白骨の道「下野清徳の回顧録」

戦後復興に命を懸けた公務員の生涯を赤裸々に紹介します。メール:kanran@i-next.ne.jp

定年退職して故郷に帰ってきた・写真は昭和45年炭鉱閉山の別れのパレード

2009年04月18日 | Weblog
我が世知原町は、昭和45年の炭鉱閉山で有能な人材が転出して町は崩壊した、そこに高度経済成長時代に都会に出て行った人達が、定年退職して帰ってきた。そして町財政が破綻した。ところが、町長と職員が佐世保市との合併に反対した、この合併に反対した一部の町民は、佐世保市と合併した今でも、旧世知原町に立てこもって佐世保市行政に抵抗している。昔の村は長老が治めていたが最近は婆天下である。年老いてよろけた男が勝てるすべもない。わが町は佐々町や鹿町から嫁に来た家が多い、この若嫁達が成長して夫を調教している、この男達は今でも「鹿町や佐々町と合併する」と叫んでいる。昔は「雌鳥が鳴けば国が滅びる」と云われたが、現在は「熟年妻達が鳴けば町が滅びる」のである。年老いた男達よ立ち上がれ。私は、公務員を42年間勤めその後区長を10年間務めた、今後は、老人クラブのお世話をする事になつた。私の人生訓は「散る桜・残る桜も・散る桜」武士の辞世の句である。今世知原町は世代交代の時期、あとわずかの人生だ楽しく生きたいものである。写真は、昭和45年飯野炭鉱閉山の年小学校卒業生がお別れのパレードをした。閉山で散り散りになる人々や、友人との別れを惜しんで、炭鉱住宅街をこのように回ったのです。(ここは当時の川向、現在町内連合会長が住んでいるかじか区です)

労組のニューピース楽団 昭和29年頃

2009年04月14日 | Weblog
ニューピース楽団です、労組の若い人達によつて編成された楽団。松浦病院の患者慰問風景です。この年の昭和29年7月23日に大集団赤痢が発生しました。この司会をされている当時の青年は、私の好きな三区のお爺ちゃまのようですが・・当時松浦病院に勤めておられた、北島万七さんが撮影されたものです。

平家の里・開作農村風景 昭和25年頃

2009年04月04日 | Weblog
この藁屋根農家の横を通って、佐々川上流の向こう岸にあるに通う農道が在る。その道路の入口には、蝋燭の入った提灯と雨傘が置いてあった。谷向かいのから帰ってくるときに提灯をこちらに持って来たのです。左上遠くに見えるのが国見山です。(北島万七氏撮影)

あなた送られる人 わたし送る人

2009年04月01日 | Weblog
2007.05.11日に元世知原町役場職員のOB会がありました。私は一人でその写真を見ています、妻は昨日から四国巡礼に行きました。同級生の彼は送られてあの世に行ってしまった。送られる人よりも送る人の寂しさは募るばかりなのです。
彼は穏やかな人でした、あの世からこの写真を見て懐かしく思っていることでしょう。彼女も昔は可愛い娘の子でしたが・・・