コラム・インテリジェンス

様様な局面をウィットとユーモアで語る。
個性溢れるコラム。
だといいな、の世界。

真実

2006年08月17日 12時46分30秒 | 分類外
傍目と現実のギャップは恐ろしくも、ときに愉快痛快でもある。


「いやぁ、いつもモテモテで羨ましいです!」

ひょんなところを知り合いに見られたらしい。

虎ノ門の大きな交差点を、昼日中から美女二人に挟まれて歩いていたという。

両側から腕を絡ませていた美女は、シャネルの純白スーツに栗色縦ロールのロングヘア、
パールホワイトの長い爪と、付け睫毛が人目をひいていたらしい。

傍目と現実のギャップは恐ろしくも、ときに愉快痛快でさえある。

その日、少々小難しい仕事を頼んだ見返りに、
Y子とP子が要求してきたのは、極上ランチビールであった。

三ツ星ホテルのガーデンレストランでのランチビールは、
値段もそれなりではあるが、何より、今どきとはいえ、昼から酒盛りの客は稀有である。

後ろめたい気持ちもあり、返事をしぶっていると、
「それではこのお話はなかったことにしよう」Y子とP子は断固としていた。
「それは困る。それだけはお許しください」僕は答えた。
「それなら素直に要求にしたがえ!まず金!♪金を出す気はあるな?!」
「出させていただきます」
「一緒に行くな?!付き合うな?!」
「喜んで」
「おっしゃ~!♪」Y子とP子の威勢のよい掛け声が響き渡った。傍目と現実のギャップは恐ろしくも、ときに愉快痛快でもある。

ふたりの姿を目のあたりに、
荒ぶれた海で戦う男たち、解体作業の逞しい男たち、僕はそんな人間を思い浮かべていた。

両側から腕を絡ませられているように見えるのも、
実は捕獲されている状態であったのだ。
ホテルへ向かう途中で、僕が「あっ、用を思い出した!」などと
逃げ出さないためのリード代わり。

遠めには聞こえないであろうが、
Y子とP子は、僕に腕を絡ませながら、
「えいほっ、えいほっ」と掛け声をかけて歩いている。
捕獲された罪人が、籠に乗せられ、番やにひかれていく、の、状態。
江戸時代の悲劇が蘇る。

傍目と現実のギャップは恐ろしくも、ときに愉快痛快でもある。

このような誤解曲解は、はた迷惑ではあるが、
なぜか少しだけ愉快痛快な気もしないでもない。

地獄の恋

2006年08月17日 12時38分39秒 | 分類外
何が地獄なのかはわからない。地獄は見たことがない。と思っている。
だが人からその時の僕の状況を地獄だと言われたことは多々ある。

肉体的医学的に死の直前までいった。生活仕事も破綻した。地獄。何度も経験した。
学習しないのだ。愚か者。が、その都度運と天と仕事と友人に救われてきた。

「ありのままの自分を見捨てるような人と、本当に友達でいたいのだろうかと
 自分に聞いてみなさい。一生涯続く友人関係においては、
 だれも自分の価値を証明する必要がない」 ウェイン・ダイアーは言う。

恋に走り、すべてを捨てた。すべてを捨てるつもりだった。捨てたはずであった。
が、結果的にはまだ生きながらえている。友人、スタッフに救われてきた。

恋人とともにいるとき、恋人を思うとき、
何年か後にこの人を、彼女を思い出と感じる人生はいらないと思った。

心穏やかに彼女を想うような時間の存在は許せなかった。
「恋の悲劇は死でも別離でもない。それは無関心である」モームは言う。

彼女にそんな悲劇は味あわせたくはなかった。永遠の情熱を捧げる決意がそこにあった。
「もっと愛するほかに、恋の治療薬はないのです」ソローも言っている。
すべてを捨てて彼女に爆心した。専念した。自分も捨てた。身体も立場も。

素敵な部屋とインテリアをそろえた。24時間ともに過ごした。来る日も来る日も。
「愛する事は行動する事である」ビクトルユーゴーも賛成してくれた。

そして別れが来た。すべてを失っていた。つもりだった。が、周りに救われた。
「またやってるよ」「ホント学習しないやつだ」「最低の人間だ」
それでも救ってくれた。全力で助けてくれた。

