人生に必要なことは、すべて梶原一騎から学んだ

人間にとって本質的価値「正直、真面目、一生懸命」が壊れていく。今こそ振り返ろう、何が大切なのかを、梶原一騎とともに。

父と子の宿命

2006年10月31日 | 巨人の星

いよいよ、中日巨人戦がきた。一徹はオズマによる大リーグボール一号打倒を宣言している。いったいどんな方法をとってくるのか。実は、その前の阪神戦で天才花形は大リーグボール一号を、一徹が考えたのを同じ方法で打ち破っていたのだ。その時点で、花形は方法論こそ正しくても力不足で凡打を打つのが精一杯だった。つまり、一度バッドをハーフスイングし、ストライクゾーンで止める。すかさずバックスイングをして再度バットをふる。大リーグボールは予測の魔球なので、飛雄馬は無意識にストライクゾーンにあるバットをめがけて投げてしまい、結果としてど真ん中のボールを投げてしまうことになるという理屈だ。ハーフスイングから再度、バットをもどしてミートするなどという方法は普通の人間には出来るわけがない。一徹は超人オズマに大リーグボール打倒ギプスを装着し、3人からの投球を次々にうつという特訓により、オズマに見えないスイングなる超高速スイングを身につけさせた。そして、花形と同じ方法で今、まさに飛雄馬を打ちくずさんと、待ちかまえている。

そんな非常な父親に報道陣は、ライオンが、子を千尋の谷に突き落として鍛える心境なのかと質問する。しかし一徹の答えは予想外だった。

 「ふふふ・・・たしかに、そういう心境で、あれを鍛えた時代もあった。遠い昔にはな・・・。今は違う!」

 「やつはもうライオンの子ではない!りっぱに成長した若獅子よ!もはやかけねなし。食うか食われるか、男と男の戦いじゃよ」

 「青二才ごときに現役の王座をあけわたしてなるかという老ライオンの執念の反撃じゃい!」

 

 「そして、子は親を乗り越えねば一人前になれん。これは野獣も人間の世界も同じ。父と子の宿命よな!」

 

根底に、子を強い本当の巨人の星にしたいという思いがあるのは同じだ。しかし、親が子を鍛えるというレベルではない。親も全力で、食うか食われるかの死闘を挑むというわけだ。一人前になるには、親を悔い殺して、屍を乗り越えていけということだ。なんとうことだろう。

同じような話は、格闘技系の巨悪に立ち向かう男の成長を描いた漫画に見られる。「おまえがこれから戦おうという相手は、普通のレベルではない。甘い気持ちで行けば確実に命を失うし、目的も達成できない。おまえが正義を貫くには、悪に打ち勝つには、今のレベルを遙かに超えた力と非情さを身につけなければできない。」それを胸に秘めつつ、親あるいは師は子、あるいは愛弟子に、命がけの勝負を仕掛ける。

「先生何をするんですか。」

「なにをのんきなことを言っている、そんな甘いことでは、わしはおまえの命を奪うぞ」

「やめてください」

「おろかもの!」師は必殺技を炸裂させる。紙一重で、子/弟子は、封印してあった、その技を師にめがけて放つ。そして、雷のようなひかりの次の瞬間に、師は倒れている。

「見事だ・・今のタイミングを忘れるな。おまえは俺の夢だ、宝だ・・必ず勝て、俺はいつもおまえを見守っているぞ・・・・」

「先生、先生ーー!なぜ、かわそうと思えばかわせたはずなのに・・・」

「泣くな・・命をかけねば教えられないことがある。今おまえは俺を越えたのだ・・自分を信じろ、おまえならできる、必ず・・」そして、師は死ぬ。

次のステージで、主人公は、今までにないすごみをまとい、巨悪の相手の前に姿を現す。

「ほーっ なんたる変わりよう。何があったかしらんが・・・さしずめ、あのもうろくじじいでも死んだのか」

などとくだらない、話を書きつづっている場合ではない。しかし、これが、古典的な、子/弟子が親/師を乗り越えて、真の男に成長していく物語の基本形である。

乗り越えて、命がけで戦う相手がいる場合、命がけの戦いをして、自分を乗り越えてみい!というのも良いが、命がけで乗り越えた向こうが「巨人の星」では、ちょっとな~と思うだろ。しかし、あの当時、巨人、大鵬、玉子焼と言われ、巨人軍V9とか言っている時代は、それくらい巨人軍のエースとはすごいものだったということだ。

今の巨人のていたらくを見たら、星一徹は、飛雄馬は何と言うだろうか・・まあ、それはそれとして、ドラゴンズ頑張れ!

