「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第210回 佐峰 存

2017年04月16日 | 詩客
 今という時間を咀嚼する上で私はまずは詩を読むことにしている。言葉の海を高速度で進み、目を引く表現で止まり、ゆっくりと感じ取る。これらの表現を解きほぐしていくと、語り手のみならず読み手の私にとっても例えば実生活を通じて切実に思っている視点・情景が実のように膨らむことが多い。私の実感として、現代の私達は個々人の主観的な意識の希求と、時代の齎す生き方の間で大きな乖離が生じている時間を共有していると感じる。一昔前まで私達の身体や脳が想定して来なかった徹底的な情報化社会 ― 私達は既に禁断の実を口にしているのかも知れない。そんな時間の中で“生”はどこにあるか。まずは情景豊かな尾久守侑氏の表現を見てみたい。

 《心臓からシュレッダーに吸い込まれ、時間のない夜のなかで眠りから/目覚める。歪んだ液晶がみだりに機密を消去していく。/…/零時の鐘がなる/それからとても/しずかな時間がきて/ホットコーヒーをひとくち/飲んで誤嚥すると/シャツの袖をつかむ/青白い顔の少年が/しきりに絵本をせがみ/聞き慣れぬ物語を/朗読してどれくらい/経ったろうか/最後のページに書かれた/うらみにおもうなよ/と云う台詞をよむとき/僕の口から/みしらぬ異国の言葉がこぼれた
(「ブラック・イン・ブラック」、『国境とJK』、2016年、思潮社)



 長い一日を職場で過ごしてきた。語り手は「心臓」に負荷をかけながら命を削って働いている。際限のない労働時間に密かに蓄積され、密かに「消去」されていく「機密」は語り手の内心だ。「みだりに」という言葉に、技術と共に模られた現在の状況に対する強い違和感を読み取れる。やがて ― 周りの同僚も帰り出したのだろうか ― 語り手が自身のペースで息の出来る「しずかな時間」がやって来て、語り手の無意識が投影する「青白い顔の少年」が現れる。少年は中原中也の作品「幻影」で手を動かすピエロのように絵画的な雰囲気も醸し出しつつ、子持ちであろう語り手の感じている後ろめたさを体現する。いくら立派に働いているからといって、罪悪感がなくなる訳ではない。罪の意識は主観の真空から発生し、それ故の重みを持つ。そんな息苦しさの中で、しかし「言葉」自体は空気穴として希望を孕んでいる。それは最後の拠りどころかも知れないが、幸いなことに「みしらぬ異国」と呼べる程度に広大な領域だ。
 言葉は既にある情景を表すこともあれば、それそのものが情景の細やかな形状を整えることもある。次に取り上げる手塚敦史氏の言葉には、言葉が存在しなかったら存在し得なかったであろう、血の通った心情が流れている。

 《わたしは明日/集まる陶器の皿の上、指さきを這わせ/動物のかたちをしたものの/その中身を知ることとなるであろう/(みずたまり、みずたまり、…)/こちらが乾いていることこそが、ほかの何も映さない/光の微生物へ届けるシラブル、文字/あれは/結露のある向こう/その肩と、黒い肩ひもを露わにする
(「季節のためのエクリ(同棲)」、『1981』、2016年、ふらんす堂)



 この語り手はこれから始まる同棲生活への期待に満ちている。他人という存在は、結局は水分に溢れているのだ。語り手は自身には強い生命を感じ取っていないが、同棲相手の齎す「動物のかたちをしたもの」には明瞭な鼓動を覚えていて、それと対峙しようとする。その「中身」の「みずたまり」に全身で飛び込むこと。それには「こちらが乾いていること」が重要だ。語り手は自らを“負”として捉え切った上で、“正”である相手を肯定し切ることに存在の悦びを見出している。両者を繫ぐのは他でもない「シラブル、文字」で、言葉があるから「その肩と、黒い肩ひも」の瑞々しさに浸ることが出来る。浸透作用 ― 乾いたところに水分はやって来る。自己中心的であることが推奨さえされている現代の資本主義社会において、“他者”という存在の本来的な大切さが示されている。
 手塚氏の表現とよい意味で対照的なのが荻野なつみ氏の表現だ。

 《もうなくしたもののため/ひとはひとの水脈に添う/…/その軌跡のはるか底に/ねむるいくつものあしさき//在ることのかなしみを/くるぶしに溜めて/わたしの舌を待ついのちの/遠い水を巡る/窓のそとには/しずかに/しらじらと/金星が死んでいく
(「水脈」、『遠葬』、2016年、思潮社)



 この表現では、水分が語り手の方にある。語り手は一種の達観のもと、普遍的な「ひと」の輪郭を凝視している。静謐な、幽体離脱した視座から、ひと同士を繋いでいる「水脈」を追う。「いのち」は水に込められていて、天体規模で「死んでいく」世界に唯一の救いのように流れている。生者も死者も違わない形で有している「あしさき」 ― それは生と死の間の身体的な緩衝地帯、架け橋とも言えるだろう。対し「」は生者の湿りを体現する器官だ。語り手は生者として生も死もひっくるめ沈み続ける世界に自ら水分を与えていく、そんな気概に溢れている。
 “わたし”と“あなた”が相互に水分を与え合う関係になったとき、どのような情景が見られるだろうか。山崎修平氏の表現に一つのあり方が提示されている。

 《死んでしまったロックンロールについて僕は知らないし何故死んでしまったのかも分からないけれど指先で触れて確かにここに存在した事その温度を確かめてみたいと思っているのだ例えば昨夜の暴風雨でなぎ倒された樹木の表皮は割れて白墨を燻らせたような色をした内部は剥き出しになっている/ 指先で触れると湿った土が付着しズブズブと六ミリ程弾力がある内部へと指は進んで行く/ 君は何故か唇を確かめるように真一文字にして感情を零さないように指先を枝の内部へのばし僕の「共犯者」になる
(「ロックンロールは死んだらしいよ」、『ロックンロールは死んだらしいよ』、2016年、思潮社)



 表現は身体性に満ちている。そして身体が語られるということは、魂も語られるということだ。「ロックンロール」という魂の残した「温度」を語り手は「」と共に「指先」で確認する。比喩が生々しい。木の「剥き出しになっ」た「内部」は、どこまで語っても語り尽くせないヒトの肉体であるとも言え、そこに語り手と口を「真一文字に」した「」が“おそれ”さえ抱きながら運命共同体として踏み込んでいく。彼らが確かめようとしているロックンロールは、“愛”という肯定的な言葉のみでは回収し切れない躍動そのものであって、喪失感を漂わせつつも、「死んでしまった」どころか、大きな生に満ちている。