「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第212回 P1:2017.2.11〜3.20「MOTサテライト2017春 往来往来」 永方佑樹

2017年06月17日 | 詩客


 土地には記憶がある。例えば、深川。松尾芭蕉はこの地を出発点として、隅田川の水音に添い、「おくの細道」へと向かったと言う。芭蕉だけではない。エレキテルを実験した平賀源内。伊能忠敬。滝沢馬琴、etc。近年では、映画監督の小津安二郎もこの地に住まいした。
 そんな深川(清澄白河)の町を舞台に、今年の2月11日〜3月20日にかけて、「MOTサテライト 2017春 往来往来」というイベントが開催された。これは、現在改修工事中の東京都現代美術館(MOT)が、当分の間展示も企画も出来ない代わりとして、身近な清澄白河(深川)の町を舞台に、土地の魅力を地元の人々と連携して掘り起こす活動をしていこうという発想の、まずは出発点として企画されたものである。その為、参加しているのはいずれも深川に縁のある十一組のアーティストたちなのだが、それが実際、各界のそうそうたるメンバーなのだから、深川の持つ磁力というのは、芭蕉の頃からいささかも衰えてはいないらしい。
 アーティスト達は「往来往来」のテーマである、「古いものと新しいもの、人々の様々な思いや記憶の往来の舞台となってきた深川の現在・過去・未来の姿を浮かび上がらせる」という趣旨のもと、実際に土地やひとびとと関わりながら、それぞれの視点で様々な試みを見せてくれたのだが、ここは「自由詩時評」なので、それらすべてを網羅する事をせず、詩と関わりのあるものに限定し、二つの言葉の企画をご紹介させていただこうと思う。
 まず、詩人カニエ・ナハ氏が、タイポグラフィ作家の大原大次郎氏と行った「旅人ハ蛙。見えない川ノ漣」。これは、清澄白河(深川)の人が良く通う店だったり、カフェや図書館など、十七カ所に及ぶ場所を対象にカニエ氏が詩を書き下ろし、それを大原氏が「ノ漣(のれん)」にデザインして、該当の店舗に掲げる、という企画であった。
 例えば、深川商店街にある、どこか懐かしいたたずまいをした豆腐屋。「商い中です」という看板横のガラスケースの中には、「豆腐170円」「油揚げ85円」「おから100円」等々、手書きで書かれた品揃えがのぞいていて、がんもどきや厚揚げの、手づくり特有のふっくらとした見た目に、ついつい買いたくなってしまう店構えである。このイベントがあった時は2月下旬で、冬の気配がまだ厚く、日ざしはひくく白くて、豆腐屋の奥からは蛇口を閉め忘れたのか、ぽちゃん、ぽちゃん、と雫の音が絶えまなく響いていた。水音はするのに、店の人はいったいどこに行ったのか、人の気配がどこにもせず、揚げ油の良いにおいがただよい、そんな、静けさに時を足止めされたような軒さきを見遣ると、風にあおられながら二つの白い「のれん」がゆっくりと前後に揺れていた。一つは、「手づくり とうふ」と書かれた、元々掲げられていたであろう、杉原豆腐店の「のれん」。そしてもう一つが、カニエ氏が書き下ろした詩を大原氏がデザインしたという、詩の「ノ漣」である。

豆腐とは(「豆腐屋には豆腐) 真白き映画(しかつくれない」小津安二郎) 禹煥の庭(リ・ウーファン《線より》) 水から水を(「櫂の声波打って) 旅をする、白い(腸氷ル夜や涙」芭蕉) 掌に落ちて(「色付きや豆腐に落て) 飴玉の薄紅(薄紅葉」芭蕉)」※( )内はルビ

