「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

2011-11-07 | 古代史

本日(2011.11.7)からブログをはじめました。

よろしくお願いします。

海○○人さま、初めまして、わたくしは大分県由布市湯布院町に住む秋永祥治(あきながしょうじ)と申します。S23年福岡県久留米市篠山町生まれの62歳です。父・祖父等の実家は福岡県浮羽郡田主丸町以真恵という所で農家でした。久留米地域には秋永の姓は数が少なく学校でも珍しがられていました。父はH2年に亡くなりましたが、生前秋永家の由来を訊ねたことがあります。海軍将校だった父も青年のころ興味を抱いたらしく、菩提寺の過去帳等でいろいろ調べたところ、詳しいことは解らなかったが、『以前は柳川?の藩士であったが、お家騒動で脱藩して田主丸で農民として住むことになった。と想われる。』由。一緒に脱藩時、他の秋永姓のものは、大分県の耶馬溪の方に逃げたらしい。と父から聴いていました。それ以前のことは不明でした。
九州では秋永の姓は、福岡県は田川郡大任町大行事、豊前市、久留米市田主丸町近郊、大分県の中津市近郊に少しの方が住んで居られる事は風聞で知っておりました。
時が経ち、
最近知人から戴いた冊子をめくっていましたところ、あるページの写真に釘付けになりました。『これは!!!親父や叔父の顔にそっくりではないか。』見詰めれば見詰めるほど額眉目鼻唇頬といった顔の全体が『あきながのDNAを持っている。』と感じました。その人の名前を見て二度びっくり秋永勝彦(あきなが かつひこ)さんと言われるではありませんか。中津の耶馬溪の雲八幡神社の宮司さんでした。もしや『ずっと以前に分かれた親族ではなかろうか。』との想いで、この方に是非お会いして由来を伺いたいと思いました。親族の法事の折に、この冊子の写真を見せると一同似ていると賛同してくれまして自分だけの一人よがりでないと確信しました。今年2月に私の叔父の写真をもって伺いました。冊子で拝見したとおりの印象で何かの繋がりを感じました。冊子での経緯を説明し『秋永勝彦家の由来を訊ねたい。』とお話をすると、「自分の家系は武田氏の家臣で、戦いに疲れて豊前の地に流れてきて雲八幡神社の近くの山城に居候をしていた所、そこの殿さまから雲八幡神社の宮司を命じられて以来今日に至っている由。」と亡父(秋永十勝氏)より聞いたとのことでした。当時の社会情勢を考えると私にはとても信じる事は出来ませんでした。神官に為るには余程の家柄でないと絶対為れるものではありません。神主になれる資格(皆が納得できる裏づけ)が在った筈ですので「家系図を拝見させて下されば有りがたい。」とお願いをしました所、とても好意的で系図を拝見させて頂きました。天津小屋根命―天国摩大鹿島命―藤原鎌足―藤原不比等―藤原房前と続き房前の系に秋永山と書かれ秋永弾正国重の文字がありました。秋永房国(信濃上)が次に記入されていました。また、藤原不比等の下には淡海公と記入されていました。―重房(従五位秋永民部大輔)-高康(秋永左近将監、弓馬達人博学多才)―繁康(秋永出羽守)―康政(秋永日向守)―隆康(秋永但馬守)のところに《応仁6年、武田○○家、子5人引具豊前に下向》とも記入されていました。系図の最後の前は天正13年の文字がありました。最後の秋永康元の左横に『義功』と書かれて、その下に羅漢寺大和尚と記入されていました。私は、此の事が本当であると仮定すれば、秋永家は大変な高貴な家柄ではなかろうかと考えました。(織田信長の織田家も弾正だった由。)《律令制のなか藤原一族が秋永をなぜ弾正という要職に重用したのだろうか。の疑問が残りました。》
秋永勝彦さんへ秋永の分家の数等を質問しました所、親族は一軒もないとの由。(不思議?)雲八幡神社の近くにある羅漢寺に、戦国時代に一人養子にやったがその人は細川家と一緒に行って羅漢寺を出てしまった由。この羅漢寺の奥に秋永という姓を名乗る方が二軒居られる事と、中津市もしくは豊前にも7軒~8軒居られることを教えていただきましたが、どちらも親戚ではない由。
雲八幡社の由来も訊ねました。

