Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2014年1月 第4週 1テサロニケ5:18 「青銅の蛇④・・新しい性質の構築(ステップ2~3)」

2014-01-26 21:12:37 | Weblog
●1テサロニケの手紙 5:18
すべての事について感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、
神があなたがたに求めておられることである。

始めに)
笑顔は人を美しくします。それだけでなく、家庭に職場に活力を生みます。笑顔で迎えられたなら、買いたいもの以上を買ってしまうものです。笑顔はたくさんの幸せを生むのです。その笑顔は感謝の心が生み出す果実なのです。私達の心から、不平不満の心を清めていただき、感謝と喜びがそれに変わるように学習してきました。そして前回は、「小さな感謝を数える謙遜な心」を働かせるなら普通の生活の諸要素の中に、たくさんの感謝すべき事があるのを発見してきました。これは、感謝スクールの初級といえます。今日は中級と上級に進みたいと思います。

1.否定的な出来事の中に(中級)
①人生には、喜ばしい事だけでなく、
悩みや苦しみがあり辛いところを通らされるのです。そのとき、感謝していた心が吹っ飛ばされそうになります。でも、聖書がいっている、「全ての事を感謝しなさい」には、感謝しづらい状況も含んでいるのです。その中で、なお感謝に留まり続けなくてはなりません。なぜなら何者によっても奪い去られない感謝の心を貴方の中に構築する事によって、あなたに揺るぎない霊的祝福を受け取らせることが神の御計画だからです。二段階に分けて学びましょう。
●伝 7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。

この「考えよ」と言う言葉に注目しましょう。英語で感謝するという動詞のthankとthink考えるは語源が一緒です。つまり感謝とは感謝と感じられる時にだけでなく、良く考える事により感謝できる理由を見つけることも含んでいるのです。物事をよく見つめて考え、神様の愛と恵みを思い巡らし数えるとき「ありがとう」「心から感謝します」と言うべき事を度々見いだせるからです。

2.思い巡らしても感謝が見つからない状況下で(上級)
①人生には引き上げられる時もありますが、
下に向かって引き下げられる事態もあります。引き下げられるだけならまだしも、ゼロよりもまだ酷いマイナスの世界に引き下ろされたと感じる事態もあるでしょう。旧約聖書に出てくるヨブの苦しみがそれです。その時、感謝をしたいと思って思い巡らしても「どうして、この様な中で感謝をすることができるのだろうか、どう考えても感謝する動機が見当たらないのだから」と感謝どころか生きる気力さえ奪い去られるのです。果たしてその中でなお感謝する道があるのでしょうか。その道を同じ御言葉のKJVが教えています。
②「全ての事」をこう言い替えています。
<IN EVERY THING, GIVE THANKS.>「全てのことを感謝」でなく「全ての事の中に感謝を捧げよ」と訳しています。つまり、否定的な出来事そのものを感謝するのではありません。なぜなら病気の人を前にして「この病気を感謝します」と祈るのは、適切と思えないからです。そうではなく否定的な状況下に於いてでも、真実である主を見上げ、神の愛と真実を根拠に感謝を捧げなさい、と言う意味です。
自分達で理由を見つける事が出来なくても、神はそこに感謝する理由を十分持っておられる、その事を信じるゆえに感謝を捧げるのです。神はその告白を喜ばれるのです。なぜなら、それは、主なるキリストへの真実な信仰を意味するからです。この、絶対感謝の信仰を働かせた出来事がありました。
③奇跡の恵みの雨
「1874年から3年に渡るひどい干ばつで、アメリカ東部のミネソタ州は文字通り死の地と化した。追い打ちをかけるように、おびただしい数のバッタの群れまでやってきて、干ばつの中でやっと残った農作物まで食べられてしまうという、最悪の状況になってしまった。住民たちにとって最もつらかったことは、将来に対する恐れであった。このような状況の中で1877年4月27日に行われたミネソタ州知事の演説は、州民たちを感動させた。「私たちにはまだ希望があります。神様は、このような試練を通して必ずもっと良いものを下さるでしょう。たとえ農業が台なしになったとしても、健康に生きていられることを感謝し、『苦渋の日』である今日を『感謝の日』に定め、神様に感謝の祈りをささげましょう」 ミネソタ州の人々は、州知事の呼びかけに応答し、家庭や教会の大小の集まりで、感謝の祈りをささげた。彼らの祈りは、神様にささげるいのちがけの切実な祈りであった。ところが、その日以降、実に信じがたい奇跡が起きた。野原を埋め尽くしていたバッタの群れが去り、渇いた大地に恵みの雨がしっとりと降り始めたのだった。彼らは口をそろえて、神様が自分たちの感謝の祈りを聞き入れ、届けてくださった祝福であると喜んだ。」
この出来事を通して彼らに届けられた本当の祝福は『苦渋の日』である今日を『感謝の日』と言い替える絶対感謝の信仰でした。収穫で得られたパンは食べれば尽きます。でも彼らが獲得した成熟した信仰は限りない生きる力を与え続けるからです。