 深川の現在・過去・未来の姿を詩で描き取るにあたり、カニエ氏は地の詩文にすべてルビをふり、二列の詩を同時にまなざしの中に流してゆく事で、それぞれの文字や音、意図をたがいに反響させる手法を取った。「豆腐とは 真白き映画」には「豆腐屋には豆腐しかつくれない 小津安二郎」というルビを。「禹煥の庭」には「リ・ウーファン《線より》」を。「水から水を 旅をする」には「櫂の声波打って 腸氷ル夜や涙 芭蕉」を。そして、「白い掌に落ちて 飴玉の薄紅」という詩文には「色付きや豆腐に落て 薄紅葉 芭蕉」というルビが、それぞれふられている。最初の一節を見てみよう。本文で、カニエ氏は豆腐の色と形から映画のスクリーンを喚起し、さらにそのイメージに重力を持たせて、対応するルビでは「豆腐」という言葉を使用した小津安二郎の言葉を引き寄せている。また、最終節の「白い掌に落ちて」というのはいったい何の事かと言うと、実は現在、杉原豆腐店では、買い物客に飴玉を渡すというやさしい習慣があり、その習慣の、白い掌に落ちる薄紅色の飴玉というイメージを呼び水にして、ルビでは、松尾芭蕉の「豆腐に落て 薄紅」という句をたぐり寄せている。
「現在」の深川(杉原豆腐店)を本文で描き取り、ルビで「過去」を喚起するといった詩のつくりのわけだが、それとは逆に、ルビの「過去」に本文の「現在」が引きずられ、「今」が剥がれてゆくようにも感じ取れるところが、この手法の面白いところでもあるだろう。実際、店先では、風に吹かれていた詩の「ノ漣」と、元からある「のれん」と、二つの布地はどちらもきよいほど白くて、それらがまるで、日常の延長のような自然な仕草で、かわるがわる幾度も風に揺れていて、そうしていると、幾何学的な大原氏のデザインだとか、あるいはカニエ氏の詩語の、例えばウーファンだったり小津だったり、スクリーンや水、飴玉、芭蕉といった言葉が、こまぎれの単語となって視界の中であおられ、ゆすぶられ、からみ合っていって、ふと、ほどけた「ノ漣」の隙間から時間がくずれて、深川の記憶がふるりと垣間見えたような一瞬を味わえた瞬間が、幾度かあったのであった。
 カニエ氏と大原氏の、この素晴らしい企画の他に、「MOTサテライト 2017春 往来往来」ではもう一つ、並外れた言葉の企画があった事をぜひとも、お知らせしたい。それは、吉増剛造氏のインスタレーション企画「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」である。
 これは、深川商店街にある二階建てのグランチェスター・ハウスを一棟使用し、吉増氏のビジュアルポエトリーやサウンドインスタレーション等を展示したもので、それらの面白さに私は、このこじんまりとした建物の中で、実に数時間も過ごしてしまった程であった。
 まず、ハウスの二階部分を先に紹介しよう。二階は空間が二部屋に分かれており、それぞれ、映画館のようなスクリーンと椅子が用意されていて、一方では、小津安次郎の映画を独自の低い視線で鑑賞しながら詩作パフォーマンスを行う吉増氏の様子をおさめた「gozo(小津)Ciné」が上映されており、もう一方の部屋では、氏が小津監督のまなざしを仮借しながら隅田川の水面を眺める「gozo(小津)水の音Ciné」が鑑賞出来るようになっていた。
 また、階段を上り下りする時にも面白い仕掛けがあって、床や階段の隅っこの方に、今回の作品の制作過程において並行して生まれたという、氏の声メモ(通称「聲ノート」)が発声されるスピーカーが置かれており、足をかける段の位置によって、通行人の耳には様々な方角から、高低をもった吉増氏の「聲ノート」が聴こえてくる、面白い趣向になっていた。
 だが何より、一階で上映されていた「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」という映像作品は、今回MOTサテライトが目指した「現在・過去・未来を複数の視点から描く」という意図を最も感覚出来るという意味でも、私の一番のおすすめであった。