神功皇后が三韓征伐の帰り、腰を下ろし休憩をした岩が、後に雲が湧き立ち、神が現れたり、不思議なことが多く起こり、地域の住民が毎年まつりを行っていた処、京で醍醐天皇の孫である小松院隆子と禁断の恋愛をして豊後の地へ流された清少納言の兄と言われている正三位、清原正高が天延元年(西暦973年)に通りがかり何事かと訊ねると、上記・・・の由。ならばしっかりとした御社を建ててお参りをしなさい。ということで建てられた由。

私は、系図をじっと見て感じ取ったのは『もしかしたら、九州にいる秋永姓及び武田姓の一部は応仁6年豊前へ下向の5人の末裔ではなかろうか。』と推察しました。

雲八幡神社をお暇し、自宅に帰りパソコンで雲八幡神社を開きました。ついでに神功皇后も開きました。彼女の姓は息長(おきなが)・気長(きなが)と呼ばれるでは有りませんか。奈良の神功皇后陵を検索しますと、秋篠町の傍にあります。どうも『息』と『秋』は何か関連を感じます。

私は、『ひょっとしたら息長は秋永と一緒ではなかろうか?』閃きました。『お』と『あ』の音の違いですが、繰り返して発音しますと、韻を踏んでいますので同じように思えました。ある時に(例えば、壬申の乱の折)、『おきなが』から『あきなが』に変化したのではないでしょうか。古代中国では姓名革命があったそうですので、可能性はあります。

日本でも中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を拝命しています。

と、いう事であれば、秋永勝彦氏の先祖が神官になるのも地域の人々が納得できることになります。しかし、彼ら5人は生活の約束されない豊前の地に行ったのでしょうか。ひとつ考えが及ぶのは、応仁の乱で疲弊した飢餓の中、自分達一族の出発点である豊前の地を目指した人達かもしれません。豊前には彼らを受け入れる人達が存在していたと想われます。

秋永姓がある場所は主に大分県の中津市周辺(宇佐神宮附近)・福岡県田川市大任町大行事(香春神社・鏡山神社・風治八幡神社)附近であります。後は福岡県の田主丸近郊です。

『では、5人が出発した場所はどこだろうか。』もしも、息長氏の生息地と秋永氏のルーツである出発点が重なるのであれば、可能性は大きくなります。秋永勝彦さんによりますと、武田家に繋がるので甲斐、若しくは信州・信濃になりますが秋永に繋がる地名や山・川が出てきません。方針を変えて全国で調べる事とし、検索の結果三重県の鈴鹿市に秋永町の地名を発見しました。近江息長氏の活動の地からも直線60km位でさほど遠くありません。早速、三重県の郷土史編纂室に電話を入れて、秋永町の由来の資料を送ってもらいました。昔は安芸郡秋永町と呼ばれていたそうです。最初の部分に秋永は秋長とも書く。と述べられていました。周辺には古墳も多く、三角縁神獣鏡が真宗秋永山真昌寺に納められているとの事。『ひょっとしたら、・・・』と私の胸が高鳴りました。しかし、息長と秋永を結びつける決定的なものではありませんでした。しかし、わたしの心の中では『(おきなが)=(あきなが)であって欲しい』との個人的な想いが募ってきました。

 暫らくネットで手懸りを求めて足掻いていました。そして遂に、秋永町のすぐ西隣の郡山町に酒井神社(郡山町1759番地)が存在していることを発見しました。《酒井という言葉は坂君・酒君・三国君に繋がる息長氏一族にとっては重要な意味を持っている由。『三国は坂井郡と言ったそうだが、どうも坂は酒らしい。』と海○○人さまは述べられています。》

酒井神社の主祭神を調べてみますと、丹後地方に多い豊宇賀賣命・保食神ですが、祭神の中に品陀和気命・天児屋根命がありました。

秋永町の5~6kmには、主祭神が息長帯比賣命の竹野八幡社(鈴鹿市竹野2-15-43)がありました。また秋永町の西3kmには(祭神が天之菩卑能命・天之忍穂耳命・天津日子根命)別の酒井神社が存在しています。

また、郡山町の酒井神社の1.5km位の西北に服織神社(はとりじんしゃ)(御薗町2019番地)があります。此処の祭神は息長帯姫命・天児屋根命、と三重県の神社一覧に書かれていました。

