サンタフェより

高地砂漠で体験したこと 考えたこと

アリゾナへ

2009年04月16日 | 旅人希望
満月の夜明け前から車を走らせ、少し長めの復活祭(イースター)休暇を、アリゾナ州ツーソンとセドナで過ごして来ました。

サンタフェからツーソンまでは、インターステート25号線を4時間ほど南下し、進路を西にとって10号線をひたすらまっすぐ更に4時間ほど。初めて車で直行しましたが、案外近くて驚きました。途中ソッコロ辺りで空が白んできたのですが、道の両脇を巡礼のため歩いて教会に向かう大勢の人たちを見かけました。聖金曜日はキリストが十字架の苦難を受けた日とされますから、カソリック教徒は毎年(多くは十字架を担ぎながら)、教会へ巡礼するのです。ちなみに、サンタフェ付近の人たちは、チマヨにある創建200年あまりと言われる、Sanctuario de Chimayoへ行きます。

まずはじめの目的地は、ツーソン。



メキシコとの国境から北へ約100km。人口50万人あまり。サンタフェは6万ちょっとですから、わたしにとってはそこそこの大都市ですが、近くのフェニックスに比べると、半分以下の人口で、メキシコ色が濃くアメリカにしては「古い町」という印象のある地域が多いですね。10m以上にもなる「サワロ」という細くて長いサボテンが見えてくると、おっ!南部アリゾナに来たぞ、という気になります。(テントからの眺め、いいでしょう?満月の翌日でしたから、サボテンの横に丸い月がでているのを想像してみて!)



どうするか決めて来なかったけれど、サワロ国立公園 にあるキャンプ場がよさそうだということになり、カチカチになった地面に大きな石を使ってどうにか杭を打ち、テントを設置。以前この町にすんだことのある連れの一人のススメで、ツーソンで一家による経営としては一番古いレストラン「エル・チャロ」で、見た目は同じなのに今まで食べたこともない味のするメキシコ料理を食べながら、気の置けぬ友人たちと久しぶりの再会を楽しみました。


羊を追う

2006年08月07日 | 旅人希望
フォーコーナーズから数十分西へ車を走らせると、メキシカン・ウォーターというところがある。先日アリゾナへ行った時、その近くのキャニオンや丘で、羊追いをさせてもらった。

早朝とはいっても暗がりで歩く必要はないというので、比較的遅い朝5時頃起き出して、コーヒーをすすりながら出発。6時から羊たちが暑さに耐えられなくなるまで、多分1時ぐらいまでの予定だという。羊の持ち主であるおばあさんは、自分の母親が織っていた、オリジナルデザインの敷物復元に取りかかっているのだそうだ。ひ孫が高校卒業記念に欲しいというので、複雑でかなり大きな作品に挑戦しているらしい。夕暮れ時にはもう一度一人で追うのだが、私の友人も含め何人かが手分けして朝を担えば、織り物の仕事がはかどるだろうというのでお手伝いしている。後でそのブランケットを見せてもらえるといいな、と思いつつ(こちらから「見せて見せて!とせがむのは、控えるよう予め念を押されていた)「こんにちは。サトリと言います。日本から来ました・・・」と自己紹介すると、友人との長いやり取りが始まった。普通はみんな英語混じりになるのもだが、彼女とはナバホ語のみなのでよくわからない。どうも前に日本人を知っていて、私をその人だと思ったらしい。更にまた長いやりとりで昨日どの辺りを歩いたか聞き、今日のルートを大まかに決める。雲が出ているから多少長居してもいいだろうが、昼過ぎにはかなり気温が上がるだろう。うまくルートを設定しないと、「行きはよいよい帰りはこわい」になってしまう。でも、ルートと言ったって、道もなければ建物があるわけでもない。見渡す限り、ちょっと緑がかった砂漠でしかない。そう思ってよく観察すると、こんなのっ原の真ん中にも、確かに緩やかな山あり谷あり岩場あり草地あり、それなりに目印は存在する。小高い丘に着くと、いくつかの危険ゾーンを教えてもらう。そこを抜けて羊が谷の中へ逃げ出すと、そのまま二度と姿を現さないケースもあるとか。逃げて見つからない羊や山羊は、人の家に迷い込んだ場合、知っていれば連れて来てくれるが、大抵はその家にいつくことになる。もしくは、迷い迷って水にありつけずのたれ死にする。今回歩いていて、2頭ほどそれらしい骨を見かけた。となると責任重大だ。84頭の似たり寄ったりを追うのは、案外難しい。数を数えろと言われても、動き回っていて重なり合っているし、近くに寄れないし、そのたびに75-86と全くあてにならない数字で終わってしまい、役には立てなかった。「ハイジ」のピーターが木の枝を振りつつ山道を登って上の牧草地へ行き、同じ細道を帰ってくるアレとは、ちょっと話が違うらしい。(ピーターの羊飼いが、楽だとも思わないが・・・)

先週の雨で柔らかい草が生え始めたそうで、羊もヤギもシアワセそうだった。はじめはさらさらの砂地に、足を取られながらゆっくり進む。草地に入ると群れを少し広がらせ、岩場は早足で、いくつか家もあるのでそこは避けて行く。羊というのは私たち人間にあまり近寄ってほしくないのだそうだ。だから、わたしが近づいて「ケッ!」とか「シッ!」とか言うと、さりげなく向きを変える。群れの一番おしりについて、遅れ気味の組を追い立て、はみ出し組をもとにもどすのだが、慌てて追うとビックリして90度またはくるりと向きを変え前に進まなくなってしまうので、脇に大きく回り込んで後ろから声をかける。走って追いかけるのは「絶対ノーノー」だということだった。ふたりだと両端についていればいいから割と楽なのだが、それでも私たちはトランシーバーで連絡を取りながら、広がり過ぎてしまった群れをまとめるため走り回ることもしばしばだった。群れの反対側の末端を把握するため、私は常にパートナーを探していた。赤いシャツを着て来た、友人の意図に納得。草をほおばり始めると足を止めるので私たちもちょと休むけれど、また歩き始めるとかなり早足でなければ追いつけない。もうひとつの危険は、他の群れと行き会ってしまった時。それこそシープドッグの出番で、訪問羊(?)が来たら、彼らは躊躇せずに怪我をさせるか殺してしまうと言う。だから、遠くにも目を配って事前に防がなくてはならない。それにしても、朝ごあいさつしたおばあちゃんは、いつもひとりでどうやっているのだろう?感服。

