愛すべき自動車たち・・・(ホンダ・スポーツ)

自動車たちの思い出話。画像無く、不定期ですが書き綴っていきますので宜しくお願いします。

AS285E その10 チューナップ

2006年02月03日 | Weblog
ホンダ・スポーツの愛好者に限らず、自動車を趣味として捕らえている人たちはオリジナリティを求める人とパワーなどを含めたポテンシャルの向上を求める人の2種類に分かれると思う。

僕は、僕のホンダ・スポーツを作り上げたかった。

結構、チューニングは泥沼のようなもので、用心深く一つ一つの課題を克服していかなければ目標に近づくことができない。

ところで、S600の後期からウエット・ライナーがメガネ、いわゆるツイン・スリーブになる。

AL700も同様にツインであるがシールが数字の8の様に繋がっているのである。

つまり、ボア・ピッチをそのままに285Eブロック(アッパー・クランクケース)の限界まで拡大したためにこの様な形になってしまったのである。

高宮ボーリングの親父さんに無理を言い、アッパー・クランクケースを限界まで加工する。

ある程度の部品はそろったが、ピストンピンが一回り大きい。

スモール・エンドを拡大するにはクランクを分解しなければならないのであるが、再び組み付けるとき冶具が必要になる。しかし、その当時に、すでにホンダ用のクランク組み付け冶具を持っているボーリング屋は福岡には存在していなかった。

つてを頼り、情報を集めたところ、大阪の「高速ボーリング」がまだ持っていることが分かった。

早速、クランクとAL700のピストンピンをカバンに入れ、新幹線に飛び乗る。

無論、オーバー・ホールを兼ねるのであるからリテナーなども持参する。

ちなみに、福岡からは僕の他にNサンも行かれていたそうだ。ちなみにNサンは「リュック・サック」だったそうである。

高速ボーリングに着き、事情を話していると、「とことんやるなら鏡面したほうがいい」と言う。

やり方を聞くと「金属研磨」をするところならどこでもできる・・・とのことである。

鏡面と言う泥沼に入ることとなった。

とりあえず測定と分解をしてもらい、ニードル等の用意もあるので直ぐに終わるはずも無い。

分解されたクランクを再びカバンにつめ、一旦、福岡へ戻り、鏡面加工を施した後に、また、出向くこととした。

なお、今も「高速ボーリング」が存在しているかどうかは分からないが、Sのオーナーでクランクのオーバーホールを考えているのであれば調べてみる価値はあると思います。なにより、他の加工屋さんとのネットワークが凄く、その気になればゼロからクランクぐらい作れる。 「これが大阪か・・・・」と、妙に感動したことを覚えている。

以下、つづく

AS285E その9 チューナップ

2006年01月29日 | Weblog
このブログを始めて、初めて越前さんと言う方からコメントをいただきました。
越前さんはT360のレストアをやっておられる方・・・
残念ながら僕はT360に関する情報や部品の持ち合わせがありませんが、気が向いたら、また、覗いてみて下さい。

さて、その後の泥沼(チューン・アップ)の話ですが、次に行った事はロスを無くす(削減)と言うことです。

Sは冷却ファンがオルタネーターと一体化している。・・・
と言うことは最高回転領域での馬力損失が大きい・・・と判断、冷却系に関することに着手。

ラジエター・コアはジーゼル・エンジン車用に取替え、電動ファンとしました。
それに伴い、オルタネーターはSB1用。
ファンはチェリー用を純正のファン・シェラウドに溶接して取り付けました。

体感としては感じ取ることはできませんでしたが渋滞問題と自己満足だけは満たしてくれました。

S360のエンジンは僕にとっても、また、ほとんどのS愛好者にとっても幻のような特別な存在で、見たこともありませんが、S500からS600、そしてAL700までは兄弟のようなものです。

言い方を帰れば280系ともいえると思います。

次に着手したことは排気量の増大でした。

ボア・ピッチさえ合えば部品流用ができる。

目標は700CCオーバー。

とりあえず、AL700の部品調達を始めました。

以下、つづく・・・


AS285E その8 チューナップ

2006年01月25日 | Weblog
今更、AS285Eエンジンのチューナップ記事・・・と思いましたが、このブログを始めた事自体、ある意味では世話になった人へのお礼でもありお詫びでもあるので気が向いたら閲覧してください。

