昭和天皇・皇后の行幸啓と御用邸滞在

2017年05月14日 | 公務

以下は、昭和43年と48年の昭和天皇皇后の行幸啓表である(出典:宮内庁要覧)。
(行幸とは天皇のお出ましのこと、行啓は皇后、皇太子、皇太子妃のお出まし)


昭和43(1968)年



昭和48(1973)年
※「外国交際」というのは、外国元首が国賓として来日された際の国際空港までのお出迎えとお見送りなどのこと。


このように、昭和天皇の外出というのは、極めて少ないものでした
激務だの、病気をおしてのご公務だのと連日出歩く平成とは隔世の感があります。

昨今の異常なマスコミ報道を基準にすれば、昭和天皇など間違いなく「おサボり天皇」であり、更に香淳皇后に至っては、「公務が少ないから出ていけ」とでも言われそうですが、香淳皇后は生まれながらの皇族(久邇宮良子女王)です。


同資料にある、昭和40年代から50年まで(S41~S43、S46~S50)の外出状況を見てみると、戦没者追悼式などの国民的重要式典や、国体、植樹祭等地方への行幸啓を含め、
天皇の1年間のお出ましが、大体、年に10回台の半ばから20回台後半で収まっていたようです。
そして、香淳皇后の外出は更に希少なもので、この後、昭和53年(1978年)に腰を痛められて以降、行啓はなくなり、昭和天皇お一人が殆どとなりました。



そもそも憲法が定めているのは、天皇(またはその代行者)が行う国事行為のみです。
学者の中には、天皇の公務というのは、厳密にこの国事行為に限定すべきで、それ以外は私的行為とすべきと考える人もいます。


当時は基本的に、国事行為としての宮中行事や儀式、或いは閣議決定した書類への署名、押印といった宮殿内で行われる公務が主体で、外出(行幸)はそれに準じたものという位置づけであったようです


そしてその行幸も、国事行為に関連した「国会開会式」(憲法上、国事行為と定められているのは「国会を召集すること」)や「国賓の接遇」(憲法で定められている国事行為は、「外国の大使及び公使を接受すること」)など公的性質が強いと考えられるものが中心で、平成の今上夫妻のように趣味的で私的色彩の強い「おでかけ」を「公務」と呼ばせ、それを何十回も繰り返すというのとは全く異なるものでした。



また、当時はまだ交通事情も悪く、現在の1,2泊の地方行幸啓とは異なり、1週間ほどかけての地方訪問も多く(上記昭和43年の福井国体も、48年の宮崎での植樹祭も7泊8日)、地方行幸啓が、高度成長期における各地の道路はじめインフラ整備を推し進める機会となっていたのは周知のことでした(そのことが良いかどうかは別にして)。

それから園遊会も、昭和40年代当時は、定例行事とは考えられていなかったことがわかります。


もちろんこの外出回数は、人々が自由に移動する現代社会において、あまりに少なく現実的とは言えないでしょう。
昭和の天皇皇后は「お忍び」すらなく、上記の外出を除けば、皇居か御用邸滞在でした。
特に香淳皇后は、もう少し気軽に外出する機会があれば、認知症の発症や進行状況も多少は違ったかもしれません。

しかしそうした時代・状況の変化を考慮しても、平成の天皇皇后は、どうやって分類・集計したらよいか困惑するような多種多様で、膨大な公私混同の外出があり、特に鑑賞系の外出などは、年によっては昭和の10倍を軽く超える異常な状況となっています(特に皇后)。
また海外旅行も、昭和から平成の現在に至るまで、毎年のように独占的に行きまくっています。

(昭和の皇太子時代は夫妻で22回に及んでいる。昭和天皇・皇后は2回。)





◆昭和天皇・皇后の御用邸滞在◆

「夏季には、両陛下おそろいで那須御用邸においでになり、約2か月の間お過ごしになることが多い。ここでは、付近一帯の植物をお調べになり、その分類や分布の状態などの御研究に力を注いでおいでになるが、これらの結果をおまとめになって、那須の植物に関する御研究所編の図書が出版されている。」

毎年数回、両陛下お揃いで須崎御用邸においでになり、約1週間ほどご滞在になっている。須崎では、船にお乗りになって、付近の海中の生物を御採集になり、これを分類調査されている。」


と、「宮内庁要覧」に昭和40年代からずっと、ほぼ同じ文言で繰り返し書かれている。
その他、葉山御用邸滞在などもあり、一年のうち4分の1近くは、東京を離れていたことがわかる。


※昭和の皇太子夫妻の軽井沢バカンス※

同様に、昭和の皇太子夫妻(明仁・美智子夫妻)も、夏には軽井沢での長期静養を行っていたのはあまりに有名だ。

ざっと数年分を古い写真集等で調べてみても、1カ月半から長くて2カ月近く、西武グループの「千ヶ滝プリンスホテル」(昭和の皇太子一家の為だけに使われていた)での避暑が恒例だった。

