この本は、主として1936年に、イギリスおよびアメリカの大学などで行った「禅と日本文化」に関する講演をもとに、新しい資料を加えて、英文で執筆したもの。であるので見開きのページの左側には英文、右側には訳文(日本語)が書かれている。
私はもっぱら右ページ専門。以前から興味はあったのだが、鈴木氏の著作は初読。おもしろそうなテーマなので借りてみた。
…が。かなり読み応えがあった。難解な部分があり正直言って理解できていないところが多々ある(汗)。
以下が目次
第一章 禅の予備知識
第二章 禅と美術
第三章 禅と武士
第四章 禅と剣道
第五章 禅と儒教
第六章 禅と茶道
鈴木大拙氏は、明治、大正、昭和時代の仏教学者かつ思想家。仏教の幅広い独自の研究だけでなく、日本文化、老荘思想、神秘思想、深層心理学などの本質も解説したそうである(本書より)。
第一章の予備知識では、禅が八世紀に中国に発展した仏教の一形態であり、その真の始まりは六世紀の初め、南インドから中国にきた菩薩達磨から起こったこと。禅は仏陀の精神を直接に見ようと欲するものと書かれている。
そして、その精神はどういうものが書かれてある。禅の方法論が説明してあるのだが、夜盗術の教授法の話を例えにしてあるのがおもしろい。
禅の鍛錬法は<身をもって体験すること>。禅のモットーは<「言葉に頼るな」(不立文字)。禅は精神に焦点をおくこと、「絶対なるもの」の孤絶がアセチシズム(清貧主義、禁欲主義)の精神。孤絶とは世間の言葉で言えば無執着。。。などなど根本精神が書かれている。
禅がどのように日本に入ってきて、武門階級の支持をうけていったのか。絵画や書の感受の仕方。「一即多、多即一」についての説明。禅は武士の宗教である面(ひとたび決心した以上、ふりかえらずに進むこと)。日本人が「死の哲学」をもっていることなどが述べられている。
第六章の禅と儒教についてはもうすこし他の著作などにも触れてみたい。中国の儒教・仏教などの歴史など頭を整理しないと(汗)。。。
また、無心の意義についての記述が心に残った。沢庵和尚の書のなかにある。
<無心はある点において、「無意識」の概念にあたると見てよい。心理的にいえば、この心の状態は絶対受動のもので、心が惜しみなく他の「力」に身をゆだねるのである。この点で、人は意識に関するかぎりいわば自動人形になるのである。しかし、沢庵が説くように、それは木石などの非有機的な物質の無感覚性および頼りない受動性と混同してはならぬ。「無意識に意識すること」---この目もくらむばかりの逆説以外に、この心的状態を叙述する道はない>
また、心の置所についてもおもしろかった。心を止まらせてはいけない。<十の地点のすべてにおいて、心を働かすためには、どの地点にも、心をとどめるな。いかなる一定の地点にでも、一たび踏みとどまると、結局、他の九地点を等閑にする。これはしかし非常に鍛錬を要することである。>
無心論について興味をもった。
そして、茶道の奥深さについて再認識させられた。
……ほとんど自分の覚書でした(汗)。。。