広い岩盤地帯にはいると、羊たちが急に騒がしくなり、ひとところを目指して足を速めた。どうも向うの丘を越えたところに、水たまりがあるらしい。そこからは360度見通しが利くので、私たちも靴を脱いで水浴びをすることにした。日は高くすでにかなり暑いが、岩盤があたたまるには時間がかかるからか、冷んやりとして気持がいい。水が涸れたらどうするんだろう、と聞きたくなるような水生動物まで泳いでいる。カブトガニのような風貌だ。犬たちは、水に全身浸かって座ったまま動かない。私たちはそれぞれこのささやかなオアシスを満喫し、大きな弧を描いて、午後1時帰途についた。

寄り道

2006年06月12日 | 旅人希望
数日ナバホ国、ホピ国をさまよった後で、今日無事サンタフェに帰ってきた。ペルーは摩訶不思議なところで、今回は駆け足だったから「もの足りない」のが実感だが、とても気に入った。また行きたい。というより「きっとまた行く!」と思う。まあ、詳細はさかのぼってぼちぼち書き記すつもり。

今日はゆっくり休んで、7時半ぐらいにベンのホーガンで目覚める。お日様はとっくに頭上高く、わたしを待ちくたびれて地面を焦がしていた。母屋に入ると、友人ベンもさすがに(若々しいとはいえ60才だ)疲れが出たとみえ、まだいびきをかいている。外でハチドリとトカゲを眺めながら、ヨーグルトとコーンフレークの朝食を食べ終え、ふと「明日かあさってと思っていたけれど、今日帰ろうか」と思い立った。今月末にまた戻って来る計画を立てたので、名残惜しさもない。すっかり荷物をまとめ終えた頃、おもむろにベンが起きてきた。これで、おいしいコーヒーにありつける!(余談だが、ペルーのコーヒーはまずかった。みんなコカ茶などを飲むからだろうか。コーヒーを頼むと、お湯の入ったカップと黒い液体の入った小さなガラスのグラスが出て来る。エスプレッソを薄めてアメリカーノにすると解釈したけれど、色は濃いのに香りがなく、インスタントを少量の水で溶かしたとしか思えなかった。)

そうだ、ウィンドウ・ロックにいるカワノさんに、帰りがけお会いしたいと伝えてあるのだから、すぐに電話しなくては。2時にウィンドゥ・ロックのナバホ・ネィション・インのロビーでお会いすることにした。走り慣れたナバホ12号線を南下して、1時間後に到着。顔を洗ってロビーに出ると、彼はもうソファに腰掛けて待っていた。なんせ10年振りだし、日本食のお土産もペルーのお土産もないし、特に用があって会いにきたわけでもないし、どうやって話をはじめようか?と心配だったのだが、どうして!第二次大戦中のナバホ暗号部隊員を探しては、訪ねて行って年老いた彼らの信用を得、ポートレートを撮るのをライフワークとしておられるだけあって、カワノさんはしなやかでやさしい話術の持ち主だ。知らない間に奥さんのルースさんも含め、日本へ同じ頃帰国していたことからはじまり、四季折々の日本食のすばらしさを実感した話、サクラメントにいらっしゃる娘さんのこと、最近のお仕事や展覧会のこと、私は私でペルーへの旅、これからやろうとしていることなど、おしゃべりに夢中になっていた。

と、二人の中年男性が声をかけてきた。ふたりともコードトーカー(暗号部隊員)の息子さんなのだそうだ。特にレスリーさんは、私たちのテーブルに座り込んで、最近作ろうとしているジュエリーや家具の説明をはじめた。どうやら、やはりジュエラーの弟レイさんが最近日本へ行って来たばかりで、自分も日本へ進出したいらしく、私たちの意見をききたいらしいとわかった。3分で食事を済ませるから、これから自分の家へ来いと言う。「キミもだぞ!」と何度も言われ、ナバホのインディアン・ジュエラーはあまり知らないので、訪ねるのもおもしろそうだと思いご一緒することにした。

   

それは、私のような「ひよっこ」にしたらまさに「夢の工房」そのものだった。もちろん裏庭にあって、一見は単なる錫でできた物置だ。しかし、必要な設備はすべてととのっているし、その上自作の道具や試作品であふれている。急に行ったのに、全てが整然としている。こういうのを本当の職人っていうんだろうか、と思った。そして、作業台やガスタンクの金物のキャリーには「笛吹き」や羽の飾り、金槌の木の柄にも彫り物がしてあるのだから!鋭い眼光を持つこのオジサン、一体何者なんだろうか?無数の結構イケるデザイン画や試作品まで見せていただいて更に感動を深め、後ろ髪を引かれつつみなさんに別れを告げた。

あと3.5時間。突き刺すような夕日だが、東を向いているので運転はラクチンだ。

聖なる谷の村々

2006年06月05日 | 旅人希望
Ollantaytambo is a little village in Sacred Valley. There are many many ruins and old tombs on the cliff. There was election of the president and the fiesta yesterday. 18 different regional groups danced in front of the church in different costumes. They drink Chicha (made from corn).

Today, we are invited to a Wedding.