私が子供の頃、テレビのワイドショーなどで毎夏大きく取り上げられ、旧友たちとのテニス、紀宮とのお出かけ、実家の正田家別荘との行き来等々、定番の皇室ネタだった。

しかし、平成5年の相次ぐ美智子皇后批判報道で、民間ホテル独占借り上げを批判されて以来、こうした軽井沢での静養は無くなり、年間通して御用邸を数日ごとに順繰りにまわる、という状況に変化した。
したがって、この年6月に結婚した雅子妃には、残念ながら優雅な軽井沢バカンスがただの一度もない(彼女が2004年の早春に軽井沢の実家の別荘で過ごしたのは、療養のためである)




追記:昭和50年の行幸啓表など(宮内庁要覧)(拡大します)




「近代名士之面影」と公文書にみる、海軍中将 江頭安太郎

2017年05月14日 | 雅子妃の系譜


大正初期に発行された「近代名士之面影 第壱集」(矢部信太郎編 竹帛社 大正3年)という本があります(画像の出典 国立国会図書館デジタルライブラリー)。

文字通り、明治期に活躍し亡くなった各界名士の人生とその肖像写真を掲載したもので、伊藤博文や小村寿太郎、乃木希典をはじめ様々な分野で世に貢献した人物の生涯が描かれています。

当時は一般にまだ紙質が悪く、このような上質本は貴重で、特に歴史的人物の写真が多数掲載されていることから、この本自体がそのまま「日本名家肖像事典6」となっています。

この本に、雅子妃の曾祖父の江頭安太郎氏も掲載されています。



(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/147)
(「舊佐賀藩士」、「舊藩主鍋島侯」の「舊」は「旧」の旧字体です。)




文中には、旧佐賀藩士に生まれ、旧鍋島藩主に選ばれて(鍋島侯爵の貢進生)上京、攻玉社から海軍兵学校に進み主席卒業、入省後の昇進、数々の要職歴任と、その48年の生涯が記されています
最後に、「病気危篤の旨、天聴に達するや、特に勲二等瑞宝章を授けらる
とありますが、この「天」というのは大正天皇のことですね。


この最期の叙勲の際の海軍省、内閣、宮内省の各公文書を公文書館のデジタルアーカイブで見つけることができました。
首相は桂太郎、海軍大臣は斎藤實
(以下の公文書画像の出典は、国立公文書館アジア歴史資料センター)




特に印象的なのは、江頭氏危篤に際しての斎藤海軍大臣から桂首相への文書で、



江頭氏について、
頭脳明晰 志慮周密にして海軍兵学校及海軍大学校ノ卒業成績は洽(あまね)く斎輩(同級生、同輩)に超絶し 夙(つと)に俊秀をもって聞ゆ」とあり、行政上の文書で、これほどの表現はちょっと珍しいな、と思いました。「斎輩に超絶し」ですからね。

また、「海軍制度整理の要衝に當り」「その激職を全うして貢献する所多く功績顕著なるを認」ともかかれており、制度改革の要職に就いていたこともわかります。


実は、まだこの方が若い大尉時代の公文書(明治29年)に、肺のご病気で転地療養のための休養を上司の山本権兵衛に願い出たものがあり、あまりお丈夫ではなかったはずですが、そうした持病がありながらも、その後も全く昇進や出世に響かず要職を歴任し続けているのには驚かされます。

(江頭氏が、更に研究・学問においてもその頭脳明晰ぶりを発揮している別の公文書を見つけたので、またそれは別途書きたいと思います。)

(※参照:明治33年、江頭安太郎中佐の「天皇機関説」?


江頭氏は若いころから、海軍大将はもちろん海軍大臣も確実と言われた逸材でした。
上記の書籍や資料からも、そうした貴重な人材を40代の若さで失ったことを惜しむ様子がうかがえます。

江頭氏については、多くの官報や公文書は言うに及ばず、その立場上当然のことですが、当時の新聞や名士を集めた人名録等にも記事や写真を見つけることができます。

現代人名事典 明治45年刊 古林亀治郎編 中央通信社 国立国会図書館)


(軍人であることへの配慮があったとはいえ、上記の「近代名士之面影」などは、当時を代表する有名な本ですし、明治大正期の書籍や公的資料もあるのですから、ご成婚の際、本来もっと引用・紹介されてしかるべきものです。)



それから、この方の兄の範貞氏も、近代司法草創期の判事(裁判官)として奉職なさっています。明治期の官報や官員録(司法省)の記載から、主に東北各県を中心に地方裁判所の裁判官を務めておられたことがわかります。

範貞氏も、物故者名鑑の「大正過去帖」(東京美術発行)によれば、
「大正5年3月17日午前11時、東京広尾の自邸に逝去。」とあり、兄も50代ではありますが、弟同様、早逝と言っていいかもしれません。



この方々は、土着の故郷を遠く離れて都会で進学や就職、そして命じられた赴任地で家庭生活を営み生涯を終える、という現代的なライフサイクルを、一般平均よりも2世代から3世代早く迎えています。
秩禄処分後、旧藩の後援などを受けて上京できた優秀な士族の子弟の典型例なのでしょうが、広い世界への雄飛とはいえ、苦労も多かったはずです。
江頭安太郎氏が上京して、攻玉社で寮生活を始めるのは10代半ばですからね。

いろいろ古い資料を見てみましたが、職務内容や任地が記載されている公文書を読み、官報の「叙任及辞令」の欄に小さな文字で記された役職と氏名を発見・確認するたびに、その方の人生の風雪が偲ばれ、とても厳粛な気持ちになりました。