その代わり救ってくれた人々は未だに当時の僕を語り草、酒の肴、話の種にしている。
学習しないできない人間に話の種は尽きない。笑いもの。愚か者。破廉恥。

周囲の人々の攻撃を受ける時にはいつも決まった言葉でお応えしている。
「恋をして、しかも賢くあることは不可能だ」(ベーコン)
地獄は、恋は、言葉ではなく、人の心にいつでも潜伏しているかのようでもあります。

無分別

2006年08月17日 12時27分06秒 | コラム
30年近く師と仰がせていただいているかたに、久しぶりにお会いした。
不良少年時代から縁あってお側においていただいている。
彼は世間では知の巨人、現代の天才と言われているかたがたのお一人。

「お前はいいよなぁ」早速御託、もとい、御説を拝聴した。
知の修練方法のひとつに読書がある。本には無限大の種類と分野もある。
ひとつひとつの種類と分野の中にもさらにレベルがある。
入門書から一般書、専門書にいたる過程もそのひとつ。

歴史書ひとつとっても、作家ひとりをとりあげても、どれだけ読み込んでいるのか、
どれだけの分量をこなしてきているのか、量と質が問われるわけである。

ひとつの分野のひとつの種類のひとりの作家の一冊を読んだだけの人と、
どれだけの分野のどれだけの種類のどれだけの作家のどれだけの本を読んだ人とでは、
比べようもないのだ。比べられない。どちらが良いとか悪いとかのお話でもない。

面白い図式がある。
ある分野のある種類のある作家のある本を読んだ人の完結度数。
少ない分野の少ない種類の少ない作家の少ない本を読んだ人のほうが、
多くの分野の多くの種類の多くの作家の多くの本を読んだ人より自己完結しやすい。

わかった気になる。納得してしまう。満足。幸せの図式。
自己完結できないでいる人々はさらに進まなくてはならない。一生が勉強学習になる。

「お前はいいよなぁ」そのかたはおっしゃる。お前には専門がない。
なので義務で読まなければならない書物もない。好きなだけ好きな本が読める。

師には師の専門分野に目を通さなければならない時間が必要なのだ。
「おまえはいいよなぁ」は、僕にはその時間が好きな読書に当てられるということらしい。

たしかに相対的にも絶対的にもこちらが有利な気もしないでもない。
なのでお前のほうが読書が、学習がより深く広く進められているのだ。有難いお言葉。
時間の問題でお前は俺を抜き去っていく。有難いお言葉。有難過ぎ。有難過多。

「でも先生、そのお話には決定的な部分が抜けているような気がする」僕は言ってみた。
そもそも個人の素養資質才能が同じならばという大前提のもとでのお話なのだ。
初めからの違いはどうにもならない。それでも努力は続ける。投げやりにはなりません。

「それに先生、○○は最近アルツと健忘症も入ってます!」同行したY子が言った。
「なるほど」師はしばし沈黙した。否定して欲しかった。それでもと言って欲しかった。
「○○とY子ちゃんは分別と無分別をふたりとも共有しているようだ」師は言った。

褒められているのかおだてられているのかけなされているのか叱られているのか。
わからぬままに「なるほど。ありがとうございます」と僕は言った。

「わおっ!先生!ありがとうございます♪」なぜかY子は小躍りして喜んだ。
「じゃぁっ先生!あたしが分別で○○が無分別ということになりますよねっ♪がははは」

「○○も人並みに世間の苦労はしているようだね」
この日はじめて師に褒められたような気がした。
それでもY子に感謝すべきなのかその必要はないのか分別ができないのでした。

錯覚

2006年08月17日 12時23分08秒 | 分類外
笑いのたえない家庭とか、笑顔のたえない関係、雰囲気などという。
幸せの象徴。幸せを絵に描いたような、などという意味のようでもある。

たえない笑いとたえない笑顔があるいじょう、そこに間は存在しない。たえまないのだ。
が、現実には存在する。存在しなければ異様になる。
まるっきりアホの集団になってしまう。

その間にあたたかい空気が流れていれば、
それは紛れもなく平和な空間。幸せな関係が成立している環境なのだ。
が、現実にはなわけにもいかない。いかないからこそ面白いのかもしれない。

