私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

見性体験(4)-大いなる存在の視点の芽生え

2013年07月24日 09時28分39秒 | 私の体験
自覚ワークを始めてから3週間が過ぎたころだと思います。
肉体である私の視点とは別に、なんとなくですが、もう一つ私を観ている視点があることが感じられるようになってきたのです。

また、それまでは自覚のワークの中で少し無理をしながら、私の考えや行動を「私」が起こしているんだと自覚していたのですが、それらを「私」が起こしているだということにあまり違和感を感じなくなってきたのです。
そして、自分の考えや行動、そして周りのことも、自然に無理なく観ていられるようになってきたのです。
さらには、なんとなくですが、まさしく「私」が自分の考えや行動を起こしているような気がしてきたのです。

それは、私にとっての大いなる存在の視点の芽生えであり、創造主としての自覚の芽生えだったのでした。

そしてそのとき、私は自分の見性が間近に来ていることをなんとなく感じたのでした。

見性が間近に感じられたと言っても、自分ではまだ手応えがないというか、納得がいってないというか、そんな感じだったのです。

それで、私は自分が何となく感じる大いなる存在の視点や、創造主であることの自覚を確かめたいと思ったのです。
いま一つ、大いなる存在の視点を実感できなかったのです。

そんな中、キャンドルライトのメンバー掲示板で、メンバーのMさんが書かれた自分を愛するワークについての記事を読んだときに、ピーンと来たのです。
大いなる存在の視点を実感するという私の目的に、そのMさんが記事に書かれたイメージが使えることが分かったのです。

そのMさんの記事は、確か「小さな私と大きな私」というタイトルで、大まかには、それまで自分(Mさん)は気づかなかったのだけど、大きな私(大いなる存在)は小さな私(自我の私)のことをずっと見守り、世話してくれてたんだ、という内容だったと思います。

私はコレだと思い、そのMさんが書かれている小さな私と大きな私を自分に当てはめて、早速イメージしてみたのです。

結果は思った通りでした。
私は、小さな私である自我の私と、大きな私である大いなる存在という2つの私をハッキリと実感することができたのです。
Mさんが書かれていた通り、大いなる存在である私は、ずっと私(自我の私)に寄り添い、私を見守っていたのでした。
そして、それが分かった私は、大いなる存在である私とイメージの中で抱き合ったのでした。

そのとき私は、湧き起こる感動と感謝の気持ちの余りの大きさに驚きながら、大いなる存在である私と抱き合ったまま暫くの間泣いておりました。
そのとき、二人の私は一つになっておりました。

これは、確かゲートさんから見性印可を頂く3、4日前のことだったと思います。

その間、創造主であることを自覚するワークの方も、自分なりに考えていろいろやっていました。
それについて少し紹介しますと、例えば、こうなって欲しいという未来の状況を思い浮かべ、私の周りの状況が思い浮かべたように調整されていく様子を確認していました。
但し、未来を思い浮かべるときに自分で難しいと思ってしまうことについては、あまりうまくいきませんでした。

その他のワークとしては、日常の中に変化を与え、そこから創造主である自分を実感するというワークもやっていました。
このワークでは、日常の生活の中で普段なら決してしないような変化を、できるだけ意表を突いたタイミングで起こします。
但し、その変化は実際に起こしてもいいし、起こそうと考えるだけでもいいのです。
例えば、ゲートさんの講話を聴いている最中に、席を立ってビールを買ってきて呑むという空想(考え)を起こし、一人悦に入って楽しんでいました。
他には、ゲートさんに浣腸(そうアレです、男の子が遊びでやるやつ)をする空想なんかもやっていました(笑)。

そうやって私は、自分や周りの状況が自分の意志の影響によって変化するんだということを少しずつ感じられるようになっていきました。

続きは今週金曜日にでも書かせていただきます。


<補足(2014年11月19日)>

私自身の見性のタイミングについて補足したいと思います。
この文章を書いた当初は、私自身の見性のタイミングについてハッキリとした確信がなく、この記事の次の記事に書いたように、ゲートさんから見性印可を頂く直前におきた、すばては考えだという確信的な気づきが見性印可に繋がったかのようか印象があったのですが、それは誤解だったのです。
この誤解に気づいたのは、1年近くも前なのですが、いままで放置してました。
今回そこを補足したいと思います。

私の見性のタイミングは、この記事の中で書いております、自分自身の考えや行動を「私」が起こしているんだという実感が起こったときなんだと思います。


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読んで頂いてありがとうございました。

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11 コメント

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再びおじゃまします^^ (みりん)
2013-07-25 17:07:57
こんにちは!

