Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

出8章 「大地からブヨの群れ」・・20080701用

2008-06-27 12:02:19 | Weblog
出8章 「大地からブヨの群れ」・・20080701用
●8:16 主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。
1.大地からブヨ(NKJVシラミ)
①エジプト王の自慢の一つは肥沃な大地であった。それは、毎年のナイルの氾濫が肥沃な土壌を運んできて堆積させてくれるからであった。それ故に、ナイル川流域は穀倉地帯でもあった。その肥沃さは、人の手によるというより、自然現象の結果に負うところが多かった故に、ナイル川は神として崇められ、同時に、それが運んでくれた肥沃な土も、偶像として、崇められました。
②しかし肥沃であるということは、微生物も繁殖しやすい物体を多く含んでいるのです。そこから、多くのブヨ(シラミ・英訳)がわいてでたのは当然の帰着でしょう。それは、家畜や、住民を苦しめ始めました。そのために、夜も眠られず、皮膚病も蔓延したのです。
嘗て、カウンセラーで著名な、河合ハヤオ氏はクリスチャンでしたが、「二つよいこと、はてないものよ」という格言を残されました。この世の中に、全部よいと言えるものを探し求めると、失望と惨めさがつきまとうのでほどほどにしておきなさい、二つともよいにこしこた事はない、と考えなさいというお奨めです。
もし何かを絶対化してすがりつくなら、必ずそこか出るブヨに苦しめられる結果が待っています。+も-も両方とも良しとされるのは、主イエス以外無いのです。ですから、生活の諸要素に於いて成功の時もそれにすがりつかず、成功をくださった神に心をむけるべきなのです。同時に、失敗も又神に栄光をお返しする信仰を働かせるなら、いたずらに落ち込むことから救われ、それも益と信じて再出発させて頂けるのです。地上の何ものもアイドル(偶像)化しないことが平安な生涯をおくる秘訣なのです。
●Ⅰヨハ 5: 21 [口語・・子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。


出エジプト記6章   「信頼信仰への階段」

2008-06-20 18:35:33 | Weblog
1.状況信仰と信頼信仰
●6:9 モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。

①余り、心が痛んだり、厳しい状況下にあると、まるで冷凍された様に信仰が堅くなって機能しないことがあります。それは、信仰の質に問題が有ります。それは、現状を見て持つ信仰の特色です。ここに、状況信仰の限界を見いだします。でも、その時、神は、零下何度にになっても、凍り付かない新しい信仰、信頼信仰への脱皮の機会を用意されていることを悟らなくてはなりません。自然の営みでも、神は毛虫がさなぎになり蝶に脱皮する時を定めておられるではありませんか。
②ように、クリスチャンは必ず、どこかで、神の用意された、信頼信仰への脱皮を経験しなくてはならないのです。 もし、毛虫が一生毛虫で終わることは、神の愛と計画にそぐわないのです。それ故、神は神の栄光に生きる信仰へ脱皮する時を置かれています。その時、神の愛の暖かみを思い出し、今がその時なのだと主を見上げる柔らかい心を持ち合わせたいものです。なぜなら、苦しみのただ中でも、神の愛は身近にあり、決して見捨てず、見放さず、力強い導き手であることに変わりないからです。

2.信頼信仰への道・A 「主語を正す」
●6:6 『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。 6:8 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』
①「わたし」を吟味する。
この短い一区切りの中で、「わたし」が七回も出てきます。幾つかのセンテンスの主語はすべて、「わたし」つまり神ご自身なのです。私たちの状況信仰が限界を見いだすのは、反対の文章を心の中で作成しているからではないでしょうか。そこでの主語はすべで、自分を意味する「わたたし」で構成されているはずです。 私は、失敗者だ、わたしは、無力だ。私は希望がない。でも、この主語を改めて、主は失敗されない。主は不思議をなされる、主は人の思いを超えた愛と計画をお持ちである。・・・云々。

②このように主語を正すとき、自分の人生の主権者は主ご自身であるということがうなずけるのです。そして、自分は失敗者と思えても、主はその様に評価されていない、主よ、あなたが主権者ですから、お任せします。あなたが、どうなさるか、見せて頂きます。神が船の舵を握り、私は助手役にまわるのです。そこから、限りない平安が訪れます。

③新訳の弟子達も嵐の中で、逆風の中で、同じ気づき経験をしています。
もし、理解できても感情がついていかないなら、自分の感情を主に委ねて、異言で祈り続けてください。聖霊の実としての平安の実があなたの内側に結ばれるのを経験されるでしょう。「御霊の実は愛、喜び、平安・・」とあるからです。

