死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

「知恵をもって与える」ことの大切さ 

2007-05-31 | 「知恵をもって与える」ことの大切さ
正太 「この「愛を与える」に際して大切なことは、「知恵をもって与える」ということなんだ」

勇二 「知恵をもって与える?」

正太 「これはどういうことかというと、自分では「愛を与えた」と思っても、それがほんとうに知恵をともなっていないと、人を生かさない場合があるということなんだ」

勇二 「ああ、なるほどね。親が子供のことを「愛してる」なんていいつつ、甘やかしてダメにしている、ことも多いしね」

正太 「そうそう。たとえば、息子がいつまでも働かずにグータラしてる。お金を送らないと飢え死にするとかワーワー言うから、お金を送る。それで一月生き延びて、お金がなくなると、またせびってくるから、また送る。こんなふうにして、いつまでたっても働かない、なんてことが、世の中にはいくらでもあるんだね。
 単なる恩情主義でずるずる援助していくことが、かえってその人の依存心を助長して、自力更生や独立を妨げたりすることがよくあるんだよ」

勇二 「愛を与えたつもりが仇になった、じゃ困るよね。与える愛が自己満足で終わっちゃいけないんだな」

正太 「そう。愛というのは、簡単なように見えて、実は非常にむずかしいものなんだね。というのも愛には「人を生かす」という働きが入っているからなんだ。その人が、善くなってこその愛なんだね。その人を堕落させてしまったんでは、意味がなくなってしまうんだよ。
 人を生かしていくには、知恵がともなった愛でなくちゃいけないんだ。この知恵には、人情の機微を知る、世の中のことを深く知る、という面もあるけれど、中心は「原因・結果のプロセスを見抜く力」のことなんだね。「こうしたアプローチをすれば、この人はこうなる」「こうした種をまけば、こうした実ができる」という原因・結果のプロセスが見えることが大事なんだ」

勇二 「ふーむ。会社の管理職なんかは、これがないと務まらないよね」

正太 「こうしたことは、発展途上国への援助、たとえば「水不足に悩んでいる国に対して、水を与えるのと井戸の掘り方を教えるのと、どちらがいいか」といった問題についてもいえるんだね。
 もちろん、急場を救ったり、緊急避難的な援助が必要な場合もあるけれど、単にモノを与えるだけより、技術や知識を与えるほうが、大きな愛になるんだね。その人たちの自立や発展に対して、大きな仕事をしたことになるんだよ。
 だから、仕事のできない人には、やはり仕事のやり方を教えてあげる、お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる、という考え方が大切なんだね。
 人助けといっても、単に目先のものだけじゃだめで、「こうしたら、将来こういう結果になる」という知恵を含んだ愛が大切だということなんだ」



「与える」ということの意味とは?

2007-05-30 | 「知恵をもって与える」ことの大切さ
勇二 「愛を与えれば与えるほど、神様に近づく、仏に向かって向上する。与える愛の器が大きくなるほど、その人の光の量が増える、ということか。なるほどね。
 ところで、その「与える愛」ということだけど、まあ、僕なりに、だいたい意味はわかっているつもりなんだけど、改めて聞くと、この「与える」ということ、「愛を与える」っていうことは、一体どういうことを意味するんだろうね?」

正太 「うん。「与える」というのは、「どうすれば一人でも多くの人々が幸せに生きられるかを考えながら、日々生きる」ということなんだね。「一人でも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆく」ということなんだ。また「一人でも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせる」ということなんだよ」

勇二 「ふうむ。「与える愛」の基本ていうのは、やっぱり、一人でも多くの人々を幸せにする、っていうことなんだね」

正太 「うん。だから、与える愛というのは、単に物を与える、ということではないんだね。よく誤解しやすいんだけど、物質を与えることだけが、与えることじゃないんだ」

勇二 「そうだね。人を幸せにする、迷ったり挫折している人を立ち直らせる、勇気づける、ってことは、単に「モノをあげる」なんてことだけじゃないもんね」

正太 「人間というのは、死んであの世に還ると自分の一生をスクリーンで見せられるんだけど、そのとき必ずといっていいほど思うことは
 「自分がそこにいたのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。自分の周りに、ああいう不幸な人が通り過ぎていったのに、なぜあのとき言葉一つかけられなかったのか。行動できなかったのか。手を差し伸べられなかったのか」
 という悔いなんだね。
 逆に、その人の過去のなかでいちばん光っているシーン、みんなの拍手が沸くシーンはどこかというと、この愛を与えたところなんだね。他の人たちを幸せにしよう、喜びを与えよう、あるいは、困っている人、苦しんでいる人を助けようとして、勇気ある行動に踏み出したシーン、手を差し伸べたシーンなんだよ」



魂の進化は「光の量」によって表される 

2007-05-29 | 魂の進化は「後光の量」によって表される
勇二 「なるほどねえ。ちなみに、「与える愛」というのも、「量」だけじゃなくて「質」、つまり愛のレベルの高さが重要だということだったね。グレードの高い愛、さっき教えてもらった表現をすれば、「発展段階」の高い愛を実践するほど、与えられる光も多い、ということだね」

正太 「そうそう。だから、あの世(霊界)というのは、愛の発展段階が進んだ世界ほど、つまり次元の高い世界ほど、光が多くなっていくんだね。光の強い世界になっていくんだ。
 つまり、魂というのは、進化していくほど、光の量が増える、ということなんだね。「光の量」というのが、魂の進化を示す一つの指標なんだ。だから、あの世の世界(実在界)では、その人の光の量を見れば、魂の成長度は一目瞭然なんだね。その人が、どの程度に偉い人なのか、立派な人なのかは、パッと見た瞬間にわかってしまうんだ。この世と違って間違えようがないんだね。
 これは地上に出ている人間でも同じで、その人の魂の修行が進んで、悟ってくるにしたがって、だんだん光の量が増えてくるんだ。後光がさしてきて、霊視がきく人が見れば、その人の悟りの段階が簡単にわかってしまうんだよ」

