愛憎詩、ということだが、これはなかなか難しい。相手が人であれば、付き合いの中でそのようなことも起こるかと思うが、詩でそういうものが果たしてあるだろうか。かつては大好きだったが、今では無性に腹が立つ詩。あるいは、好き好きでたまらないが、同時にそれと同等の強さで憎くもある詩。当方が詩に向き合うときは割合単純なので、あ、いいなあ、と思うか、もしくは、どうでもいいや、と思う以外にあまり選択肢はない。もっとも愛憎まではいかないが、ややそれに近いものがなくはない。
かつて無性に好きだったのだが、今読み返すと、妙に気恥しい、という詩である。それはその詩に責任があるのではなく、もっぱらこちらの側に問題がある。詩を読み始めた若い頃に熱中したものの、少し詩に慣れてくると、果たしてこういうものにいつまでも熱中していていいのか、と思ってしまうわけだが、ここには「現代詩」という観念形態の介入がある。
朝がときどき
うつくしすぎると
ぼくはやたらにはりきるのだ
それは たぶん
めざめの裏側に
大きなお荷物を
おろしてきたせいだ
そんな時
ぼくの眼は
かみそりのように光っている
と信じたい なぜなら
ぼくはとても遠くから
きみをすばやく見分けるから
渡辺武信の「恋唄」という詩の冒頭だが、なんというかっこよさだろう。これに続く二連目の冒頭は、
行こうぜ
遠くとざされた
やさしいまぶたまで行こうぜ
となっている。「遠くとざされた」、しかも「やさしいまぶたまで行こうぜ」というのである。この詩を現代詩文庫で読んだのは、たぶん十代の終わり頃だと思うが、このかっこよさには一発でやられてしまった。しばらくは、この「めざめの裏側に/大きなお荷物を/おろしてきたせいだ」とか「遠くとざされた/やさしいまぶたまで行こうぜ」という詩行に匹敵するものが書けないかと、しきりに思っていた。
今あらためて現代詩文庫の『渡辺武信詩集』を読めば、そこに掲載された詩編が、必ずしも単純な青春の叫びみたいなものでないことは分かる。ところどころ、大岡信や岩田宏などといった先行詩人の影が仄見えるし、先に引用した詩行にしても、あえて歌謡曲風にしているのではないか、という詩人の演技のようなものが感じられる。
しかし、当時はそのままにこれらの詩行を受け入れてしまった。その受け入れ方が今はどうしようもなく照れ臭い。同じ頃に知った詩人で、今でも反復して読み返す詩人がいる一方、いつのまにか渡辺武信からは遠のいてしまった。これは渡辺武信の詩の問題ではなく、当方の詩の受容の変遷に関する問題である。
世界は唐突に
ぼくらの水晶の街々へ
落ちるように運ばれてくるものだ
貨物列車に花束を積み込み
空ののどを金色に塗り固めて
はっとしたぼくらはどこにいても
思春期のグローブを構えてしまう
いつのまにかひとりで
引力の球場に立っているのだ
投げ返された世界を受け止めるために
これは、当時渡辺武信にかぶれていた自分が書いた詩の冒頭。もちろん、ここに述べた青春はみんな虚偽で、どうしてここまで嘘をつく必要があったのかと腹立たしくなる。自分の話になってしまって恐縮だが、結局、愛憎にまで発展するのは、失敗した自らの詩以外にない、ということなのであろう。
かつて無性に好きだったのだが、今読み返すと、妙に気恥しい、という詩である。それはその詩に責任があるのではなく、もっぱらこちらの側に問題がある。詩を読み始めた若い頃に熱中したものの、少し詩に慣れてくると、果たしてこういうものにいつまでも熱中していていいのか、と思ってしまうわけだが、ここには「現代詩」という観念形態の介入がある。
朝がときどき
うつくしすぎると
ぼくはやたらにはりきるのだ
それは たぶん
めざめの裏側に
大きなお荷物を
おろしてきたせいだ
そんな時
ぼくの眼は
かみそりのように光っている
と信じたい なぜなら
ぼくはとても遠くから
きみをすばやく見分けるから
渡辺武信の「恋唄」という詩の冒頭だが、なんというかっこよさだろう。これに続く二連目の冒頭は、
行こうぜ
遠くとざされた
やさしいまぶたまで行こうぜ
となっている。「遠くとざされた」、しかも「やさしいまぶたまで行こうぜ」というのである。この詩を現代詩文庫で読んだのは、たぶん十代の終わり頃だと思うが、このかっこよさには一発でやられてしまった。しばらくは、この「めざめの裏側に/大きなお荷物を/おろしてきたせいだ」とか「遠くとざされた/やさしいまぶたまで行こうぜ」という詩行に匹敵するものが書けないかと、しきりに思っていた。
今あらためて現代詩文庫の『渡辺武信詩集』を読めば、そこに掲載された詩編が、必ずしも単純な青春の叫びみたいなものでないことは分かる。ところどころ、大岡信や岩田宏などといった先行詩人の影が仄見えるし、先に引用した詩行にしても、あえて歌謡曲風にしているのではないか、という詩人の演技のようなものが感じられる。
しかし、当時はそのままにこれらの詩行を受け入れてしまった。その受け入れ方が今はどうしようもなく照れ臭い。同じ頃に知った詩人で、今でも反復して読み返す詩人がいる一方、いつのまにか渡辺武信からは遠のいてしまった。これは渡辺武信の詩の問題ではなく、当方の詩の受容の変遷に関する問題である。
世界は唐突に
ぼくらの水晶の街々へ
落ちるように運ばれてくるものだ
貨物列車に花束を積み込み
空ののどを金色に塗り固めて
はっとしたぼくらはどこにいても
思春期のグローブを構えてしまう
いつのまにかひとりで
引力の球場に立っているのだ
投げ返された世界を受け止めるために
これは、当時渡辺武信にかぶれていた自分が書いた詩の冒頭。もちろん、ここに述べた青春はみんな虚偽で、どうしてここまで嘘をつく必要があったのかと腹立たしくなる。自分の話になってしまって恐縮だが、結局、愛憎にまで発展するのは、失敗した自らの詩以外にない、ということなのであろう。