3.信頼信仰への道・B「主の人格を思いめぐらす」
①信頼信仰は、主がいかなるかたで有るかを思いめぐらす事から来ることをこの箇所は教えています。ここで主ご自身が「わたしは・・」と七回も自分が誰であるか、丁寧に悟らせようとしておられます。

●わたしは主である。
①主とは救い主という意味です。キリストが私たちを救うために十字架で命を捨てられた愛を思い起こすとき、どうして彼の不真実を疑えるでしょうか。
●わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
②奴隷と自由人とは全く異なる立場です。キリストは自由を得させる為に私たちを解放してくださったのです。その最大の自由は信仰的選択権です。
物事を変えることはできなくても、反応は変えられます。その反応を+的、生産的、肯定的、希望的に選択できる自由こそ、キリストのくださった最大の自由なのです。
●6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、
③神の民、つまり資格のないものが、神の子とされるのです。神の愛顧を受け取るものとされるのです。それに、私たちの側の条件は付いていない、主ご自身の側からの一方的な選びです。宣言です。
●わたしはあなたがたの神となる。
④私たちの保証人は神様だというのです。神と共に歩んだ人の伝記を読むとそれらを明らかに見ることができます。西洋に人が幸福な人生を歩むためにはよい医者と弁護士とよい牧師と親しくあれという諺があります。あなたはキリストにあってこの三つを同時に持ったのです。
●わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
⑤労働の苦役からの解放は、心の姿勢からきます。しなくてはならない、して上げる、ではなく、させて頂くという心で働くとき、労働は苦役では無くなるのです。
●6:8 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。
⑥私たちの国籍は天にある、とありますから、これは、永遠の御国の約束とも言えます。でも、それだけでなく、歴史的には、イスラレル共和国の再興をさしているとも言えます。同時に、キリストに有って、アブラハムの受けた祝福を受け継ぐと言うことでもあります。(ガラ3;14)
●わたしは主である
⑦イントロと同じフレイズで締めくくられています。でも、主のご人格を味わい知るとき、その宣言はもはや主の個人的宣言でなく、わたし達も、同意し心で感動しながらの共感的宣言として、この言葉を読むはずです。
そうです、この主が私の人生の主権者です、主よお任せします。よろしく
お願いします。あなたはきっと最善をされていますし、されるでしょう。ハレルヤと新しい勇気が満ちてくるでしょう。ここに、状況信仰から、信頼信仰への脱皮を見いだします。
あなたは、今どのあたりにきていますか、信頼信仰のステージに早く立ち、そこから、新しく出発しましょう。 20080615SDG

エペソ書6章概観 関係と動機

2008-06-14 17:40:40 | Weblog
●6:1 子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
1.関係と動機
①神様の関心事は、事柄よりも関係であり、仕事よりもその動機であることを知る。
②その中で、単に人との関係を大切にするという、日本的な「和」の精神の延長ではなく、キリストを主として生きる生き方の延長としての幸いな関係作りが勧められている。人によく思われたいという動機からでもなく、そうすることが利得につながるという動機からでもない。主に愛され者の応答として、主からの報いを信じる信仰から、そして、主を喜ばせること、主の栄光を動機として、人との関係、人との絆を好ましいものにしていく勧めである。
③両親に従うという戒めは、必ずしも年齢の低い子供だけにあてはめるべきでないことは言うまでもない。年老いた親に従う、また尊敬する態度がなければ、自分の幼い子供に同じ事を教える資格は無くなるだろう。幼子達はそれを鋭く観察していて、そこに矛盾が見えるなら、心の中に反発が生まれてくることは当然である。この原則を拡大するなら、親子で、学校の先生の為に祈る事は、この御言葉の実践で有るだけでなく、大きな祝福となるだろう。また、上に立つ人の為に祈ることも同様である。それらを見て子供の中に生きた信仰が植え付けられるだろう。

●6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
2.信仰の現場
①10節から、神の武具というとても霊的な勧めが述べられている。それは、一見、宣教とか祈りとか、霊的な戦いで適用される内容に思える。でも、文脈からみるなら、ごく普段の親子関係、夫婦の関係、自分との関係、また、仕事や学業などの普通の生活の中で、神の武具を生かすことの勧めと受け取れる。
②そう考えると信仰の現場はごく、身近な普通の生活の中で、悪魔の策略を見抜き、そこで、平凡な勝利を積み重ねる事が大切なのだと気づかされる。普段の会話、普段の人間関係、自分との関係で神により頼んでいくことをとおして、神の栄光を見させて頂きたいものである。