「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

百済第25代武寧王の生まれた場所。

2017-03-13 | 古代史

満州~別府出身の秋吉敏子と伴に、大分が誇るジャズピアニストの辛島文雄氏が平成29年2月24日に亡くなりました。わたくしと同じ昭和23年生まれで、音楽好きの、わたくしとしては、寂しい想いで、残念です。しかし、豊前宇島のSPレコード愛好家の辛島氏は健在であります。

この大分豊後宇佐郡辛島郷発祥と謂われます『辛島=韓島=加羅島=唐島』氏は、息長帯姫(神功皇后)と八幡神(応神)を宇佐神(比咩大神=豊玉姫と玉依姫=記・紀では姉妹として扱われていますが、本当は多祁里比賣命と下照姫の親子と考えられます。)に持ち込んだ。と謂われており、辛島氏と息長氏の関係が興味を持たれます。

辛島氏はスサノオ(雲南省白族系=新羅系=辰韓系帰化人)にルーツがあり、五十猛命の末裔とも考えられています。

実は、わたくしの父の出身地である福岡県久留米市田主丸町以真江地区は、別名があり『唐島』と謂います。バス停も『唐島』と有ります。此処には秋永氏=息長氏(家紋は丸に違い鷹羽)が十数軒程あり、百済25代武寧王は筑紫の各羅島=唐島で生れたとされ、田主丸『唐島』の息長氏(秋永氏)集落で産まれた事に考えられます。この周辺には、勿体島もったいしま・八丁島・扇島・浮羽島と謂った『筑後川の島』の名前があります。

と謂うことは、息長氏(天皇家)と百済王室の関係が認められ、今上天皇の平成13年12月23日=68歳誕生日の記者会見での発言である『百済王室に日本皇室は関係している。』は、正しい考察発言と考えられます。

続日本紀では第50代桓武天皇(737年生~806年没)の御母上『高野新笠』(和氏)は武寧王の末裔と記述され、百済25代武寧王の子であります百済第26代聖王が仏教(仏像)を第29代欽明天皇(久留米市斯帰島宮)と蘇我稲目=志賀氏=斯末氏(本拠地は大分市東院~向原~古国分)に勧めた理由と、

磐井の乱(磐井が新羅と結んで、天皇家の百済への派兵を妨害した為に第26代継体天皇(息長氏=秋永氏)が物部麁鹿火に命じて磐井を誅した事件)の真相が紐解けました。

倭でのスサノオ・大国主命(後に、和邇氏高木神派と組み、スサノオと戦い勝利したものと考えられます。)・神産巣日神・白氏・狗呉・賀茂氏系と、草部吉見・高木神・秦氏・袁氏・和邇氏系、つまり雷神と風神の争いが、馬韓・辰韓・弁韓の韓半島に最新のアイテムで有ります『鉄』を求めて、新羅(白氏=大幡主=スサノオ派)と伽耶(草部かやべ=阿蘇氏=高木神派)・金官伽耶(大國主命派)を創る結果を生み、やがて伽耶(加羅)=狗邪韓国=倭の西北端の国(後漢書に拠る)は百済に近付き、新羅(白)と対峙する事になります。

 

 

 

 

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級長津日子命はスサノオと同一人物であった。と考えられます。

2017-02-06 | 古代史

佐賀県唐津市呼子の加部島に田島神社があります。この神社は宗像神社辺津宮(宗像市田島)の三女神を祀っており、海から船を接岸しての参拝をするように造営されており、裏山には祈巌石が数多くあり、宗像から出航した船は、博多湾~糸島経由で、外洋(壱岐島)に向かう事を意味しています。航海の安全を祈る本土最後の寄港地であったろう事が理解出来ます。

平成29年1月28日、古川清久氏の誘いで此処に来たのでありますが、本殿左に在ります摂末社『御先神社』を指して、「ご覧になりましたか。」と古川さまが述べられ、祭神を見ますと、順に右から左へ、級長津日子命・級長津戸辺命・猿田彦命とあり、わが眼を疑い驚きました。級長津日子命と猿田彦命は別神である。と暗に示されていたのです。わたくしの説では、猿田彦命と級長津日子命は同一神で、『海幸彦』である。と定義していたからであります。一瞬「これは祭神記入の間違いではないか?」の疑いが頭を過ぎりましたが、伝承に誤りは無いものとも考えられます。

百嶋さまも、之をご覧になったものと考えられ、『級長津日子命』が『海幸彦』、『猿田彦』は『山幸彦』と定義されて考察を進められたものと想われます。

級長津日子命と猿田彦との関係をどのように解釈するかを、古川さまに問われたのであります。

動揺して沈黙した、わたくしは一人、車に戻り、想を深めて再考を試みました。そして、わたくしの誤りに気付きました。

級長津日子命と級長津日女命=級長津戸辺命を『夫婦』と解釈していた事です。

級長津日子命と級長津戸辺命は『』と『』の関係に解釈するべきであります。

つまり、級長津日子命(阿蘇氏=雲南省・海南島方面から遣って来た犬祖伝説を持った白族が鉄を求めて新羅シラ=白に出先を創り、熊本県玉名市から派遣された第4代脱解王=昔氏=石氏の末裔と考えられます。)がスサノオ=竜王=天日鉾=大綿津見神=豊玉彦=金鑽大神=大将軍(太白)=天之御影神=息長氏(秋永氏)の初祖となり、スサノオの娘であります級長津戸辺命が、市祁島姫=多祁里姫=息長大姫大目命=豊玉姫=天鈿命=息長水依姫=宇奈岐日女=竜神姫=猿女と解釈すべきで、猿田彦が級長津戸辺命の夫の『海幸彦』と解釈されます。

山形県酒田市の『小物神社』の『』の字の意味は『イン=嬴=斎部=スサノオ=金山彦』の事を指しており、祭神は、級長津日子命と級長津戸邊命であります。

百嶋神社考古学研究では、奈良『春日神社』二月堂の『御水取り』は、『スサノオの心霊』を『豊玉姫』が祀っている。と述べられており、之は『級長津戸邊命』が『級長津日子命』を祀っている事を意味しています。