勇二 「へーえ。その光の量と、悟りの関係っていうのは、どうなってるの? 魂がどれだけ進化すれば、どのくらい後光の量が増えるわけ?」

正太 「たとえば、心が地獄界に通じている人、つまり4次元幽界下部の地獄領域に通じている人は、その後光も暗く、薄ぼんやりしていて、ところどころ、地獄霊に憑依されている部分が白くなって動いていたりするから、すぐにわかっちゃうんだね。心境が地獄に通じていて、憑依されているということが、すぐにわかっちゃうんだ。
 心が4次元幽界の精霊界(4次元世界の中の地獄でない領域)に通じている人は、全身と後頭部に1、2センチぐらいのオーラが出ているだけなんだ。心が5次元善人界に通じている人は、後頭部に3、4センチぐらいの後光が出ているんだね。
 心が6次元光明界に通じてくると、後光も丸く大きくなって、10センチぐらいは出ているんだよ。6次元でも、上段階の阿羅漢(あらかん)や諸天善神といわれる境涯になってくると、後光が小さな丸いお盆のようになって、金色に輝いているんだ。7次元の菩薩界の心に通じていると、肩の上に4、50センチぐらいの金の輪がかかっているんだね。そして8次元如来界の心に通じると、そのまわりがほんのり明るくなるほどの光が、1メートルにわたって放射されているんだよ」

勇二 「ほーお。そういえば、よく仏像とか、仏画とかには、そういう後光みたいなものが描かれてるよね。ああいうのは、君が今いったようなオーラの大きさを表現しているわけ?」

正太 「そうなんだよ。仏教美術で菩薩像や如来像に光背が描かれたり、西洋でも天使や聖人を描いた宗教画とかで、頭の部分に光のリングや光背が描かれているのは、菩薩(天使)や如来といった悟りの高い人、高級霊には、目印ともいえるような大きな後光があるということを表現していたんだね。実際、そうしたものを描いたり彫刻した芸術家のなかにも、霊視のきく人が結構いたんだよ」

勇二 「なるほどねえ。ああしたものは、シンボルとして創作したわけじゃなく、実際に見えたものを描いていたわけだね」

正太 「そんなふうに、魂の進化というのは、光の量によって表されるんだね。つまり、魂が進化するためには、仏の光をできるだけ多く受け入れられる器になっていかなくちゃいけないということなんだ。そうなるためには、まず自分の心に、光をさえぎるような曇りを、つくらないようにしなくてはいけないんだね」

勇二 「心に曇りをつくらない、っていうのは、愚痴とか、不平不満とか、怒りとか、妬みとか、足ることを知らない欲望といった、マイナスの思いを持たない、ってことだね」

正太 「そう。そして、魂の修行を熱心に積んで、器を大きくしていかないといけないんだよ」



与えた愛は与えた人のものになる 

2007-05-28 | 与えた愛は与えた人のものになる
正太 「そもそも、なぜ、多くの人が「愛を与える」ということに対して、ネガティブというか積極的になれないかというと、「与えれば損をし、もらえば得をする」「「与えたら、与えただけ、自分の愛が減ってしまう」と考えているからなんだね」

勇二 「そうだね。モノ、物質っていうのはそうだからね。だから、どうしても、そういう発想になりがちだよね」

正太 「ところが、霊的には、心の世界においては、事実はまったくの反対なんだ。与えれば与えるほど、増えていくんだね。与えれば、与えるほど、自己が拡大していくんだよ」

勇二 「与えた愛は与えた人のものになる、って前に教えてくれたね」

正太 「そう。「与えた愛は与えた人のものになる」んだね。これが神の世界、仏の世界の法則なんだ。与えただけ豊かになるのが霊の法則なんだよ。与えた愛は与えられた人のものになるんじゃないんだね。与えた人のものになるんだ。愛を与えれば与えるほど、与えた人が神近き、仏に近い人間になっていくんだ。それが仏の見返りなんだよ。これは、もっとも基本的な法則だから、必ず頭に入れておいてね」

勇二 「与えた愛は与えた人のものになるから、決して見返りを求めちゃいけない、ということだったね。何かよいことをしても、それと同じかそれ以上の結果を期待すると、せっかくの行為も帳消しになってしまう。だから「無償の愛」を実践するには、「感謝」に出発した愛、「お返しの愛」「報恩の愛」じゃなきゃいけないということだね。「お返しの愛」なら見返りを求める気持ちが入ってこない、ということだね。」

正太 「そのとおり。歴史上には偉大な人がいるけれども、なぜそうした人が偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを人類に与えたからなんだ。その結果、与えたものがその人のものになったんだね。
 与えるということは、物理学的にいうと「光がそれだけ増える」ということなんだよ」

勇二 「その人の後光が増える。オーラが増える、ということだよね」

正太 「うん。他の人のために、という純粋な思いや行為を発すると、その瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしているんだね。その光というのは、仏から、天上界から投げかけられたものなんだ。だから一生を愛多く生きた人というのは、霊的な目で見れば、身体全体がまるで大小さまざまなダイヤモンドをちりばめたように光を放っているんだね。
 お金や家や財産や名刺といったものはあの世に持って還れないけれど、愛を実践することによって、神様からいただいたこの「光」だけはあの世に持って還ることができるんだ。仏の光というのは、仏と同じような働きをする人のところで、つまり、愛を与える人のところで、貯金のようにどんどん増えていくんだよ。光を増やしてあの世に還れば、それだけ高い世界、光の強い世界、幸福感の強い世界、素晴らしい人たち、立派な人たちのいるような世界に還っていけるんだね。こうした目標を人間は立てるべきなんだ」

勇二 「そうした光、オーラを実感できれば、いいんだけどなあ」

正太 「いや。この光というものは、なにも霊能者や霊視のできる人でなくとも感じることはできるんだよ。
 たとえば、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるよね。相手だけじゃなく、自分も温かくなる。真冬でもポッと温かい気持ちになる。それが実は光を与えられていることの証明なんだ。
 もちろん、あの世の天上界で愛を与えたならば、その瞬間サーッと光が自分の霊体にさしこんでくるのが、ハッキリわかるんだけどね。それに対し、この世の人間は、肉体に宿って、物質世界の中におかれているため、霊的な光というものを実感しにくいんだけど、全く感じられないということはないんだ。
 霊視ができると、鏡を見てもその光が見えるんだね。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出る。他の人々への愛の思いに満ちたなら、与えることを考えているのに、逆に与えられているんだね」

勇二 「ふうむ」

正太 「あるいは、別の例を上げれば、ある人が部屋に入ってくると、急にまわりがパッと明るくなるということがあるよね。いつも「まわりの人たちを幸福にしよう」という思いで満ちている人からは、後光がずいぶん出ているんだ。だから、そうした人が入ってくると、パッと明るくなるんだね。プラスの思いを持ち続けていることを習慣にしていると、それが一定の実力となって、そうした現象として現れてくるんだよ」


