blog-鹿苑

鹿の覚書

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韓氏意拳養生功

2011-07-20 | 覚書
韓氏意拳養生功

 養生とはなにかを強化することではない、生を養うの言葉は、元々備わるものを見つけ生かすことであり、養生功の運動にあたってはまず「順」「逆」について把握する必要がある。

 「順」とは自然な過程のことである。「逆」とはそうではないもののこと。

 ただ手を挙げる、寄せる等の運動「站樁功」によって「順」を把握してみたい。手を挙げれば手を挙げるための機能が発揮され、その機能を働かせうるだけの安定性があればそれで十分である。それに対し多くも少なくもなく、ただ自然に手を挙げることができればそれでよい。そのなかではただ挙げてゆくに従って変化してゆく感覚や構造と出会う。    
 「多くも少なくもなく」と言うと難しく感じるかもしれないが、この多くも少なくもないというのが自然の特徴であり、逆に自然の状態では常にこのようであり、自然に行うことで自身にこれを見いだすことができるかもしれない。この「ちょうど良い」状態を自身に見いだし、このちょうど良くあろうとする働き、「自然調整能力」、「適応力」、「順応性」というようなものを生かしてゆくことが韓氏意拳養生功の目的である。
 ところがその運動の中で「逆」を見いだすこともあるだろう。変化しないようにする「逆」、故意に変化させる「逆」がそれだ。その「故意」にというところが問題であり、それが全体の自然な調和や協調を乱すということが感じられるだろう。
 そういった意味で身体的な部分はもちろんのこと、「自我、自意識」(意識を意識する意識)と「我、意識」(意と感受の「順」過程)の関係など、自身が自身であると思い込んでいる、もしかしたら偏りがあるかもしれない自意識、自身への印象などからの開放という、心理的な面にも大きく関係する。

 また全身を伸びやかに動かす「健身功」の運動を通し、ひとつの運動によって生じる全身の協調性、連動性に目を向けてみたい。ここでは、合わせようとして合わせる「逆」とは異なり、合わせずして合う天然の「順」過程を見いだすことができるかもしれない。また、純粋に体を動かす愉しみも十分に味わうことができると思う。

 養生功とは「ちょうど良くあろうとする」自然の働きを自身に見いだし、生かして行くための一つの手段だが、本来実は生活行為そのものが養生なのではないかと思う。生活中にあっては多くの変化に富む事柄に否応なく応じなければならない。歩くときにはただ歩き、そうすれば自ずと状態も構造も歩くに適し、休めば休むに適し、作業をすれば作業をするに適するという、ちょうど良くあろうとする働きを、さまざまな事に応じ現すという、まるで日々たゆまず訓練を行っているかのようである。
 もちろんそのためには「順」という状態が必要になる訳で、常に人がそれを完全に行いうる訳ではない。気が乗らない時もあるし、考えすぎるときもあるだろう。この養生功は自然な順応性を体験を通じ、自らのうちに思い出し、我々があたりまえに持つ、多くも少なくもなく調和する働きを生活に、拳を学ぶ者にとっては拳の中にも、さらに生かして行こうというものだ。

(2011年7月16日 「今を生きる人の集い」韓氏意拳養生功初公開にあたって 鹿間裕行)

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時知一致

2011-07-20 | 覚書
その時、その時の事を十分に知る。

知覚作用はこのようなもの。

時をすぎればそれは思い出のようなもの。

熱いものに触れた時、それが熱いと知る。

事後にそれは熱かったと思うが、今もまだ熱いかは今一度触れなければ分からない。

触れてみてやはりそれが熱くても、思い出の中のそれが本当に熱かったか、どれくらい熱かったかはもはや触れる事の出来ぬ領域。

ただそれはそのような傾向にあるものという理解は成り立つが、その理解はその時とその知そのものを掴み得ていない。

精神と肉体が分かれて久しい人間だが、そこにあるのはただ一人の人間。

知るとは行う事であり、理解するとはその傾向を解すること。

だから知る事は時の中にあり、理解は時の外にある。

(逆に言っても良いのだが)