 


男対男

2006年10月31日 | 巨人の星

初恋の人、美奈を喪った失意のどん底からよみがえった飛雄馬。それは大リーグボール1号の復活でもあった。父、一徹は、その知らせを聞いて、涙を流すほど喜びを感じつつも、すでに大リーグボールを完全に葬るための秘密兵器、オズマを鍛え上げていた。その厳しさに驚きを隠せない報道陣は「星投手が血の涙で復活させたに違いないものを、実の父がたたきつぶす。あまりに非情すぎやしませんかねえ」と。

しかし、一徹はためらうことなく言う。

 

「子がひとり歩きをはじめれば、父と子の中は・・・男対男になる!!」

「となれば、負けられぬのは男の宿命。また、おめおめ負けるような男を、子としても父に持ちとうはあるまい!」

 

と言い放ち、絶妙のノックをはじめた。

 

厳しい、とことん厳しい。というより、何を考えているのだかよく分からないくらいだ。幼少期から共に巨人の星を目指した。巨人の星になれと鍛えた。大リーグボール1号だけでも、当面、巨人軍のエースとして君臨できるだろう。それをたたきつぶしてどうする。何を考えているのか。

この何を考えているのか談義になると、これほど話題に事欠かない漫画はない。それゆえ、後年、ギャグマンガだと言われる羽目になるのだ。たとえば、バットに当てるほどのコントロールがあれば、バットなんかに当てなくても、打者がもっとも苦手とするピンポイントに剛速球を投げればいいじゃないか。いくら球質が軽くても、そこなら手がでないから確実に三振か凡打になるだろう。と、現実的な話をしてはいけません。漫画だから。それに、そういうノリでは通用しないように、スキのないライバル、花形、左門、オズマを用意してありますから~残念!(古いか)。

まあ、そんなことはどうでもよいが、子は父を乗り越えてこそ、一人前になるというストーリーは古典的には男の成長には不可欠のテーマだったはずだ。しかし、優しい父親、いつまでも子供をサポートしてあげる父親、自分がしてあげられる内は、何でもやってあげるからねという父親の登場によって、男はみなふぬけになってしまった(わしも例外にもれずだがな)。だから憧れるのかな。男は本能的に、父を乗り越え、苦難を乗り越え、強くなりたいという心のベクトルをもっているからな。それが発揮できない、あるいは、大事にされない時代はどうなんだ。

そんなこというと「また、マッチョですか」と揶揄されるし、評論家の中には「父親が人間くさい、ダメなところを見せた方がいいんだ」というやつも出てくる始末だ。どうせ、年老いてすべての機能が低下したり、病気になれば、いやが上にも弱い部分を露呈し、人のはかなさを見せつけることになる。それまでの短い期間くらい、やせ我慢して、「お父さんは強いんだよ。心配ないぞ」と言ったっていいじゃないか。弱さを何も子供に見せびらかさなくてもいいじゃないか。何で簡単に子供の夢を理想を失墜させなきゃいけないの。青年期を過ぎて大人に近づけば、どうせ、そんなやせ我慢はばれて、子供はそれを知りつつ、今度は自分が強い大人になろうと頑張る、それでいいじゃないか。子供が一人前になるまでくらい、男はやせ我慢して、越えられぬ壁のように立ちふさがり、「一人前になりたかったら、この壁を乗り越えてみい!」って言いたい、それが男の美学だろう。ただ、壁として立ちふさがるのと違って、ただの暴力、大人のわがまま、横暴じゃあ、成長の力にはならんから、気をつけろ。一貫した行動には信念とか美学が必要なんだよ。

 