このオフィスには笑いが溢れている。笑顔がたえない。
が、平和でもなければ幸せでもない。その反対かもしれない。修羅場。

「**行って来たんだけど」「なんで?」「電車で」「バカか!」「なんで?」
訪問理由を聞かれているのであって、訪問方法を聞かれているのではない。
が、そこに笑いが生まれてしまう。

「どっちかにしておくように」「はい」「はいってこたぁないだろう!はいってこたぁ!」
「じゃぁ、お前は“お飲み物は先にしますか?後にしますか?”と聞かれて
 なんと応えるのだ!?はいってこたぁないだろう!?」が、笑いは生まれる。

「もういやになっちゃうんだよねぇ」「じゃやめろ!」
「やめるつもりもさらさらないんだけどねぇ」「じぇやめるな!」
「なんかいうとすぐこれだもんなぁ~」「じゃいうな!」周りはなぜか爆笑している。

デスクにメモがおいてある。が、署名がない。
“いつもデスクにいるようにしよう!”と書いてある。
「署名のないメモがおいてあるのですが」近くのものに声をかけてみた。

「気のせいじゃないの?」いや、たしかにここにある。
「じゃぁ、ご自分でお書きになったんじゃございませんか?」断じて僕の字ではない。
「○○とうとう自分の字までわからなくなってきたらしい~♪」周りがなぜか爆笑する。

笑いが幸せの象徴だなんて信じない。笑顔は修羅場のトリック画。
ヒトは笑顔と笑いが幸せの象徴だと錯覚してしまう場合もあるらしい。と言ってみた。

「○○が勝手に錯覚してると錯覚しているだけなのだよ」と言われた。また爆笑。
よくわからないままとりあえずはおっしゃるとおりのようなのでした。

横超

2006年08月17日 12時18分23秒 | コラム
出血多量により迎える死が、比較的楽チンであったことは以前にふれた。
だいいちホントに死んじゃったわけでもないし、なにしろ出血多量なのだ。
脳に血が回っていない。脳が機能していない。痛みも恐怖も感じなくなっている。

だからといって毎回、いつでも出血多量による死をリクエストするわけにもいかない。
だいいち死は毎回というわけにもいつでもというわけにもいかないのだ。

出血多量の死をリクエストしないで、しかも楽チンな方法はないのだろうか。
これがあるらしい。あるものなら是非体得しておきたいワザのひとつではある。
[関連したBlog]〔用意はいいか〕

「不生不滅」は生まれない滅しないことではない。
生まれるでも滅するでもないということ。生と滅、生きると死ぬを区別しないことなのだ。

生きることでさえよくわからないものを、死ぬことなんてわかるわけもない。
どうせわからないのなら今、生きていることに全力で専念努力してみようではないか。
般若はそう言っている。生と死を区別しないで超越してしまえと言うのだ。

生とか死とかを考えずに、いや、必死に考えて超越しましょっ、ということらしい。
死はわからないから怖い。ただ怖がっていてもしようがない。
だったら考えないようにしようでは、いつまでたっても恐怖は去ってはくれない。

立派なかただと思っていたかたが、死の間際の往生際の悪さを見せることがある。
多くのそういうかたを見てきた。死から逃げまくって生きてきたから、
死を考えないようにして生きてきたから、いきなりの死にうろたえる。

いっぱいたくさん考えて準備して、できれば超越してしまいたいものではある。
が、なかなか、ほとんど、それも難しいことのように思えるのだ。

じゃあ、どうすればいいのか。「横超」という。
超越は上下、縦の高さを飛び越えるのではなく、
横からいっきに飛び越えてしまうこともできるのだ。

生においては運命と努力にお任せして、死についてもついでにお任せしちゃう。
全身全霊で愛すること、生きることに徹して生きたあとは死ぬことに徹する。
こんな人間に成りたいという願いを努力で成りきったあとは死に成りきる。

死をめいっぱいで逃げるのではなく、力を抜いて死にお任せしちゃう。
徹して生きて、成ったところで、あとはお任せ。これならいけそう。楽チン。

「横超」のワザはぜひとも身に付けておきたいワザのひとつではある。
なにがなんでも身に付けたい、身に付けられればいいなの世界でもあるようなのです。