苦しみ、悲しみとの出会いは、その中で「与える側の人生」を選んでいけるかどうかが試される時 

2007-05-27 | 与えた愛は与えた人のものになる
正太 「ただ、この世の人生というものは、決して平坦なものじゃなく、生きていく途中でさまざまな困難にぶつかるものなんだね。そうしたなかで、魂の修行をしていくわけなんだ。これは、あらかじめ計画されていることなんだよ」

勇二 「ほう、いろんな困難のなかで魂の修行をしていく?」

正太 「たとえば、病気とか、貧困とか、挫折とか、失恋とか、事業の失敗とか、友人の離反とか、愛する者との別れとか、きらいな人との出会いとかだね。さらには、年を取って、醜くなり、身体が不自由となり、やがては死んでいくわけなんだ。
 こうした現象を現象とだけ見れば、人生というのは、苦悩と悲しみに満ち満ちているように見えるけれけども、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるんだよ」

勇二 「苦悩や悲しみの意味?」

正太 「苦悩や悲しみがあるということは、ひとりひとりの人間が選択を迫られているんだね。その選択とは何かというと、自分自身が「与える側の人生」を選ぶのか、それとも「与えられる側の人生」を選ぶのか、という選択なんだ」

勇二 「ふうむ。生きていくって本当にしんどいなあ、っていう辛い時があるよね。そうしたときっていうのは、自分が「与える愛」の生き方を選んでいくのか、「奪う愛」の生き方を選んでいくのかが、問われている時、試されている時ということなんだね。
 そうしたときこそ「あっ、ここで試されているんだな。ここが正念場だな」と思って「与える側の人生」を選び取っていかなきゃいけないんだな」

正太 「そう考えたときに道が開けるんだよ。そう思ったときに、自分としてやることは無限に出てくるはずなんだね。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたとき、いたずらに日が暮れて泣き暮らすということになってしまうんだ」



「与える愛」と「反省」という二本の鍵で、天国の門は開く 

2007-05-26 | 「反省」と「与える愛」で天国の門は開く
正太 「だから、基本はまず、そもそも「何のためにこの世に生まれてきたのか」「何のために生きているのか」ということを、しっかり腑に落とすことが大切なんだね。「心を磨くために生まれてきたんだ、心を高めるために生きているんだ」ということ。地獄に堕ちる現代人が多いのも、この基本中の基本を、わかっていない人が多いからなんだよ」

勇二 「これがわかっていないと、あらぬ方に脱線した人生になってしまうわけだね」

正太 「「心を磨いて、立派なものにするために、この世に生まれてきたんだ」「毎日生きているんだ」ということだね。「心しか持って還れないのだから、その心を良くするしかない」ということなんだ」

勇二 「心を磨き、高めるっていうのは、「愛の発展」、与える愛の発展を目指す、ということだね」

正太 「これは、べつにモノはだめだとか、物質的な豊かさや、利便性を否定しているわけではないんだね。ただ、そうしたものは、あくまでも「心の修行の便益のために」存在が許されているものなんだ。そうしたものは「従」であって、「心の修行のために生きているんだ」という「主」を忘れてはいけないんだ。主と従を取り違えてはいけないんだね。
 心の修行を支えるための物質なら有効なんだけど、これがひっくり返って、そうしたあの世に持って還れないようなものに執われて、振り回されるような生き方をしてはいけないんだよ」

勇二 「心が善いか悪いか、心境が高いか低いかで、あの世はすべて決まってしまうわけだよね」

正太 「うん。それと、この世というのは、魂の修行の場であるけれども、同時に「試験の場」、テストを受けている場だということ。これを知っていなくちゃいけないね。オギャーと生まれてから、臨終を迎えるまでの人生の記録が、その人が提出する答案用紙になるんだよ」

勇二 「この世に生まれてきた、ってこと自体が、試験会場に入ったようなもんだね。毎日毎日、何を思ったか、何を行ったかということが答案になってるわけだ」

正太 「もちろん、前に説明したように、この世というのは、修行の場。それも、あの世の天上界と比べると、たいへん厳しい修行場であるけれども、そうした厳しさというのは、魂の進化、発展をもたらすために本来存在している、ということだね。この世の修行は、あの世の修行の10倍くらいの密度があるから、この世の70年、80年の人生を見事に生き切ったならば、あの世の700年、800年にも相当する魂の進化をもたらす、ということなんだ。そうした大きな効果があるからこそ、何度も何度も人間はこの世に生まれ変わってくるわけなんだ。
 それと同時に、この世は、魂にとっての「試験の場」でもある、ということ。この世に生まれてくる前の天上界にいた時の自分の悟りが、果たしてほんものかどうかが、リトマス試験紙にでもかけられるように徹底的にテストされる場なんだ、ということを忘れちゃいけないんだね。「はたしてあなたは天国の住人にふさわしいか」ということを、実は、毎日毎日テストされているんだよ」

勇二 「テストで合格点が取れなければ「落第」。つまり、地獄行き、ということだね。ただし、落ちっぱなしじゃない。「追試」がある。今ふうに言えば「再チャレンジ」がある(笑)。一生懸命、反省すれば、また天国に上がってこれるということだね」

正太 「厳しいこの世の修行、この世の試験に無事パスして、天国に還るためのキーワードは、「与える愛」と「反省」の二つなんだ。仏教でも「施論・戒論・生天論」というけれども、「施」、ほどこし、つまり「与える愛」だね。そして「戒」、悪に対しては戒めをもってブレーキを踏む、悪いことを思ったり行ったりしたらしっかり「反省」する。そうすれば「生天」、つまり、天国に生まれますよ、還れますよ、ということなんだ。
 他の人に、世の中の人々に少しでも愛を与えていく、少しでもグレードの高い愛が与えられるように努力していく。功徳を積んでいく。そして、「与える愛」に反すること「奪う愛」であるマイナスの思いや行いをしてしまったら、こまめにきちんと反省していく。そうすれば、地上人生という試験に合格できるんだよ。天国に還れるんだね」