目薬

2006年10月28日 | 巨人の星

美奈を自分の心の中に永遠に生き続けさせることで、永遠の別れを告げた飛雄馬。そしてついに不死鳥のごとく蘇ったのだ。大リーグボール一号の復活の報は、今や中日ドラゴンズコーチ、一徹の耳にも届いた。

それを聞いた一徹は、報道陣に背を向け、目薬をくれという。球場のカクテル光線がまぶしいからという理由で。大げさに目薬をさして、報道陣の方に向きを変えた一徹の目からは水があふれている。

 「ふふふ・・・ちょっと目薬をさしすぎたようじゃわい」

大リーグボールが復活したとて、すでにオズマには秘策がある。

「すでに、大リーグボールは死んだも同然じゃよ、のうオズマ」

「トレーナー、目薬をありがとう! いやあふれるほど目薬をさしたおかげで、カクテル光線がまぶしゅうなくなったわい!」

トレーナーは「あふれるほどさしたわりには、ちっとも中身がへってないが・・・」

 

いやはや、べたである。読者には少年もいるので、結構詳しく解説のようなセリフがならべてある。飛雄馬と男と男の対決だと良いながら、我が子の復活にあふれる涙を隠せなかったわけだ。しかも、その気持ちを表に出すわけにはいかない。「よせやい、雨が目に入っただけだぜ!」とかいうセリフも、昔の漫画にはよくあったでしょ。あふれる感情、そしてそれを見せないようにする姿勢、そういう美学があったんだな。

まあ、いいではないか。こういうシーンが受け入れられる時代だったのだ。こういったベタな表現でも、みな感動して読んでいたのだ。

今、深夜番組で、ベタドラマというのが時々やっているが、その表現の原型は同時代の、「おれは男だ」、「飛び出せ青春」に代表される学園物だ。巨人の星が受け入れられたのも同じ時代だ。このころ人々はそれほどひねくれていなかった。ベタな表現を素直に受け止め、感動する純粋さがあった。

今や、何事も素直に受け取れず、裏を読まなくてはいけない、だまされまいと警戒しなくてはいけない、何が起こるか分からない危険に子供のころから人を信じるなと教え込まれる・・・まあ、いきなりこうなったのではなくて、つもりつもって、ここまできたわけだから、そう簡単に軌道修正をすることも難しい。

今、なにかと昭和ブームだが、昭和文化に何かしら、人がもっと人を信じて生きられたような思い、もっと純粋に、もっと暖かい気持ちで生きられた時代を感じているのだろうな、少なくともわしはそうだから。


月はしずみ日はのぼる

2006年10月26日 | 巨人の星

飛雄馬の初恋は、美奈の死をもって終わった。飛雄馬は、「見れば認めなくてはならん」と言って、美奈の死に顔を見ることを拒み、山の中で七転八倒する。もはや自分は立ち上がることはできない、すべては終わったのだ・・・その時、宮崎の自然の中に沈みゆく月、登りくる太陽をみるのだった。

「東に日がのぼりつつあるっ 西に月がしずみつつあるっ は・・はじめて見た、のぼりくる日、しずみゆく月・・・ 日と月が同じ天にあるのを。(がーん がーん がーん がーん がーん)」有名な感動的なシーンである。

「ああ、こうして このように・・・日は昇り 月はしずみ 限りない果てしない繰り返しで 地球誕生以来、地上のいとなみ、人類の前進があったっ」

 

「しずみゆく月を悲しみ いつまでも それを 追おうとしても・・・ 日はまたのぼる!」

「そこに進歩が 前進があった! 美奈さんを月にしよう!おれは日になろう!大自然の夜明けがおれに教えた!」

「今こそ このなを口にするのも、これっきり。美奈さん、君に言う・・・さようなら・・・・」

 

激しい、取り乱し方が激しい。ものすごい感情表現だ。原作では控えめだが、アニメではよく「ギャグ」として登場する、飛雄馬の七転八倒取り乱しシーンだ。アニメでは崖からかなりの距離を転落していくが、それはやり過ぎだろう。あれではとても無事では済まない。

