レポート 終わった ので うどん食べに いってきまふ(゜∀゜)ノワァイ
( ゜д゜)ハッ!DVD返すために外出るんだった
いつの間にかご飯が第一項目に。。w
なんか。。なんとなく。。
あげてますけどすっとばしちゃってくださいw
お題は任意の都市(私は福岡にしました)と視覚/聴覚文化の関係について
あ れ なんか 私の レポ ず れ て な い ?(∵)…
まぁいいかー( _o_)モームリー
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裂かれるを選ぶ都市 ハレとケに己を分ける都市空間・福岡
放生(ほうじょう)を行い此の世代を祝おうと云う
こんな折に何ともまあお誂え向き
こよなく愉しいよ
今日はなんだか違うの
少しも恐くない
実際の祭に魅了され
綿菓子
水笛
見知らぬ他人の汗
桃色雛や見世物小屋の嘘
全てが初めて
今日がもう来ないことを知ったのも初めて
林檎飴が紅い
そして私は生きている!
今日現在を歩いているんだ
何も無い私だって融け合っているのさ
嗚呼
東京事変『御祭騒ぎ(2番)』
都市。という空間。それは一体どのような空間だろうか。ひとつの建物より強固でなく、大きな世界よりも曖昧で、しかし私たちは線を引く。ここは横浜だと、そうだ、京都へ行こう。と。
京都が、雨で、女が一人で、失恋して、たどり着く場所ならば、私の故郷はどうだろう。
私の故郷は九州、福岡だ。福岡を出、横浜に住みつきすでに3年。先日、2日だけ福岡に戻った。ちょうどお祭りの時期だった。
冒頭で引用した、東京事変『御祭騒ぎ』の歌詞はまるでこの福岡の祭り、放生会(ほうじょうえ)の歌のようだ、と聞くたびに思う(作詞・作曲椎名林檎自身が福岡出身なこともなにか関係あるかもしれない)。『今日は何だか違うの』
私にとっての福岡は、祭りであり、屋台であり、幻想のように今を生きようとする都市なのである。
幻想のように生きる、とはどのようなことか。
御祭というのは限られた期間に行われるもの、日常とは違う日、つまりはハレの日である。福岡は、このハレの日、口をポッカリとあけて待っている。御祭の当日に浴衣をきて遊びに行く人々を、そして彼らに“福岡”を確認されるために。そのために露天は嬉々と並び、林檎飴は紅くなり、参道は御宮へと人々をいざなうのだ。
それはけっして日常ではない。その場限りの幻想。ご存知だろうか。福岡の中州に並ぶ屋台は夕方バイクにひかれて夜へと向かうのを。(すべてがそうではないが)御祭の後のように屋台は毎日片づけられ、消え失せているのだ。そしてまた夜という幻想にやってくる。
しかして都市が指すのは空間である。空間とは、時間と場所を包み、その大半は私たちが日常と呼ぶもので構成されるはずだ。では福岡はどのようにして、たった刹那のハレの日の匂いをまといつづけているのか。
谷川俊太郎の詩に 『旅1』 という詩がある。
美しい絵葉書に
書くことがない
私はいま ここにいる
冷たいコーヒーがおいしい
苺の入った菓子がおいしい
町を流れる河の名は何だったろう
あんなにゆるやかに
ここにいま 私はいる
ほんとうにここにいるから
ここにいるような気がしないだけ
記憶の中でなら
話すこともできるのに
いまはただここに
私はいる
私は、ここに、ほんとうにいる。それゆえここにいるような気がしない。旅でやってきた町でさえそうなのだ。ならば、そこに暮らす人々にとってはなおさらだろう。
私たちは、今を、空間というものを直接的にとらえることができないのだ。もっと突き詰めて言うなら、空間の中存在している限り、私たちは空間の部分集合となる喜びを捨て切れるわけがなく、空間から1歩2歩と、少し離れて振り返った“男”の眼にだけ、空間という都市の色が映るのである。
『そうだ、京都へ行こう』というキャッチフレーズが、京都に息づく人々に魅力的的に響くはずがない。彼らにとって京都は自分という輪郭を引き延ばした先にあるのは明らかで、それは捉えることのできない内側に等しい。それはどの都市にも、どの都市に生きる人々にもあてはまることだろう。
しかし、京都と福岡の違いは、その時間を含む空間の遊離加減にあると、私はひそかに確信している。京都の祭りのほうが厳かで、伝統もあるだろうということはもちろん承知。だが、京都に暮らしたことのない私が感じるところ、“遊離”しきらない都市なのだ。京都は。完全なる“女”の都市。京都は京都でありつづけることで、他の都市と線をひき、また線をひかれている。その理由としてもっとも影響力の強いものは、あちこちに現在系で生きている寺の数々や街並みといたものだろう。それらは毎日京都を京都たらしめている。毎日人がやってきては、踏みしめ、京都の空気を喰って帰っている。
それにくらべると福岡の空間がまるで真っ二つのように2つにわかれているのがよくわかる。祭りは直前までその踊る鼓動を隠し、終わってしまえばあとかたもなく、参道はただの犬たちの散歩コースになって黙りこむのだ。
今、御祭で売られているおはじきがとてもとても人気で、夜中から並ぶ人が出るほどだと聞く(平成一九年に販売されたものの写真)。博多人形と同じ工程で複数の職人さんが作る小さなおはじき。我が家もそうだが、購入したこのおはじきを常時飾る家庭は少ないのではないだろうか。木箱に入った色とりどりのこの一つ一つを、ふと取り出し、眺め、並べ…また木箱へと戻す。福岡という都市は、その刹那に酔うために己を2つに裂いているようだ。さらにハレの日へと人々の視線をむけることで、己の外側に“男”の眼をつくり、福岡という唯一の都市としての輪郭をひかせている。ひかせることに成功しているのではないか、と私は想う。
幻想のように生きる。幻想をまとっている己に酔う空間を、福岡は別の視点からいつも見続けてながら、毎年祭りの準備は進められ、屋台ではラーメンがつくられるのを待っている。
ハレの日と対するのはケの日。日常である。福岡は己を、ハレとケの2つに裂くことでハレという己に酔い続け、ケという日常から幻想を射抜くのだ。
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わはーえらそーー(;∇;)ダレダヨwww
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