(帰国してから、書き加えられませんでした。あしからず。)

コルカ・キャニオンの村

2006年06月03日 | 旅人希望
メルカド(スペイン語のマーケット)と一口に言っても、色とりどりだ。手工芸品が中心のもの、観光客相手の土産品を売るだけのもの、農作物と家畜を取引きするもの、そして現地の人々が今夜のおかずの材料を買いに行く食料品の市。

どれもこれもそれなりの魅力があるのだが、私だけが興味を持っていて、それを口実にペルーのひとり歩きを楽しんだのは、食べ物のメルカドだった。(実は、「サトリはひとりでふらふらする癖があるから、気をつけるように」と仲間たちにマークされていたらしい。)日本で言ったら、駅前の「○○商店街」のような活気があふれている。ビニールシートで覆った屋台が野外に並んでいるのが、大きな違いだろうか。

チバイの村に着いてすぐ、プラザへ歩き始めると雨が降ってきた。市場の人たちは、あまり気にする様子もなく、淡々と商売に励んでいる。ここの市場は、完全に野外のものに加え、バラックのような簡易建築の中に小さなブースが肩を並べている。「アメ横」のような趣きだ。屋内には織り物屋や薬屋などもある。

 
        表示は「婦人病」

漢方は、どこへ行ってもおもしろい。魔法使いのようなお婆さんが、半分いねむりしながら番をする。怪しげな木の根っこや乾燥したトカゲなどが並ぶ。見てすぐにわかる物もあるが、効用や使用法は、説明が必要だった。英語の話せないエルサルバドール人と仕事で会ったりするので、多少の買い物や注文はどうにかなるとしても、こればっかりは専門用語の連発でかなりくじけた。コカの葉占いの時に次いで、「スペイン語をホンキで学ぼう!」と決意した瞬間だ。

野菜・果物や肉に加え、この市場でおもしろかったのは、村のアイデンティティーの象徴として被っている、帽子の飾りに用いるリボンやスパンコールだけ売っている人がいたことだ。店の前で、刺繍やリボンの縫い付けをちくちくやっていた。

「雨で冷えた体を温めたい。日本なら銭湯へ行くのにぃ~!」と騒いでいたら、実はほど遠くないところに温泉があるという。車で10分ほど谷間を走り、近代的な施設に着いた。(La Calera del Colca(ラ・カレラ・デル・コルカ)。入場料10ソレス:300円ぐらい。)

     

出発前にもらったリストには入っていなかったのだが、水着を持ってきてよかった!この温泉は、源泉もかなり高い温度(85度)で、リュウマチなどに効用があるらしい。野外プールの先は谷川と緑の斜面で、川のせせらぎを聞きつつ目を閉じじっくりと温まった。

コルカ・キャニオンの入り口にあるチバイの村は、標高3651m。富士山ほどの高さにあって、久しぶりに暖かいお湯につかることができたのは、願ったりだった。私たちの宿泊所 ---個人の家と安民宿--- では、温かいシャワーは期待できぬことが多かった。私たちはそれまで、息を止めてぐっとお腹に力をいれて体全体を濡らし、一度水を止めてから石けんをこすりつける。またもや息を呑み込み、頭から水をかぶり手をセッタイこれ以上速く動かせない、という勢いで体と頭をかき回しておしまい、という「カラスの行水」に慣れてきていた。だからこの晩、感謝の念はピークに達していたからだ。グランド・キャニオンよりも高低の差があると言われるコルカの谷で、狩りに出る前、翼をあたためるため浮上してくるというコンドル。それから、朝日が当たる谷の斜面で、明朝一緒にお祈りをして下さるというシャーマンに対して、失礼のない準備(ミソギというのは、ちょっと大げさか・・・)ができたようでうれしかった。夜はみんな、トウモロコシの花粉で身を清めた。


アンデスコンドルは、カリフォルニアコンドルより随分大きい、とハリー。
      (Photo from Wikipedia)

高山病

2006年06月03日 | 旅人希望
コルカ・キャニオンは、アレキパ市から車で4-5時間ほど。火山に囲まれつつ山をいくつも越え、最高地点では標高4900mを通過した。富士山へ!と春から騒いで、無念にも片想いに終わった私だが、少なくとも高地トレーニングのかいあってか、高山病は大したことなく済んだ。しかし、サンフランシスコ組はともかく、サンタフェと同じ標高のツェイリから来た仲間も、かなり苦しそうだ。クスコ以来、ベンとメアリーはすっかり頭痛に悩まされている。アナとハリーも口数が減った。

     
       高速バスのターミナルで 頭痛に無言で耐えるベン

休憩の度に、私は「Satoriマーッサージ・パーラー」を開店する。はじめは、「パーラー」ってのはなんだか響きがエッチだから、「オフィス」に変えろと叱られていたのだが、みんなすっかり指圧の虜となった。コカの葉に加えチャチャコマという薬草も、手放せない。

     

樅の木の枝に似たこの植物は、お湯につけてお茶にしたり、そのまま噛んで服用する。強烈に苦くて、油で揚げた(?)松ヤニみたいな味だ。今まで経験したことがない。

症状の軽い私と他数人は、高山植物や、ビクニャというリャマや羊より柔らかい毛がとれる動物、スカチャという黒い大きな兎などを教えてもらい、目を楽しまさせていただいた。

休憩所で、マトン・シチューを見つけたナバホたちは、「ふる里の味だ~!」と感動していた。あ~、確かにちょっとみそ汁や醤油が恋しくなってきたかも知れない。(二週間の短期だし、いつも日本食で暮らしているわけじゃないからと、おせんべい以外何一つ持参しなかったのを後悔しつつ・・・)

今夜は、チバイという村に泊まる。コルカ川沿いにある小さな村々のひとつだ。休憩?なんてしていられない。数ブロック行けばプラザらしいので、市場を探しに出かけることにする。

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Driving through the volcanos, we passed the Patapamba(spelling, not sure)highest point around here of 4900m high. I am chewing coca or chachacama leaves constatnly so that I do not get high altitude sickness. (It works!)

Arrived in Chivay villlege. Market. Children. Hot spring. Cold water shower. It looks like it snowed on the mountains.

