醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  613号  二日にもぬかりはせじな花の春(芭蕉)  白井一道

2018-01-05 12:46:54 | 日記

  二日にもぬかりはせじな花の春  芭蕉 


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「二日にもぬかりはせじな花の春」。この句を味わってみない。
華女 何を詠んでいるのか全然分からないわ。
句郎 ほんとうだよね。この句は『笈の小文』に載っている句なんだ。だから『笈の小文』にある文章を読むと分かるんだ。
華女 『笈の小文』には、なんとあるのかしら。
句郎 「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」とある。
華女 芭蕉は吞ん平だったのね。何をぬかってしまったの。
句郎 初日を拝みはぐってしまったんじゃないのかな。
華女 当時は初日を拝む習慣というか、慣例のようなものがあったのかしら。
句郎 、今だって初日を待って初詣する人はいるんじゃないのかな。
華女 そう言えば神社で初日を拝んだのよという話を聞いたことあるわ。
句郎 神社が発行している暦の世界が生きていた時代に芭蕉は生きていたからね。酒を飲み、寝過ごしてしまったという後悔をしている。
華女 二日にはぬかることなく初日を拝むぞという気持ちを詠んだということでいいんでしょう。
句郎、芭蕉は「二日には」ではなく、「二日にも」と詠んでいる。「は」と「も」では、どのよう違いがあるのかな。
華女 「も」の方が少し、俳句らしく感じるわ。
句郎 芭蕉の弟子の土芳は『三冊子』の中で次のようなことを述べている。「此手爾葉は、二日には、といふを、にも、とは仕たる也。には、といふては平目に当たりて聞なくいやしと也」とね。すなわち、「には」ということを「にも」と芭蕉は詠んだ。その理由は「には」ではあまりにも俗っぽいからだと述べている。
華女 「平目に当たる」とは、俗っぽいと言うことでいいのかしら?
句郎 いいんじゃないのかな。「平め」とは、平たくすると、いう意味だからね。日常語のようになってしまうということなんじゃないのかな。
華女 柔らかな表現になるということなのかしらね。
句郎 歳旦吟を諧謔として詠んだ芭蕉の手柄なんじゃないのかな。
華女 この句は諧謔の句なのね。
句郎 この句は故郷の伊賀上野に帰り、家族や弟子たちに囲まれて迎えた正月に詠まれた句のようだ。
華女 三百年前も現代も何ら変わることのない日常生活が送られていたことが分かるわね。
句郎 人間の生活は基本的に変わっていないということなのかな。
華女 三百年前には庶民の生活があったと言うことが芭蕉の俳句から読み取れるということね。
句郎 その江戸時代の町人や農民の生活に人間の真実を発見し、その真実を表現したのが芭蕉の文学だったんだろうね。
華女 大晦日には深酒をして元日は昼頃まで寝過ごしたなんて、私たちの日常によくあることのように思うわ。
句郎 そのような日常の生活に人間の真実があると芭蕉は感じていたんだろうね。
華女 そんなくだらない庶民の生活など無価値なものだとそれまでの文学者たちは考えていたのね。
句郎 そうだと思う。その中で芭蕉は違うと言った。