戦車男(せんしゃおとこ)

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旧日本軍戦車に対する一方的な断罪を斬る!

2005年08月08日 18時02分09秒 | コラム
旧日本軍の戦車に対するイメージを人々に尋ねてみたところで、大体の場合、「わからない」とか、「知らない」といわれるのが関の山であろう。たとえもし、イメージを持っている人がいても、たいてい「装甲が薄いブリキ戦車」、「鉄の棺桶」といったようなとても悪いイメージである。

非常に有名な小説家に、司馬遼太郎氏がいる。彼の読者であればご存知ではあると思うが、司馬氏は戦時中、戦車連隊に所属していた。彼はそこでの経験から、自身の著書の中でしばしば戦車について触れている。しかし、そこで描かれる旧日本軍戦車のイメージは、上記のような悪いものであり、それが一般的イメージになってしまったのである。では、当時の日本の主力戦車であった97式中戦車を通じて、その断罪について考察してみよう。

97式中戦車の登場した1938年の当時、その性能は決して世界から立ち遅れたものではなかった。その主砲も、装甲も、エンジン、車体等、カタログデーターからしても当時の世界において第一級の戦車であった(97式の短砲身主砲57mmに対して当時の主流は30~50mmで、装甲厚は同様に25mmに対し10mm~30mm程度、エンジンはディーゼル200馬力に対しガソリン100~300馬力、重量は約15トンに対し10トンから20トンであった)。

このような第一級の戦力を持った日本の戦車が、なぜ世界水準から立ち遅れあれほどまでの汚名を着せられてしまったのであろうか。その要因は大きく分けて2つある。

1つは、日本が戦車技術を発達させるべき手ごわい敵や、強力な戦車を必要とする状況に直面しなかったことである。確かに、ノモンハンでは日本は痛い目にあったが、結局、日本の当面の主敵はシナであった。彼らに対してはせいぜい機関銃程度を防げる装甲を持ちさえすればよく、またシナ戦線においては拠点戦闘が主であり、そのためには対戦車戦に向いた長砲身砲ではなく、歩兵・陣地に対して破壊力のある大口径の単身砲が向いていたのである。

大東亜戦争に入っても、その状況には大差はなく、植民地に配備されていた装甲車両に特に苦しめられるということはなかった。さらに、大東亜戦争においては、基本は南方の島嶼攻略・防衛であり、ジャングルの茂る島嶼での戦車の価値は低く重視されなかった。重い戦車はそれだけ輸送にコストがかかり敬遠された。

このように、日本が戦車の改良を必要としない状況にあった中、世界の戦車技術の発達は今までにないテンポで進んでいた。特に独ソ間での戦車の発達は極めて著しいものであった。1939年の第二次世界大戦の開戦からその中盤となる1943年までに、日伊を除く列強各国の主力戦車は、戦車の強さの目安となる重量だけ見ても、10~20トン程度から30~40トン程度の倍増していた。日本だけが技術発達から遠く取り残されてしまった。これが二つ目の要因である。

確かに日本が技術を軽視し、簡単な増加装甲の取り付けや、砲の換装を怠ったことは否めない。ドイツから拝借したノイマン効果の砲弾の技術も、もっと早くに実用化すべきであった。たとえ強力な戦車や対戦車砲がなくとも、ドイツのパンツァーファストのようなものが開発されていれば、アメリカのM4シャーマン相手に地雷を抱いた特攻をせずにすんだだろう。こういった事実は反省して余りあることである。

しかしながら、当時、戦車を実用化し、国産した国はいくつあっただろうか。有色人種の中で国産に成功したのは日本だけであるし、一時的にせよ世界の第一級の性能を誇ったのである。反省は強く胸に刻みつつも、こういった日本の偉大さも忘れてはならないだろう。今の視点からひたすら怠けていた、レベルが低かったと卑下するのはあまりにも尊大な態度ではないだろうか。そういった点から司馬氏の断罪を承服しかねるのである。

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13 コメント

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Unknown (hide)
2005-08-12 15:07:00
自衛隊で戦車に乗っていた関係で、戦車には特別な感慨があるのですが、旧軍の戦車は開戦当初では一応の戦力となったのですが、改良らしい改良と世界的な情報分析に間違いがあり、最後までまともな戦車は存在しませんでした。

