>さらには、ジャン=ピエール・リシャールが『詩の深さ』の「ネルヴァルの魔法の地理学」の章で、植物的な「緑」のテーマが「赤」にゆきつくさまを、「ネルヴァルの燃えあがる植物性の論理的な終局」としてみごとに解読していることも想起される。ネルヴァルに「赤の叫び声」を読みとるマルセル・プルーストの分析にしたがい、フランスの批評家リシャールはこう結論する。「緑は、したがって赤に行きつくのである」。(蓮實重彦著『表象の奈落-フィクションと思考の動体視力』(青土社)306ページ)
ヴィトゲンシュタインが『色彩について』で「赤‐緑‐色盲」の問題について書いているということを知らなくとも、東浩紀が『文学環境論集L』を赤と緑の二冊セットにしているということに気が付けば、せめてゼロ年代批評の地平からの転落だけは避けられると思う。『文学環境論集L』では、赤本がエッセイ、緑本がジャーナルとなっている。そして続く『情報環境論集S』はテクノロジーの問題を扱った黄色の本だ。ここで蓮實重彦を踏み台にして大雑把に跳躍してみれば、「緑(コミュニケーション)が、したがって黄(テクノロジー)を介して、赤(スペキュレイティヴ)に行きつくのである」と言えるだろう。言えないのかも知れないが(爆)。
ヴィトゲンシュタインが『色彩について』で「赤‐緑‐色盲」の問題について書いているということを知らなくとも、東浩紀が『文学環境論集L』を赤と緑の二冊セットにしているということに気が付けば、せめてゼロ年代批評の地平からの転落だけは避けられると思う。『文学環境論集L』では、赤本がエッセイ、緑本がジャーナルとなっている。そして続く『情報環境論集S』はテクノロジーの問題を扱った黄色の本だ。ここで蓮實重彦を踏み台にして大雑把に跳躍してみれば、「緑(コミュニケーション)が、したがって黄(テクノロジー)を介して、赤(スペキュレイティヴ)に行きつくのである」と言えるだろう。言えないのかも知れないが(爆)。