まあ、その位、すごい感情だというわけだ。ものすごい割には切り替えも早い!そして、飛雄馬は、その後の人生でもはや誰も愛さないと誓うのだ。その名を口にしたり、思い出すこともひかえようとする。ものすごい愛だろう。ダラダラ未練がましくしがみつくのが深い愛ではない。愛深き故に、もう二度とその名を口にしないというのだ。それが美奈との間で愛は完結したという証なのだ。未練がましく、他者にその名を語れば、美奈との間ではぐくみ燃えさかった愛はさめてしまう、そしていずれは昔話になってしまう。飛雄馬はその名を封印することで、永遠に美奈との愛を胸に秘め生きることを選択したのだ。

そんなアホなとわらわば笑え。そういう愛の形があってもよい。そういう愛の形があった。そういう愛を貫いた古くさいバカな男がいた、それだけのことだ。誰かに認められようとか、ほめられようとか、慰められようとかの気持など微塵もない立派な覚悟だとおもわんかい。


野球のどれい

2006年10月24日 | 巨人の星

飛雄馬が美奈との恋、そして苦悩、別れで人生の崖っぷちに居る間に、父一徹は、中日のコーチに就任した。条件はカージナルスのオズマを獲得することだ。日本の野球で飛雄馬に勝てなかったことで、オズマも日本でのプレーを希望し、いよいよ一徹-オズマの最強の師弟コンビが誕生した、しかも実の息子を打倒するために・・・。

一徹のオズマに対するコーチは、想像を絶するものであった。ピッチングマシーンとピッチャーと三人に間髪入れず投げさせて、連続で打ち返させる練習。普通でもできっこないわけだが、容赦なく竹刀で打ち付ける、そして罵倒する。オズマは黒人がかつて白人に奴隷にされていた時代の話を持ち出し、殴られるのには耐えられないと怒りをぶつける。しかも、ただの練習ではなく、上半身に強固なギプスがまとわれていた。

一徹は言う。

「奴隷けっこう、ただし、白人の奴隷ではない、わしの奴隷でもない!野球の奴隷になれいっ」と

 

「人間が人間に頭を下げることはないっ しかし、仕事には頭を下げい。徹底的に謙虚にすべてをささげつくせ」

「すべての情熱を血を、そこまでささげつくせば奴隷じゃろう。野球という主人に対し奴隷になってこそ本望!」

 

恐ろしいセリフだ。確かにそうだが、それでも仕事の奴隷になれいっなどと今時いったらどうなるか。えらい騒ぎになるだろう。自分がそう思って、情熱を注ぐ、自分の心を鼓舞するというならわかるが、それを人に言ったら「素直に、はいそうでした。頑張ります」と誰も言わんだろう。でもこのセリフ自体はかっこいいね。一徹が言うから説得力があるんだな。他のシチュエーションで言ってもしっくりこないだろう。一徹とオズマこの関係においてのみ成立するやりとりだ。

それでもオズマは納得せず、ユニホームを破って、全身をまとうギプスを後悔する。「これは、おまえが奴隷として俺をしばった鎖だ」と。

しかし、一徹はオズマにいう、これは「大リーグボール打倒ギプス」だと。そして、今までやってきたしごきにもにた練習の意味を始めてオズマに明かしたのだ。それを聞いたオズマは、一気に一徹を尊敬し、その後は何を言われても、何をされても「オーケー、ボス」と従順になったというわけだ。

 

この頃から、外人が漫画で話すときカタカナになるのがおもしろい。何の根拠もないが、カタカナでセリフを書くと、なんか外人が話して居るみたいに見えるのが不思議だ。外来語=カタカナだからだな。そのパターン認識が、我々の脳みそをだますんだな、きっと。

「チガウ! コレハ オマエガ ドレイトシテ オレヲシバッタクサリダ!」

ね、なんか外人の片言言葉みたいでしょ。実際、こんな難しい日本語を来日して間もないオズマがはなすわけないじゃんと、つっこまないように。

 


マウンド

2006年10月23日 | 巨人の星

日高美奈との命がけの恋に落ち、冷静な判断力を失っていく飛雄馬。美奈の命はもう長くはない。二軍キャンプから奈美の診療所までは遠くない。そこで最後まで寄り添うことを誓っていた。ある日、マウンドに上がる飛雄馬は、マウンドからバックネット裏に沖先生の姿を見つけた。美奈に何かあったのか・・もはや制球力を失い、大リーグボール1号どころではない。あまりの醜態に、ピッチャー交代を告げられ、そのまま沖先生の所に駆け寄った。沖先生からでた言葉は予想通りだった。

「おそらく今日一日もつまい・・・」

「おそろしい苦しみの中から、私は頼まれた。君を連れてきてほしい、君に見守られて死にたい・・・と」

「な、なぜ、もっと早く おれの耳にいれてくれなかったんです、先生!?