3.絶対感謝の裏打ち
①これを裏打ちするのが、主の愛です。
私達がまだ罪人であった時に主は、私達を未来の中で信じて感謝と喜びを持って十字架に向かわれました。否定的な事実から生まれる疑いと不安の上にこのキリストの愛を重ねる時、すべての疑いは氷解し、平安の中で感謝を告白できるはずです。もし、全ての事を感謝することが難しく感じられるとするなら、事態に問題があるのではなく、私達の中にある不信仰が問題なのです。絶対感謝に向き合う時とは私達の不信仰の有無が問われるときでもあり、それが清められ、絶対信仰へ変えられる機会とも云えます。
②その不信仰に気づいたなら
悔いあらためるでしょうか。悔い改め、あの父親の様に成熟した信仰を主に求めましょう。

●マル 9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。

2014年1月 第3週 「青銅の蛇③・・新しい性質の構築」

2014-01-19 20:06:18 | Weblog
●1テサロニケの手紙
5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。

⒈新しい性質の構築
①三回目の今日は、
クリーンアップされた場所に古い性質の代わりに、キリストにある新しい性質を構築するステップに進みたいと思います。今回のテーマは「相対感謝を絶対感謝に」です。家庭に感謝の言葉が多ければ多いほどその家庭は幸せな家庭と言えます。心に感謝を数える量だけ人は幸せ感に満たされます。これは一般の家庭教育でも教えられるので、ある程度は身についているでしょう。でも、その感謝していた心が、状況の変化で揺さぶられる時、不平不満の心に取って代わられるのです。ここに問題があります。それを超えて行くことができるのが「絶対感謝の心」です。
②聖書はこのような言葉で「絶対感謝の信仰」
を獲得するよう勧めています。1テサロニケの手紙5:16-17の「全ての事を感謝する」という短いフレーズが絶対感謝の原則を凝縮して表現しています。このみ言葉をあらゆる事態に適用できるなら心の筋肉に「絶対感謝」に生きる力が獲得されたことが証明できます。

2.2つの次元で感謝する
①全ての事を感謝する
ことを二つの次元で考えたいと思います。貴方の周囲には大小様々の生活の諸要素が取り巻いているでしょう。その中で、幾つかの大きな出来事があるでしょう。例えば、「受験に成功して進学できた」「厳しい競争の中で就職できた」と言ったことです。これらに関しては感謝と喜びを抱きます。でもこの様な感謝は一年に一度あるかないかでしょう。それ以外の、数限りある普段の生活の中には感謝に値する事は含まれていないのでしょうか。もしも本当は感謝すべきことに囲まれていながらそれに気がつかないために感謝しないとすれば、それは、人生から幸せを自分の手で捨て去っていると言わなくてはなりません。それは由々しきことです。その理由は何処にあるのでしょうか。
②40年以上前に救われた
I兄弟がある結婚式の祝辞の中でこの様な話をしてくれました。自分は一人で寮生活をしながら3交代制の勤務で日を送っていた。でも、結婚後、仕事を終えて、自宅の近くに来ると、中から明かりが漏れているのが見えた。その時、「自分は結婚したのだなあ」としみじみ喜びが湧き上がってきたのを忘れることができない、と。私は「何という素晴らしい感性の持ち主だろうか」と感動しました。普段寡黙な彼が、とつとつと語ったので余計に心が熱くなりました。
毎日の食事も当たり前、助けてくれる人が共にいてくれるのも当たり前、自分が健康であるのも当たり前、退院直後は歩けるだけでも飛び上がるほど感謝したのに、いつの間にかそれは、当たり前になっているとしたら身近にあふれているはずの感謝を遠くに追いやっているのではないでしょうか。
③それは「心に入って来た高慢」です。
感謝すべきことを当たり前に変えさせるのが「高ぶりの心、高慢の心」なのです。聖書には「高ぶりは滅びに先立つ」つまり、高ぶりは感謝を失わせるだけでなく滅びへの導火線になると警告しています。普段の生活の中にある恵みと祝福に感謝を覚えなくなるのは危険な状態にあるのです。それは不満と愚痴に導き、やがてその不満を解消する為に肉欲を貪る道に迷い込むことが往々にしてあるからです。
それは神様からきたものではありません。神は貴方を滅ぼすものを投げ込まれる方ではありません。犯人は悪魔です。主の御名で追放しなくてはなりません。まず、高ぶりの罪を主の前で告白しお詫びの祈りを献げるのです。そして、キリストの血潮による許しと清めを受け取るのです。その後で、宣言の祈りで、その背後の主人公である悪霊を追放しましょう。再び神様から来る平安が心を満たしてくれるのです。

