かべて笑い転げている。真面目にやろう、チャーリィ。だがこんな「思考」を前にして、いったい誰が真面目でいられるだろうか? ここで古谷利裕は、エクリチュールをなんと「空気」のことだと考えている。はたしてデリダの『声と現象』(ちくま学芸文庫)にそんなことが書かれているのだろうか? もしそれが本当ならデリダは哲学者ではなく、実は物理学者だったということになる。いや、それどころか「空気の無い宇宙では音は伝わらない」ということを生徒に教える小学校の理科の先生となんら変わらないだろう。フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念が、本当に「このような思考」を基盤としているのであれば、もはやそんな「幼稚な思考」にこれ以上付き合う必要はない。だが「このような思考」とは、もちろんデリダの思考ではなく、あくまでも古谷利裕の思考である。もっと言えば世界の中でただひとり、古谷利裕だけの思考の基盤にすぎないのである。

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