たとえ巨人をくびになろうとも、おれはマウンドをかけおり、駆けつけたのに・・」

 

「日高君は、きびしく私に言った。会いたい、連れてきてほしいが、ただひとつ・・・

もし、星さんがマウンドに立っていたら、決して声をかけないでほしい。そこは、星さんにとって美奈より大事な場所・・・と!

 

飛雄馬の心は心底うたれた・・通常、漫画では驚いたときは「ガーン」というのがお約束だ。しかし、このときは「ガーン」ではなく「ビィーン」であった。この擬音は他では見たことがない。この場面でしかつかえないだろうし、この場面の飛雄馬の心のショックを表すにはガーンではダメだ。さすが、梶原一輝である。

自分の命の灯火が消えようとしている。最後に愛する人に会いたい、なのにそれでも愛するがゆえに、相手のことを思いやる心・・・いっちゃあ悪いが、しょせん二軍キャンプのマウンドじゃないか。しかし、そうはいかないのが熱血漫画なのだ。どんな場面でも、いかなる事情があろうとも、決して捨ててはいけない物がある。以前、一徹が花形を、「あいつはたとえ死んだとて、自分の責任をほうりだすような男ではない」と評した。

そして、飛雄馬は美奈の死に目に会うことができなかった。報われぬ愛、届かぬ愛、それでもひたむきに思いやる愛、そういう話がまかり通っていて、それを真剣に読んでいたんだ、当時の青少年は。そして、愛とはそういうものだと身を律して、あこがれをつのらせていた。

今はもう、こんな話ははやらないだろう。なーに自分に酔ってしまっているの、ばっかみたい、そこまで仕事や役割に身を捧げて何になるの、自分をもっと大事にしろよと言われるのがオチだ。そうではないのだ。相手を思いやることが自分のためであり、自分を大事にすることだったのだ。いわゆる共依存とは違うぞ。相手を喜ばせることが私の喜び、相手を支えることが私の生き甲斐・・そんなんじゃない。相手の反応なんか期待しない。相手がどう思おうがそれはそれ、私は私のためにあなたを利用するようなことはしない。私があなたを思いやるのは私の決断、私の意志・・・そういうことだ。それは共依存ではない。共依存とは相手に何かを施すことで自分が生きること。自分が生きるために相手が必要と言うことだ。しつこいようだが、これは違う。これは自分は死んでもいいから、相手を守る。そしてその自分の行動が相手に伝わらなくても、相手が知らなくても、それでもいいというくらいの覚悟なのである。こんな大仰な物か、たかが恋愛がと思うだろう。恋愛だけじゃない、人の思いというものはそれほど重く覚悟がいるということを、大切なことだと時代が共有していたのだ。

 


命がけの問い

2006年10月21日 | 巨人の星

美奈の余命幾ばくもないという真実を知り、究極の選択を迫られた飛雄馬。飛雄馬は、今シーズンを棒にふる覚悟で、美奈をそばにいることを選んだ。その苦しみを、一徹への手紙に書いた。涙に濡れる便せん。初めは「おまえが泣くのは、涙を流すのは、マウンドの上だけと教えたはず」と忌々しく思いながら読み始めた。しかし、そこに書かれていたのは、飛雄馬の血のさけびだった」

野球より女性をとろうとしている自分「それでも俺は軽蔑されるべきだろうか。とうちゃん、教えてくれ。とうちゃんならどうしたか?それでも野球をえらんだろうか?」と。

一徹は涙する、そして妻の遺影を見つめる。

 

「なんと、答えてやったらいい・・・この命がけの問いに なんと?