今日の記事もとても興味深く拝見しました。自分の中の二人の私が融合されたなんて、素晴らしいですね!!その歓びは想像も出来ないほどです。その後どうなったのか、次の記事が楽しみです^^

一つお伺い出来ればと思うのですが、先日、いつものように自分の体の感覚と動きに注意を向けて過ごしていたところ、突然不思議な感覚に囚われました。体が痒いと思って、手を動かして掻いた直後、「あれ??手が勝手に動いて掻いた!」という不思議な感覚だったのです。何だか、「自分」以外の何かによって手が勝手に動かされて必要な行動を取っていた、その行動の素早さと正確さの凄さとでも言うか、「ああ、自分は何ものかによって、ちゃんと生かされているんだ!」という実感がして、凄く不思議でした。

これは、普段の自我が、大いなる私が起こしている体の動きにハッと気がついたというか、かいま見たのではないかと思うのですが、「自分が創造主」というよりは、「より大きな力に委ねている」という感覚だったのです。これは、前回お話した「大いなる存在の私」からの視点ではなく、自我から見た視点で、自我が「大いなる自分」の働きを見てハッとしたということなんでしょうかね(何だかぐだぐだすみません・・・。自分でも書きながら段々わけがわからなくなって来ちゃいました^^;)。

最近私がとっている方法は、「私が」と意識するのではなく、ただ体の感覚や動きにひたすら意識を向けながら過ごしているのですが(余計な思考が入り込んで来ないので、無我の状態になりやすいというか)、慧空さんのご経験から言うと、「私が」と一つ一つ頭の中で考えながらやる方が効果的でしょうか?

慧空さんの
>日常の生活の中で普段なら決してしないような変化を、できるだけ意表を突いたタイミングで起こします。

このワークの方法は考えたこともなかったので、とても面白いなと思いました。特に、具体例が突拍子もなくて斬新で良かったです(笑)。是非参考にさせて頂きます!

長々とすみません。お時間があれば、ご意見頂けますと助かります!

よろしくお願い致します。
返信する
追加質問です^^; (みりん)
2013-07-25 20:09:15
連投すみません><

今実践しながら新たな疑問が浮かんだのですが、動作をする際に「私が」と意識する場合、「大いなる私が」とか「真我が」と意識してやるのでは良くないのでしょうか?

「私が」と言っても、これは自我ではなく、大いなる私のことを指しているということは分かったのですが、それでも心の中ではどこかエゴが勘違いしないか不安に思っている部分も残っているようです。

そこで「私が」という代わりに、「大いなる私が」とやるのはどうかと思いついたのですが、もしかしたら、あえて「私が」という抽象的な表現でやる方が良いのかとも思い(自我に自分で気がつかせるため、など・・・)、もう一度質問させて頂きました。

何度もすみません。お時間のあるときで構いませんので、アドバイスよろしくお願い致します。
返信する
Re:再びおじゃまします^^ (慧空)
2013-07-25 20:16:33
>みりんさん
こんばんは。

みりんさんの「あれ??手が勝手に動いて掻いた!」と仰る感覚、なんとなく分かりますよ。
私の場合も、自我がかなり薄くなってますから、少しずつですが、自我の私に代わっていろんなことを真我がやってくれるようになってきてます。
例えば、仕事もそんな感じになってきています。自我の私は、まだどうしても仕事をやる気が起きず、無理にやろうとするとかなりしんどいのですが、最低限の仕事は、真我がやってくれている感じです(この微妙な感じ、ご理解いただけるいいのですが、笑)。
むしろ、自我の私は無理に仕事をやろうとせず、真我にお任せしてしまった方がことがスムーズに運ぶようです(我ながらも、ホントに微妙な感じなのですが、笑)。