亦、奈良県生駒郡三郷町に在ります『龍田大社』の元は熊本県の『立田山=龍田山』と考えられ、此処も級長津日子命と級長津戸邊命を祭神にしています。スサノオの先祖の原点は熊本県にあるものと感じられ、韓国の『新羅本紀』(1145年成立)の中で第4代脱解王=昔氏は『多婆那国』から遣って来た。と述べられており、如何もこれは『熊本県玉名市』を指し示すと感じられます。

根拠は、中国『周』に繋がる『呉』の『太白』は姫氏で、姫氏が紀氏、即ちスサノオは、姫氏=紀氏の血を受け継いだ王で、これが記紀で謂う、『熊襲』の正体でありましょう。倭には、『呉』『越』『楚=蘇』『秦=辛』『南粤ナンエツ』南方から海流に乗って何度も難民が遣って来ており、宮崎県串間市では、『南粤』王族が齎したと考えられます国宝の『玉璧ギョクヘキ』が出土しています。

紀元前後には、倭から朝鮮半島へ鉄を求めて、呉・越・楚・秦・南粤から遣って来た人々は、競って韓半島の馬韓・弁韓・辰韓(後の百済・金海・伽耶・新羅・高句麗)方面への進出を図ったものと想像出来ます。

 

因みに、わたくしの『山幸彦』とは、日子火火出見尊=ニギハヤヒ=大國主(ホツマ伝では、元は筑紫を治めた大幡主神=神産巣日神の死後、天葺根命が大物主=大国主命に為った。とされています。)と考えられ、大幡主神末裔に天穂日命=建角身命(ミミ族)=ヤタカラス=矢田烏=八田氏=景行天皇に豊後直入で志賀氏(阿蘇氏=ミミ族で、本貫地は豊後大野町)・藤原氏(阿蘇氏=ミミ族で、本貫地は豊後日出町)共々退治されます。後に菅原氏=土師氏(この方も阿蘇氏)が登場します。その他大幡主神系代表として崇神=雷神=久留米市城島に居て、勝手に神武を名乗った人。がいます。

 

 

 

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ミカシキの場所を考える。

2016-10-31 | 古代史

わたくしの説では景行天皇(記紀では、崇神の子で長男の豊城入彦が景行=彦坐王の事を意味しているものと考えています。『豊城』の地名は田主丸に在り、此処は彦坐王が生まれた場所であります。『豊城入彦』は父崇神により東国を治めよ。とされ、上毛・下毛国=豊前を意味する。に追い遣られた人)と崇神天皇(記紀では、景行の一番下の弟『若木入日子』と記入されている。のが崇神天皇と考えられます。)

景行(兄)と崇神(弟)は歳の離れた母違いの兄弟で、大善寺玉垂宮で生まれた崇神は勝手に、イスラエルの『モリヤ山』の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割の事。を意味します。(高良玉垂宮神秘書より)『伝承の神武天皇』(神カム=大昔より・ヤマト=倭に・イワレ=伝承している・ビコ=人)の名を騙り、博多湾~糸島の塩土老翁(=白氏=大幡主=地禄神=熊野フスミ神=神ムス日神)の話を聞いて登美の長髄彦=日子坐王(腹違いの兄)=和邇氏の縄張り地ヤマト豊前~田川を奪おうとします。

登美とは北九州苅田から行橋・豊前~香春町辺りを指し、苅田市には『富久町』、豊前市には『大富神社』が在り、古来は此の辺りを総称して『登美』と呼んでいたものと考えられます。(百嶋説も、富=登美の場所は豊前である。とされ、わたくしと同じです。)

田主丸町竹野媛から産まれた日子坐王は田川郡の『香春神社』にて祀られています辛國息長大姫大目命=息長水依比売命=天宇受賣命=スサノオの娘(スサノオは天之御影神として隠されているもの。と考えられます)=市祁島姫命=豊玉姫を娶り、景行天皇(日子坐王)は長髄彦命と同一人物であるとしています。

長髄彦命は、大國主命や多祁理比賣命とは相当な親子程の歳下の開きがあったものと考えられます。長髄彦は(日子坐王=景行)の妹=ミカシキ屋姫(わたくしの考えでは、妹は捏造と思っており、妻でありますミカシキ屋姫=多祁理比賣命で有った。ものと考えています。しかし、多祁理比賣命は以前には大國主命の妻でありましたので、隠されたものと考えられます。百嶋さまも神社考古学研究により、多祁理比賣命=市祁島姫は海幸彦=シナツ彦=草部吉見=日子坐王=景行=長髄彦と大國主命の妻に為っている。と述べられています。)

三炊屋媛ミカシキヤヒメは饒速日(=山幸彦=彦火火出見尊=私見では大國主命の事と思っています。)の妻となり、宇摩志麻遅を産んだ。と記紀では述べられています。宇摩志麻遅とは味鋤高日子根命である。事が推察されます。

三炊屋媛ミカシキヤヒメは、鳥見=登美屋媛トミヤヒメ・櫛玉比賣命クシタマヒメ(=多祁理比賣命と考えられます。)とも称され、『ミカシキ』の地名の場所は、

わたくしの妻(以前の姓は寺崎で、家紋は門光=木瓜=天皇家の紋章=わたくしの妻の父の弟が『荒穂神社』を代々司る筑紫氏に養子に入っていて、この人の先代が、大正天皇の教育係りを皇居で勤めています)の出身地であります基山町『三ヶ敷』の事であろう。と考えられます。

此の基山町の『三ヶ敷』ミカシキ周辺の通称『弥生が丘』には古墳が多数あり、文化財として数多く残されています。

わたくしは、この鳥栖市『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』地区に長髄彦=景行天皇が棲んでいたものと考えています。筑紫の熊襲退治の時に六年程居座った『高岡宮』とはこの地であろう。と思っています。因みに、わたくしの知人に、代々鳥栖市今町(弥生ヶ丘の東端)に棲んでおられます『鳥實大志とりみひろし』さまも居られます。家紋は『丸』=和邇氏を意味します。に一文字です。ミカシキ屋姫末裔と考えられます。

 