あ、あいつは野球をすててもいい気でおる・・・・今シーズンを棒に振れば、だれも来シーズンを保証してくれんのがプロの世界!」

「親が子の世界にふみこめなくなる日がはじまるのは・・・子が異性に目覚めたとき・・・しかも美奈という少女は心清くさけようのない死の淵に飛雄馬との愛を咲かせておる!

そ、それでも、なお巨人の星をとれ、愛を捨てよと命ずる権利は、いかに親にも、いかにわしにも・・・」

 

子が異性に目覚めたとき、もはや親でも踏み込めない世界に入る。単なるすいた惚れたではない、命がけで守りたいと思う異性に出会ったとき、子は真の意味で親から離れていく。親子から、男女へ、そして夫婦へ、新しい家族の単位へと進んでいくのだ。

今やその境界線も曖昧だ、異性のとの問題にも親が入ってくる。異性との問題をも親に平気でさらけ出していく。親と子の境界線はもはやぐちゃぐちゃだ。本来なら、守るべき異性との世界は、親とはいえども入れない世界だ。であるがゆえに、そういう異性を選択する時には、まさに命がけの選択となる。もはや後戻りができない領域に入っていくのだから。

しかし、今や何の覚悟もない結婚が普通になってきている。そして、嫌なら離婚すればいい。親も門戸を広げていつでも帰ってこいと待っている。

いろいろなケースがあるので、簡単に一般化して語ることはできない。やむにやまれぬ事情というのが人間にはあるから。覚悟の選択をしても、よい結果になるとは限らず、引き返す勇気も必要な場合がある。それとは別の話と思ってほしい。

曖昧な境界線、いつでも行ったりきたりできる境界線では人の成長には不都合だということだ。親子だけではない。社会の中の様々な境界線はことごとく崩壊し、みなその場その場で言いたい放題で何も発展的な話し合い行動には結びつかないことが多すぎるということを憂いている。

命がけの選択、命がけの問い、それは異性に目覚めたときから始まるのは確かなことだ、それが人の成長に重要な意味を持つのは事実だ。だから、異性の選択は慎重で、緊張感のあるものであってほしい。

 

 


告白

2006年10月20日 | 巨人の星

飛雄馬は美奈に恋をした。火のような激しさを秘めつつ、青春のすべてを村の人々のために捧げ尽くす姿に。しかし、自分は恋にのまれて、野球をあきらめるわけにはいかない。心を鬼にして、美奈に別れを告げようと決心した。

分かれを告げるつもりで最後に海岸にいった。そこで、美奈の真実をしってしまったのだ。二死満塁ツースリーのような緊迫感をただよわせる姿に心を引かれたと告白する飛雄馬。その言葉に、触発され、ずっと隠してきた自らの病気のことを美奈は語った。自分とて何の不安もない青春を謳歌していた。しかし、ある日、爪の中に黒い点を発見した。それが悪性黒色腫だと知らずにとげ抜きでつついてしまった。医者に行ったときはすでに手遅れ。苦しみ抜いた末、先の短い自分の人生を村の人々に捧げようと決意したというのだ。

そして、さらに言う

 

「せめて、だれかに、この絶望との戦いを知ってもらいたかったんだわ・・・ほめてもらいたかったのよ。

美奈よ、よくやったって・・・それを、飛雄馬さんのように理解してくれそうな通じ合えそうな魂の持ち主に」

 

その言葉に飛雄馬は、飛雄馬の心は完全に打ち抜かれた。命をかけて目指した巨人の星・・しかし、今、飛雄馬の心には「二軍に落ちれば都城での練習になる。そうすれば美奈さんのいる宮崎に近い。そうすれば、美奈の最後までついていてあげられる。今シーズンを棒に振ってもかまわない」とまで思ったのだ。

 

究極の選択・・比べようのないものを比べなくてはならない。どちらも捨てられない物を、一つ捨てなくてはいけない。どちらを選択しても、心の傷は甚だしい物になるだろう。それでも選ばなくてはいけない局面が人生にはある。