私が最近読んでるプンジャン(パパジ)さんの本にも、真我にお任せすれば、真我がすべて面倒を看てくれるようになると書いてありました。
どうやらそのようです。

後半のご質問、自分の行動についていちいち「私が」とやることの意義についてですが、
実は、ここはもの凄く本質的なところなのです。

「私がこれをやっているだ」、「私が~」、「私が~」と、いちいち「私」を意識しなさいとうのは、まだ見性のゲートを潜っておられない方に向けてのことなのです。
これはその方を、その方の大いなる存在の視点に注意を向けさせるためなのです。

一方、見性のゲートを潜ってしまうと、自我の私の視点と、大いなる存在の視点が重なり合って一つになるので、
見性後は、いちいち「私」、「私」と意識する必要がなくなるのです。
ですから、見性後のワークの場合、基本的に「私」を意識することなく、自分をただ観るようになります。
そして、その自分を観ることも、自分がそれをやろうと意識しなくとも、自動的に常に観ているようになります。

ですから、私の場合は、もう「私」、「私」という意識はもうしないです。自動的に自分を常に観てる感じです。

みりんさんも、その方がやりやすければそうされたらいいと思いますよ~。(^o^)

このやり取りの内容は、まるで、101キャンドルライトの見性印可者との会話のようです。
うまく表現できませんが、不思議な懐かしさも感じてしまいます。
でもみりんさんはキャンドルライトの方じゃないんですよね?
なんだか不思議な感じです(笑)。
返信する
Re:追加質問です^^ (慧空)
2013-07-25 20:27:40
ご質問、大歓迎ですから、気軽にどんどんなさってくださいね。(^^)

>「私が」という代わりに、「大いなる私が」とやるのはどう>かと思いついたのですが
についてですが、
どちらでも問題ないですから、お好きなようにされたらいいですよ。
真我はすべてお見通しですから、そういう自我のみりんさのことを微笑ましく観てられるだろうと思いますよ~。(^^)

ただお節介なことを申しますと、「大いなる私が」というのは長ったらしいので、「私が」とイメージされた方がシンプルでやりやすいと思いますよ。
返信する
どうもありがとうございました (みりん)
2013-07-26 09:19:35
慧空さん

早速のご丁寧なアドバイスありがとうございました。本当にとてもありがたいです。

私はキャンドルライトの会員ではないので(韓国側の会員になるか、それとも日本支部の方の会員になるかで迷っていたのですが、とりあえず大きな意識の変化が起きてきていたので、しばらくそのまま自分でやってみようと考えていました)、ただ、疑問が出て来ても他に相談することも出来ず、色々な本からヒントを得たり、自分で試行錯誤しながらやっています^^;今まで色々と試した中で、やはり一番マスターゲート氏の仰る「自覚」が一番大きな意識的な変化をもたらしたので、この方向で続けて行こうと実行していたのですが、慧空さんのおかげで細かな疑問も解消され、本当に心からありがたいです。

キャンドルライトの会員さんたちのやり取りはこんな感じなのですね~。メンバー同士の質疑応答はやはり凄くためになるものですね!

>真我にお任せしてしまった方がことがスムーズに運ぶ

おっしゃる意味、とてもよくわかります(といっても、私の経験はまだ段階的に浅いものですが)。以前に「明け渡し」が起きてからしばらくの間、用事も自分で何とかしようとするよりも、真我に任せるようにすると、勝手に色々と動いてくれる感じがして、かえってスムーズに行って驚いたことがありました。でも徐々に自我がまた不安を覚えて、「こんなことでいいのだろうか・・・」などと混乱して真我の動きに介入するようになって後戻りになっていました^^;

「私が~」というのは、見性する前の段階において重要なことだったのですね!「私が~」とやることの意義を分かりやすく書いて下さったので、今心底納得しました!!ああ、そういうことだったのですね!!

>ただお節介なことを申しますと、「大いなる私が」というのは長ったらしいので、

ハハハ、そうですよね。昨日実験しながら、「大いなる私が」とやると、間に合わなくてリズムが崩れるというか、やりにくくて笑ってしまいました。

>真我はすべてお見通しですから、

ああ、そうなのですね・・・!あれこれ模索しながらやっているのを、微笑ましく観てくれているのですね^^;それなら、やりやすい方法でやればいいですね。

このまま、「私が~」で徹底的に続けて行こうと思います。

これ以上ないほど良いタイミングで適切なアドバイスを下さって、本当にありがたいです。

今後の記事も楽しみにしています^^
返信する
Re:どうもありがとうございました (慧空)
2013-07-26 09:51:21
>みりんさん
どういたしまして。
私の方こそ、みりんさんとのやり取りを楽しませていただいています。(^^)