 吉増氏と言えば、芭蕉を追想する為に隅田川近くに暮らしている程なのだが、その氏が今回、「往来往来」の企画の為におこなった、深川散策の毎日に並行して思索していたのが、この作品の原テキストとして映像の中で朗読されている、芭蕉と西脇順三郎を巡るレクチャーの準備の手稿「裸のメモ」である。この「裸のメモ」、大きさはA3用紙を少し大きくした程の一枚で、そこに「染みか文字かも判じがたい」「最小のエクリチュール(書かれたもの)」がびっしりと書き込まれている。吉増氏はこの「裸のメモ」を書き終わった後、自らの内側から、自分が書いたという実感がうすまってゆくのを待ち、書き手の自覚が希薄になってゆく程の時間をあえてテキストに与える事で、単純な読み手の位置へと自らの感覚を近づける事を志向した。そうして実際、一定の時間が経って、まなざしから書き手の主観が褪せてゆき、初見のそれと等しくなる頃を見計らって再び対峙する。すると、まるで初めてテキストを目にするような驚きや戸惑いが視覚の中に現れる。そうした感覚を保ちながら、最初から最後まで、あくまで他人のまなざしのように一文字一文字を丁寧に読み進めてゆく、その視線の歩行の様子が、この「エクリチュールの洞窟の心の隅の染の方へ」なのであった。
 私はこの映像作品を見てみて、改めて、いかに人の感覚というものが揺らぎやすいものかという事、あるいは、知らず知らずに差し替えられる記憶の曖昧さだったり、そもそも、時間というものやエクリチュールというもの自体すら、考え直さずにはいられなかった。
 実際、こんな経験は無いだろうか。
 自分が子どもの頃使っていたタンスだったり書棚だったり、もう何年もずっと放っていて、一体そこに何を入れていたのだったか、さっぱり思い出せなくなった場所を、久しぶりに開けてみるとする。すると思いがけず、かつて自分が書いたらしい、とりとめのないメモや原稿が出て来る。なるほど。確かにそれは自分が書いたものかもしれない。ぼんやりとしているが、覚えはある気がする。何より、幼い自分が書いたらしき、つたない署名すらある。そうとなれば間違いなく、昔自分がこの手で書いたものに違いなかった。だが、しかし何度見てみても、まるで他人が書いたものであるかのようなそっけなさ、親しみのなさをどうしてもおぼえてしまって、感覚はもどかしく褪せたまま、いつまで経っても、どうしてもテキストになじむ事が出来ない。
 自分が書いたはずなのにその実感がないという、この得体の知れなさ。それはまさに、吉増氏が「裸のメモ」の中で主題として描いていた、「不気味なものとの不意の出会い」に違いなく、「エクリチュールの洞窟の心の隅の方へ」は、このような、まるで他人の書いたもののような驚きや戸惑いを、自らの内にあえて呼びおこす不思議、エクリチュールにとっての過去と現在の本質を私たちに提起したのであった。
 振り返ってみると、今回の「MOTサテライト 2017春 往来往来」では、常に一つの問いを不断に投げかけられていた気がした。
 まず、カニエ氏の一連の作品を見てみれば、時は何もかもを運び去っている様で、本当に過ぎ去ったものは、何も無い様に思えた。消え去ったものはいずれも必ずどこかに留まり、だからこそ追憶されるのだ、と。だが、本当にそうなのだろうか。吉増氏の作品を見ていると、もしくはやはり時の記憶というのは、運ばれてゆくうちにどうしてもほころんでしまって、ひたすら失われてゆくだけにしか過ぎないのではないかと思える。現在に持ち越されたように見えるものは、実際にはただの抜け殻でしかなく、本当に留まるものなど、何もないのではないだろうか、と。
 とはいえ、こうも思うのだ。もしくは、やはり確かに留まるものはあるのだろうか、と。ただ私たちの内がわに、それを見るまなざしや、すくい上げるだけの器用、そうしたものが失われているだけに過ぎないのではないだろうか。であれば、それらを取り戻したり、あるいは獲得出来たとすれば、失われたように見えるものたちは再び私たちの前に実感を伴い、姿を現しはしないだろうか。見るものが想起する、そのままの姿で。
 だがそれともやはり、現在という時間軸は瞬間の流謫でしかないのだろうか。一度流れていったもの、墨田川の流れも、時も、エクリチュールも、それらは決して、再び二度とは、同じ姿では現れはしないのではないだろうか。