それほどではなくても、生きると言うことは「選択」だと言い換えても過言ではない。大きな選択、小さな選択、重い選択、軽い選択、程度の差はあれ、我々は常に選択して生きている。朝目が覚める、未だ眠い、蒲団からでるか、もうちょっと寝るか。時間がない、朝ご飯を食べるか、食べないか。雨が降りそうだ、傘を持っていくかどうか・・・くだらないことばかりのように見えるが、逆に言えば、その程度のことでも我々は選択し続けているということだ。選択すれば、もう一つの道はなくなる。今すぐ家をでるか、トイレに行ってからでるか、それによって、電車に間に合うかどうか、一瞬の違いで事故に遭うかあわないか。どうでもいい選択が、運命を決定づけることだってある。

大きな選択だけが大事なわけではないが、見かけ上、大きな選択はより運命を決定づけるように見えるし、そう実感できる。だからより慎重に、運命の分かれ道のような気持ちで選択するわけだ。しかし、大きな選択の前には小さい選択がある。日頃からある程度の緊張感をもち、すべては大事な選択であると自覚し生きれば、より悔いのない人生を送れるだろうし、大きな選択の局面で冷静な判断力を発揮しやすいものだ。

このブログをみるかみないか、そういう選択も人生に大きな影響を及ぼすんだぞ。

 


ささげつくした青春

2006年10月18日 | 巨人の星

飛雄馬の心の隙により少女に怪我を負わせてしまった。飛雄馬は、お詫びのため、美奈と少女を村の診療所までタクシーで送った。そこには、飛雄馬が想像もしなかった過疎村の現実と、そこに人生を捧げて働く沖先生と自分と同じ年齢で働く奈美を生き様を知る。

自分は、オズマに野球ロボットと言われただけで動揺し、人間らしさを求めて派手なことをやりまくろうとしていた。それに比べて、村の診療所で見た現実・・・

「お、おれの野球には栄光がある、名声がある。それでさえ野球人形などと悩んでいる・・・」

 

「ひっそり、さりげなく、しかし、おれに平手打ちをくらわせた火の情熱をひめて、他人に捧げ尽くした青春が、ここにある!」

 

飛雄馬は目が覚めた。自分は何を悩んでいたのか、何の為に自分に似合わぬ派手なことにかまけていたのか。人間らしく生きるというのは、享楽に酔いしれることではなく、情熱、欲望などを心に秘めつつ、自分に与えられた役割に準ずる、動と静、欲望と自制、私と公・・・その対局の中で苦悩しつつも心のバランスを維持しながら生きることなのだ。

本当の人間らしさに目覚めると同時に、本当の恋に目覚めてしまった。そして本当の意味での人間らしさに苦しむことになる。

 

人は誰かに認められたいという欲求が強い。言い換えれば、自分の意味、存在意義を確認したいというやっかいな性質がある。「こんな私は存在する意味がない」という悩みを聞くことは多い。どうしてそんなことで悩まないといけないのか・・犬や猫なら絶対に思わないことだ。下等哺乳類までには存在しない能力、想像する能力が霊長類、特に人間には存在する。

猫は死期が迫ると行方をくらますというのは本当か嘘かというのをテレビでやっていた。それはガセネタらしい。なぜなら猫には死という概念はないので、死期が迫るということは分からないからだそうだ。苦痛があるので、静かなところで身を潜めるためにとる行動らしい。つまり時間の認識がないのだ。

意味、欲など人につきまとう苦悩は、命に限りがあるという現実認識から生まれるものだ。もし命に限りがないのなら、あらゆる執着は意味を失うだろう。時間の認識、要するに過ぎ去った過去と、来るべき未来への想像力、それこそが人間を苦しめる元凶であり、人の人たる力の源である。

人は死を恐れるのではなく、意味を失うことを恐れる。であるから、誰かに意味があるのだと確認したくなる。それを神や仏の求めて納得できる人はそれはそれでよし。そうはいかない人は、人を求めて流浪することになる。意味を保証してくれる人をもとめて・・・意味とはプラスなものだけではない、マイナスの意味もある。であるから、追い詰められた人、自己評価の低い人は、暴力や陵辱の犠牲になりやすい。それでも意味を失うよりはましだと錯覚するからだ。

自分の意味をどこに見いだすか。それが問題だ。そこを錯覚するとえらいことになる。よくある間違いに、世間に認めてもらいたいということがある。世間などと言う得体の知れない幻を相手にしても、どこまでいっても空をつかむようなものだ。