久留米市『斯帰嶋宮』にて治めた第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇)(朝倉広庭宮出身)は、皇后に、佐賀県神崎市日隈~久保和泉地区(和邇氏地区)に棲んで居たと考えられます第28代宣化天皇の娘の『石姫』を娶り、第30代『敏達ビタツ天皇』を儲けます。

欽明の妃には、豊後出身の蘇我稲目の子であります『蘇我堅塩カタシ姫』(大分市東院に棲んでいたと考えられます。)との間にて、第31代『用明天皇』(別名、池辺皇子・橘豊日天皇・大兄皇子)と、第33代『推古天皇』(別名豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ・額田部皇女・大大王)、を儲けます。

また、蘇我稲目の子であります『小姉オアネ君』(穴穂部=阿蘇高森地区~豊後竹田直入に棲んで居たと考えられます)との間にて『穴穂部間人皇女』(後の第31代用明天皇の皇后に成ります。聖徳太子の母で、一時期『蘇我馬子』の暗殺を避けて京都府宮津市間人タイザに逃げていた)・『穴穂部皇子』(後に、皇位を望み『敏達』の皇后の額田部=推古を襲い、物部守屋と手を結びますが、蘇我馬子に殺されます。)・泊瀬部皇子(生まれは阿蘇~直入で、育ちは朝倉広庭宮と推察出来ます。後に第32代崇峻天皇に為りますが、蘇我馬子から殺されます。)

第三皇女であります推古天皇(豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ)は、豊後大分東院か佐賀県基山町ミカシキで生まれ、幼少時を豊後の後宮(東院=母の里『蘇我堅塩カタシ姫』=蘇我氏の里=志賀氏の里)で過ごしていたのもと考えられます。

そして、豊後向原の後宮(東院トイ)を出た後、基山町『ミカシキ』にて育った。のかも知れません。関係が勘繰られます。

わたくしの説では、蘇我氏は志賀氏=志摩氏=斯末氏=百済25代武寧王に繋がる一族の事で、武寧王は筑紫の加羅島で生まれたとされ、此れは、わたくしの秋永氏集落の傍に在ります田主丸町『唐島』の事であろうと考えられます。高良玉垂宮神秘書には『志賀氏』とは『アントンイソラ=安曇の磯良』の事と述べられています。如何も元は物部も蘇我も安曇族で、一緒であったものと想われます。穴穂部とは阿蘇のカルデラ=高森を指し、泊瀬部とは筑後川『長田の堰瀬』がある朝倉山田広庭宮(恵蘇八幡神社近辺の志波地区辺り)と思われ、額田部皇女(後の推古天皇)は、第29代欽明天皇の第二皇子の第30代敏達天皇(別名、他田天皇)の皇后と為って、竹田皇子を儲けます。敏達天皇(別名、他田天皇)は河内磯長中尾陵に葬られた。とされ、この場所は大阪府南河内郡太子町とされ、大方の研究者は鵜呑みにして信じておられますが、わたくしの考えでは、福岡県香春町に『河内』の地名があり、傍には『秋永=磯長=息長』の地名が在ります。ので、この香春町~大任町附近の古墳に埋葬されているものと考えています。

 

先代旧事本紀にて宇摩志麻遅命=味間見命(味鉏高日子根命=大國主命と多祁理比賣命が儲けた人。の事と考えています。長髄彦=景行天皇が登美=豊前~行橋~黒田~香春で仕えていたのは宇摩志麻遅命、即ち味鉏高日子根命の事と想われます)が饒速日命(私見では、大國主命=魏志倭人伝中の爾支ニキ=ヌシ?と、同一人物と考えていて、倭(九州)の大君=君長=ヌシ=大王で有ったと思っています)の残した天璽瑞宝十種を神武(崇神)天皇に献上し、『足尼』の冠位を神武(崇神)から頂き、娶ったのは『活眼邑の五十呉桃の娘、師長姫(息長姫=秋永姫)』と記されており、この活眼邑の場所は久留米市山本町耳納附近で在ったと考えられます。何故ならば、此処には『活眼神社』(山本町耳納1314番地)が在ります。(『宝賀寿男』さまの卑弥呼の居所の山本町豊田考察が頭を過ぎります。)

わたくしの説では、崇神の子であります活眼入日子(第11代垂仁天皇)は久留米地区出身である。としています。そして天之御影神=五十呉桃=スサノオ=豊玉彦が連想されるのであります。

山本町の隣であります草野町には、立派で格式高い『須佐能袁神社』が在ります。(此処にも猿氏が纏わり憑きます。)草野(古来の呼び名はカヤノ=伽耶野と呼んで欲しいと百嶋由一郎さまは述べられています。)から田主丸へ架けては、秋永氏の集落地区が、大橋地区・以真江地区の2箇所あります。後は山本町地区の秋永清さま兄弟だけです。佐賀地区では。多久市納所地区に秋永氏集落地区があり、和邇氏(丸の紋章)の広がりは東西にゆふいん~日田~浮羽・田主丸~鳥栖~吉野ヶ里~小城・多久・武雄まで在ったものと考えられます。

当然、倭の大乱で和邇氏の『吉野ヶ里』から『日の隈』地区集落を攻めたのは博多湾~大善寺玉垂宮・有明海~玉名・熊本方面の南北ラインを固めたと考えられます、亀甲紋章派=崇神・大幡主・大国主派でありましょう。『吉野ヶ里遺跡』は『和邇氏の里』と捉えるべきです。

 

推古天皇が即位しました豊浦宮とは、下関市に在ります神功皇后(息長帯比賣命)所縁の『穴門豊浦宮』と考えられ、蘇我氏(志賀氏=志摩氏=斯末氏とも呼ばれていたものと考えられます。博多湾の『志賀の島』や『糸島=怡土・志摩』にも名を残しています。志摩には桜井神社があり、蘇我氏の縄張りであったものと想われます。)は豊後~筑紫~有明海~瀬戸内~鹿児島(阿多)を船にて闊達に往来していた事が伺い知れます。

