blog-鹿苑

鹿の覚書

破壊と創造

2008-10-22 | 覚書
私たちはどの瞬間も感じ、知り

いつしか知ったものであろうとし、知ったようにあろうとする

記憶はいつも今に付随し、追いつこうとし続けるが

いつしか追い越してしまったことには気付かない

私たちは今を掴もうとしなくても

掴んでしまう

知ってしまう

感じてしまう

心動いてしまう

出来ることは

出来上がった自己を破壊すること

掴んだものを手放すこと

そうでなくては新しい瞬間を掴むことは出来ない

ヒンドゥー教では破壊神は即創造神であると聞く

キリスト教でも神は創造し、世界を滅ぼすという

臨済は言った

「仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢に逢うては羅漢を殺し。
父母に逢うては父母を殺し。親眷に逢うては親眷を殺し。始めて解脱を得ん。」

捨てる運動

破壊すること

これは連続する必要がある

次の瞬間は今と連続しているが

そこは今と地続きではない

次の瞬間は

そこに行く事無しには

そこに何があるか実は全く分からないのだ

ただそこに行け

ただ生きよ


鹿苑の鹿









事が起きる瞬間の自由度

2008-10-14 | 覚書
鷹から逃げる兎の動画

食べられる側の兎も、その能力を存分に発揮する時、どうやら逃げられる可能性もあるようだ。

というか、鷹の方が不利にさえ見える。

鷹の方も、空中で三次元の兎よりも遥かに高い自由度をもっているとしても、接触しないで捕まえられるわけではない。

空中運動可能で三次元運動可能な鷹、陸上生物という意味では二次元の運動でしかない兎、どちらにしても出会う瞬間は一点。

そこでしか事は起きない。

鷹の自由度は、どうもより速やかにその一点、接触の瞬間まで己を運ぶかということにだけ向けられているように見えるほど、兎が、それこそ脱兎の如く逃げながらもその瞬間を淡々と冷静に見極めている。

接触の瞬間は結局その瞬間の自由度が問われるのであって、その一点においては、実は互いに平等に性能発揮のときが与えられている。

自由度とは、与えられている能力が大きいか、少ないかとは全く別の次元にあるものなのだと思い知らされる。

仮手の練習を行う皆さんに見てもらいたい動画かも知れない。


鹿苑の鹿