blog-鹿苑

鹿の覚書

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韓氏意拳養生功

韓氏意拳養生功

 養生とはなにかを強化することではない、生を養うの言葉は、元々備わるものを見つけ生かすことであり、養生功の運動にあたってはまず「順」「逆」について把握する必要がある。

 「順」とは自然な過程のことである。「逆」とはそうではないもののこと。

 ただ手を挙げる、寄せる等の運動「站樁功」によって「順」を把握してみたい。手を挙げれば手を挙げるための機能が発揮され、その機能を働かせうるだけの安定性があればそれで十分である。それに対し多くも少なくもなく、ただ自然に手を挙げることができればそれでよい。そのなかではただ挙げてゆくに従って変化してゆく感覚や構造と出会う。    
 「多くも少なくもなく」と言うと難しく感じるかもしれないが、この多くも少なくもないというのが自然の特徴であり、逆に自然の状態では常にこのようであり、自然に行うことで自身にこれを見いだすことができるかもしれない。この「ちょうど良い」状態を自身に見いだし、このちょうど良くあろうとする働き、「自然調整能力」、「適応力」、「順応性」というようなものを生かしてゆくことが韓氏意拳養生功の目的である。
 ところがその運動の中で「逆」を見いだすこともあるだろう。変化しないようにする「逆」、故意に変化させる「逆」がそれだ。その「故意」にというところが問題であり、それが全体の自然な調和や協調を乱すということが感じられるだろう。
 そういった意味で身体的な部分はもちろんのこと、「自我、自意識」(意識を意識する意識)と「我、意識」(意と感受の「順」過程)の関係など、自身が自身であると思い込んでいる、もしかしたら偏りがあるかもしれない自意識、自身への印象などからの開放という、心理的な面にも大きく関係する。

 また全身を伸びやかに動かす「健身功」の運動を通し、ひとつの運動によって生じる全身の協調性、連動性に目を向けてみたい。ここでは、合わせようとして合わせる「逆」とは異なり、合わせずして合う天然の「順」過程を見いだすことができるかもしれない。また、純粋に体を動かす愉しみも十分に味わうことができると思う。

 養生功とは「ちょうど良くあろうとする」自然の働きを自身に見いだし、生かして行くための一つの手段だが、本来実は生活行為そのものが養生なのではないかと思う。生活中にあっては多くの変化に富む事柄に否応なく応じなければならない。歩くときにはただ歩き、そうすれば自ずと状態も構造も歩くに適し、休めば休むに適し、作業をすれば作業をするに適するという、ちょうど良くあろうとする働きを、さまざまな事に応じ現すという、まるで日々たゆまず訓練を行っているかのようである。
 もちろんそのためには「順」という状態が必要になる訳で、常に人がそれを完全に行いうる訳ではない。気が乗らない時もあるし、考えすぎるときもあるだろう。この養生功は自然な順応性を体験を通じ、自らのうちに思い出し、我々があたりまえに持つ、多くも少なくもなく調和する働きを生活に、拳を学ぶ者にとっては拳の中にも、さらに生かして行こうというものだ。

(2011年7月16日 「今を生きる人の集い」韓氏意拳養生功初公開にあたって 鹿間裕行)

時知一致

その時、その時の事を十分に知る。 知覚作用はこのようなもの。 時をすぎればそれは思い出のようなもの。 熱いものに触れた時、それが熱いと知る。 事後にそれは熱かったと思うが、今もまだ熱いかは今一度触れなければ分からない。 触れてみてやはりそれが熱くても、思い出の中のそれが本当に熱かったか、どれくらい熱かったかはもはや触れる事の出来ぬ領域。 ただそれはそのような傾向にあるものという理解は成 . . . 本文を読む

実感一致

感覚を観る こういって我々は違和感を感じない しかし存在ある時、行為ある時そこに影が形に添うように感覚があるのであって、感覚を観ようとするとき「実」と「感」は分裂する。 それが感覚というものではないだろうか。 そこにある時、それをする時、それを十分に知っている。 それ以上に知ろうとするとき、その中から知るという要素だけを取り出そうとするとき、感覚は時の中から取り出され、実と切り離される。 . . . 本文を読む

検証

検証するためには具体的な事例を必要とする。 しかしわれわれがわれわれ自身について検証する必要があるのはわれわれそのもの、生命についてではないだろうか。 検証するためには具体的な事例を必要とする。 検証において見出されうるのは、ある具体性の中での特徴や性質である。 それが指し示すのは生命活動のもつ傾向のようなものだ。 ところが、常に人には、それをただの傾向であるとして受け取り、そのままにし . . . 本文を読む

主と変と時

変化を観るに 観察者が参加者でない変化は 変化のなんたるかを観ることはない。 主動が変化であり 主から切り出した 思考を思考した上での変化や時は 観念を観るのと同じ。 . . . 本文を読む