●1テサロニケの手紙 5:18
すべての事について感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、
神があなたがたに求めておられることである。
始めに)
笑顔は人を美しくします。それだけでなく、家庭に職場に活力を生みます。笑顔で迎えられたなら、買いたいもの以上を買ってしまうものです。笑顔はたくさんの幸せを生むのです。その笑顔は感謝の心が生み出す果実なのです。私達の心から、不平不満の心を清めていただき、感謝と喜びがそれに変わるように学習してきました。そして前回は、「小さな感謝を数える謙遜な心」を働かせるなら普通の生活の諸要素の中に、たくさんの感謝すべき事があるのを発見してきました。これは、感謝スクールの初級といえます。今日は中級と上級に進みたいと思います。
1.否定的な出来事の中に(中級)
①人生には、喜ばしい事だけでなく、
悩みや苦しみがあり辛いところを通らされるのです。そのとき、感謝していた心が吹っ飛ばされそうになります。でも、聖書がいっている、「全ての事を感謝しなさい」には、感謝しづらい状況も含んでいるのです。その中で、なお感謝に留まり続けなくてはなりません。なぜなら何者によっても奪い去られない感謝の心を貴方の中に構築する事によって、あなたに揺るぎない霊的祝福を受け取らせることが神の御計画だからです。二段階に分けて学びましょう。
●伝 7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。
この「考えよ」と言う言葉に注目しましょう。英語で感謝するという動詞のthankとthink考えるは語源が一緒です。つまり感謝とは感謝と感じられる時にだけでなく、良く考える事により感謝できる理由を見つけることも含んでいるのです。物事をよく見つめて考え、神様の愛と恵みを思い巡らし数えるとき「ありがとう」「心から感謝します」と言うべき事を度々見いだせるからです。
2.思い巡らしても感謝が見つからない状況下で(上級)
①人生には引き上げられる時もありますが、
下に向かって引き下げられる事態もあります。引き下げられるだけならまだしも、ゼロよりもまだ酷いマイナスの世界に引き下ろされたと感じる事態もあるでしょう。旧約聖書に出てくるヨブの苦しみがそれです。その時、感謝をしたいと思って思い巡らしても「どうして、この様な中で感謝をすることができるのだろうか、どう考えても感謝する動機が見当たらないのだから」と感謝どころか生きる気力さえ奪い去られるのです。果たしてその中でなお感謝する道があるのでしょうか。その道を同じ御言葉のKJVが教えています。
②「全ての事」をこう言い替えています。
<IN EVERY THING, GIVE THANKS.>「全てのことを感謝」でなく「全ての事の中に感謝を捧げよ」と訳しています。つまり、否定的な出来事そのものを感謝するのではありません。なぜなら病気の人を前にして「この病気を感謝します」と祈るのは、適切と思えないからです。そうではなく否定的な状況下に於いてでも、真実である主を見上げ、神の愛と真実を根拠に感謝を捧げなさい、と言う意味です。
自分達で理由を見つける事が出来なくても、神はそこに感謝する理由を十分持っておられる、その事を信じるゆえに感謝を捧げるのです。神はその告白を喜ばれるのです。なぜなら、それは、主なるキリストへの真実な信仰を意味するからです。この、絶対感謝の信仰を働かせた出来事がありました。
③奇跡の恵みの雨
「1874年から3年に渡るひどい干ばつで、アメリカ東部のミネソタ州は文字通り死の地と化した。追い打ちをかけるように、おびただしい数のバッタの群れまでやってきて、干ばつの中でやっと残った農作物まで食べられてしまうという、最悪の状況になってしまった。住民たちにとって最もつらかったことは、将来に対する恐れであった。このような状況の中で1877年4月27日に行われたミネソタ州知事の演説は、州民たちを感動させた。「私たちにはまだ希望があります。神様は、このような試練を通して必ずもっと良いものを下さるでしょう。たとえ農業が台なしになったとしても、健康に生きていられることを感謝し、『苦渋の日』である今日を『感謝の日』に定め、神様に感謝の祈りをささげましょう」 ミネソタ州の人々は、州知事の呼びかけに応答し、家庭や教会の大小の集まりで、感謝の祈りをささげた。彼らの祈りは、神様にささげるいのちがけの切実な祈りであった。ところが、その日以降、実に信じがたい奇跡が起きた。野原を埋め尽くしていたバッタの群れが去り、渇いた大地に恵みの雨がしっとりと降り始めたのだった。彼らは口をそろえて、神様が自分たちの感謝の祈りを聞き入れ、届けてくださった祝福であると喜んだ。」
この出来事を通して彼らに届けられた本当の祝福は『苦渋の日』である今日を『感謝の日』と言い替える絶対感謝の信仰でした。収穫で得られたパンは食べれば尽きます。でも彼らが獲得した成熟した信仰は限りない生きる力を与え続けるからです。
3.絶対感謝の裏打ち
①これを裏打ちするのが、主の愛です。
私達がまだ罪人であった時に主は、私達を未来の中で信じて感謝と喜びを持って十字架に向かわれました。否定的な事実から生まれる疑いと不安の上にこのキリストの愛を重ねる時、すべての疑いは氷解し、平安の中で感謝を告白できるはずです。もし、全ての事を感謝することが難しく感じられるとするなら、事態に問題があるのではなく、私達の中にある不信仰が問題なのです。絶対感謝に向き合う時とは私達の不信仰の有無が問われるときでもあり、それが清められ、絶対信仰へ変えられる機会とも云えます。
②その不信仰に気づいたなら
悔いあらためるでしょうか。悔い改め、あの父親の様に成熟した信仰を主に求めましょう。
●マル 9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