勇二 「「与える愛」と「反省」。まさに入試必勝ガイドだね(笑)。「与える愛」を実践していくことで黒字(実際は金色)を増やし、「反省」によって赤字(実際は灰色)の部分を消し込むだけでなく、さらにそれをも黒字(金色)に変えていく。まさに「心の王道経営」だよね。そうすれば、死んで人生の「最終決算」を迎えるとき、大幅黒字を計上できるよね」


霊界の次元の違いは「愛の発展段階」の違いでもある 

2007-05-25 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「こんなふうに、魂の向上というのは、その人の愛が発展していくことなんだね。もう一度おさらいすると、愛の発展段階というのは、努力以前の「本能の愛」からはじまって、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」という努力の対象となる愛があって、最後に、人間心を超えた「神の愛」があるということなんだ」

勇二 「うーん。まあ、僕なんかだと、会社で部下らしいのはいるけど、僕自身が上司に怒られることも多いし、「生かす愛」を目指していこうとは思うけど、まずはちゃんと「愛する愛」ができるようにならないと、天国入りは難しいかもしれないな」

正太 「「愛する愛」というのは、もっとも根本的で一般的な愛なんだけど、実際には、けっこう難しい愛なんだね。地上世界が、この「愛する愛」に満たされたら、少なくともこの世は、はっきりした天国になるんだよ。
 「愛する愛」っていうのは、すべての人に期待できる愛で、すべての人が、「愛する愛」の素晴らしさを生まれつき理解できるんだね。つまり、人間というのは、もともと、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからなんだ。愛を与えると、魂が喜ぶんだよ」

勇二 「ふーむ。愛を与えると幸福感がある、魂が喜ぶ。愛を奪っていると、心が苦しい。たしかにそうかもしれないな」

正太 「これまで、あの世の世界、霊界というのは、「心境の高い低いによって、世界が分かれている」とか、物理学的にいえば「波長の精妙さによって世界が分かれている。高い世界にいくほど波長が精妙になっていく」という説明をしてきたよね。あるいは、霊界というのは、4次元幽界、5次元善人界、6次元光明界…というふうに次元構造を持っている、と説明をしてきた。
 でも、今説明したように、その人の「心境の向上、霊格の向上」の本質は「愛の発展」にあるわけだから、あの世の世界というのは、「愛の発展段階」によって世界が分かれている、ともいえるんだよ」

勇二 「愛の発展段階が進んだ人ほど、高い世界に住んでいる、というわけだね」

正太 「そう。つまり、あの世を分けている次元というものも「愛の発展段階」に応じて分かれている、ともいえるんだ」

勇二 「へーえ、じゃあ一番下の4次元幽界というのは「本能の愛」ってわけ?」

正太 「そうなんだ。4次元幽界というのは、「愛の発展段階」でいうと「本能の愛」の段階なんだね。そして5次元善人界というのは「愛する愛」、6次元光明界というのは「生かす愛」、7次元菩薩界は「許す愛」、8次元如来界は「存在の愛」、9次元宇宙界は「仏(神)の愛」というふうに、あの世の次元の違いというのは、愛の発展段階の違いでもあるんだよ」

勇二 「なるほどね。あと、地獄というのは4次元幽界の下部にあるわけだよね。愛の発展段階で言えば、っていうか全然発展してなくて逆の方にいってるわけだけど(笑)、「奪う愛」にあたるわけだね」

正太 「そうなんだ」

勇二 「ところで、人間が死んだ後、どういう世界に還るかっていうと、大別すれば「生前、その人が思ったこと、行ったことの両方を見て、善のほうが多ければ天国に還ることができ、悪のほうが多ければ地獄に堕ちる」ということだけど、より詳しく言えば「一生を通算した平均の心の波長の世界に還る」ということだったよね?」

正太 「そうそう」

勇二 「つまり、上がったり下がったりのブレはあっても、一生を平均すると「愛する愛」という5次元善人界の波長を出していた人は、5次元世界に還れるというわけだね。あるいは、上がり下がりのブレはあったけど、一生を平均すると「生かす愛」という6次元光明界の波長を出していた人は6次元世界に還れるというわけだね」

正太 「そうなんだ。ただし、より正確にいうと、波長というのはそんなに大雑把なものじゃなくて、各次元はそれぞれ大きく「上段階」「中段階」「下段階」の三つに分かれているし、さらにそれぞれの領域が、波長の精妙さによって無数といえるほど細かく分かれてはいるんだけどね」

勇二 「すると、「現代人の半分以上は地獄に堕ちている」ということは、その半分以上の人たちっていうのは、この世に生きている間、心の状態は上がったり下ったがりのブレはあったけれど、一生を平均すると、「奪う愛」という4次元下部の地獄界の波長を出していた人、ということになるわけだね?」

正太 「そうなんだよ」

勇二 「うーん。心の中で、しょっちゅう「愚痴」とか「不平不満」とか、「足ることを知らない欲望」とか、「怒り」や「嫉妬」とかの思いばかり出していたら、やっぱり一生を平均すると、水面から下、地面から下になっちゃうんだな。愛の発展どころか、合格点すら取れなくなっちゃうわけだ」


人類史にそそり立つ偉人の愛であり、「時代精神」としての「存在の愛」 

2007-05-24 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
勇二 「あの世的な愛、天使の愛かあ。まあ、僕みたいな凡人にはよくわからないけど、ヘレン・ケラーとかマザー・テレサみたいな人の愛なんだろうね。この世的なエリートを超えた聖人のような人の愛という感じがするね」

正太 「愛には、まだこの上の段階があるんだよ」

勇二 「えー、まだあるの? もう、どんな愛かなんて見当もつかないな」

正太 「これは「存在の愛」というんだ」

勇二 「存在の愛? 存在じたいが愛なわけ?」

正太 「そうなんだよ。「存在の愛」というのは、「その人の存在そのものが愛である」という愛なんだね。その人がこの世に存在するだけで、その人が人々の人生のある瞬間を通過するだけで、人々を転迷開悟させるような、人々の人生を一変させるような、人々を廻心に導くような愛なんだ。
 たまたま同じ時代に、その人がこの地上で生きているだけで、世界が明るくなり、人類に希望の灯が灯されるような、そうした人の存在。
 その人が誰かを愛するからそれを愛だというんじゃなく、その人が美しい言葉を語るから、それを愛とよぶのではなく、その人が優しくしてくれるから、それを愛だというんではないんだ。その人の存在じたいが愛であり、愛そのものが存在しているかのような人格をもった人。こうした人が「存在の愛」の体現者なんだ」