「ファニタ」

2006年06月02日 | 旅人希望
「小さい飛行機にはゼッタイに乗りたくない!」というマリベルの一言で、私たちはクスコからアレキパまで高速バスを利用するはめになった。8時間ほどでこぼこ道を、夜通しで旅する。あこがれのティティカカ湖近くを通ったのだろうが、真っ暗闇で何も見えなかった。皆はお尻が痛くて困ったと訴えていたが、乗る寸前に食べた鶏肉とご飯の油が悪かったのか、私は前半4時間をそこそこにきれいなバスのトイレで過ごしたので、かえって楽に長旅をおえることができた(笑)

アレキパの町は、スペイン植民地時代の影響の最も強い、リマに次ぐ現代都市だ。プラサ周辺では、火山岩を利用した白い壁が印象的で、いわゆるコロニアル式の建築物も少なくない。「アレキパ」の名前は、インカの第四皇帝マイタ・カパックが旅行中、この美しい谷に心奪われ、「アリ・キパイ(ここにとどまるがよい:ケチュア語)」と命じたことに、由来するとか。町そのものは、現代化、アメリカナイズが進み、トウキョウで暮らし合衆国からやって来た私にとっては、あまり興味深いところではなかった。このまちで強烈に心に残ったのは、ただひとつ。ファニタ。

中央広場から1ブロックの所にサンタ・マリア・カソリック大学の博物館サンチュアリオス・アンディノス(Galeria de Fotos参照)がある。他にもいろいろ博物館はあるのに、どうしてここへ行ったのか。その理由はひとつ、凍れる少女のミイラ「ファニタ」を見るためだ。文化人類学者であるハリーの強い要望に引っ張られて、植民地時代式の建物に入る。まずビデオ説明を受けた。このミイラは、アンパト山(6300m)で1995年に、文化人類学者ラインハード博士とパートナーのペルー人登山家ザラテに発見された、15世紀中葉インカ帝国時代の「生け贄」だろうとされている。14.15才らしい少女は、コカの葉やその他のハーブを飲んで高山病に耐え、1.2ヶ月山を登り続けて、最後には頭を野球バットのようなもので打たれて、生け贄としての命を全うした。目的は火山の鎮魂であったろう。万年雪のなかに閉ざされ、近くの火山サバンカヤの噴火で落ちてきた火山灰によって、雪が融けその姿を発見されるに至った。科学的、考古学的にはこれほどの保存度で発掘されたミイラはなく、発見依頼注目を集め、各研究の対象にされている。

ナバホとミイラを見に行く、というのには特別の意味がある。彼らの「死」に対する姿勢は、「今日は死ぬのによい日」などのフレーズから部外者が想像するインディアンの死観から、少しずれているからだ。彼らは、「死」を畏れ多いものとして避ける。「生」の裏側のものとして、口にはたやすく出さない話題だ。昔は誰かが亡くなると、そのホーガンは死体ごと置き去り野ざらしにされ、朽ち果ててもひとは近寄らない。聖地だとは言っても、アナサジの遺跡などは、悪霊が憑くかも知れないからと、足を踏み入れぬか(儀式や祈りをもって)念には念を入れて入ってゆく。

もちろんハリーは、メディスンパウチにトウモロコシの花粉を入れて、持参していた。特に死体を初めて見る20才のコニアには、部屋に入る前から様々な忠告がされ、無理して見たり近寄る必要はないということが、何度も繰り返し伝えられた。

彼らは2m以上近寄らなかった。その部屋にいる間中、小声で祈りを唱えている。そして、博物館から出て宿舎にもどるまで、誰も口を開こうとしなかった。夜になって、ミーティングをしようということになり、今日起こったことについて話し合う。基本的に皆の意見は一致していて、「哀しいことにこの21世紀になっても、有名な学者が土地の人から情報をもらい、ペルー人に助けられ、発見の名誉を一人占めするのは、変わっていない」「一度山のスピリットに与えられたものを、掘り返して世界中を連れ回し(1996年日本へも行った)ガラスのケースに入れて見せ物にするのはまちがっている。ばちあたりだ。」北米では少なくとも、さまざまな部族が、お墓や遺跡から掘り出した遺骨などを、もとの部族へ返すよう要請するのが当たり前の道徳観になりつつある。(もちろん、彼らは闘わなくてはならないし、いつも主張が通るわけではない。)だから、インカの末裔であるアデラが、「興味深かった」という感想を述べたりすると、ハリーやベンは怒りに震えるのだ。

私はとても複雑な気持で、半日を過ごした。インカとスパニッシュの混血になるアデラに言わせると、もし、外国人の学者が発見してきちんと分析し博物館で管理しなければ、彼らインカの子孫の中から金儲け目的で墓荒らし/遺跡荒らしをする者が出て、ブラックマーケットへ流し、インカの遺産は蒸発して永遠に無くなってしまう。だから、この方がいいのだと。この国の貧しさと、混血の度合いを考えると、それにも一理あるように思ってしまう。でも、ナバホの友人たちの、「大精霊に捧げられたもの、その土地や部族に属するものは、もとに返すべきだ」というかたくなな意見には、反論の余地がない。

ハリーはスミソニアン博物館などで、発掘品の整理や研究をしたことのある人だ。彼自身、年寄り衆には「ばちあたり」と言われてきた。最近、目が腫れたり原因不明で痛かったりするのだが、先日のコカの葉占いでメディスンマンに「お前は見るべきでないものを見過ぎた。これからは、その目を休めなさい。」と言われたこともあり、今夜はかなり考え込んでいる様子だった。

コニアは、この後旅行中に悪夢を見始める。リマで飛行機を待っている時、わたしに打ち明けてきて「おじさん(ベンのこと)に話した方がいいかな?」というので、その方がいいと答えた。帰ったらすぐに父親に話し、セレモニーをしてお祓いをすることになるだろう。

クスコ周辺の遺跡

2006年05月31日 | 旅人希望
クスコの町はプーマの形をしているという。その頭の部分(北西の方角だろうか)、車で20-30分ぐらいの一連の山は、遺跡であふれている。70ソレス(約2500円)を払って10日間有効の券を買うと、クスコ市内の美術館を含め、周辺の遺跡に割安で入ることができる。