すべての事について感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、
神があなたがたに求めておられることである。
始めに)
笑顔は人を美しくします。それだけでなく、家庭に職場に活力を生みます。笑顔で迎えられたなら、買いたいもの以上を買ってしまうものです。笑顔はたくさんの幸せを生むのです。その笑顔は感謝の心が生み出す果実なのです。私達の心から、不平不満の心を清めていただき、感謝と喜びがそれに変わるように学習してきました。そして前回は、「小さな感謝を数える謙遜な心」を働かせるなら普通の生活の諸要素の中に、たくさんの感謝すべき事があるのを発見してきました。これは、感謝スクールの初級といえます。今日は中級と上級に進みたいと思います。
1.否定的な出来事の中に(中級)
①人生には、喜ばしい事だけでなく、
悩みや苦しみがあり辛いところを通らされるのです。そのとき、感謝していた心が吹っ飛ばされそうになります。でも、聖書がいっている、「全ての事を感謝しなさい」には、感謝しづらい状況も含んでいるのです。その中で、なお感謝に留まり続けなくてはなりません。なぜなら何者によっても奪い去られない感謝の心を貴方の中に構築する事によって、あなたに揺るぎない霊的祝福を受け取らせることが神の御計画だからです。二段階に分けて学びましょう。
●伝 7:14 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。
この「考えよ」と言う言葉に注目しましょう。英語で感謝するという動詞のthankとthink考えるは語源が一緒です。つまり感謝とは感謝と感じられる時にだけでなく、良く考える事により感謝できる理由を見つけることも含んでいるのです。物事をよく見つめて考え、神様の愛と恵みを思い巡らし数えるとき「ありがとう」「心から感謝します」と言うべき事を度々見いだせるからです。
2.思い巡らしても感謝が見つからない状況下で(上級)
①人生には引き上げられる時もありますが、
下に向かって引き下げられる事態もあります。引き下げられるだけならまだしも、ゼロよりもまだ酷いマイナスの世界に引き下ろされたと感じる事態もあるでしょう。旧約聖書に出てくるヨブの苦しみがそれです。その時、感謝をしたいと思って思い巡らしても「どうして、この様な中で感謝をすることができるのだろうか、どう考えても感謝する動機が見当たらないのだから」と感謝どころか生きる気力さえ奪い去られるのです。果たしてその中でなお感謝する道があるのでしょうか。その道を同じ御言葉のKJVが教えています。
②「全ての事」をこう言い替えています。
<IN EVERY THING, GIVE THANKS.>「全てのことを感謝」でなく「全ての事の中に感謝を捧げよ」と訳しています。つまり、否定的な出来事そのものを感謝するのではありません。なぜなら病気の人を前にして「この病気を感謝します」と祈るのは、適切と思えないからです。そうではなく否定的な状況下に於いてでも、真実である主を見上げ、神の愛と真実を根拠に感謝を捧げなさい、と言う意味です。
自分達で理由を見つける事が出来なくても、神はそこに感謝する理由を十分持っておられる、その事を信じるゆえに感謝を捧げるのです。神はその告白を喜ばれるのです。なぜなら、それは、主なるキリストへの真実な信仰を意味するからです。この、絶対感謝の信仰を働かせた出来事がありました。
③奇跡の恵みの雨
「1874年から3年に渡るひどい干ばつで、アメリカ東部のミネソタ州は文字通り死の地と化した。追い打ちをかけるように、おびただしい数のバッタの群れまでやってきて、干ばつの中でやっと残った農作物まで食べられてしまうという、最悪の状況になってしまった。住民たちにとって最もつらかったことは、将来に対する恐れであった。このような状況の中で1877年4月27日に行われたミネソタ州知事の演説は、州民たちを感動させた。「私たちにはまだ希望があります。神様は、このような試練を通して必ずもっと良いものを下さるでしょう。たとえ農業が台なしになったとしても、健康に生きていられることを感謝し、『苦渋の日』である今日を『感謝の日』に定め、神様に感謝の祈りをささげましょう」 ミネソタ州の人々は、州知事の呼びかけに応答し、家庭や教会の大小の集まりで、感謝の祈りをささげた。彼らの祈りは、神様にささげるいのちがけの切実な祈りであった。ところが、その日以降、実に信じがたい奇跡が起きた。野原を埋め尽くしていたバッタの群れが去り、渇いた大地に恵みの雨がしっとりと降り始めたのだった。彼らは口をそろえて、神様が自分たちの感謝の祈りを聞き入れ、届けてくださった祝福であると喜んだ。」
この出来事を通して彼らに届けられた本当の祝福は『苦渋の日』である今日を『感謝の日』と言い替える絶対感謝の信仰でした。収穫で得られたパンは食べれば尽きます。でも彼らが獲得した成熟した信仰は限りない生きる力を与え続けるからです。
3.絶対感謝の裏打ち
①これを裏打ちするのが、主の愛です。
私達がまだ罪人であった時に主は、私達を未来の中で信じて感謝と喜びを持って十字架に向かわれました。否定的な事実から生まれる疑いと不安の上にこのキリストの愛を重ねる時、すべての疑いは氷解し、平安の中で感謝を告白できるはずです。もし、全ての事を感謝することが難しく感じられるとするなら、事態に問題があるのではなく、私達の中にある不信仰が問題なのです。絶対感謝に向き合う時とは私達の不信仰の有無が問われるときでもあり、それが清められ、絶対信仰へ変えられる機会とも云えます。
②その不信仰に気づいたなら
悔いあらためるでしょうか。悔い改め、あの父親の様に成熟した信仰を主に求めましょう。
●マル 9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。