勇二 「うーん。存在そのものが愛、ねえ」

正太 「「許す愛」が徳高い宗教家の愛とするなら、「存在の愛」というのは、人類史にそそり立つ偉人の愛であり、この世の光であり、「時代精神」なんだね」

勇二 「ほーお、時代精神」

正太 「そう。「存在の愛」というのは、もはや一対一の愛じゃなく、一対多、あるいは放射線のように発散されている愛なんだ。単に自分のまわりにいる人だけを照らすんじゃなくて、時代を越え、地域を超え、灯台のように光り続ける愛、何百年、あるいはそれ以上経っても人類の歴史の中で燦然とした光を放っている人たち。そうした人類史の中でも大山脈のような人の愛なんだ」

勇二 「なんだか、すごすぎて気が遠くなりそうだな」

正太 「この「存在の愛」というのは仏教でいう「如来」の愛なんだね。キリスト教的にいえば「大天使」の愛なんだよ」

勇二 「へーえ、たとえば、どういう人たちがそうした「如来」なのかい?」

正太 「人類にとって偉人中の偉人であり、「人類の教師」でもあるお釈迦様やイエス様といった方たちも如来ではあるんだけど、厳密には「大如来」といってさらに高い存在なんだね。如来としては、たとえば哲学者だとソクラテスやカント、仏教系では天台大師や薬師如来、キリスト教系ではバプテスマのヨハネや聖アウグスチヌス、中国では老子や荘子、政治家ではガンジーやリンカーン、芸術系ではレオナルド・ダ・ビンチやバッハ、科学者ではアインシュタインやエジソンといった人たちが如来なんだよ。もちろん今上げた人たちはあくまでも一部だけどね」

勇二 「へーえ」

正太 「如来というのは根本的な思想を遺せる人で、独自の思想でじゅうぶん文明、文化を創っていける人たちなんだ。そうした如来が、文化的な高み、時代の高みをつくるために地上に出て、大きな「法」の中心、あるいは文化や芸術の中心となって活躍し、時代を押し上げていくんだね」

勇二 「ふうむ。じゃあ、お釈迦様とかイエス様の愛というのは、そうした「存在の愛」のさらに上の段階というわけだね」

正太 「そう。この「存在の愛」の上には、人類としては最高の、人霊としては最高の「救世主の愛」というのがあるんだね。ただ、これはもはや、人間が修行の目標とすべき愛ではないんだ。というのも、この愛の段階というのは、神(仏)によって命じられた神(仏)の道具として、最高の代理人として選ばれた人の愛だからなんだよ。
 だから「存在の愛」の上には、単に「神の愛」あるいは「仏の大悲」があり、神仏の人類に対する大きな導きの愛、進化を願う愛があるんだ、という認識で満足すべきなんだね」


善悪を超えて人々を包み込むように愛する、という宗教的境地に達した「許す愛」 

2007-05-23 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
勇二 「なるほどねえ。「本能の愛」そして「愛する愛」、最後に「生かす愛」か。人を生かす、なんていう高度な愛を目指して、人間、修行をしているわけだ」

正太 「おっと、早まらないでね。「生かす愛」っていうのは、まだまだ愛のゴールじゃないんだ。さらに、その上の段階があるんだよ」

勇二 「えっ、まだ上があるの? 一生懸命努力して自分を磨いて、人様を導いていけるようになって、その上にまだやることがあるわけ?」

正太 「そうなんだ。この上に「許す愛」という境地があるんだよ」

勇二 「許す愛? 人を許すのが、生かすことより上なのかい?」

正太 「うん。生かす愛だけではまだ不十分なんだ。というのも、単に人を生かすだけなら、才能の才があれば、あるいは、他人を上まわる知性があれば可能だからなんだね。だけど、愛には、才能や知性や努力を超えた愛があるんだよ。才能を超えた「徳」をもってはじめて出現する境地、それが「許す愛」なんだ」

勇二 「ほー、才能を超えた徳、ねえ」

正太 「これは、単にこの世的に優れているという基準だけじゃなくて、もう一段大きな宗教的な境地に達していて、善悪を超えて人々を包み込む愛なんだね。「許す愛」の段階というのは、一般の人とはかなり境地が違っていて、愛の器が大きくて、許容する範囲がひじょうに広くなっているんだよ」

勇二 「ふうむ」

正太 「霊的進化の速度というのは、どれだけ多くの寛容さをともなうか、ということで計れるんだね。「生かす愛」の段階だと、その指導者というのは優れているし、他の人たちを伸ばすという力は持っているんだけど、宗教的見地からの許す愛、寛容さの愛というものがにじみ出してくるほどには、まだ魂の器そのものが大きくなっていないんだ」

勇二 「でも「許す愛」といっても、悪いことをしても認めちゃう、ってことじゃないんだよね」

正太 「もちろん。「許す愛」というと誤解されやすいんだけど、べつに「いいよ、いいよ、何をしてもいいよ」ということを言ってるんじゃないんだ。「生かす愛」の段階で、善悪、正邪、あるいは優劣というものを十分学び、また人々の善なるものを伸ばしていくという実践を十分経た上で、さらに、そうした悪なるものをも単に裁きの目で見るんじゃなく、包みこむようにして、善導していく、救っていく境地のことなんだ」

勇二 「ほー、包み込むようにして」

正太 「うん。他人を許そうとする段階というのは、他人の悪というのが小さく見えてくる段階なんだね。これが自分と対立するような敵のように見えているときは、まだなかなか許せないんだ。ところが自分の器というものが大きくなり、いちだんと大きな宗教的境地に飛躍して、大きな光の化身になってくると、ちょうどお釈迦様が慈悲の目でもって衆生を見たように、優しい目でもって人々を見ることができるんだよ」

勇二 「優しい目でねえ。…ふうむ、生かす愛っていうとこの世的に優れたエリートの愛って感じだけど、許す愛っていうのは、仏様っていうか、もっと尊い感じの愛なんだね」

正太 「そう。人を許せるためには、人々の苦しみ、悲しみがわからないと、なかなか許すことができないんだね。ちょうど、頭のいい人が、不器用な人、要領の悪い人を見ても、なぜそうなのかが理解できずにイライラしたりするのと同じなっちゃうんだね。
 どんなに優れた資質、才能の持ち主でも、多くの苦難や逆境、苦しみ、悲しみを経験して、そうした辛酸から立ち上がってくることによって、初めて、人々に対するほんとうの意味での優しさが出てくるんだね。この、ほんとうの意味での優しさが出たときが人を許すことができる段階なんだよ」