朝食を済ませ、サントドミンゴ教会へ。これは、インカの時代黄金で覆われた太陽神殿だった。スペイン人のコンキスタドール(征服者)は、カトリックを強要してその神殿の上に、教会を建設した。1950年の大地震でスペイン建築が崩れ、修復後の今もインカの土台が顔をのぞかせている。

バンを雇って30分ほど山を登ると、タンボマチャイ(Tambomachay:休息の地) の遺跡に着いた。水浴場あとらしい。聖水の源泉は定かでないが、絶えることなく湧いているというこの水の恵みは、山肌にそってあるテラス(段々畑)をうるおしているエネルギー源でもあるのだろう。

      

    (写真はすべて浅川嘉富さんのホームページより)

そかからちょっと下ると、丘のむこうにプカプカラ(Pukapukara:赤々)の砦跡。ガイドをしてくれたアデラは、ここでお土産売りをしていた数人の人たちに、「USドルでいい金稼いでるくせに、こっちにもよこせ。」などと責められ、苦笑いをしていた。(政治のことは、相変わらず無知なのだが、フジモリ政権の方針だったのか、もともと合衆国嫌いなのか、ファーストフードの店はともかく、車などはアメリカ製をほとんどみかけない。支払いは米ドルを好む所が多いが、親米とは言えないのだろうか。)

バンに乗り込み、道を下りケンコー(Q'enqo:意味わからず)の神殿。トウモロコシなどの貯蔵にも利用されたらしいが、ごつごつ岩でできた無数の小さな部屋のひとつには、冬至の朝日が当たるところにさほど大きくない生け贄台があった。

サクサイワマン(Sacsaywaman:満腹の鳥)へ。今日見たどの遺跡より、かなり大きな城塞/神殿だ。インティワタナ(Intiwatana:太陽神殿)には、コンドル、プーマ、ヘビのインカ三大神聖動物のシンボルがみえた。

                 

それにしても、この石積み技術の精巧さには息を呑む。また、クスコ(インカの首都だった)のこれらの神殿や城塞を繋いで、地下に迷路のような地下道(チンカナ)がめぐらされているというから、更に驚きだ。インカ帝国は、厳しい掟と軍事力を持って、周辺の小さい部族にケチュア語を強要した、スペインが来るまでの支配勢力と個人的には見ているのだが、それでもやはり遺跡の中へ入って行くと、何か不思議な力を感じずにはいられない。

ああ、やはり冬至にもどって来なければ!

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Visited the ruins around Cuzco. Magnificent mountains. Sacred ceremony sites for the Sun God.

Tonight we are leaving for Arequipa and Colca Canyon. Sleeping in the bus.

クスコ到着

2006年05月29日 | 旅人希望
クスコの空港は、近代的でこぎれいだった。ガラス越しに手を振っているのは、ガイドをつとめてくれるベンとアナの友人アデラだろう。ロビーに着くと同時に「セニョリータ、タクシィはいらないかい?」「インフォマシオンはどうですか?」と客引きがタカって来た。まあ、津田沼駅の深夜過ぎ、白タクのおじちゃんたちの「エ~、八千代方面、八千代ぉ~!」に慣れている私は、この程度では焦らないゾ。

黄色い軽サイズのタクシー3台に分乗する。行き先を運転手に告げるとアデラは、「3ソレス以上払っちゃダメよ!」と叫んでドアを閉めた。



中央広場に着いてまず目に飛び込んで来たのは、鮮やかなピンクとターコイズブルーだった。多くのひとが、サンタフェでも見たことのある、しまのブランケット(風呂敷)を背中に斜めがけにして歩いている。建物は、中世ヨーロッパ的で白い壁と茶色い屋根なのだが、人々の身につけている物の、カラフルなこと!



そういえば、小腹がすいてきた。アデラに何か道ばたで手軽に買える食べ物を探していると言ったら、プラザの隅でタマレ(トウモロコシの粉に水と油を加えて生地を作りその中に少量の具を入れたのを、皮に包んで蒸したもの。ふかふかのちまき風。)を売っているおばさんの所へ案内された。



甘いのとしょっぱいのがあるという。合衆国内のばかデカサイズとは違い、かわいい食べやすい大きさだ。中にはチーズとブルーベリーのような紫の実がひとつ、ちいさな肉が一片入っていた。
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Slept at the airport in Lima. Then to Cuzco (Cusco).
Beautiful montain range.
People in colorful clothes.

I am going to try some street food now!

テラ・インコグニート

2006年05月28日 | 旅人希望
ヒューストンの空港について、サンフランシスコからの仲間ふたりが加わり、フェニックスからのトニー(アナの息子)と合わせて8人がそろった。全員集合の顔合わせをするにあたり、大事なアナウンスメントがあるという。

ひとつは、この旅行中何か自分なりの企画/プロジェクトを考えて実行し、旅の終りにみんなと分かち合って欲しいということ。

もうひとつは、4-5日お世話になる予定だったシャーマンの方の体調が思わしくなく、どうも予定を変更せざるをえないようだということ。

プロジェクトの方は、あとでゆっくり考える事にして、二つ目の報告は結構ショックだ。この旅のそもそもの魅力は、儀式などの交流をしながらシャーマンの家にお世話になることなわけで、そう簡単に同様のかわりが見つかるはずもない。でも、みんな思ったことを一通り言い終えると、「それでもいいじゃないか。何か他の有意義なことを計画しよう」ということになった。

私にしても、南米そのものが「未知の世界」なのだから、セレモニーを体験できなくても、そこには人がいて、山があって、食べ物がある!旅先で友人ができると思い込めるほどナイーブではなくなってしまった自分がちょっぴり悲しいが、何かしらいい出会いがあると期待している。