とにかく僕は、解体屋から昭和39年式S600オープンタイプを手に入れてからは取り付かれたようにAS285Eにのめりこんだ事は事実だ。

解体屋歩きも頻繁になった。
昭和50年始め、車検を取ることができ公道を走るようになったが、子供の頃味わった迫力を感じなかった。

ヘッド周りのオーバーホールは済ましたが納得がいかず、そのとき先輩を通じて紹介していただいた人がSFに居られたU氏であり、担当していただくこととなる。

この時代、部品供給体制が滞りを見せていた。

U氏からの依頼もあったが、U氏の元へは、このときのお礼として高校時代の解体屋周りで手に入れていたキャブやその他の部品をかなり届け、これらの部品は他のホンダスポーツへ生かされることとなった。

U氏の手によりキャブバランスが整えられたエンジンは見違えるほどの変化を見せたが、まだ納得がいかず、その1年後にクランクを除く総てに手を入れた。

インテークポートは拡大ではなく、かつてカーグラフィック誌に掲載されていた通り、絞りを残した状態で段差を取り除き、滑らかさを求めた。
ヘッドは0.5ミリ。チェーンスペーサーとシリンダースリーブは0.2ミリのフライス加工。カムスプロケットは取り付け穴を長穴加工し、バルブタイミング調整が可能なようにした。

ピストンはオーバーサイズである。突き出し量が若干増え、圧縮が上がる。

バルブガイドにはステムシールを取り付けた。

オーバーホールが完成し、500キロ程度走りこんだとき、転勤で熊本のSFに行かれていたU氏から連絡があった。

「T360のエンジン、持ってない?」と言う事だったが手持ちが無かったのでS500のエンジンを熊本まで運ぶことになった。(熊本県にはS500のエンジンを積んだT360が存在していたのである。もしかするとまだ生きているかもしれない。)

ある程度ばらしたエンジンをトランクにつめ、友人のYと二人で出向く。
熊本のSFに到着し、エンジンを渡すと、今度は僕のエンジンを見てもらった。

再び・・・ではなく何度もキャブ調整はしてもらっていたのだが熊本でもやってもらう。

帰りは九州縦貫道。
最高速にトライである。

75キロの友人と50キロの僕、タイヤサイズは165-70-13、中期のハードトップ仕様。

結果は4速、11300rpm(程度)で20分間走行した。

家に戻るとすぐさまに熊本のU氏に「4速、11000オーバーで20分間走行しました。」と言うと「本調子のSは、そんなもの・・・」と一言で片付けられた。

これを機に、更なる泥沼へと僕は入ることへなるのである。

以下、続く




AS285E その7

2006年01月22日 | Weblog
貰った自動車雑誌は月刊自家用車やカーグラフィック、オートスポーツ、そしてプレイボーイ誌の付録の「世界のスポーツカー」などだった。

これらの雑誌を僕は中学2年生頃(昭和44年)まで貰っていた。

月刊自家用車やカーグラフィック誌に「カスタムカー」(自己流の改造記事)や「チューンアップ」に関する記事が掲載されていたことを思い出す。

月刊自家用車はカスタムカーのページをよく見ていた。

当時は、軽自動車の車検が要らなかったので、軽自動車をベースに改造した記事が多かったように記憶している。

カーグラフィック誌への思いではS600、つまりAS285Eエンジンのチューンアップ記事である。

シリンダーヘッドのポート加工をイラストで説明していた。

ジョー・ホンダ氏のF1写真を見たのもこの頃で、当時はホンダF1の写真だからジョー・ホンダなんだ・・・と勝手に思い込んでいた。

ともかく、これらの自動車雑誌によってF1の他にもル・マンやカンナム、ラリー、ジムカーナ、バギーなどの競技があることを知ったし、また、自動車は自分の思い通りに作り変えても良いものだと思い込んでしまった。

大きくなったら乗りたい自動車の絵をよく書いていたものである。

さて、また、時代が飛んでしまうが、カーグラフィック誌のAS285Eのチューニング記事を思い出したついでに、僕がAS285Eを手に入れて、そして泥沼に陥っていった話を次回からすることにする。

ただ、AS285Eエンジンをパワーアップしたい・・・

この衝動に駆られたのは昭和46年、解体屋でS600を手に入れてから始まった。

以下、続く





AS285E その6

2006年01月20日 | Weblog
雁ノ巣レースが盛んだったのは1950年代の後半からで、おそらくピークは1962年のクラブマンレースと言えるだろう。

僕が大学のお兄ちゃんに連れて行ってもらった時点では、その華やかさは若干衰えていたのかもしれない。

雁ノ巣までクーペに乗れること自体がうれしかった。というのが本音である。
このとき、初めて「ドライブ」と言う言葉も知ったし「カミナリ族」と言う言葉の意味も知った。

さて、昭和41年には偉大な大衆車「サニー」が登場する。
車名を一般募集して決まったのが「サニー」だ。
「マイカー」と言う言葉が使われだしたのもこの頃からだったかもしれない。