勇二 「ああ、苦労した人ほど他人の苦しさがよくわかるっていうよね。そうした面があるわけか」

正太 「魂の修行をしていても、つまずいてしまったり、挫折したり、地獄に堕ちていく人もいるわけだね。しかし、ほんとうは、そうした失敗して、挫折していく人たちをも包み込む、神様の大きな愛というものがあるんだよ。地獄の底をも支えている仏の大きな大きな愛があって、人間はその中で生かされているんだね。
 失敗して地獄に堕ちたからといって、人間を「廃止」されるわけではない。またチャンスが与えられる。何度でも、何度でも、永遠にやり直しがきくから「よし、がんばってみよう」という気が起きてくるんだね。そこには小さな善悪を超えた大きな許しがあるんだよ。
 人間というのは、自分の置かれた環境の中で、悪を捨て善を取る勉強をしているんだけど、それを超えた大きな世界には、それらを包み込む大きな愛があるということなんだ。だから、「人を許す境地」というのは、「人を生かす境地」よりも大きなものなんだね。それは、仏の境地に近いんだよ」

勇二 「そうだね。たしかに、もっと大きな愛だね」

正太 「この許す愛の境地に達した人は、仏教的には「菩薩」、キリスト教的には「天使」と呼ばれてきたんだね。要するに「許す愛」というのは、菩薩(天使)の境涯のことなんだ。
 そして菩薩、天使といった人たちの主たる関心は「利他」なんだね。心において「愛」、行いにおいて「奉仕」。自分のためではなく、他人のために生きる。人々の幸福のために、人々を救うために生きる。そうした海のような大海のような境地なんだ。
 だから「生かす愛」というのが、この世的に優れた人の愛であるのに対して、「許す愛」っていうのは、この世を越えた愛、あの世的な愛に近づいてきているんだよ」




指導者の愛、導き手の愛としての「生かす愛」 

2007-05-22 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「この「愛する愛」というのは進化していくことがあるんだね」

勇二 「ほーお、それはどんな?」

正太 「うん。その人が霊的に成長、あるいは飛躍していくのに伴って「愛する愛」というのは「生かす愛」というものに高まっていくんだよ」

勇二 「へーえ、生かす愛」

正太 「「生かす愛」というのは「他の人を導く愛」、つまり「指導者の愛」のことなんだ。リーダーとしての愛、教育者としての愛のことなんだね」

勇二 「なるほどね。指導者の愛っていうのは「愛する愛」よりも、たしかにグレードは上だろうね。ほんとうの意味でのリーダーになるには、やっぱり優れた人じゃなきゃなれないだろうしね」

正太 「そうなんだ。他の人たちを導ける人、生かすことができる人というのは、優秀な人じゃなきゃ不可能なんだね。まわりの人に面倒を見てもらわないといけないような人では、人を導くなんてことはできないんだよ。
 人を導こうとする人は、ふつうの人以上に努力精進して、自分の磨きということを重視して生きてきた人じゃなきゃいけないわけなんだ。その人が、学者であるか、芸術家であるか、政治家であるか、経営者であるか、分野はさまざまに分かれてくるだろうけど、いずれにせよ、人を導けるだけの才能、あるいは器というものが必要とされるんだね」

勇二 「じゃあ、「生かす愛」っていうのは、「愛する愛」と違って、誰にでもすぐに実践できる愛というわけにはいかないね」

正太 「そう。この愛を実践するには少し鍛錬が必要だし、そうした鍛錬の結果、リーダーとなれるだけの能力、資格、資質を備えなきゃいけないんだ。この世的にも優れていて、才能もあり、世の人々を指導できる人たちの愛というのは、通常の人間の他の人に対する親切さという意味での愛を超えているといえるし、高級霊の役割に近いところがあるんだよ」



「愛する愛」は、縁あって人生の途上で出会った人たちを愛していこうとする段階 

2007-05-21 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「この「本能の愛」の上に「愛する愛」というものがあるんだね」

勇二 「愛する愛?」

正太 「これは、いわゆる「与える愛」のことで、愛の本質というのは、手に入れたい、愛されたいということじゃなくて、「人に与えるものなんだ」ということを悟っている段階の愛なんだね。
 つまり、肉親というような、生まれもっての絆のある者を愛するというのをこえて、人生の途上で会った人たち、直接には利害関係のないような人たち、会社とか、学校とか、社会の中とか、そうしたところで出会った人々を愛することに目覚めた段階の愛なんだ」

勇二 「なるほどね。会社の同僚とか学校のクラスメートとかご近所の人とかは、肉親とか異性といったような本能で愛するような対象を越えてるもんね」

正太 「この「愛する愛」というのは、イエス様が言った「隣人愛」のことなんだね。「隣人愛」というのは、隣に住んでいる人を愛しなさい、ということじゃなくて、縁あって人生の途上で出合った人たちを愛しなさい、ということなんだ。こうした愛は、家族とか異性とかへの愛よりは、努力を伴う愛、また霊的にいっそうの目覚めが必要な点で、より高次の愛といえるんだよ」

勇二 「ふーむ。「自分が好きな女の子とか家族のためなら何かしようと思うけど、それ以外の人は知りませーん」なんていう心境じゃ、この愛の段階まできてないわけだね」

正太 「「愛する愛」というのは、すべての人に可能な愛なんだ。すぐに実践ができる愛で、「自分がしてほしいように他人に接する。自分がしてほしくないことは他人にしない」、そして「笑顔と優しい言葉」の大切さ。こうしたことを、日常生活の場で出会う人たちに対して、当たり前のこととして実践できることが、天国に還るための条件なんだよ」