「未知の世界 - テラ・インゴグニート」か。どこで聞いた言葉か忘れたけれど、ドキドキする響きだ。どこか自然のコワサも秘めているような気がする。リマへの機上で、友人がくれた「クスコから」という日本人のガイド/ライターの友人(になりつつある方)の書いた本を読んだ。周りは寝静まっている。疲れた目を休めようと、窓をあけてみた。真っ暗だ。いや、真っ暗なんかじゃない!翼のちょっと後ろあたりに、ほそーいながーい月が浮かんでいるのだ。昨日は新月だっけ?わずかだが、周りに星も見える。飛行時間の半分以上過ぎているのだから、今私は南半球にいるはずだ。「こんばんは。はじめてお目にかかります。」と心のなかでごあいさつする。仲間の誰かに知らせたいと見回したが、みんなどこにいのるかわからない。もう一度拝もうと窓の外を覗き込んだが、もう厚い雲が翼のすぐ下を横切っているだけで、何も見えなくなってしまった。「テラ・インゴグニート」(incogunito = 人に知られない、お忍びの)。そこには、何が待っているのだろう・・・

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Saw stars and the moon from the plane to Lima.
Constellations unknown to me.

リリアンのグレープフルーツ

2006年05月28日 | 旅人希望
ハリーの妹(?)リリアンの家族は、フェニックス郊外に住んでいる。昨日の午後に到着したわたしたち5人を、気持よく迎えてくれた。

私は、ベンの姪っ子コニアと同室になったが、20才の彼女は物静かだ。無理強いしてもいけないので、そっとしておくことにした。嫌でも、これから二週間近く寝食を共にするのだから・・・途中寄った彼女の家で、インディアン・ブレッドを作って待っていてくれたお母さん(ベンの妹)から、「ベンは子供たちにナバホ語でしか話さず、とても厳しいので娘たちはみんなこわがっているの。」と聞いた。コニアは、学校に入るまで完全にナバホ語のみで育ったのに、心ない教師の要望で(今だにそんなことが居住地内でまかり通っているとは信じがたいが、本当らしい)英語を強要され、一ヶ月間教室からはずされて、英語の特訓を受けた。お陰でナバホ語を忘れてしまって、聞いては理解できるが、話すとなると英語まじりでしかできない。だから、ベンの前では何となく気後れしてしまうらしい。ベンは「私は子供たちが英語で話したら、『お前は外国人になったのか?』と言ってとりあわない。厳しすぎるとは思わないよ。きっと後に理解してくれると信じている。」と言う。

昨日は40度を越える暑さだったが、朝はすがすがしい。リリアンの庭にりっぱなグレープフルーツがなっていて、朝ご飯にひとつ、飛行機で食べるようにひとつもぎとらせていただいた。私の好物だ。

ナバホ国へようこそ

2006年05月26日 | 旅人希望
よせばいいのに、出がけに「何か持って来て欲しいものある~?」なんて電話してしまったせいで買い物が増え、家は早く出たものの、結局サンタフェを後にしたのは1時半だった。

北回りの美しい山道を行くのはよして、いつものI-25を南下する。アルバカーキに入って、西に折れるとI-40。ここからギャラップまでは、あまり楽しいドライブとは言えない。というのも大きなトラックや貨物車が、摩天楼のように私のちびっこジープを取り囲み、追い越していくからだ。

でも今日は特別。

先を急ぐわけでもないし、気持ははずみっぱなしだし、トラックの嫌がらせも気にならない。鼻歌を歌いながらハンドルを握る。右側だけ熱くてかなわないので、カーディガンを脱いで、右腕にかけた。すると、プンッ。しばらく忘れていたアノ音が!(去年の11月にも、こういうことがありましたっけ?)そうガソリンタンクの警報だ。フーン、次の出口はたしか・・・チャコ・キャニオンの入り口、クラウン・ポイントへ通じるのがあったはず。あそこならスタンドぐらいあるだろう。それにしても、どうして?どうして?私はこうもお間抜けなんだろうか?(クドイようだが、こちらの高速道路は、料金を払って入ると中にサービスエリアがあるシステムではない。必要に応じて、みんな勝手に出入りする。出口は無数にあるが、どこでもガソリンスタンドが見つかるとは限らない。気をつけていないと、荒野の真ん中でガス欠になって、立ち往生なんてこともある。)

出口を抜け、ひとつ道路を渡った向うにちょっとした広場が見える。そのあたりで、アクセルが効かなくなってしまい、しょうがなく車を止める。荷物を入れ替えているナバホの家族に尋ねると、あと0.4-0.5マイルのところにムスタングのスタンドがあると言う。でも、そこまでどうやって?目で助けを訴えたが、娘さんに顔をそむけられてしまった。

今日はじめて知ったのだが、エンジンを完全に止めてからもう一度ためすと、結構かかってくれるものなのだ。そうやってだましだましスタンドに辿り着いたものの、そう言う時に限って都合のよい側は空いていず、方向転換してやっと給油に成功。無駄と知りつつ、「もう二度とこういう事にはならない」と心に誓った。

ギャラップは、ナバホとズニの間にあって、居留地に一番近い「外の町」だ。この辺りまで来ると、出くわす人の75%ぐらいはインディアン。道ばたは「インディアン・ジュエリー」とか「ナバホ・ラグ」の看板で埋め尽くされている。町全体が道路工事中で回り道をさせられ、埃っぽくてかなわないので、飲み水を買ってからそそくさと北上し始める。ヤタヘイで西へ折れて264号線へ。この道は、整備が整っているから順風そのものだ。いくつかの丘を越えて、右手にアート&クラフトの店が見える。あの丘を越えると、いよいよナバホ国の首都(というには、何ともちいさい町ではあるが)ウィンドー・ロックに入る。ここからアリゾナ州だ。あと一時間ちょっとでベンとの待ち合わせの場所に着くので(記憶がおぼろげで、彼の家への行き方を忘れてしまった。)電話を入れる。「ふらふらしてないで、まっすぐおいでよぉ~!待ってるから」と言われてしまった。ディネ・カレッジやキャニオン・ディ・シェイに寄って・・・なんて思っていたのだが、さすが見抜かれていたようだ。ナバホ道12号へと北へ曲がって、まもなくフォート・ディファイアンス。またまた右に折れて更に北上を続ける。

