Our World Time

怒り、ひとつ  (★さらに5時間後に追記)

2008年04月05日 | Weblog



▼みなさんのコメントを読んで、先ほど(4月5日土曜夜10時過ぎ)、関係者2人に、電話しました。

 その電話を、フェアにそのまま記します。
 関係者2人は、いずれも留守電になっていたので、ぼくがその留守電に残した内容です。

「今日の放送、ほんとうに、おつかれさん。みんなの努力があって、あの生放送ができました。ぼくのところへも、圓教寺にもたくさん反響が来ているけど、局にも来ていると思います」

「しかし一方で、その番組内容の動画がインターネットにアップされているのを、視聴者やネット閲覧者の解釈ではテレビ局(あるいは著作権者の権利を代行する者)がどんどん削除していて、みんなが見るのに苦労しているという。
 もちろん、著作権法は大切にしなければならない。ぼくも、物書きの端くれだから、著作権法に違反する行為によって被害を受ける立場だ。
 それでも、なにがなんでも削除するだけが能じゃないだろうっ。
 今日ぐらいはせめて、時間を置いてから削除するぐらいのことができないのか。ネットで動画がアップされ、多くのひとがみることが、番組の広報のためにも極めて有効なことぐらい、分かるじゃないか。
 生放送で、再放送もない番組については、もう放送された分をしばらくアップされたままにしておくことに、どんな実際の害があるんだ。どっかの小役人みたいに、なにがなんでも削除するだけでいいのか」

「そもそも、無料のアップが困るなら、100円とか50円とかの有償で配信すべきじゃないか。その努力をしないで、何を削除、削除って、官僚的にやってるんだ。
 ぼくはずっと、関係幹部に、これを申し入れてきた。それなのに何も変わらない。誰が変えないのか、どんな検討がなされているのか、何も分からないままだ。
 削除しているのが、番組のスタッフじゃないことは明白だ。局の担当のひとか、あるいは著作権者の権利を代行する者がやっているんだろうから、その人たちをぼくに会わせなさい。
 直接、話すから。
 とりあえず、今日の放送のアップを、機械的に削除することを、今すぐやめなさい。きみたちでできないなら、もう一度言う、担当者が直接、ぼくに連絡してきてください! フェアに議論しようじゃないか」


▼この国の、悪しき意味の小役人は、役所にいるだけじゃない。
 仕事社会の隅々に、どんな民間にもいること、それがわたしたちの問題なのだ。

 なんのために仕事をするのか。
 志のためか。
 ひとのためか。
 みんなのためか。

 それとも、中国や旧ソ連の独裁官僚のように、ただおのれの保身のためにだけなのか。





★すこし怒りを静めての、追記 (4月6日・日曜未明3時すぎ)


 誰がどのように、あるいは誰が責任を持って、ネット上の動画を削除しているのか、いまだに判然としません。
 ただ、少なからぬテレビ局が、「安価な有料で動画を配信する」という努力もしないまま、とにかくネット上の動画が、その元ビデオがTV番組であれば無差別にただただ、削除され続けていることだけは、はっきりしています。

 TV番組のネット・アップが困るなら、あるいは、著作権法がきちんと守られる社会にしたいなら、まず、上記の「安価な有償配信」を始めるべきだし、『再放送の可能性のない生放送であれば、ネット上の動画も少なくとも一定期間はむしろ積極的な広報戦略として、削除しないでおく』…ということを検討すべきです。

 また、その削除は、誰がどんな責任を持って、誰を実行行為者として行っているのか、あるいはテレビ局としては何も手を下していないのか、下しているのか、すべてのテレビ局はいまや、ディスクロージャー(情報公開)をせねばならないと考えます。

 これは、番組参加者(出演者)のひとりとして、番組のうち、自分の発言した部分に明確な責任を持つ者としての考えです。

 そうした情報公開がないままでは、仮に、外国の工作員や、それに類する者が、彼らにとって気に入らない不都合な内容の番組について、ネット上の動画を勝手に削除するケースがどれだけあるのか分からないし、そうした不当な行為と、著作権法に基づく削除行為との区別も付きません。

 ネット時代になってすでに久しく、動画サイトが社会に広まってからも久しく、この問題へのテレビ局の取り組みが遅れていることは、マスメディアの責任を果たしていないと言わねばなりません。


                              青山繁晴 拝





ことしの桜花はいつもより長く咲いている。ぼくらに、これが最後の機会だと教えるように。

2008年04月05日 | Weblog



▼にんげんも、日本国民も、まだまだ捨てたものじゃないぞ。

 それが今、大樹玄承(おおき・けんじょう)師のチベットに向けたメッセージを聴いてくださった、多くの、ほんとうに思いがけず多くのかたがたの、共通した気持ちではないでしょうか。

 実は、ゆうべ金曜の夜に、関西テレビの小さな会議室で顔を合わせたとき、師の眼には苦悩の色がありました。
 そして、「青山さん、青山さんはブログに良心と勇気と書いてらしたけれど、わたしは、そんな大それた人間じゃありません」とおっしゃったのです。

 ぼくは師の眼を見て、魂の眼を見て、「大樹さん、ぼくがつたないなりに、いつも視聴者のかたがたや国民のみんなに呼びかけているのが、大それた良心や勇気だったことは一度もありません。みんなが、その生活の場で、そのまんま、ほんの少しだけ、小さな歩みを踏み出しましょう、あるいは、ただ胸のなかで考えるだけでもいいのですと、言っているつもりです。明日の生放送は、たいへんなことです。しかし、同時に、小さな最初の一歩です。ありのままの大樹さんの思いを、静かに示していただければ、それだけでいいと信じます」と応えた。

 師は、穏やかに頷かれた。
 師の隣には、師の生きかたを支える、おくさま(尼僧)と、圓教寺執事の金子師がいらっしゃった。
 このおふたりが、この夜に、控えめに、しかししっかりと「どうしたら公平な宗教者としてのメッセージになるか」について意見を述べてくださったことも、師が最後のちいさな迷いを超えて、最終の決意をされることに繋がった。

 師は、まさしく衆生(しゅじょう、命あるもの)の苦悩と共に迷われ、ためらわれつつ、そして、歩幅は小さいのに深い淵を一気に飛び越える、その勇気をみなに示されたのです。

 そこがいちばん、凄いと、ぼくは思います。
 巨大な国家の圧力に淡々と、強靱に、立ち向かい、隅々までしきたりがゆきわたった宗教組織と共存しつつ、にんげんの自由な、自律した意思を示すためには、この迷いを含んだ勇気こそが、有効なのだ。
 ぼくはあらためて、今そう考えます。


▼きょうの生放送に至るまでのことは、あとで(記せる範囲で)記します。

 ぼくの長年の読者である「風便り」さんによると、このブログにコメントが書きにくくなっているそうです。
 原因は分かりませんが、ひょっとしたら、このひとつ前の書き込みへのコメントが80件を超える多さになったからかも知れません。

 そこで、とりあえず、この書き込みを新たに置いておきます。
 コメントしてくださるかたは、利用なさってください。




 みなさん、ありがとうっ。
 みんながね、ぼくの知らせにあんなに熱く反応してくれたからこそ、きょうの生放送が、最後まで揺らぐことなく、ほんとうに実現したのです。
 みんな、かっこいいぞ!
 われら大和の国の民の、名もなき名誉を、おのれの虚栄のためじゃない名誉を、世界に示しました。
 きょうの主役は、大樹師と、師を見つめた、みなさんでした。