服織神社をネットで調べましたところ、大正5年に郡山町の酒井神社に合祀されていました。

鈴鹿市の隣の亀山市の南宮大神社(亀山市太森町1308-1)の祭神は金山毘古命・息長帯比賣命・天眞名鶴命となっています。

亀山八幡神社(亀山市江ヶ室2-6-19)は祭神、品陀和気命・帯中津比古命・息長帯比賣命.とあります。

神社一覧で三重県内の息長帯比賣命を主祭神にしている神社の分布を眺めて見ますと、亀山市と鈴鹿市が主でありました。他の地域にはあまり見当たりません。

これ等の位置を図面上に表すと鈴鹿市にある王塚古墳を囲むようになりました。

この王塚古墳は息長氏(あきなが氏)と関係がありそうな気がします。

やっと、おきながとあきながが重なりました。

秋永町のあきなが氏一族は息長氏と関連のある酒井神社を祭り、敬って暮らしていたと想われます。

1、            息長一族が何らかの理由で近江周辺から移り住んだ。

2、            元々息長一族は山城・大阪や三国・近江周辺と考えられていたが、亀山・鈴鹿あたりまで勢力(姻戚関係)があったと修正すべきである。

3、            元々息長は此処が大きな拠点(古墳群等にて)であった。

4、            元々秋永は息長とは関係がなく偶然である。

これ等のことを総合的に考えますと、1と2と3は,可能性は有りそうですが4は低いと考えられます。わたくしには、秋永一族は息長一族と関わりのある者たちのように想われます。そういう事であれば秋永弾正も肯けます。

 

わたくしは古代史の研究家ではありませんので、学問的知識も乏しく、多面的な捉え方ができません。云々・・・

 

息長氏の時代(古代史)を研究しておられる専門家の海○○人さまに伺ったところの回答は以下の通りでした。

 

 

 

「日本姓氏語源辞典」によりますと、「アキナガ」または「アキナカ」と読む姓氏は、「穐永」「穐長」「秋永」「秋中」「秋長」があり、その内、発祥地が明記してあるのは、「秋長」さんの「香川県小豆郡小豆島町」と、「秋永」さんの「福岡県。豊前国田川郡秋永邑発祥。柳本藩に存す。」と記入されています。

雲神社の由緒によれば「応仁三年(1469年)には城主・大蔵太夫が現宮司家の「秋永氏」を社司(宮司)に任じている。江戸時代になると細川忠興公、次いで小笠原氏歴代藩主、また元禄十一年(1698年)以後は幕府の天領なる。」とあり、応仁3年といえば、応仁元年に始まった応仁の乱の真最中であり、応仁年間に九州に来られたのは間違いないと思います。

耶馬溪の秋永氏は武田家に仕えていたと言うことですが、応仁の乱に参加しているのは、武田は武田でも、甲斐ではなく「若狭」武田氏です。若狭武田氏四代目当主、武田信賢(たけだ のぶかた)が一番有名ですね。現在、小浜市に隣接した滋賀県高島市の市会議員には、「秋永やすじ」さんという方もおられます。

耶馬溪のご先祖は、応仁年間に若狭からいらした秋永氏ではないでしょうか。

若狭はもちろん神功皇后とは非常にゆかりの深い土地ですし、高島市の琵琶湖を挟んだ対岸の米原市に流れる天野川は、別名「息長川」といい、若狭の秋永氏であれば息長氏の転訛したものと考えて良いと思います。

また、面白いところでは、応仁の乱で武田氏の味方であった細川氏(肥後細川藩・忠興公が耶馬溪の雲八幡神社の庇護もしてますね。)の重臣で、松井佐渡守康之の子・長岡興長の家臣に、関が原~島原の乱で活躍した、秋永十郎左衛門という方がいます。この方、当主・長岡佐渡守興長が没した時、殉死した9人の家臣の一人でした。

長岡興長は丹後国久美浜の生まれなので、この秋永十郎左衛門さんも、その頃からの家臣とすれば、息長氏に縁が深い、丹後の出身かもしれません。が、ご存知の通り、細川氏は江戸時代初頭に豊前・豊後から肥後熊本藩に国替えになりました。豊前時代に長岡佐渡守興長に仕官したとも考えられます。