僕は、大学の兄ちゃんから、いらなくなった自動車雑誌を色々ともらった。
この、もらった雑誌でホンダF1を知ることになる。

次回は、自動車雑誌の思い出を書くことにする。

続く








AS285E その5雁ノ巣とポップ・ヨシムラの先生と師匠

2006年01月20日 | Weblog
ヨシムラ氏の先生の名は湯川氏と言い、ご健在なら90歳に届く年齢である。
湯川氏は長崎県出身であり幼少のころより神童と呼ばれ、若くして九州飛行機に入社し、九州飛行機では若手設計技師としては一目置かれていた存在であった。
旧海軍の局地戦闘機「震電」の開発にも携わっていた。

戦後、精密加工の工場を福岡の地で開く。
内燃機の修理とか開発などを手がけており、本多総一郎氏とも面識があった。
当時は小型の2サイクルエンジンのオートバイが数多く生産せれていたがシリンダーの磨耗が著しく、このための対策としてシリンダー内壁のクローム鍍金処理があるが、この処理を始めて九州で行った人でもある。
オートバイ業界にヤマハが参入し、ヤマハからも、また、本田総一郎氏からも九州での事業に関しての協力を求められたが、あっさりと断っている。
断っていなければ時代が変わっていただろう。

湯川氏とヨシムラ氏の馴れ初めは、たどっていけば「九州飛行機」まで遡ることができると言える。

そのヨシムラ氏が湯川氏の工場を訪ねてきたときの話を、僕は昭和51年に湯川氏から直接聞いたことがある。

それは、雁ノ巣でオートバイのレースが盛んになりつつあったころの話で、ヨシムラ君がふらりと工場に来て、「湯川さん、早いエンジンにする方法を教えてください。」と言ったので、「教えてやった」と言うのだ。

教えた内容は、圧縮比、バルブ拡大、カム・プロフィールの変更などだったそうだ。

具体的には、バルブは、当時の国産のエンジンパーツの耐久性の低さから外車のエキゾースト・バルブを流用し、カム・シャフトはカム・ベース円を修正することでバルブ・リフト量を稼ぎ出す・・・という手法である。
これらの加工を実際に行った人物が湯川氏の工場にいた高田氏である。

古くから福岡での精密加工業界を知っている人がこのブログを見たら、「あぁ、あの人か」とうなずく人が何人かはいるかもしれない。・・・

ともかく、この高田氏の技術は素晴らしく、湯川氏いわく、「国際技能オリンピックに出たら間違いなしに優勝する」という実力者である。

僕自身、高田氏の工場で、高田氏が研磨した金属ブロック同士を擦り付けて、そのブロックが外れずに持ち上げたことがある。

ヨシムラ氏に対して、湯川氏はエンジン理論を教え、高田氏は金属加工の手ほどきをした。

ともかく、ヨシムラ氏が名を馳せた影に湯川氏と高田氏、この両氏の存在があり、この両氏の存在がなかったら「ポップ・ヨシムラ」は存在していなかったことは事実である。

高宮ボーリングも面白いところだった。
ここもヨシムラ氏と少なからず関係があったところであるが、これは別の機会に書くことにする。

ともかく、赤いホンダS600クーペとの出会いが、僕の自動車、そしてレースへの興味を開くきっかけとなったことに違いはない。

その6につづく







AS285E その4 雁ノ巣とポップ・ヨシムラの先生と師匠

2006年01月19日 | Weblog
日曜日、自転車で、朝9時ごろに病院の裏のお兄ちゃんの家の方へ行くとすでにクーペのエンジンはアイドリングしていた。

昭和41年の福岡は市内電車が走っていて、西公園の近くにはホンダの大きな倉庫があった。
クーペは国道3号線に出ると北上し、志賀島へ向かう。
雁ノ巣は、戦時中、飛行場として使用されていたが、春日原とともに進駐軍の居留地や住宅地となっていて、志賀島へ近づくにつれ英語の看板が多く目に付きだした。

志賀島の手前が雁ノ巣で、この志賀島へ続く道路の途中からフェンス越しに進駐軍の居留地を見ることができた。
ペンキ塗りの家を見たときディズニーの絵本を思い出していた。

現在(平成18年現在)、3回連れて行ってもらったあの時の雁ノ巣を思い出しながらブログを書いていますが、記憶の中の雁ノ巣は、ただの広い広場で、GIや日本人がオートバイを走らせていた・・・程度で、レースがどうだったかは、残念ながら思い出せない。
ただ、見たこともないぐらい、沢山のオートバイやクルマがあった。

