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母の伝記 その4

2017-10-19 19:40:00 | 日記

私の一家が小平に越したのは、母が36歳の昭和32年7月だった。
都営住宅の抽選に当たったのだ。といっても競争率は0.9倍であり、要するに先着順である。
木造の戸建で、間取りは2K、家賃は月2250円だったが、数年後400円の値上げに反対運動が起きたのだから隔世の感がある。

小平は明大前よりさらに田舎だった。駅前には墓石しか売っていない。
他にはヨロズ屋が一軒のみ。買い物は西武電車に乗って次の次の田無(たなし)まで行くという生活。
バスは通っておらず、雨の日などウチから駅まで15分の道のりに誰も人がいなかったことも。
もちろん北多摩郡小平町で住所は大沼田新田だ。江戸時代と変わらない。

私には同母兄弟はいない(はず)だが、できる可能性はあった。
というのは母は昭和35年頃流産したことがあったので。

その小平も昭和37年の市制施行とともに大住宅地に変貌した。
今や道路は隅々まで舗装され、駅前にはスーパーマーケットやバスターミナルがある。
私が戦争ごっこをして遊んだ裏山は昭和42~3年頃滝山団地に変わってしまった。

母は結婚後ほとんど専業主婦として過ごした、
どこかにパートで勤めたなどの記憶はない。ただ単発で何かの仕事を引き受けたことはあったかも。

あの家で想い出すことといえば、昭和38年だったか、はらたいらが「僕たち結婚しました」とあいさつに来たことぐらい。
豊の姪が夫人なのだ。

私が昭和47年に病院に就職したあと、昭和50年に豊の定年退職の日がやってきた。
退職金で、仲間と建てたのが現在の上田市の家である。
当時武石村といった。

敷地は100坪と手ごろで、木造2階建て。

この家に母は53歳から現在まで40年以上住んでいる。

この直後、大事件が持ち上がった。
満洲残留孤児の問題がにわかに脚光を浴び、テレビでは連日、対象者の顔と名前が報道されていたが、
ある日、豊はそれを見て
「俺の娘だ」とポツリ。

さあ大変。失踪宣告されたはずの人が生き返ってきたのだから、母には寝耳に水。
いろいろあって、豊の娘・由紀子は帰国せず、その息子2人が上田にやってきた。
昭和55年ごろのことである。




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