崇峻天皇ゆかりの朝倉の広庭宮(志波柿=志波垣宮=柴垣宮)にも竹田皇子(敏達と推古の子であります。第30代敏達は、佐賀県神崎市日ノ隈宮に居たと考えられます第28代宣化天皇と皇后であります『橘仲皇女』の子で有ります『石姫』と『第29代欽明天皇』(久留米斯帰嶋宮=大善寺玉垂宮)との間の子です)伴に来ていた。と考えられます。

と、謂うことは、朝倉には竹田皇子や推古も埋葬されている事が考えられます。(推古は小墾田宮=豊後古国府と考えられます。で崩じた。とされていますが生前に、先に亡くなった竹田皇子の墳墓と一緒の場所に埋葬を望んだ。とされて、『磯長山田陵』に埋葬した。とされていますので可能性があります。)恵蘇八幡宮(朝倉市山田)に在ります『御所山1号・2号古墳』は、『竹田皇子・推古』親子の墳墓とも想われます。もし、その考えが当たっていれば、第37代斉明天皇が西暦661年朝倉広庭宮に行宮を設けた理由が紐解けます。朝倉は多くの天皇皇族が関わった重要な場所と考えられます。

 

長髄彦=景行天皇時に述べられた、三炊食屋媛の『ミカシキ』と推古天皇(豊御食炊屋比賣命)時代の『ミカシキ』の関係は、欽明天皇が久留米大善寺『斯帰嶋宮』で存在していれば、鳥栖~基山~田川~豊後で繋がり、自然であります。欽明は亡くなった後の陵は、『檜の隈坂合陵』と記されてあり、欽明天皇は、朝倉『長田大塚古墳』に埋葬されている。ものと考えられます。

 

 

 

 

 

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西暦667年迄王都は九州に在った。(蘇我氏は志賀氏の事であります。)

2016-06-04 | 古代史

わたくしの説では、葛木氏は大分市の葛木が本貫地と為っています。此の葛木氏の流れに志賀氏が居ます。志賀氏の本貫地は、大分県大野郡大野荘志賀邑であります。

滋賀県の名前の由来は、豊後直入豊肥地区から阿蘇にかけて居た『志賀氏』が、西暦258年10月の杵築市にての崇神天皇(自称で神武と名乗った人)退治以後に、景行天皇に依って直入物部氏・直入中臣氏(藤原氏)と伴に『犬猿』・『八田』・『國摩侶』として退治されています。この時に景行に助けられたり、協力した一部の人々が近江他に移動して名付けられたものと考えられます。

そして、豊後に残った志賀氏は欽明天皇(宣化天皇の時代とも謂われています。)の時代に、武内宿禰の末裔の『蘇我稲目』として登場しています。志賀氏が蘇我氏の事であります。蘇我氏(志賀氏)の本拠地は豊後になります。ですから、欽明天皇時代は、倭(九州)に天皇が居た事が認識されます。元興寺伽藍縁起にての記述は豊後~筑後~香春~阿蘇を中心に構図されている。と考えるべきです。

 

わたくしの考えでは、第26代継体天皇(袁本杼命)は、内倉武久さまの説通りに西暦527年5月26日朝倉で暗殺され、朝倉三嶋の藍に埋葬され、第27代安閑天皇(勾大兄皇子)は、同時期に福岡県田川郡香春町勾金ハシ宮で暗殺され、第28代宣化天皇(檜隈高田皇子)は、佐賀県神崎市日之隈宮に居て亡くなり(これも暗殺?)、熊本山出土の石棺に埋葬されたものと考えられ、次の第29代欽明天皇(天国排開広庭尊)は朝倉の広庭宮にて生まれ育ち久留米市城島大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)にて天下を治めた事に解釈されます。埋葬地は宣化と同じ日隈の熊本山石棺と考えられます。佐賀県立歴史資料館のロビーに展示してあります熊本山出土の石棺には遺体の頭を置く枕が造られており、発見当時の状況は、頭を反対にした二体の遺体が副葬品と共に埋葬されていた。とされ、石枕を頭に眠って居られるのが宣化天皇と考えられ、反対側に眠って居られるのが欽明天皇と想われます。説明文には4世紀中~4世紀末頃とされていますが、此れは間違いで、6世紀前期~6世紀中期と思われます。遺体の年代のDNA鑑定が望まれます。

飛鳥の宮とは、福永晋三さまの説福岡県田川郡香春町から赤村架けての地域と考えられます。

 

崇仏廃仏争いを論じた元興寺伽藍縁起は久留米市城島大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)に居られた第29代欽明天皇の時代の事を述べており、欽明天皇の妃になった蘇我稲目宿禰の女であります堅塩媛・小姉君や、その子等(穴穂部間人皇女・穴穂部皇子・泊瀬部皇子=後の第32代崇峻天皇等)及び、第30代敏達天皇(他田皇子)・第31代用明天皇(池辺皇子)・第33代推古天皇(大大王)は次のような解釈になります。

元興寺伽藍縁起では、欽明天皇が大大王(後の推古天皇)をお呼びになり、「汝の牟久原の後宮を、私は、他国の神(=仏教)の宮としたい」と仰られた。そのとき、大々王(後の推古天皇)は、「御心に従って、後宮を離れることにします」と申された。

また、蘇我稲目は百済から贈られた仏像を欽明天皇と相談して、自分の牟久原の寺に持って帰り、収めて祀ります。と述べて在り、牟久原とは由布市狭間町に在ります向原の事で、『後宮』とは、以前に宇奈岐日女命が避難して崇神(神武)から逃れたと考えられます、南大分の東院(トイ)の事であろう。と思っています。此処は葛城氏(志賀氏=蘇我氏)の拠点と想われます。

小墾田オハリダ宮とは固有名詞ではなく、開墾地を意味しているものと考えられ、豊後国府と同一と想われ、場所は現在の『古国府』の事で、向原寺は隣の『国分寺』(現在大分市歴史資料館があります)の事であろう。と考えています。此処豊後古国府や向原寺(国分寺)にて、推古天皇・蘇我氏・聖徳太子らが話し合い17条憲法や冠位12階制・遣隋使派遣が決められたものと想われます。

此の時『海石榴市』や『桜井』の地名が出てきますが、『海石榴市』は景行天皇の直入での土蜘蛛退治のときに出て来ており、豊後にあったものと考えられ、『桜井』も当然豊後で有ったろう。と想われますが、此れは特定出来ていません。