さて、雁ノ巣と言えば、レースマニアにとっては「ヨシムラ」を連想する人が多くいると思う。

ヨシムラ氏がレースの世界に入るきっかけとなったのも雁ノ巣があったからだ。
ヨシムラ氏のことを伝える記事は多いが、ヨシムラ氏の先生と師匠のことを伝えた記事を僕はまだ見たことがない。

この両氏とは昭和51年、僕が21歳のときに出会うのだが、雁ノ巣の思い出とともに書いていくことにする。

以下、その5に続く

AS285E その3

2006年01月19日 | Weblog
自転車屋の屋号は原野自転車と言い、戦前、戦中は航空機の整備をしていた経歴の人だった。

クーペのオーナーはこの町唯一の病院のご子息で医学部に通う「大学のお兄ちゃん」で、僕の父と兄ちゃんの父君、つまり病院の先生とは戦前からの友人だった。

「4連キャブ」とか「調整」とか言う言葉が聞こえていたので今思えばキャブの同気をとっていたのかもしれない。

ブリッピングを繰り返したり、エンジン回転をある程度上げた状態を維持したり、叔父さんは細長いドライバーをゆっくりと締めこんだり、戻したり・・・

エンジンが静かにアイドリングし、左右に振り分けられた排気管からプロロロと音が出て「これぐらいやろ」と叔父さんが一人呟き、ボンネットを閉めると「試運転してこんね」と叔父さんが大学のお兄ちゃんに言う。

大学のお兄ちゃんは、クーペに乗り込むと同時に、「乗るか?」と僕に言ってくれた。
僕はその時の天にも昇る興奮を今でも忘れてはいない。

急いで助手席に乗り込む。

20分程度のドライブだったが今でも鮮やかに思い出すことができる。

自転車屋に戻り、クーペから降りる僕に「今度の日曜、雁ノ巣につれて行っちゃろうか?」と僕に言う。
「雁ノ巣」と言う意味がわからなかったけれど、当然のごとく反射的に「うん、つれてっいって」と答えていた。

説明が前後するが、かつて福岡には戦前、戦中、九州飛行機と言う航空機製造工場があり、このため航空機の整備経験を持った人が自転車やバイク屋を始めた人が多くいた。

世界的に有名になった「ポップ・ヨシムラ氏」もこのうちの一人であることは言うまでもない。

また、「雁ノ巣」があったからゴット・ハンドが生まれたことは事実だ。しかしながらヨシムラ氏の歴史は沢山のメディアに取り上げられているが、ヨシムラ氏の内燃機の先生とゴットハンドの師匠については誰も伝えていないので、次回は「僕の雁ノ巣体験記」とともにそれらの史実を書くことにします。

つづく・・・

AS285E その2

2006年01月16日 | Weblog
次に、あの赤いクーペを見たのは昭和41年の夏休み、町に一軒しかない自転車屋でだった。
自転車屋とは言ってもオートバイは販売していたし、店の看板にはトラックの絵が描いてあったことを思い出す。

今、思えば、あの看板に描かれていたトラックはT360だったのかもしれない。

この自転車屋は幼馴染の叔父さんがやっていた。
だから僕もちょくちょく遊びに行っていたので急いで自転車を乗りつけた。
そのとき初めて「ホンダS600クーペ」という自動車であることを知った。

ボンネットが上げられていたので、こっそりと覗き込む。
少しくすんだ銀色のエンジンが細かく動いていた。
僕が始めて見た自動車のエンジンである。

この出会いが全てを決定したのかもしれない。

つづく・・・


AS285Eホンダスポーツ

2006年01月15日 | Weblog
昭和39年、ホンダスポーツが世に出た。
S500というオープンカーで、タイトルのAS285は排気量を拡大したS600のことです。
クーペタイプはこのS600から登場し、ビジネス・カーという位置づけでした。
その当時の僕は小学3年生で、世の中は東京オリンピック一色。白黒テレビに釘付けでした。
始めて見たホンダスポーツは赤いクーペでした。
まだ未舗装だった僕の町のメインストリートを小学校から自宅へ戻る僕の横をホコリを巻き上げて疾走・・・
これまでに聞いたことの無い排気音がいつまでも聞こえていました。
その赤いクーペに触れることが出来たのはそれからしばらくしてのことですが、それは次回、お話します。
追伸、ブログは初めてなので、このスタイルでも良いですか?・・・