醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  579号 この松の実ばへせし代や神の秋(芭蕉)  白井一道

2017-12-03 13:26:15 | 日記

 この松の実ばへせし代や神の秋  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』より「この松の実ばへせし代や神の秋」。鹿島神社神前にて芭蕉は詠んだ。貞享四年、芭蕉四四歳。
華女 「この松の実ばへせし代」とは、どんなことを言っているのかしら。
句郎 この松が実から芽を出したころという意味じゃないのかな。
華女 その頃、鹿島神社に降り立った神様が見た秋景色はどんなものだったのだろうということなのね。芭蕉は神様に深く敬う気持ちが強かったのね。句郎 芭蕉が生きた時代は神や仏が生きていた時代だからね。
華女 神や仏が生きてるとは、どういうことなの。
句郎 神の声を聴いたとか、仏さまに抱かれたとか、そのような経験者の発言が真面目に信じられた時代というのかな。
華女 日常生活が不思議なことで満たされていた時代だったということなのかしら。
句郎 現代社会だって私たちの生活は不思議なことで満たされている。電気を付けると明るくなる。このことだって考えてみれば不思議なことなんだ。ただ我々は電気が付くということを科学的に説明できるということを知っているだけなんだ。自分自身で電気が付くということを説明しろと言われるとできないけれどもね。
華女 そうよね。この世は不思議なことで満たされているのよね。だから絶えず新興宗教が次々に生まれてくるのよね。
句郎 芭蕉は秋、鹿島神社へ参ったから神の秋を想像したんだろうね。
華女 松林の中の静かさだったんじゃないのかしら。
句郎 人が人を思う気持ちの大切さのようなものを感じていたのかもしれないな。
華女 どうしてそんなことが分かるの。
句郎 人が神や仏を信じるのは自分の隣にいる人を信じたいということなんじゃないかと思うんだ。
華女 それは自分の隣にいる人が信じられないということなんじゃないの。
句郎 そうなんだ。だから神様、私、信じたいんですということになるんじゃないの。
華女 人は人を裏切ったり、裏切られたりしているからなのかしらね。
句郎 神や仏は絶対に人を裏切ったりすることはないんだから、絶対の安心感だよ。
華女 神に祈るということは、安心感を得たいのよね。私を受け入れてほしいのよね。
句郎 自分がこの世に生きていて、いいと言ってもらいたいということなんじゃないのかな。
華女 この世はいつも私がこの世に存在することを許さないような事態があるということなのかしらね。
句郎 一番の問題は食料が十分満たされていなかったということなんじゃないのかな。だから江戸時代、太った人はほとんどいなかったみたいだからね。仏像の中にはガリガリに痩せた像もあるけれど大半は柔和にほほ笑む太り気味の像ばかりだよ。仏の世界はまず食糧が十分満ち足りた世界なんだ。そこでは人が人を裏切ったり、裏切られることのない世界なんだ。信仰することでそのような世界に生きたいと願ったんじゃないのかな。芭蕉もそのような人の一人だったんだと思うな。それは同時に苦の娑婆だった。