今、気になるのは阿部首相と天皇の温度差です。
天皇は、どうも集団的自衛権とか、積極的平和主義とかにあんまり賛同してないんじゃないかな?と思う時があります。少なくとも、世界に誇れる日本に近づくらしいこれらのことに喜んでいるように見えない…個人的には。
ここで歴史に思考が飛んでしまうけど、日本では権威と権力が別々であることが多かった。藤原氏から源氏、足利、徳川に至るまで。権力者は、権威である天皇から権力を委託されることで統治する形をとったし、それを大事にしていた。
変わったのは明治時代。憲法によって、はっきりと天皇が最高権力者と決められたし、現人神として祀られた。実際は、天皇が政治を行ったわけじゃないのだけれど、曖昧さを減らしたのだ。つまり、天皇が絶対の存在になった。
ここから戦争に至り、敗戦後にあったのが天皇の「人間宣言」と憲法による「象徴」。ここで起きたのは、天皇の権威の失墜と天皇の権威と権力の完全な分断と言う、なんだか矛盾したものだった。
話は飛ぶけど、戦後民主主義を体験した表現者にとって天皇とは「人間」なんだな、と気づいたのは、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を見ていた時。ここでの天皇の描写はとんでもなく人間臭い。普段テレビで見る、万事控えめな今の天皇とはえらい違いであった。戦後どころか高度成長期すら体験していない私から見ると「ちょっとここまで俗物だと子孫となる今の天皇が見たらちょっと嫌かもなぁ」と思うくらいだった。
まぁ見ているこちらはなんとなく今の社会においては違和感があるよなぁ、この描写…と思っていたわけです。でも、この映画が例えば1980年につくられました、と言われたら、「あぁ、気にならない」という印象を持つじゃないか、ということに、ふと気づきました。
う~んと、ここから言えるのは、天皇の権威が少しずつ高まっている、つまり「人間宣言」がなかったことにされてるんでは?なんていうことでした。
右傾化が言われる昨今ですが、右傾化と天皇への視線の変化がセットになっているのかな?という気がしたのですね。
しかし、その天皇と、右傾化のシンボルのような阿部首相とが、なんだか噛み合ってないんじゃないか?という気がする。まぁ天皇は「象徴」だから、決して政治的言動が出来ないのだけど。
これが実は阿部首相がどんどん思うが儘に進められない一つのポイントではないか、なんて思ったりしたのです。
また話は飛ぶけど、日本人は無神論だ、とか多神教だ、とかよく言われますが、天皇に対する一神教様な感情があるのではないか、という妄想?が時たまやってきます。つまり、「天皇のもとではわれら皆平等」と言う感じでしょうか。そのせいで、日本では階層が見えにくいし、あっても受け入れてしまう、だって、天皇のもとではおいらの主人との違いはないはずだもの。
で、天皇に対する一神教様感情があり、権威から権力が移譲されるものだった過去があり、戦後ここまでは正に「象徴・飾り」だった天皇の権威が回復しつつあり、その天皇が時の権力者の思想に全面賛成でないようだ、となれば、
文化的に阿部首相は動きにくい気持ちをもっているのではないかなー、なんて思ったわけです。
ここで阿部首相が例えば藤原摂関政治、とか、徳川幕府、とかをアイデンティティにしていれば、権威を利用しつつ権力を払うなんてするもんでしょうが、明らかにアイデンティティは明治で、その時代の天皇といえば国家元首。だから、もし、私が感じている通り天皇とウマが合ってないようなら、猶更やりにくいだろうなーなんて思ったのでした。
「天皇」をどうするか、というのは日本人にとって文化的には非常に大きな問題のはずなのだけど、今後どうするのかってあまり話題にならないなぁ、と言うのも、個人的に気になっているところです。
ちょっとまとまらない話ですが、そんなことを考えていたこの頃でした。