勇二 「なるほどなー。ごく基本的なことのはずだけど、言われてみると、けっこうできてないなあ」


最低限の愛であり、より高次な愛に目覚めるきっかけとしての「本能の愛」

2007-05-20 | 霊界の次元は「愛の発展段階」で分れている
正太 「「愛」つまり「与える愛」といってもレベルに違いがあるんだね。愛にも段階があるんだよ」

勇二 「ほー、じゃあ愛の段階が上がると、魂が向上した、霊格が上がった、ということになるわけだね」

正太 「うん」

勇二 「じゃあ、その愛の段階というのは、どうなっているの?下から順にいくと」

正太 「まず、さっきもちょっと触れたけれど、一番下の愛として「本能の愛」というのがあるんだね」

勇二 「ああ、男女の愛がそうだって言ってたね」

正太 「うん。これは、努力以前、修行以前の愛で、生まれつき愛するようにできている部分のことなんだ。ちょうど子猫が親猫を愛するように、本能的に愛するように義務づけられている愛として、こういうものがあるんだね。たとえば、肉親への愛、親、兄弟、あるいは妻、子供、こうした身内への愛、あるいは男性であれば女性、女性であれば男性という異性への愛だね。
 この「本能の愛」が悪い方向、つまり執着とか「欲しい欲しい」という渇愛として展開してくると、地獄が生まれてくるんだよ。
 結局、「本能の愛」というのは、より高次の愛を知るためのきっかけであって、最低限の愛として与えられているものなんだ。少なくとも魂修行の目標とするようなものではないんだね。これをきっかけとして、もっと高度な愛に目覚めていきなさい、というのが、仏の心なんだよ」

勇二 「へーえ。愛なんていうと、男女の睦みあいばっかりイメージしちゃうけど、こうした愛は、まだ入り口にすぎないということなのか」


「魂の向上」とは「愛の発展」を意味する 

2007-05-19 | 「魂の向上」とは「愛の発展」を意味する
正太 「憑依霊の取り方ということでだいたい話しおえたんだけど、ちょっとここで、今までの議論を整理しておこうと思うんだ」

勇二 「そうだね。そろそろ頭の中がパンパンになってきたんで、そのほうが僕も助かるよ」

正太 「今、何を話しているかというと、これから先に、臨終を迎えた後のあの世の世界について説明をしていくので、その前に「この世の意味」について説明しておきたい、ということなんだね」

勇二 「そういえば、そうだったね。考えてみたら、まだ、本論に入ってもいなかったんだな。三途の川を渡ったら、あの世の話にかかりきりになっちゃうから、ということだったね」

正太 「うん。で、簡単にまとめると、まず、この世というのは、人間の本来の住処であるあの世の天上界に比べて、10倍くらいの密度をもった魂の修行場で、そうした厳しい修行場で努力するからこそ「魂の進化」が得られる、ということなんだね。
 この世に生まれると、魂は霊的に目隠しされた上、「物質の束縛」の中で修行することになるんだけど、そうした厳しい環境は、あくまでも魂の進化、発展のために用意されているということなんだ」

勇二 「うん」

正太 「ただし、この世というのは、そうした修行の場であると同時に、一種の「試験」の場でもある、ということだね。その人が天国にいたときの悟りが、はたして本物かどうかかが徹底的に試される、テストの場でもあるんだ。だから、この世でどう生きたかによって、あの世の行き先が違ってくる、大別すれば天国と地獄に分かれる、ということだね」

勇二 「うん。要するに、地獄というのは、この世のテストで「不合格」だった人がいく世界ということだよね。ただし、地獄という世界も、堕ちたら永久に堕ちっぱなし、という世界じゃなくて、生前の罪を十分反省すれば、また天国に還ってこれる。天国に還ってくれば、またこの世に生まれ変わることもできるということだね。
 つまり、地獄からはこの世に生まれ変わってくることができない。そのため地獄霊は、自分たちと同じ心境の地上の人間に対して憑依することによって、地獄の苦しみから逃れようとする場合が多い。しかし、憑依という行為は悪であって、そうしたことを重ねるとますます罪が重くなって地獄から出れなくなってしまう、ということだね」

正太 「そうそう。よくわかってるねー、すごいじゃん」

勇二 「先生がいいからね(笑)。それに「落第」するのは、学生時代で終わりにしときたいし」

正太 「天国への「受験対策」というのは、早めに取り組むほどいいんだよ。
 で、その天国に還るための合格基準だけど、これは「生前、その人が思ったこと、行ったことの両方をみて、善のほうが悪よりも多ければ天国に還ることができ、悪のほうが善よりも多ければ地獄に堕ちる」ということだね」

勇二 「つまり、地獄というのは、殺人とか強盗とか、警察につかまったり刑法に触れるような犯罪行為を犯した人だけが堕ちる世界じゃない、ということだよね」

正太 「そう。実際、現代人の半分以上は地獄に堕ちている、という厳しい現実があるんだ」

勇二 「重要なのは、「行為だけじゃなく、生前、心の中で何を思ってきたかが問題になる」ということだよね。そして、心の中で犯す罪というのは非常に範囲が広いということ。地獄に堕ちる原因になる悪想念としては、えーっと、メモしといたんだよな。

ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、憎しみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁鬱、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、地位欲、名誉欲、不調和  

といったことだね。
 その人が思ったこと、行ったことというのは、魂の中の「想念帯」という部分にすべて記録されていて、愛や慈悲といった、神様の心に適った思いと行いは金色で記されているけど、今上げたような悪想念の記録は灰色で記されている、ということだね」

正太 「うん。ただし、灰色で記された悪想念、マイナスの思いの記録も、それをしっかり「反省」することによって、金色に変えることができる、ということだね。だから「反省」というのは、単なる道徳論じゃなくて、天国に還っていくための大きな武器なんだ。
 また、マイナスの思いを持ったり、悪い行いをすると、心に曇りができるんだけど、反省することによってそうした「心の曇り」を取る去ることができる。さらには、「波長同通の法則」によって、悪想念、執着、心の曇りに取り憑いてきた地獄霊も、反省によってはずすことができる、ということ。憑依霊を取るには、反省の他に、「感謝」や「与える愛」の実践が有効だし、憑依を防ぐには「健康生活の維持」も大切だ、ということだね」

勇二 「というところまで、話がすすんできたわけだね」

正太 「ここまでは、反省を中心に、どちらかというと、マイナスの生き方を「リカバリー」する方法について語ってきたんだね。「心の中の赤字の記録を黒字(金色)に変える」「心の曇り、汚れを取る」、あるいは「憑依霊をはずす」とかね。というのも、霊的にみると、赤字の多い、借金の多い人生を送っている人が、とても多いからなんだ。
 そこで、ここからは原点に戻って、地上人生の本来の目的である「魂の修行」つまり「魂を磨き、高める」ということについて、説明していこうと思うんだ」