確かに、東南アジアでの抗日ゲリラ相手では十分でも,バズ-カやアメリカの同盟軍への兵器供給において、対抗できなくなってゆきます。

精神論だけでは戦争は出来ません。
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hideさんコメントありがとうございます! (浅井)
2005-08-12 18:06:58
返事が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

今回の記事についてなのですが、私も戦車について学び始めた当初、「日本の戦車は弱くて情けないなぁ」と強く思っていました。生意気ながら、「当時の技術でもこうすればもう少しまともな戦いができたのでは・・・」。などとよく考えたりもしました。しかしながら、当時に思いをはせた場合、「少しでも多くの優秀な航空機、艦船」の方が、必要不可欠であったでしょう。その上、M4の強さが顕在化した戦争後期、艦船の不足と被撃沈率高さからして、強力な戦車を作ったとしても運ぶ手段がないという風に判断されてしまったのではないのでしょうか。



以上のようなことと記事の内容を考慮して、私は旧日本軍戦車について、一般に言われている司馬さんのような解釈を斬ろうと思ったのです。技術の重視は大事なことで、私も軽視しようなどとは思ってはいません。そういう意味で私の意図は、単なる過去の賛美ではありません。一方で、過去に対する無分別な断罪からも決して有用な教訓は生まれてこないと思います。
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太平洋戦線に高性能戦車は必要だったか (加納綾一郎)
2005-09-02 22:46:13
当時の日本陸軍を取り巻く状況を考えると、果たして有効な戦車開発が可能だったか、また有効に使用できたか、は非常に疑問です。

むしろ、トラックや装甲半装軌車を量産した方がまだマシだったかと。



むしろ、問題なのは零式艦上戦闘機が、冗長性の無い設計で改造がしにくく、後継機の開発が遅れた事でしょう。



優れた技術が存在した反面、基礎工業力・技術力の差が歴然としていた事は事実として受け止めねばなりません。

自虐的に全否定することもないでしょうが。

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コメントありがとうございます! (戦車男)
2005-09-05 12:06:58
加納様



当時の日本の工業力を考えた場合、もっとも不足していたのは基礎的な工業力に他ならないと思います。



すなわち具体的にいえば、加納さんの指摘されている自動車、エンジン、銃砲類、そして工作機械です。自動車は列強各国のいずれと比較しても貧弱かつその生産量は微々たる物です。そしてエンジンや、銃砲類の多く(特に機関銃)も他国のライセンス生産や模造品です。そして、そもそもそれらの兵器を生産する工作機械の多くもアメリカやドイツなどからの輸入が多くを占めていました。



零戦の後続機がなかなか開発されなかったのも、根本的にいえば独自のエンジンの開発につまずいたのが原因でしょう。



これらの問題が顕在化した要因としては、日本が第一次世界大戦を経験しなかったことが大きいと思います。それによって各種新兵器の開発に乗り遅れ、他国からノウハウを学ぶということになってしまったのだと思います。
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心強い意見です! (無所属廃人)
2005-12-02 01:56:12
初めまして。



日本戦車で検索をしていましたらここへたどりつきました。



日本戦車は否定される事が多い中このような意見はとても貴重です。確かに当時の日本のインフラ・工業は貧弱で高性能の・・大量生産・・は望めない状況でした。そもそも日本は海の戦場でしたので航空機の方が重要で限られた国力・資源をそっちに優先せざるをえない事情も戦車開発の遅れの原因でした。

技術の進歩には乗り遅れたましたが自動車産業がまだ出来て間もない頃に戦車を国産化した先人達の努力はもうちょっと褒められてもいいのではないかと。
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Unknown (K)
2006-06-28 14:47:10
右翼が・・・

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高性能戦車 (ちんさん)
2006-07-02 20:13:44
とても面白いサイトですね。

さて大戦中、日本が仮にM4に対抗できる高性能戦車を開発、量産できたとしても南方の第一線に輸送することは事実上不可能だったと思われます。輸送船はほとんど撃沈されてしまうし、
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Unknown ()
2008-07-27 12:48:06
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-nu.html
これ読んだことあんのwwww?
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わ- (チハ)
2009-11-27 13:15:53
チハ改が対戦車戦のためにある。
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 ()
2009-11-27 13:16:12
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