次回は絶対感謝の生活が構築されるよう「成熟した信仰」に取り組みます。これによって貴方の「絶対感謝の心」が完成へと向かいます。

2014年1月 第2週 民数記21章:4-:8 「青銅の蛇②・・問題と向き合う」

2014-01-17 10:41:01 | Weblog
⒈機会を生かす
●民21:4 民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。 21:5 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」
①内面の変革の機会
なぜなら、苦しみに出会うとき、自分でも気づかなかった否定的な性質が表に現われてきて、その存在に気づけるチャンスだからです。問題は、イスラエル人がそうであったように、それに気づいて向き合うかどうかです。向き合わないで目をそらしてしまうなら、その性質は変えられないまま堆積されて否定的な性質として人格化し、やがて人生に火の蛇を引き寄せる事になるでしょう。でも、へりくだり勇気を持って、罪の性質が顕在化される毎に、勇気をもって向き合って対処し続けるなら、新しい性質が築き上げられる清い土台が形成されるのです。イスラエルの人々が、火の蛇の毒に支配されない命を獲得した事がそれを示しています。
②具体的には、どの様な事なのでしょうか。
星野富弘氏の体験の様に顕著な例もありますが、もっと日常的で卑近な、経験のなかで気づかされる機会があるはずです。例えば、アパートのドアーを開けようとして、真鍮の鍵を鍵穴に差し込んだとき早く開けようとして、鍵を奥まで充分入れないでねじることがありませんか。当然うまくまわりません。いらいらしてきて「このシリンダー錠は不慮品じゃないかしら、こんなに力がいるなんて」そんな思いがわいてくると余計に焦り、さらに力を入れてねじり全身の力をいれると途端にポキッと折れてしまいます。「なによ、この鍵、古くなっていたのね、こんな鍵を使わすなんて、管理人に文句をいわなくちゃ」「問題は古い鍵にある」そして自分は被害者と思い込むのです。それでは問題の本質に気づけません。内面の変革が生じないので同じ事が又繰り返されるのです。
問題の本質に気づいて向き合うとは「この小さな鍵の故障を通して、思うようにいかないことが少しでもあるとイライラときて、否定的な感情を噴出させやすい、そんな性質が自分にある事に気づかされたのでは、ないだろうか」と受止め直す事です。

2.明確化
①イスラエル人は自分達が、
激しい非難と不平をぶつけた原因は、モーセと神様にあるのはなく、自分達の中にあったことに気づき、それを明確化してこう言いました。
●21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、
またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。」

不平不満の第一の原因は自分達の罪にあった事を認めたのです。
これは、彼等の心が普通とは異なる、柔らかい心、気づきやすい心に変えられていたことを示しています。何故なら、苦しみの中に置かれる時、心を堅くして、他者に問題がる、状況に問題があると主張してしまうのが常だからです。自分の罪を認めて悔い改めるというのは非常に困難です。何故なら、それまでの生活で「あの人のあの言葉が私を苦しめた、あの態度が問題なのだ、無理な要求をされたせいだからだ」と言うような反応をしてきたからです。そのような反応をしやすい心に、自分の問題を自分で受止める柔らかい心が準備されるためにはイエス様を聖霊としてお迎えする必要があります。イエス様が私達の中に来て下さって謙遜な心になっていただく必要があります。その約束を見上げて祈りましょう。