勇二 「ふーむ。人生の「目的と使命」は「魂修行とユートピア建設」ということだったね。たしかに、「魂の修行」つまり「魂を磨いて、高める」ことが人生の目的だ、って聞いても、なんとなくイメージはできるんだけど、じゃあ、どういう方向に向かえば魂が高まったのか、といえばはっきりとはわからないね」

正太 「うん。地上人生の目的は、「魂の向上」あるいは「霊格(人格)の向上」「心の境地の向上」「精神的な向上」といった表現ができるんだけど、これは昔から仏教で説かれてきた表現をすれば「悟りを高める」ということと同義でもあるんだね」

勇二 「「悟り」ねえ。なんだか、ますますわからなくなりそうだな」

正太 「この「悟りの向上」というのは、実は「愛の発展」でもあるんだね。つまり、「魂の向上」というのは、「愛の発展」を意味しているんだ。その人の愛が発展すれば、その人の魂は、あるいは霊格(人格)は高まった、と言えるんだよ」

勇二 「へーえ」




憑依霊が取れると、身体が非常に軽くなり、心が明るく温かくなる

2007-05-18 | 心の波長を変えない限り除霊の効果は一時的
勇二 「まあ、ここまで憑依された場合の状態とか、憑依霊の取り方について聞いてきたわけだけど、じゃあ実際に憑依霊が取れるとどんな感じになるんだい?」

正太 「うん。反省によって悪霊が取れる瞬間というのは、パリッと剥がれる感じがするんだね。ほんとうに、壁紙でも剥がすように、パリッと剥がれる感じがするんだよ。
 そして身体がものすごく軽くなるんだね。肩も、腰も、頭も軽くなるんだ。自分は今までどうしてこんなに重い生活をしていたのかと思うくらい、身体が軽くて軽くて、嬉しくて浮き浮きするような感じがするんだよ。
 そして顔に赤みがさしてくるんだ。悪霊が憑いていると、たいてい顔も青白くて、人相も悪く、景気の悪い顔をしているんだね。黒ずんでいたり、死相が出ていたりするんだけど、憑依霊が取れると、身体に光が入ってくるので、その顔にパッと赤みがさして、身体がサーッと温かくなったりするんだ」

勇二 「そうか、憑依される、っていうのは、そんなに重いものなんだね」

正太 「そう。さっきも言ったけど、一人、二人、あるいは三人とかの霊の苦しみを背負うと、やっぱり重いものなんだよ。というのも、人間というのは霊的な存在だからなんだね。
 悪霊がずっと憑いている人というのは、いつも二日酔で身体がだるいとか、タバコをずっと吸っている人が食事がまずいとかいうのと同じで、いつも何かだるくて、重くて、面白くなくて、辛くてという気持ちがずーっと続いているんだね。
 それが、憑依霊が取れると明るい、暖かい、軽い感じになって、久々に雨がやんで晴れ上がったときのように、飛んだりはねたりしたくなるような明るい気持ちになるんだ。それまで冗談も言わなかったような人が急に冗談を言い始めたり、顔に血の気がさしてきたり、楽しそうな顔になって、人から「何かいいことあったの」と聞かれるぐらい変わるんだね」

勇二 「ふーん。心の状態まで一変しちゃうんだね」

正太 「うん。世界というものが、それまで見ていたものと違ったように見えてくるんだね。
 それまでは、どんよりと曇った、苦しく悲しく悪いことばかりがある世界のように、みんなが自分を責め苛むように、世の中は目を離すと悪いことをする人で満ち満ちているように見えていたのが、とたんに世界観が変わってくるんだよ。世の中が明るく見えてくるんだね。そして、人のよいところが見えてくるようになるんだ。
 今まで愚痴ばかり言って、苦虫をつぶしたような顔をしていた人が、気がついてみると、人をほめるようになる、そして明るく積極的になってくるんだ」

勇二 「そうか。そんなに、いいことずくめなら、悪霊というのは取らなきゃ損ソンだね」

正太 「ただ、悪霊が取れても、同じ執着を持ったり悩みを繰り返していると、悪霊はまた戻ってくるから、悪霊が取れた後は、なるべく明るい人生観を持って生きることが大事なんだ。どうやって悪霊と波長を合わせないようにするかということだね。だから、悪霊の苦しみの波動と合わないような、建設的で明るい生き方をしていかなくちゃいけないんだよ」


「多重人格障害」は複数の憑依霊が肉体に出入りすることによって起きる

2007-05-17 | 心の波長を変えない限り除霊の効果は一時的
勇二 「なるほどね。ところで、さっき、酔っ払いには浮遊霊とかが入り放題になったりする、っていう話がでたよね。それで思い出したんだけど、最近よく取り上げられる「多重人格障害」というのも、憑依と関係があるのかい?」

正太 「うん。多重人格者のなかにも、やっぱり、憑依霊はかなり入っているんだね。憑いている霊が本人の魂を追い出して入ってしまうから、まったく別の人格になってしまうんだ。ところが、憑依霊は長くは憑いていられないから、本人の気分が変わったら出て、そのときには、また違うものが入ったりするんだよ。それで、5人、10人と、何体もの魂が出入りしているというわけなんだ」

勇二 「いろんな霊が、入れ替わって支配してくるから、本人に複数の人格があるように見えるわけだね」

正太 「そう。本人自身の守護霊が入る場合もあるんだけど、たいていの場合は、本人の霊体の力が弱いので、本人の魂が追い出されてしまって、他のものに次々に入られている状態なんだね。ちょうど「空き家」のようになっていて、他の霊に入られているというのが、多重人格なんだよ」

勇二 「本人の魂を追い出す、っていうと、取り憑く、なんていうレベルじゃなくなってくるよね」

正太 「憑依が進行して強度のものになると、そうした状態になるんだね。肉体に出たり入ったりしているうちに、最後は離れなくなって、完全に乗っ取るというかたちになるんだ。そうなると、本人の魂は「霊子線」(シルバー・コード)で肉体とつながっていても、事実上、肉体の外に追い出されて、違う魂が体内にズバッと入っているかたちで生活することになってしまうんだ」

勇二 「うーん。こわいねえ」

正太 「だから、酒びたりの生活とか、滅茶苦茶な生活をすれば、悪霊は入り放題になってくるし、酩酊したあげく霊に憑依されて、おかしくなっている人や、精神に異常をきたして病院に入っている人のなかには、事実上の霊能者、「悪霊能力者」になっている人も多いんだよ」