「知る」と「理解」を混同すれば時の中から「知る」を切り出し、知り得ない。


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実感一致

2011-07-20 | 覚書
感覚を観る

こういって我々は違和感を感じない

しかし存在ある時、行為ある時そこに影が形に添うように感覚があるのであって、感覚を観ようとするとき「実」と「感」は分裂する。

それが感覚というものではないだろうか。

そこにある時、それをする時、それを十分に知っている。

それ以上に知ろうとするとき、その中から知るという要素だけを取り出そうとするとき、感覚は時の中から取り出され、実と切り離される。

知りたければただ十分にそこにある事、十分に行う事しかないだろう。

その時十分にそれを知るのだ。


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検証

2011-05-10 | 覚書
検証するためには具体的な事例を必要とする。

しかしわれわれがわれわれ自身について検証する必要があるのはわれわれそのもの、生命についてではないだろうか。

検証するためには具体的な事例を必要とする。

検証において見出されうるのは、ある具体性の中での特徴や性質である。

それが指し示すのは生命活動のもつ傾向のようなものだ。

ところが、常に人には、それをただの傾向であるとして受け取り、そのままにしておくことが難しいようだ。

自然な様子にはある傾向がある。検証を通じてそのような傾向を見る。しかしそれがひとつの価値観とし、それをなせば見ているのは自然以外のものである。その人の価値観だ。

検証は検証の適正な使われ方が必要であるはずだ、それをただそれとしてみることができなくなれば、どこかで必ずミスを犯す。

もちろん、この物言いがある行いの完全性を書いたことを許容する言い訳でないように、細心の注意が必要だ。

自然の様子や生命という全体的で相互の関係すべてによって成り立つ(もちろん全体が確定できないのでこれは仮説である)ものに対し、ある検証の方法が用いられ、それがそのためのみに用いられず、ある価値観に基づいたものになるとすれば、それは自然の中に異物を作り出すようなものだろう。

検証の際に、「これであれば」という価値観がわずかでもさし挟まるとすれば、結果を誘導するものであり、検証ではない、それは生命を検証するようなものではなく、価値観に自然を合わせさせるようなものである。

しかしながら検証を以って生命そのものを知ることはできない。生命はただ生きることができるのみ、ただ発露されるのみだろう。

鹿苑の鹿

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主と変と時

2011-05-09 | 覚書
変化を観るに

観察者が参加者でない変化は

変化のなんたるかを観ることはない。

主動が変化であり

主から切り出した

思考を思考した上での変化や時は

観念を観るのと同じ。

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試み

2011-01-27 | 覚書
一挙手一投足、起居進退

まさにその通りであるか。

真の姿であるか。

どの通りかは自身に、意に尋ねよう。


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感覚を大切に

2011-01-27 | 覚書
「感覚を大切にする」と言って見知ったものを大切にすれば、それはただの執心。

時々刻々変化する感覚を受け入れ、捨て去り

定点から見れば、まるで何も大切にしないかの様。

しかして動中より見れば、これ以上大切に仕様も無いものをそこに抱くかの様。

「抱元守一」とはこのようなことか。

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暗示するもの

2010-11-02 | 覚書
私が受ける「感じ」

というものは

私がどの立ち位置でそれと向き合ったか

私がそれをどう考えていたか

私がそれにどのような価値をおいていたか

を暗示している。


その「感じ」に問題を感じたとすれば

それはその「感じ」を与えた何かではなく

私の立ち位置や考えや価値観を省みる時なのだろう。

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全体のやり取り

2010-10-13 | 覚書
「手」と言う言葉は手を指さない

全体の中の「手」を指すのだ。

「手」と言う独立した部位は存在しない。

全ての言葉はその言葉として切り取られた部分を指すのではなく

その名指されし部分を介して全体を示している。

あるいは“全体に属する”その部分を指している。

ゆえに切り取られ、断片的に伝わる全ての情報が

その実質は全体を指すものだと理解しておく必要があろう。

我々は部分的、断片的である事を免れぬ言語を介して、実質は全体をやり取りしているのだ。

つまり嘘など通用しないのだ。




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「先」

2010-10-09 | 覚書
「後の先」、「先の先」と言う言葉から前後関係と言う考え方、見方を除くと

ただ自己を為す己の主動状態が言われ、問われている事が見えるだろう。

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