次回は第三のステップに進みます。クリーンアップされた心に新しい人格を構築することです。いよいよ、その段階に進みましょう。


2014年1月 第1週 民数記21章:4-:8 「青銅の蛇① 内面の顕在化」

2014-01-05 20:02:12 | Weblog
●民21:4 民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。21:5 民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。」

⒈ 民はその道に堪えがたくなってつぶやいた。
①エジプトの悲惨な生活から救い出された時は
小躍りして喜び、主の御名を賛美し、女性たちはタンバリンで踊ったのです。でも、同じイスラエルが荒野の道に耐え難くなった時、別人の様な振る舞いをしたのです。まるで大変な被害者の様につぶやき、救い出してくれた恩人のモーセに対して不平不満をぶつけ、悪人に対するように非難したのです。どうしてそんなことができたのでしょうか。それは、彼らの中に眠っていた限りなく自己中心でかつむさぼりをかきたてる貪欲という罪が目を覚まして暴れ始めたからです。この罪をそのままにしておくとどうなるでしょうか。

2.主は、火の蛇を民のうちに送られた。
①ある医学者が人の告白の種類と吐く息との関係を調べる実験をしました。バイトを雇ってきて、大きなビニール袋の口に自分の口を入れ、その中に向かって、罵詈雑言、恨みつらみ、を大声で吐き出させました。しばらくするとビニール袋に息の露が溜まります。その露を集めて、そこに何が含まれているかを調べました。同時に、ただの息ができた露と比較しました。ただの息からのものと違って、否定的な告白から集めた露には明らかに体を害する幾つかの物質が含まれていました。
人が邪悪な心で、罵詈雑言を息と共に吐き出す時、体は自然と毒性の物質を生み出していることがわかったのです。それを最初に飲むのは自分で、必ず健康を害します。それを数日続けたらどうなるでしょうか。死に向かいます。つまり火の蛇にかまれて毒がまわってくるのと同じ現象が生じるのです。現代、どんな薬でも喜んで呑まないと効き目がでないとやかましく言われ始めているのはそのためです。
それだけではありません。蛇は悪魔の象徴でもあります。不平不満を野放しにしているなら、その人の心の隙間から悪魔が侵入してきます。悪魔は、貴方の心を、消極的、否定的、攻撃的な衝動に駆り立ててきます。その促しに身を任せるなら、人生から力を奪い取り死に至らせることもあり得るのです。イスラエル人の姿は私達に起こりうる姿なのです。
どうすれば良いのでしょうか。出21:7を読みましょう。
②モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。
普段、人は自分の内にある罪の存在に気づきません。でも、苦しみの時、それが顕在化されてきます。その時こそ、それを清めることが出来る最高のチャンスなのです。これがあってはじめて、内面の変革に与る事が出来るからです。その罪の清めを受け取る道は「神への悔い改め」です。イスラエル人は自分の中に罪があったことを認め、それと正直に向き合ったのです。青銅の蛇を仰ぎ見たとき、「生きた」とあります。
蛇は依然として其処にいたのですが、彼等はそれに犯されない体質に変化したのです。体に毒を制する何かが生じたのです。蛇から逃げ回っていた人々は蛇に立ち向かい蛇を打って回りました。火の蛇は退散し始めやがてその姿を見なくなりました。青銅の蛇を仰ぎ見るとは、自分の罪を罪と認めて自分で裁くことです。このとき、内面の変革が始まります。
③私達の代わりに自ら青銅の蛇となって、
罪の裁きを受けて下さった主イエス様に感謝しなくてはなりません。その死が無駄にならないように、内面の罪が浮上してきて、それに気づかされたとき、その度毎に青銅の蛇を見上げましょう。罪を告白し、罪の代わりに新しい性質が聖霊として届けられるようにお祈りしましょう。信仰によりそれを受け取りましょう。