《その後の調査での追補》

『海石榴つばき市』の場所は、『飛鳥宮』の近くに在らねば元興寺伽藍縁起の記述と整合せず、豊後ではなく田川香春町(飛鳥宮)近くに在ったと考えられ、ネット地図にて探しましたところ、勝山黒田の北に『椿市』の地名を発見しました。多分『桜井』の地名も近くに在ったのかもしれませんが、ひとつの考えでは、『桜井』の場所は福岡糸島半島に在ります志摩『桜井』の事かも知れません。皆様の調査をお願い致します。

泊瀬部皇子(=後の第32代崇峻天皇で、父が久留米斯帰嶋宮の欽明天皇と母は蘇我稲目(豊後)の娘の蘇我小姉)が居られた、泊瀬部とは福岡県を流れます筑後川の瀬が有ります、朝倉の原鶴温泉辺りを指しており、朝倉広庭宮を意味しているものと考えられます。

穴穂部間人皇女・穴穂部皇子が居られた場所は、景行天皇が後生を過ごした阿蘇高森町と想われ、穴穂部間人皇女は蘇我馬子の暗殺から逃れる為に京都府京丹後市丹後町間人タイザに暫く避難をしていたものと考えられ、京都府宮津湾には『阿蘇海』の名前を残しています。因みに穴穂部皇子は皇位を望んで物部守屋と結びますが、蘇我馬子から殺されています。

このように、此の時代(592年)までは九州(倭)で政治が行なわれており、近畿には未だ渡っていない事が理解出来ます。蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿四代は総て九州での行動である。と考えるべきです。

と謂うことは、第35代皇極(後の第37代斉明天皇となり、重祚した女帝で、第34代舒明天皇の皇后です。最後は福岡県朝倉の橘広庭宮にて661年7月24日亡くなり、暗殺されたとも考えられています。68歳)天皇4年(645年)6月12日の中大兄皇子(皇極と舒明の間の皇子で第38代天智天皇になります。)と藤原鎌足が組んで『乙巳イッシの変』を飛鳥板蓋宮アスカイタブキノミヤ(私見では、飛鳥の場所は福永晋三氏説である香春町~赤村周辺と考えています)にて起こして蘇我蝦夷(自殺)・入鹿親子を討ち、

皇極(後の斉明)天皇は、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、辞退され、仕方なく弟の軽(カル=カハル=香春)皇子に譲位し、第36代孝徳天皇(軽皇子)が難波長柄豊碕宮(私見では、長柄は大分市鶴崎地区に鶴の首状に別府湾に突き出た丘に在ります葛木地区を意味しており、難波とは地名ではなく波際を意味しているに過ぎず、全国各地何処にでもに在ったと想っています)で政務を行ないます。

第36代孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子にして、豊後国府にて大化の改新(初めて元号を創った)を行ない、遣唐使を派遣したり、蘇我氏(志賀氏)を重用します。

653年に中大兄皇子は、垂仁天皇以来発展をした近畿大和への遷都を提言して、孝徳天皇に迫りますが、拒否され多くの重臣・臣下と伴に(弟の大海人皇子も一緒に)渡ります。孝徳は翌年亡くなり、654年皇極が第37代斉明天皇として田川飛鳥板蓋宮にて即位しますが、幾度も宮を変え661年福岡朝倉宮にて亡くなります。

中大兄皇子は直ぐには即位せず、白村江の戦(663年)の4年後の667年近江大津宮に還り、668年に即位します。弟の大海人皇子(後の天武天皇)は近畿に残り、奈良明日香浄御原宮の造営を進めます。

ですから、663年の白村江の戦で捕虜になった、倭の筑紫君『薩夜麻』は、671年香春町に帰ってきて、河内の地名は香春町に在り、『河内王の墓』として残っています。西暦667年まで王都は九州に在った事が理解されます。

 

《その後の調査による訂正》

佐賀県の熊本山出土の石棺の中の二人の遺体は一人は第28代宣化天皇で、もう一人は久留米城島(斯帰嶋宮)の欽明天皇であろう。と述べていますが、此の根拠は、欽明の陵所が『檜隈坂合陵』とされている事で導いていますが、実は、宣化の皇后であります『橘仲皇女』が宣化と合葬された。と述べられており、棺の中の遺体は、『宣化』と、その妻で有る『橘仲皇女』と考えられます。訂正を致します。

欽明(天国排開広庭天皇)陵所とされています『檜隈坂合陵』は、『檜隈坂』と『合陵』と分けて考察しますと、『合陵』は『あいのみさざぎ』、即ち『合あい』の『陵みさざぎ』と考える事が出来、第26代継体天皇の墓所朝倉三島の『藍あい野』と一致し、場所は朝倉広庭宮から近くの『長田大塚古墳』とも考えられますが、継体陵とも、崇峻陵とも考えられます。

わたくしの知人で、以前(2013年5月10日)にブログで紹介しました、高木邑黒川出身の『町田和明』氏に依りますと、高木邑の山奥の原野に『王墓』伝承の石が在るとの由。此処が『継体』の陵墓と想われます。第32代崇峻天皇(泊瀬部皇子天皇と呼ばれ、欽明の子)は6世紀末(592年)に、『蘇我馬子』の命を受けた『東漢駒』から殺害され、『倉梯岡陵』に葬られた。とされ、『倉梯』とは太刀洗町の『高橋』地区(『高橋は『高に架けた『子』から名付けられたとされています。亦、此処は漢人が数多く遣って来ており、『東漢駒』も此処に居たものと考えられます。)が連想され、『花立山穴観音古墳』が浮かびます。治世地の『柴垣宮』とは朝倉の『志波シバ宮』と考えられます。

山田に在ります『長田大塚古墳』が欽明(天国排開広庭天皇)陵と考えられます。

 

 

 

 

 

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百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その2

2016-02-27 | 古代史

この百嶋さまの考えが正しければ、わたくしは、日子坐王は、孝霊=景行=長髄彦=吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)=支那津彦=草部カヤベ吉見(健磐龍命?)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命と同一人物で有った。と想われます。神八井耳命が、開花天皇と同一人物である謂う事になります。神代の初代が神倭伊波礼毘古命(本当の神武天皇)で、人代の初代が若倭日子大毘毘命(開花天皇=神八井耳命)の考えが成り立ちます。