ああ!赤い岩がはじまった。そう、どの岩も形をはっきりと覚えている。右手がチュスカ山脈だ。






クリスタルの静かな遊牧地を抜け、ウィートフィールドの湖で釣りをするひとびとを眺めながら走った。背の高い松の木が増えて来た。いよいよツェイリだ。ディネ・カレッジの本校がある所。私が2年間住んだ所。「ふらふらしていないで・・・」というお腹をすかせたベンの声が、耳の後ろあたりでささやくので、お楽しみは後回しにすることにして、先を急いだ。

ベンの住むルカチュカイは、東側をルカチュカイ山で守られた平坦な土地だ。横に細長い山は、下が赤の縞しま岩、山頂ちかくは緑に覆われてとても美しい(何となくオーロラでできた屏風に見える)。12号線の舗装道路からはずれると、道のような荒れ地のような平地を行くので、初めての人には説明のしようがない。だが、ここまで来たら記憶がよみがえってきた。家はあそこに見えるから、辿り着く道を探せばよい。

私が親しくしていた頃は短髪にしていたが、ベンは白髪まじりの長髪になっていた。「昔にもどっただけ」と言いつつ、誇らしげに風になびかせる。明朝は早いので、つもる話を半分くらいで切り上げる。「ホーガン(ナバホ族特有の伝統的な建物)を建てたんだ。土間だけど、そっちで寝る?」「土間なら尚いい!」というわけで、懐中電灯を片手に寝袋をもう片方の手に携え、東向きの入り口を入った。



時計回りだから、ダルマストーブらしきもののある真ん中を確認して、左に回る。興奮して寝られないかとも思ったが、心地よい疲れがスーッと襲って来て、横になったらあっという間に寝付いてしまった。

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ペルーで書いた覚え書き
Woops! I did it again. (Gas)

Driving through the red canyon.
Ben´s house. Will sleep in his hogan.

コットン・ウッドの風にのって・・・

2006年05月26日 | 旅人希望
夕べは「ノーと言えぬ日本人」の自分が情けなかったけれど、夜まで働くことになってしまった。こうなったらヤケクソ!と張り切って行ったら、とてもうれしいシンクロが起こって、すっかり全身にパワーがよみがえった。

遺跡好きで気が合う日本人と中国人夫妻の友人がいるのだが、ペルー行きのことを話したくて会いに行こうと願いつつ、機会を逃していた。明日出発前に寄り道して、二人のやっているギャラリーへ行こうか、でも他にやることもあることだしと迷っていた。夜の仕事中、私はめったに外に出ないのに、今夜は何故かふらっと出たくなった。一歩踏み出して頭を持ち上げる。と、二人がそこを歩いているではないか!しっかりご挨拶して、気持いいくらい羨ましがせ(笑)満足した。

もうひとつ。仕事先でたまに会う日本人の知人が、こんな風に話しかけてきた。「さとりさん、ペルーのどこへ行くんだっけ?うちのフィリップが、これをあげろって。」と一冊のいかにも手作りらしい(しかしとてもよくできた)クスコのガイドブックを差し出す。彼女の旦那さんはフランス人で、結婚前は真剣にペルー移住を考えていたほど、惚れ込んでいるのだそうだ。クスコへ行った時のガイドさんが日本人で、この本を作ったご本人だった。1998年の話。記念にとっておいたけれど、日本語だから読めないし思い切って私にくれるのだと言う。「へぇ、日本人のガイドさんか。ひとり知っている人がいるけれど、○○さんって人」と言いつつ広げてみると・・・何とそれは、まちがいもなく彼女が作ったのもだった。この方と面識はないのだが、信州へ帰った際、知り合いのおばさんと話していて、ひょんなことからペルー行きの話が出て、紹介していただきここのところメールのやり取りをしていた。残念ながら、今日本へ講演をしに帰っていて、アルマス広場でコカ茶する話が流れてしまい残念、と言っていた矢先のことだった。ガイドブックは何も買っていないし、丁寧で愛情に満ちたこの案内書は、願ったりのプレゼントだ。しかも、いないはずの彼女に、ガイドしてもらっているようなもの。なんだかその辺を、スキップしたくなるような夜だった

今日は、洗濯をしてから(出発までに乾く予定)ちょっとヤボ用を済ませ、お昼少し前に出発する。アルバカーキへ南下してからI-40というカリフォルニアまで続くインター・ステイトをひたすら西へ。分水嶺を越えてギャラップから今度は北上してナバホ・ネイションへ。日の入りはかなり遅いので、ゆっくり走っても夕暮れまでには、キャニオン・ディ・シェイに着く。こんなに始まる前からテンションが高くて恥ずかしいのだが、この日記をはじめから読んでいる人がいたら(まずいないだろうけれど)、今回の旅が私にとってとてもとても意味の深い、感慨深いものだときっとわかっていただけるだろう。

この日記はとりあえず、お休みになります。日本語入力は望めないけれど、ネットにアクセスがあれば、自分の覚え書き程度にはメモをとるつもり。もし「アイツは今、どこにいるんじゃい?」と思って立ち寄っていただけば、何か書いてあるかもしれません。帰りは二週間後ぐらいですが、はっきりいつか決めてありません。

サンタフェの街ではハコヤナギ(Cotton Wood)の綿毛が、そよ風に吹かれてあちこちでフワフワと舞っています。私もこの風にのって、憧れの砂漠へ、そして未知の古きインカの土地へ行ってきます。

旅支度

2006年05月25日 | 旅人希望
アナから電話があり、旅行の最終確認をした。「インディオの女性は、伝統的にはズボンをはかないから、スカートを忘れないように」との付けたしと、全部でメンバーが8人になったとのこと。加えて、ディネカレッジで仲良くしてスウェット仲間だったビルマにも、私がナバホネイションへ来ることを知らせてくれたという。彼女にも会えそうだ。