極身近で、自分の力を役立てることのできる場所と相手、そこで満足を得ることができるならば、我々はもっと苦しまず、もっと自分を生かして生きれるはずだ。幻を相手に自分を消耗するのはやめよう。手が届く、身近な関わりを大事にしよう。そして、その関係をしっかり自覚して、それで十分なのだと理解しよう。そうすれば、もっと心に余裕を持って、優しく生きられるだろう。


初恋

2006年10月17日 | 巨人の星

父一徹との世界から巣立ち、人間らしさ・自分らしさを取り戻そうとする飛雄馬。売れっ子芸能人オーロラ三人娘の一人・橘ルミと芸能ネタになっていた。巨人軍・都城キャンプにまで応援に来る橘ルミ。その声援にデレッとしたところを、伴に一括された。しかし、伴からの返球を後逸してしまい、そのボールは見物に来ていた松葉杖の女の子に当たってしまう。

あわててかけより付き添いの看護師にあやまる飛雄馬。

飛雄馬が「よそに気をとられて、つい・・」と言い訳をすると、すかさず

「よそに気をとられて・・・つい・・・」とつぶやき、飛雄馬をキッとにらみつけ、ビンタをした。

 

「人間、あやまちなら許すしかありませんが、つい、よそに気をとられて・・・と、あなたはおっしゃったわね。それが許せませんでした」

 

その激しい気性、張り詰めた雰囲気、そして何よりもその美しさに飛雄馬の心は動いてしまった。その看護師の名前は、日高美奈、運命の出会いであった。

飛雄馬は人間らしさを取り戻そうと焦って、マスコミに担がれるまま、流行にのって芸能人とつきあおうとしていた。その軽薄さ、傲慢さは明らかに飛雄馬の似合わない。しかし、色恋沙汰に縁のなかった飛雄馬には、つい気を許すに十分な相手であった。そのまま、流れていれば飛雄馬の野球人生もダメになっていっただろう。

ここでも梶原一騎の「芸能人など男の成長にはプラスになるはずがない」というすばらしい偏見が現れている。まあ、梶原一騎のコンプレックスの裏返しであろう。実際、梶原一騎はその後、数多くの芸能人と噂されまくっていたのだから。まあ、そういう下世話な話はさておいて、男も女も人間としての成長は、相手次第という所がある。そして相手の成長は自分の成長につながる。人と人との関係は循環しているのだ。

戦争に負け、大日本帝国が崩壊し、強圧な権力への抵抗運動から、反動でいきすぎて、「国のため、公のため」から「自分のため」に猛烈な勢いでばく進したのが、戦後の歴史といえよう。未だに、国家とか公というとアレルギー反応をしめす輩が多い。何を恐れているのだ、いったい。もはや特高もいない公安も赤がりをしているわけではない、普通に生活していて国家反逆罪で捕まるわけでもない。むしろ、反権力だけを目標にレジスタンスのように言動するのはバカバカしいだろ。むしろ、いきすぎた自分、肥大した自分を、もう一度社会の中の自分、公としての自分にシフトしなくてはいけない時代だろう。「美しい国、日本」とか言うだけで、戦後に逆行するとか騒いでいる阿呆は、頭を使うのがよほど嫌らしく、反射レベルで反応しているようだ。昭和30-40年代生まれの大人は、みんなそこそこ高い教育を受けて、まともに物を考える力があるだろう。黙っていたら大日本帝国に逆戻りするはずはないではないか。

公か私か、国家か個人か、戦争か平和か、そんなどっちかしかないような話にするなよ。どっちも大事だろう。しっかりした私を持った公、公を大切にする私、そのバランスだろう。飛雄馬の初恋からどこまで話が広がるのか、いや、書いている内に何を書いているのか忘れてしまっただけだ。

これから飛雄馬は野球をとるか恋をとるか、私か公かの選択を迫られ、苦しむことになる。これこそが人間らしさだ。野球人形は迷わず野球をする、人は迷って野球をする。その弱さが強さであるのだ。別に派手に何か変わったことや、流行にのることが人間らしさではない。むしろこういう地をはうような葛藤こそが真の人間らしさであり、人を成長させる原動力なのだ。悩め、人間よ!ってとこかな。