社会科学上の不満

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常岡龍造大佐なる人物

2017-07-07 00:00:56 | 社会常識と教育
ゾルゲ事件(1941年、ドイツ人でソ連のスパイ)の陸軍の責任者であった、常岡龍造氏。 陸軍大佐で、当時上官だった東条英機と大喧嘩をし軍から去った。当時陸軍大佐は日本で何人いたのか?そう数十人もいなかった。東条英機の「心情が気に入らなくて我慢できなかった」そうだ。開戦の数カ月前である。


ゾルゲ

その後大政翼賛会の中心メンバーとして活躍、戦後は危険人物としてGHQにより首都追放となる。サンフランシスコ条約締結後帰京、戦後正統派右翼の中心的人物となる。出光石油の出光佐三氏らとも親しい、本物の右翼。在日のエセ右翼とは異なる。
1970年代には他界されていたが、ご親族が身近にいた為、色々な遺産とも言うべき資料を拝読させていただいたり、お話を聞く機会があった。
氏は、同様に近衛文麿公爵も「華族のくせにアカ(共産党)に被れて」とおっしゃていたそうだ。
そう言えば、米国との戦争を決断した近衛文麿公爵の側近には、朝日新聞の尾崎秀実というソ連のスパイがいた。
尾崎秀実
当時、荻窪の近衛文麿邸(萩外荘)が官邸みたいな状況だったようだ。そこに朝日新聞の尾崎秀実などと言うソ連のスパイが浸透していた。
ゾルゲ事件で当然逮捕されるも、脇の甘い近衛文麿に対する怒りは治まらない。
この当時の朝日新聞は、現在の左翼反日新聞とは異なり、「一億総火の玉」等と戦争を煽りに煽る、極右新聞社であった。が、尾崎秀実みたいなスパイを抱える脇の甘さは、左翼新聞社となった今も伝統のようだ。
この当時から常岡氏は朝日新聞と反対の事が正しいとの認識があったようだ。
「戦争を煽り国を誤らせ、今は国防を批判し国を誤らせようとしている」と普段無口な氏であったが、時たまおっしゃておられたそうだ。
「帝都の防空が貧弱で、対空装備の充実」を現役時代に進言するも、「恐れ多くも帝都上空に敵を侵攻させることなどあってはならない」との精神論だけで進言を退けられたそうだ。その反対論を支持したのが朝日新聞や東条英機派の連中だったそうだ。
常岡龍造氏が、整備した奄美要塞は可也強固で米軍は被害の大きさなどシュミレートして占領対象から外したようだ(ご親族が思っているだけかも?)。何れにしろ、反東条英機派の中心的人物であったようだ。
外国語統制を行う東条英機政権に対し、「何故ゼロ戦なのか?レイ戦ではないのか?外国語統制しているのだろ?ゼロは外国語だ」と叫ばれていたそうだ。
意外に反東条英機派の方々も憲兵や特高の逮捕や拘留もなかったそうだ。監視はされていた様だが。
基本的に戦後常識になっている、言論弾圧等はスパイとアカ(共産主義)が主だったようだ。当時共産党は非合法組織だから仕方がない。何故って、当時の共産党は暴力革命を目指していたからだ。レーニン主義とは暴力革命の一つの方法である。
また、スパイはハーグ陸戦軍縮条約の適用外であり即処刑が世界の原則で捕虜の対象外だ。現在の日本はスパイ天国と揶揄されているが。
常岡龍造氏が軍に残り、スパイ活動を取り締まっていれば環境も良くなっていて(スパイが少なくなって)、「情報戦でも日本はもう少しマシだったかも」ともおっしゃていたのは常岡龍造氏の陸軍士官学校の後輩だった河野公一元大本営参謀本部情報課課長(我社の相談役)だった。
コメント (1)
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