わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第8回 ―ピノキオピー 「ぼくらはみんな意味不明」― 渡辺 玄英

2018-01-14 03:04:50 | 日記
 年に数回、ラジオに出演する。九州北部と山口エリアに放送されている『こだわりハーフタイム』(RKB、日曜)という番組。二人のメインパーソナリティと一緒に、約二時間半にわたって曲をかけながらトークをしている。
 去年12月に出演した時の番組テーマは「最近の若者の歌」だった。プロデューサーからの依頼で事前に五曲選曲することになり、あれこれと探しているときに衝撃的な曲と出会うことになった。それをここでは紹介したい。
 楽曲名は『ぼくらはみんな意味不明』(2017年作品)。ボカロ(ボーカルアンドロイド)で、制作は「ピノキオピー」。YouTubeで聴く(見る)ことができる。曲も映像もいいけれど、歌詞(作詞ピノキオピー)には猛烈に感心した。というより、これは自分が書いたんじゃないのと思えるくらい、これまで渡辺が書いてきたモチーフやセカイ感がそこにはあった。むろん、渡辺の詩とは違うし、一部のコトバが重なることは不思議じゃない。でも、これは自分が書いた気分になるくらい同調できるし、うまいこと表現しているなと脱帽するところが多々あって、とても複雑な愛着を感じざるをえなかった。
 「夜が明ける 朝目覚める 首痛める この身体に自分がいる/君としゃべる 飯を食べる 服を着てる そのすべてが不気味である」と、歌詞はまず自分の存在と身体のズレを表明する。
 その後、日常生活の違和感を語り、存在の名称と本質に必然などない、といったフレーズが出てくる。「猫の名前は なんとなくタマで/犬の名前は なんとなくポチだ」。また曲後半の、「太郎の名前は 今でも太郎で/次郎の名前は 今では花子だ/時間は時間は なんとなく通り過ぎて/ゴミ溜めで埋もれたまま 星空を眺めてるよ」というクダリは本当にうまい。シニカルに様々なものを諦めてしまった心理が伝わってくるではないか。
 自分が書いた気分になれるところも紹介しよう。「月が上る 星が暉く/虫が跳ねる それを見てる/あれいつから/ここにいるんだっけ/いつまでここに/いられるんだっけ/何物にもなれないままで」。この空虚な感覚を表現した部分は、似たようなこと何度も書いたよな、と親近感をおぼえた。逆に、これはヤラレタと唸らされた部分を。「ぼくらはみんな意味不明だから」というフレーズのリフレインの後で次のように歌われる。

 それでもぼくらはトンネルで息を止める
 折り紙で鶴を折る
 肉球を触る
 横断歩道の白い部分だけを踏む
 それでもぼくらは間違ったことをする
 正しいと思い込む
 頭いいからわかっていた
 また分かった気になっていたんだ

 生きてる意味も 頑張る意味も
 ないないない ないないない
 ないないないないないないないないない
 それでもやるしかない


 感動した。ピノキオピー、すごいじゃないか。とりわけトンネルのクダリからの数行は自分には書けなかったと素直に思う。そのうえ、しっかりと現在という時代の空気感を掴んでいるところが素晴らしい。ぼくらはみんな意味不明に生きるしかない。未来が壊れてしまい、そこに希望を託すことは無理になってしまった。でもそれでも、ひとまずここに生きるしかない、というのだ。
 同じ時代の知らない人物が、何の接点もないのにシンクロしていた。その事実にうれしくもあり、そのすぐれた表現に羨望もあり、複雑な共感を抱きながら今に至っている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