先日、私が購読している仏教の通信講座でおすすめの映画があると言うので、住居のある伊豆高原からラゾーナ川崎の映画館まで観に行くことにした。
上映している映画館が限られているため、電車で所要時間3時間の道のりではあるが、読書を楽しみながら行ってみた。
映画は、「なぜ生きる-蓮如上人と吉崎炎上-」という生きる目的を論じた原作のアニメーション映画で、原作は発売15年を経過しても老若男女を問わずいまだに人気があるとのことだ。
映画館のチケット売り場のカウンターで題名を係員に告げると、少し離れたところに居た初老の女性から、”もし宜しければこのチケットをお使いください”と言われ、前売り券を差し出された。
訳をお聞きすると、一緒に観る予定だった友人が急用で来れなくなったとのことであったので、有り難くチケットを頂戴して入場した。観客はあまり多くはなく、殆どが年配の人たちであったような気がする。
蓮如上人の声優は、初めてアニメの声優に挑戦したと言っていた里見浩太朗さんが勤めていた。俳優生活59年の年輪は、とても良く心に響くものであった。
映画では、生きる目的は幸せになること。絶対的な幸福を得るには、仏法をよくお聞きなさいと言っていた。
ここで、後日送られてきたシナリオブックに書かれていた仏さまについての解説があったので、書いてみることにする。
仏教では、悟りに52の段階があり、その中で最高の位である仏覚(仏の悟り)を開いた人だけを「仏」という。まだ、仏の悟りに向かって進んでいる途中の人は、「菩薩」と呼ばれる。
「仏」と「如来」は同じであり、真如(万人を幸福にする真理)を体得して、この世に来た人を意味する。
大宇宙には数え切れないほどの仏が存在しているが、地球上に現れた仏は釈迦一人だけである。
その中でも、あらゆる仏(如来)の師だと説かれているのが「阿弥陀如来」であり、釈迦も弟子のひとりである。
なぜならば、釈迦を含めあらゆる仏から見放された人でも「阿弥陀仏」だけは、助けることができるからであると説かれており、その力は無限で、大宇宙の無数の仏が絶賛していると釈迦は言っているのである。
私が思うに阿弥陀仏は、全能の神と言うところだろうか。
話は変わるが、平家物語の祇園精舎の文頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
作者不明のこの文は、仏教の因果観・無常観を基調とする叙事詩である。この中の沙羅双樹とは、釈迦が入滅したときに傍らにあった二本の沙羅の木で、その花は一夜限りであり、椿の花のように花びらを散らすことなく落下するらしい。
我々の人生も大宇宙から見れば一瞬の出来事なのであろう。まさに沙羅の花の如きである。
その一瞬の人生を彩るのは自分自身に他ならないのであろう。