集団行動が割と苦手で、基本的に一人旅体質の私にとって、3人以上の旅というのはかなり大きな団体旅行だ。不安はある?ん~、そうでもない。偏見か事実か、私はインディアンの人たちというのは、体に染み付いた行動パターンがとても近くて、一緒にいて違和感がないと思う。人の話には割り込まないで、嫌な顔をせず最後まで聞いてくれるし、プライバシーの感覚が似ていて、土足で入りこまれるような思いを味わったことがない。返事が曖昧なのも許されるし、人に譲る度合いも控えめでさりげない。よく笑う。

そして、何よりもいいのは、彼らの「決定」の下し方だ。二月にセイクリッド・ランへ参加した時も(二月最後の数日の日記参照)思ったが、本当の意味での民主主義というか、私の理想であるマルクス・社会主義というか。つまり、メンバーのすべてを愛し私欲のない、そして人とのやり取りにとても長けた、頭の切れるリーダーのもと、じっくり話し合った上での全員一致が原則だ。時間はかかるが不満が少ないので、その結論に反することを敢えてしようという人がない。だから、後から急に堪忍袋の緒が切れたりすることもない。

ここのところ、朝8時に家を出て夜10時に帰宅という、日本人のサラリーマンのような生活を強いられて、まだ荷物は何一つ詰めていない。こんなに暑いと、あちらは秋から冬で標高もここ(2000mぐらい?)より高いからといくら脳みそにインプットしても、なんだかその寒さがピンと来ないのが本音だ。でも、パスポート、航空券、銀行の引き出しカードと白紙の手帳は用意したし、ご存知のように随分前から盛り上がっているので、気と心のほうはすっかり用意ばんたんだ。運転があるのだから、今夜は寝ないといけないなぁ。

予防接種

2006年05月21日 | 旅人希望
先日、旅行のためのワクチンを受けたので、体が必死で免疫をこしらえているとみえて、しんどい。今までメキシコへ行った際など、予防注射のことはまったく頭に浮かばず、のほほんと行って来た。まぁ、長期でそこに住んでいたアメリカ人の親戚をたずねたので、そういうナイーブなことも許されたのだろうが。伝染病が発生して緊急体制になった時は、その予防注射を予め受けたことを証明できないと入国を拒否されることもあると聞いて「じゃしとくか」という軽い気持ちで、西洋医学の医者と面談した。

ところが、これがけっこうクセもので、経験のうすい私は面食らってしまった。

ペルーを訪ねるにあたって、気をつけたい病気は・・・肝炎A(日本ではA型肝炎って言うんですね。忘れてた)、B型肝炎、破傷風、黄熱(黒吐)病、恐水病(狂犬病)、インフルエンザ、肺結核、おたふく(風疹)、水疱瘡、ポリオ、腸チフス、コレラ、エイズ、マラリア、デング熱、下痢などなど。多くが「かかったら最後」とか、「放っておくと命取りになりかねない」種類の病気である。

いくつか予防注射と錠剤の薬(マラリア用)、更に虫よけ(それもディードという毒の20-30%以上のもの)を薦められた。マラリア用の薬はいろいろ種類があるのだが、週一回のラリアムは怖い夢を見たりする副作用があるので、一日一回のマラロンにする。

その他の注意---
 肌の隠れる服装をすること。
 下痢になった時の対処を考えておく。(下痢止めの強い薬と水分補給)

そして水とたべものについて-----
 ボトル入り、炭酸系、フィルターをかけて沸かした水、ビール、ワインなど、はよい。
 氷は避ける。 
 歯を磨くのは上記の安全な水のみで。
 ボトルや缶の口はよく拭いてから。
 サラダはダメ。
 フルーツは、自分で皮をむいたもののみ。
 乳製品を使ったデザートは避ける。
 街頭の屋台からは買わない。
 河や湖では泳がない。
 
これに輪をかけて、
肩下げカバンのストラップに針金を通す(スリ対策)
現金はUSドルでいいが、何か書いてあったりマークしてあるものは疑われて使えない。
車の運転は荒々しいので、気をつける。
「シャイニング・パス」(Sendro Luminoso)というテログループは、今でも活動中。
赤タクでの誘拐事件も、クスコなどで報告されている。
遺跡には強盗事件が多いから、一人ではいかない、暗い時刻は避ける。という忠告も。

そんなこと言ってたら、何にもできないじゃない!

と言うのが私のリアクションだった。アメリカで今時の世の中、ブッシュ政権が人々の恐怖心を煽っていることだし、こういうのを文字通り信じて(まあ、事実に基づいての情報ではあるし)出かけてもビクビクして何も経験せずに帰って来たり、行くのをやめてしまう人もいるのだろうなぁ。そう言えばサンタフェで、温泉もすしもバクテリアの宝庫だから自分は絶対に試したくない、という日本びいきのアメリカ人に会ったことがある。

私はどちらかというと、深いことを考えぬ冒険好きのきらいがあるので、かえって周りが心配しているというワケ。被害妄想になる必要はないが、気をつけてと言われても、どこに線を引けばいいのかよくわからない。

少し苛立ちながらもワクチンを受けぬわけにはいかず、以来体調が悪くてグダグダしている。価値観や思想の近い人に意見を聞こうと、マッサージ師の友人や、ホメオパシィの先生などに話をきいた。みんな、100%賛成はできないが「受けて正解」という返事だった。今日、インドヘよく行く友人(彼女もヨガ実践者だ)に会い訊ねた所、ワクチンには反対だけれど、インドで大きな蚊がやってきて刺された時に、ヨガで学んだ平常心と全てを受け入れる精神だけでは、あそこまで落ち着き払っていられたかは自信がない。食べ物や水に関して得た知識を使って、常識で判断すればいいのではないか、とのことだった。何事も常識と自分の本能的な判断に任せればいい。つまりは、普段の生活と同じなんじゃないだろうか。

というわけで、一件落着。