 

神武天皇は、『古事記』では、神武天皇は即位した後、伊須気余理比売命と結婚して、 日子八井耳命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)の三柱の御子を儲けた。とされ、

一方の『日本書紀』には、日子八井耳命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井耳命、神渟名川耳尊のみが生まれたとされ、『先代旧事本紀』には、日子八井耳命は弟・神八井耳命の御子とされています。

亦、『古事記』の、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄であります『多芸志美美命』を殺し、その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ話になっており、日子八井命は登場しておらず、混乱を招いています。

 

百嶋系図では、草部吉見の父とされます神沼河耳命が日子八井耳は草部吉見=ニギハヤヒ=吾勝=安日(長髄彦?)=海幸彦と同一人物とされ、神俣姫との間にて國龍=大年神=天児屋根命=忍骨(天忍穂耳命)=支那津彦を儲けたことに為っています。

わたくしの考えでは、神八井耳命が開花天皇を意味し、日子八井耳が日子坐王の事で、神沼河耳が崇神天皇を暗示している様に思えます。

日子八井耳・草部吉見・健磐龍命・吾勝・安日(長髄彦?)・海幸彦・國龍・大年神・天児屋根命・忍骨(天忍穂耳命)・支那津彦は総て同一人物と想われます。

そして、香春神社の辛国息長大姫大目命は、天宇受賣命=猿女=宇迦之御魂神=豊受姫=豊玉姫=罔象女=息長水依比賣命=市祁島姫=宇佐神宮や奈良の春日神社を含めての比咩神=龍神で有った。と謂う解釈になります。ひょっとしたら、由布院の『宇奈岐日女命』もイコールで有ったのかも知れません。考察をしてみましょう。

香春神社にて祀られています『辛国息長大姫大目命』の由緒に崇神天皇の御代に帰座された。と述べられており、魏志倭人伝で述べられています、記述を考察しますと、時間軸が合致し、『辛国息長大姫大目命』と『宇奈岐日女命』は同一人物と考える事ができます。何故ならば、勘注系図の『宇那比姫』(宇奈岐日女命)は尾張氏(建田氏)と考えられており、此の尾張氏は和邇氏(≒息長氏)と関係が深いと考えられています。『宇那比姫』は第6代孝安天皇の兄であります『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』の妻とされており、

わたくしの解釈では、記紀が述べる弟の孝安天皇崇神天皇のことであり、兄の『天足彦国押人命』が日子坐王=孝霊=景行(大足彦忍代別天皇)=長髄彦=吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)=支那津彦=草部カヤベ吉見(健磐龍命)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命=日子八井耳命と同一人物で有った。

と謂うことを意味しており、つまり、『宇那比姫』(宇奈岐日女命)の夫の『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』は『日子坐王』の事である。と考えられます。根拠は『大足彦』の『大』の字の上に『一』を付け足して『天』の字に改竄が行なわれている、と考えられ、『天足彦』の実体は景行『大足彦忍代別命』と想われます。そして、『天足彦国押人命』(第6代孝安の兄とされています)を儲けたのは、尾張連祖『瀛津世襲』(私見では、=神大市姫=燕エンジ媛=袁媛=卑弥呼)の娘である『世襲足媛』(第5代孝昭天皇の皇后)とあり、『世襲足媛』とは、=『市来島姫』=『息長水依姫』と考える事が出来ます。此の『市来島姫』=『多祁理比賣命』の子であります『下照姫』=『伊香色謎命』が『崇神』=『雷神』を生んでいると考えられます。

亦、記紀では、第7代とされます孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)の皇后『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘。と述べてあり、大目とは香春神社の辛国息長大姫大目ウズメ命、即ち、高天原(ゆふいん)の天宇授賣ウズメ命=宇奈岐日女命が移動をして、香春町の方へ遣って来ている事が理解出来ます。理由は金属鉱山に有ったと考えられます。スサノオは金鑽大神とも、天之御影神とも考えられ、天之御影神の娘が息長水依比賣命とされています。わたくしの説では孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)は日子坐王の事で、日子坐王は記紀に於いては息長水依姫を娶っており、総ては香春町の辛国息長大姫大目ウズメ命に繋がってきます

わたくしの考えでは、『瀛津世襲』の娘である『世襲足媛』と、『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘の記述は、磯城県とは、久留米市城島~大牟田地区を指し、十市県とは、北九州苅田市~行橋市~勝山黒田~豊津町~豊前市~香春町~赤村と想われ、『世襲足媛』が『細媛』と同一人物と想われ、『細媛』は辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=猿女=宇奈岐日女命=天豊津姫と、同一人物であると理解出来ます。(記紀で述べられています第四代懿徳天皇=大倭日子鉏友命の本質は日子坐王、即ち景行天皇であった。と考える事ができます。

わたくしが述べたい事は、記・紀編纂過程での歴史の積み増しが行われた痕跡が、認められる。と謂う事です。

 

《その後の考察に拠る訂正》

『瀛津世襲』は、百嶋系図と整合を考えますと、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神=卑弥呼と同一人物であろう。と考えられます。世襲足媛が辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=市祁島姫=豊玉姫=細媛=宇奈岐日女命=阿蘇津姫=寒川姫=天豊津姫=罔象女=龍神姫=支那津姫=豊受大神=稲荷神(表に出ておられますのは、宇迦之御魂と謂う事になっていますが、一般的には猿田彦=景行天皇=風神=2代目支那津日子=草部吉見の事と考えられています。しかし、根本はスサノオ=豊玉彦=海神大神=支那津日子(級長津日子)=金山彦=天御影神=龍王が、阿蘇~豊後~豊前で活躍した、宇迦=大神氏オオガ氏→ウガ氏の御霊である。と考えられます。)(罔象女は、百嶋系図では神大市姫と同一人物とされています)

 

 