祥治さまの秋永氏は「柳」は「柳」でも柳河藩(立花氏)ということで、お顔が似ていらっしゃるという、耶馬溪の秋永氏とは別系統ということかもしれません。また、ご存命かは分かりませんが、歴史家の秋永政孝氏の著書には、「柳本郷土史論」や「柳本織田家記録」、「中世多武峰の盛衰」、「中世郡山の展開」などがあり、この郡山は奈良県大和郡山市です。三重県鈴鹿市の郡山町が秋永町のとなりにあるのと無関係ではないと思います。柳本藩は現在の奈良県天理市柳本町で、秋永政孝氏は、この辺りのご出身だと思います。

で、「日本姓氏語源辞典」に戻って頂きたい。

「豊前国田川郡秋永邑発祥。柳本藩に存す。」です。柳本藩は大和国にあるのに、豊前国とは?柳本藩の説明に「大和柳本藩」とあったので、豊前にも柳本藩があったのか?と思いましたが、豊前国には小倉藩と小倉新田藩しかありませんでした。

この解釈には、二通りあると思います。秋永氏は大和から来たのか、それとも豊前に発祥し、織田家に仕えて大和へ行ったのか。

いずれにせよ、こちらは田川市の秋永さん系と考えていいと思いますので、若狭武田氏系の貴・秋永氏とは別系統でしょう。

 

弊サイトでは息長氏の同族に秋永氏を加えるだけに止めたいと思います。

 

とのことでした。

 

と言うことで、秋永氏は息長氏の同族ということに賛同を頂きました。

 

 

鈴鹿秋永氏までは踏み込んで戴けませんでしたが、現状では致し方ないと考えます。(息長氏が鈴鹿まで勢力があった事は初説?になるので研究者として慎重にならざるを得ないでしょう。)しかしこれからは、鈴鹿古墳群の研究には息長氏を頭に抱かなくてはいけないものと思われます。また、奈良県郡山町の秋永氏も近江の秋永氏も鈴鹿の秋永氏も福岡田川の秋永氏も根はひとつと思われます。これからは、近江と鈴鹿の関係そして奈良の柳本町近辺(附近には崇神天皇稜や景行天皇稜とか古墳も多くあり、纏向遺跡も近くです。地名も大和朝倉豊前といった九州にもある地名が存在しているのも不可思議です。どうも朝廷が九州から近畿へ移動したとも想われます。)との関係を調べて往こうと考えています。

また、私が父から聞いたルーツの件も父自身も自信が在る様には感じられませんでしたので、若しかしたら、天理市に居られる?歴史家の秋永政孝氏の柳本藩のお家騒動の書物を以前に読んでいて(1953年刊行)そう答えたのかもしれません。今となっては亡くなった父に確かめたい想いです。

 

 《追補》

その後の調査にて、田主丸町以真恵には13軒の秋永家があり、家紋は全ての家が『丸に違い鷹羽』でありました。以真恵地区には、馬渡家も数軒あり、此処もすべて『丸に違い鷹羽』であります。この地区は以前から『馬渡』と呼んでおり、『馬渡氏』の本貫地とも考えられます。

3キロ程久留米寄りの大橋地区集落に15軒程の秋永家がありますが、この地区の秋永家の家紋は『丸に木瓜』・『吉』・『重ね升に一文字』の3種類でありました。此れは以前に九州(倭)を離れて本州に渡った人達がその後(戦乱時)に戻って来たものと考えられます。『丸に木瓜』は高良神社や宇佐神宮の神輿の紋や織田家が想い浮かび、奈良柳本藩の飛び地が香春町~大任町に在ったのも、気になります。

草野山本地区にお住まいの秋永 清さま兄弟の家紋は『三階松』で、此れは『倭の大乱第2幕』にて崇神側に味方した方。と考えられます。

現在東京に居られます、秋永好晴さまの出身地、佐賀県多久市東多久町納所地区には、約10軒の秋永家がありますが、家紋は全て『丸に花剣菱』であり、此れは耶馬溪の『雲神社』宮司の秋永勝彦さまの家紋と同じであります。此れは1467年の『応仁の乱』時に、豊前に下向した5人の別れた末裔とも想われます。

投稿されます全国の秋永さま・馬渡さまは、家紋と出身地住所を記入して頂きますと参考になります。宜しくお願いします。

 

 

 

 

 


コメント (12)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
   | トップ | 秋永氏探求から紐解く息長日... »
最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご挨拶 (椋 康雄)
2011-12-26 10:59:25
秋永祥治様
私は『息長川ノート』という文章を書いているものです。「息長氏」というキーワードでかかれている文章を本日初めて目にしました。今後読ませて頂きたく、ご挨拶を申し上げます。