キャンドルライトの方じゃないと仰るのは本当だったのですね(笑)。
キャンドルライトを退会した私が一人寂しくブログを書いているので、メンバーの誰かが応援してくれているのかも知れないなぁ~、なんて考えたりしてました(笑)。
思考が先走るクセが抜けません(笑)。
返信する
こんばんはm(._.)m (21さい)
2014-11-22 23:48:36
こんばんはm(._.)m

いつもこのブログを参考に自覚をさせてもらってます。

私の場合は自分の考えと行動を観るワークをしていて「私が」と自分を意識できていない状態の時に「手が勝手に動いた」「しまった。意識するのを忘れていた」という状態になります。

無意識に湧き出す思考、行動を観ていき「私が」やっていると意識しています。段々と自分の考えが捉えられてくるようになりました。考えを捉えらる感じはこのブログに初めてコメントさせてもらった時もある程度わかっていたと思うのですが情報に走りすぎて自らを混乱させてしまっていました。

このブログに初めてコメントさせてもらった時の私は願望(分別から生じるもの)があり未来に期待していたんだとわかりました。今は願望などがほぼ消えており、解脱してしまいたいというもの以外はっきりしたものはありません。24時間自分を観てやるぞと思うようになりました。
心から悟りたいと思うようになりました。ですが解脱者の知り合いもいないし慧空さんのブログだけが頼りです。

毎日必死に自覚頑張りますのでこれからもよろしくお願いしますm(._.)m
返信する
Re:21さんへ (慧空)
2014-11-23 07:20:00
近況を教えてくださり、ありがとうございます。
21さいさんは、自覚に対する切実さが高まってきておられるのですね。
いろいろ大変なこともおありなのかも知れないと思いますが、そういった大変なことや、苦しさや、恐れに対しても、覚悟を決めて、自覚で立ち向かって頂きたいと思います。
応援しております。(^^)
返信する
いつもありがとうございます (21さい)
2014-11-24 02:53:14
こんばんは いつもありがとうございます。

はい( ^ ^ )最近は自覚のことばかりです。
何も欲しがらない自分になったのは人生で始めてかもしれません(こうなりたくないとかこれは失いたくないとかはあるのですが)

今日も質問させてください。
自覚ワークをしている時に無意識というかパッと湧き出てくる考えを自分と一つにするというか自分が顕在的に扱えるものにしてそれと一つになりたいというかそんな感じがあるのですが、ただただ「この考えは私が起こしている」とその考えと一つになろうとせず、その考えを自分で扱えるものにしようとせずにそれを流すように自覚していればいいのでしょうか?それともその考えを自分でコントロール出来るものにして一つになろうとする感じで自覚してもいいのでしょうか?

言葉でとても説明しにくく書いている私も混乱するような文章ですみませんがよろしければアドバイスをお願いしますm(._.)m
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Re:21さいさんへ (慧空)
2014-11-24 08:16:46
上で21さいさんが仰りたいことはよく分かります。
ちゃんと伝わっていますよ。(^^)
それでご質問の点についてですが、
基本的には、悟りの道を歩むときの道のりは人それぞれなんです。
悟りの道には幾つかの関所のようなゲートがあって、そのゲートを潜るという点では皆同じなのですが、各ゲート間の道のりは人それぞれなんです。
ですから、その人がやりたいことや、良いと思ってしていることについて、私がこうした方が良いですよとはなかなか言いにくいのです。
その前提で、私の個人的な考えを少しだけ言ってみますね。
考えと一つになりたいと思う気持ちや衝動は分からないでもないのですが、一つになろうとしてなれるものではないのです。
また、大悟の段階で考えと一つになっているような感覚や理解が得られるのですが、その感覚等は幻なのです。
それは一過性のものであり、そこに何か真理や絶対的なものがあるということも無いのです。
自分が握りしめている考え(執着)を手放していくうち、結果として考えと一つになったような感覚が得られるというだけなのです。

と言う訳で、私としては、考えと一つになろうとせず、普通の自覚を続けてくださいと申し上げたいのです。
考えと一つになりたいと思っている自分を自覚して頂きたいと思うのです。
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