振り返って、日本書紀の記述を思い出すと、景行天皇(猿田彦)の熊襲討伐の折、久留米市北野大城の『赤司八幡宮(当時は豊咩神社と呼ばれていた)』に水沼君『猿大海』を呼び寄せ、『比咩神』を祀るように述べた。とあり、此処田主丸一帯は日子坐王(猿田彦)の出身地であり、『赤司八幡宮』の赤司も『赤』を『司る』と考えれば、田川(鷹羽)の我鹿・吾勝アカツハヤヒの『赤村』が想像されます。

亦、『赤司八幡宮』の南に北野町大城地区が筑後川傍にあり、此処には『豊比咩命』の霊廟と言い伝えられます塚島古墳があり、豊比咩神社(赤司八幡宮)のある稲数邑内の『蚊田宮』で神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う伝承があり、潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」で産湯を使った。とされています。『大城村郷土読本』には「此所(蚊田宮)往古柳川海より連続而筑肥を隔当社之西而漫々而北背に廻り筑前国上座郡迄入海御座候」と記述があり、朝倉辺りまで船での往来があったものと思われます。

百嶋説では、福岡県宇美町の『宇美八幡神社』は、『神武天皇』の名を騙った『崇神』の嫁であります『久留米市荒木』の『しず』ちゃんが子供を産んだ場所と述べられています。

実は、この神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」から筑後川を挟んだ南向こう岸に、吾が(秋永氏)父の出身地田主丸町以真江があります。此の傍に磐鹿六雁命の出身地と考えられます『鹿狩ロッカリ』地区が在り、以真江の由来は、『以』は今村氏『真』は馬渡氏『江』は江口氏から名付けられたと謂う事で、川向こうの太刀洗町高橋地区の『今村』(百嶋氏の先祖の出身地)と関係が考えられます。高橋区には弥生時代~古墳時代に架けての遺跡が残っており、漢人(大蔵氏)が平城を築いたとされ、多くの氏族が此処から派生して散らばったと考えられます。

『猿大海』とは、『襲武媛』(そのたけひめ)に生ませた、大善寺玉垂宮(水沼→水潴→三潴)に居た『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)を意味している事であり、『猿田彦』=景行天皇(彦坐王)の子が『猿大海』である事を暗示しています。息長氏には漢族『袁氏』の血が流れていると考えられます。

此れも編纂者が『國乳別之皇子』と明確に書けなかった時代背景があり、当時の権力者であります藤原氏に対しての精一杯の抵抗であった。と解釈されます。

『猿田彦』の別称は比良神(比良山神)と謂われ、朝倉市の長慶天皇の墓所(黒巖山)近くに『比良松』と謂う地名が残っており、近くに比良山と呼ばれた山が在ったと考えられます。ひょっとしたら、黒巖山が以前は比良山と呼ばれていたのかも知れません。

近くの高木邑の北に佐田地区があり、

百嶋説では、朝倉市把木(ハキ)町の『大山祇神社』では、(大國主命の父と謂われています)大山祇(=月読尊)の母?と考えられています、蒙古から遣って来た『王昭君』(中国四大美人の一人)を、『王昭君』の名前を隠して『白粉オシロイ祭り』行事として残されており、加藤清正が造った熊本城の大広間『王昭君の間』は、豊臣秀吉の妻『寧々』の木下家(家紋が桐)が『王昭君』の末裔との情報が、当時有ったものと考えられる由。

亦、豊前には『四公シコウ神社』(祭神は猿田彦)が数社残っており、此れは赤米研究の猿田彦が、四公六民の米の分配を行なった。と解釈されています。

わたくしの考えでは、猿田彦とは袁氏(漢民族)である処の妃(息長水依姫=辛国息長大姫大目命=天宇受賣アメノウズメ命=猿女=豊受大神=稲荷神)を娶った日子坐王(=猿田彦)を指し、四公六民は稲の分配を意味する。との解釈は正解と謂えます。

滋賀県高島市鵜川の琵琶湖近くの白髭神社の祭神は猿田彦も、日子坐王(稲荷神=息長水依比賣命の夫)と理解する事が出来ます。(以前のブログでは稲荷大明神は天御影神=息長水依比賣命の父、ではなかろうか。と述べていましたが、此れは間違いであろうと思います。→その後の考察にて、天御影神はスサノオ=級長津日子の事と考えられ、此れも正解と解釈されます。)傍に在ります琵琶湖竹生島の瀛イン神社で祀られています弁財尊天(息長水依比賣命=市祁島姫→固有名詞ではなく、『斎き奉る姫』と解釈するのが正しい。と考えられます。)との関係も納得できます。

滋賀県近江地方には筑紫(倭)から多くの人々が地名と伴に渡って往っていると考えられます。例えれば、朝倉の夜須→野洲市 久留米の高良→犬上郡甲良町 田主丸の鷹取山→甲良町の高取山 糸島の曽根→曽根 博多の高宮→高宮 糟屋郡須恵町→須恵 八女→八目 熊本県大津市→大津 志賀之島→志賀 朝倉の比良松→比良 高島市安曇川には田中・旭・古賀の地名があり、筑後地方にも多くあります。

苅田市の多賀清瀧窟(全国にあります清瀧の元と謂われています)が多賀町清瀧山 豊前の古(胡)表神社が多賀町胡宮神社 と、謂った具合に胡人(西域から遣って来た人)との関係が偲ばれます。

  

根拠の2として、宇佐公康氏の『古伝が語る古代史』には、景行天皇は阿蘇で亡くなった。と述べられている事です。ひょっとしたら、上益城郡山都町に在ります『猿丸太夫の墓』は通常は、猿丸太夫は山背大兄王(聖徳太子の子)の子である弓削王の事と考えられていますが、古代の『孝霊天皇』=『景行天皇』=『猿田彦』=『健磐龍命』の事かもしれません。亦、『幣立神宮』は『健磐龍命』が遣って来て御幣を立てたことからの伝承があり、主祭神は神漏岐命(かむろぎ)・神漏美命(かむろみ)・大宇宙大和神(おおとのちやまと)・天御中主大神(あめのみなかぬし)・天照大神を祭り(わたくしの感では、元々の祭神では無いと想われます。百嶋さまも同意見です。)、『東の宮』は、天児屋根命風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神を祀っており、別に『水神宮』で龍神、『健磐龍宮』で健磐龍命を祀っており、景行天皇は此処、山都町で亡くなっているものと考えられなくも無いです。亦、、もう一箇所の候補地は高森町に在ります下がり宮で有名な『草部吉見神社』周辺です。景行天皇は、『志賀高穴穂宮』で亡くなった。とされ、此の解釈は、以前に『志賀氏』が治めていた『高千穂』『穴穂の宮』と考えられます。高森町には御所・祭場の名称があり、如何も景行天皇の痕跡が漂っています。