私の書いているものはまもなくいったんウェブ上では完結させようとしているものですが、ご笑覧頂きご意見頂くことがあれば幸いです。
返信する
椋 康雄さま (秋永 祥治)
2012-01-26 14:48:21
お便りを戴きまして、お返事が遅れて申し訳ありません。お詫びを申し上げます。当方、全くコンピュータに疎く、URLの意味がわからず、返事の仕方をようやく習得しました。これからは、スムーズにやり取り出来ると思います。椋 康雄さまの『息長川ノート』早速読ませていただきました。私と違って、かなり専門的に細部にわたって検討を加えられ、丹念に論考されており、敬服致しました。河内息長氏も香春から行橋・苅田辺りから派生された息長氏である。と考えられます。機会があれば、是非お会いしたいです。
返信する
親戚かもしれません。 (秋永)
2013-01-22 17:18:15
現在大阪に住んでいる秋永と申します。
下の名前はネット上なので伏せさせていただきます。
私の祖父は福岡県久留米市の田主丸出身です。
きっと遠い親戚ではないかと思います。
ブログを拝見させていただいた時はびっくりしました。
祖父は残念ながら亡くなって何も訊くことはできませんが、またブログ上で更新していただければと思います。

返信する
Unknown (秋永 芳松)
2013-03-15 17:32:09
ブログを拝見させていただきました。
返信する
秋永様 (澁川)
2013-05-06 12:45:35
初めまして。澁川と申します。
私の祖母は田丸出身で旧姓は秋永です。祖母は亡くなりましたが、祖母の曾祖母は祈祷師さんだったらしいです。あまり、詳しい話は知らないですが、秋永家はお金持ちの家系みたいです。秋永と検索したらブログが出てきたのでびっくりしました。
返信する
奈良柳本秋永について (秋永 某)
2013-08-10 15:23:07
 残念ながら、当家は柳本織田藩家老・ 西条家として 360年前から務め、江戸末期に 藩主の命により秋永と春永に分家しました。
返信する
追伸 (追伸)
2013-08-10 15:51:00
 ご興味があれば、もっとお話できます・・・
グーグルで 見てください・・
 卑弥呼の鏡・・ 黒塚古墳・・・ 本家の真ん前です・・
 隣の小学校は 元 織田家本陣です・・
返信する
秋永姓について (秋永好晴)
2015-01-12 23:57:20
初めまして、ブログを読ませていただきました。
私は現在57歳で、東京に住んでいますが、父・祖父は、佐賀県多久市東多久町に住んでおり、私もそこで生まれ育ちました。10年前に亡くなった父が調べた所では、秋永姓は加藤清正に従って秋田から来た藤永氏に由来すると言っておりました。加藤清正によって藤永姓が秋永姓に帰れたと。秋永姓は東多久町納所地区に多く、秋永家の菩提寺も納所にあります。秋永家は納所のあった神社の神主であったと聞きました。以上、私が知っていることをお伝えします。
返信する
初めまして (茨城県 秋永)
2015-02-22 13:43:50
ブログを拝見させて頂き、とても興味深く面白かったです。

私も自分の結婚前の姓が秋永と申します。
生まれも育ちも茨城県で、先祖代々茨城県で地主をしていた家です。
過去を遡ると江戸時代くらいまでのものならあるのですが、お寺さんが燃えてしまったり、戦時中に留守にしており戦後の農地解放等で留守の為色々なものが流失してしまい、家の歴史を辿ることができません。

戦時中頃まで雇っていた方に姓を分けたり、婚姻での分家等をしているので、近所に秋永の姓は10軒ほどはいますが、親戚関係を続けているわけではなく、何の交流もないです。

でもこのようにご先祖さまも、もしかしたら近畿の方から移り住んだのかなと思うとおもしろいです。
ずっと茨城にいるわけではなかったのかなと、、結婚してこういったことを調べるような時間はなくなってしまったのですが、秋永の家に生まれて幸せで誇りも持っているので、自己満ですがやっぱり死ぬまでにはもう少し紐解いて調べたいと思いました。

同じ秋永さん、場所は遠いですがご縁があったらいいなと思っております。
ありがとうございました。
返信する
秋永は 美しい苗字 (350年前からの秋永 某)
2015-02-25 17:00:43
それぞれ、由緒ある 苗字です。子百姓 町人がいきなりいただける苗字ではありません。大切にしましょう。
返信する

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事