
RT @pentaxx_bot(斉藤環):そうです。僕は言語の特権性を言わないためにベイトソンを利用しているんですよ。神経系には言語は関係ないですから、脊髄反射に言語は介在しませんから。だから僕としては、器質的(オルガニック)な主体をもち出してきたことで、実は脊髄反射弓も主体だと言いたいわけですよ。 @hazuma_bot(東浩紀) まさにそう。イルカと人間を区別しないところがベイトソンのいいところですね。(『不過視なものの世界』54ページ)
あずまんによれば「セカイ系」という言葉は、《主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を意味している》(東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』96ページ)。というわけで、この「きみとぼく」の純愛関係を、まずは唐突にもクリスチャン・ラッセン的な「ドルフィン・ラブ」のイマジネーションから捉えてみたい。以前このブログで、「デビッド・ボウイの
“ヒーローズ”はセカイ系ではないのか?」と田中純に意見したことがあったが、いかにもこの曲には「イルカたちのように」というフレーズがあるのだ。ボウイは何故この曲に「イルカ」のイメージを入れたのか? そして「イルカ」で有名なラッセンは何故その「ドルフィン・ラブ」を、スピリチュアルな光で包み込もうとするのか? いや、確かにラッセンの絵は酷いと思うが、それは原画やポスターを見たときの印象に限られる。というのもラッセンのマリン・アートは、キャンバスや紙ではなく、モニターの電子光を通して見たとき、その真価を発揮しているからだ。このことはラッセンの絵の本質が「映像」であることを示しているだろう。それもキャメロンの『アバター』的な映像だ。ちなみに最近ケータイを「ラッセン」に着せ替えたが、これは本当に素晴らしい体験だよ。(続く)