亦、近くに在る祖母山の名前の由来はウガヤフキアエズ(私見では開花天皇の事と考えています。)を儲けた豊玉姫(神武天皇=崇神天皇の祖母)を意味している。と伝わっており、豊後・豊前・日向ではウガヤフキアエズの痕跡(大神氏=緒方氏・春日氏・藤原氏ほか)が残っており、ウガヤフキアエズは宮崎日向の鵜戸神宮で、豊玉姫がお産小屋が間に合わず岩の上に橿の葉を敷き詰めて生まれたとの伝承があります。

宇佐公康氏の記述には此れまでは間違いが無く、信頼が持てます。

阿蘇神社で祀られています『健磐龍命』は、『景行天皇』=『猿田彦』=『日子坐王』=『孝霊天皇』=『長髄彦』=『吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)』=『支那津彦』=『草部カヤベ吉見』=『彦八井耳命』=※『大年神』=『八街比古命』=『天児屋根命』=『天足彦国押人命』=『風神』と同一人物である。と謂うことに解釈出来ます。そして、『豊玉彦』とも同一人物と想われます。(因みに『雷神』は覇権を争った『崇神天皇』を意味します。) 

※ 『豊玉彦』と『天御影神』と『スサノオ』と『大綿津見神』は同一人物と想われます。

そして、(わたくしが考えます)魏志倭人伝中の卑弥呼とは、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神で有った。と謂う事に結論着けられます。

※ 高良玉垂宮神秘書では『龍神』は二人居た。とされ、多祁理比賣命の娘であります崇神(自称、神武と名乗った人)を産んだと考えられます伊迦賀色謎命=下照姫が、記紀で述べられています『玉依姫』の事で、『豊玉姫』と『玉依姫』の関係は親子と考えるべきです。そして、この『玉依姫』も『龍神』・『比咩神』と呼ばれたものと考えられます。

 

この様な、多くの登場人物を作り出して、世代の建て増しと、神々の歴史と神脈の複雑化が行なわれて、改竄が行なわれており、記紀では卑弥呼を記入できない事になり、歴史学者を悩ましたものと考えられます。

 

 

※ 神大市姫とは、ウィキペディアでは以下のように説明されています。

日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。

2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。

亦、大年神は

  • 天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子に
    • 奥津日子神(おきつひこ)
    • 奥津比売命(おきつひめ) - 別名 奥津比売命神(おほへひめ)。(かまど)の女神。
    • 大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
    • 庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
    • 波比岐神(はひき)
    • 香山戸臣神(かぐやまとみ)
    • 羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
    • 庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)、土の神。

の10柱神を儲けているとされ、大年神と天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)の子が大山咋神(おほやまくひ)=山王(日吉)権現と奥津比売命(おきつひめ)=竈(かまど)の女神を儲けている事になります。竈門神社が大宰府に在り、玉依比賣命を祀っており、奥津の文字は当て字と考えれば瀛津比賣命、息長氏(袁氏)、即ち瀛(いん)氏=秦氏=稲荷神がイメージされます。亦、『美豆比売』の『美豆』を当て字と考えれば、本質は『水比賣』と考えられ、『息長水依比賣命』が重なります。

 

伊勢神宮外宮であります『豊受大神宮正宮』では、『玄松子の記憶』に拠りますと以下のように祭神を祀っています。

御祭神
豊受大御神(とようけのおおみかみ)
相殿
御伴神三座 (東一座 西二座)
一説に
天津彦々火瓊々杵尊 天児屋根命私見では=彦座王=長髄彦=景行天皇=阿蘇津彦=草日部吉見=猿田彦=稲荷神=風神=孝霊天皇=大年神と同一人物であると想われます。)太玉命

境内 式内社
伊勢國度會郡 高宮 大 月次新嘗
豊受大神宮別宮 多賀宮私見では=清瀧権現=息長水依比賣=市来島姫(斎奉る姫)=天宇受賣=辛国息長大姫大目うずめ命=猿女=八街比賣命=天知迦流美豆比売=阿蘇津姫=天豊津姫=豊玉姫=罔象女=稲荷神の妻=比咩神=龍神と同一人物と考えられます。)


 たかのみや 豊受大御神荒御魂  伊勢國度會郡 度會國御神社
豊受大神宮摂社 度會國御神社 わたらいくにみ 彦国見賀岐建與束命

その他の境内社
豊受大神宮別宮 風宮 かぜのみや 級長津彦命 級長戸辺命→(級長津日子命はスサノオ=周に繋がる熊本県玉名の白王家の将軍=太白太子で、鉄を求めて出先国を創った白=新羅シラから、娘の級長戸辺命=天知迦流美豆比売=息長水依比賣と伴にアカル姫=博多の大幡主命系大山祇の娘である神大市姫=天照大神=卑弥呼を追って倭に帰って来た人と考えられます。)
豊受大神宮別宮 土宮 つちのみや 大土御祖神=(大年神=日子坐王=猿田彦と天知迦流美豆比売=息長水依姫=猿女が儲けた大土神)
豊受大神末社 大津神社 おおつ 葦原神
豊受大神所管社 上御井神社 かみのみいの 上御井鎮守神 一般不可→(私見では、日子坐王=猿田彦と息長水依比賣との間に生れた御井津比賣命を指します
豊受大神所管社 下御井神社 しものみいの 下御井鎮守神
豊受大神所管社 御酒殿 みさかどの 御酒殿神 一般不可→(私見では、大年神と天知迦流美豆比売が儲けた『大山咋神』を意味しています。)
豊受大神所管社 四至神 みやのめぐりのかみ(私見では、、古事記における日子坐王=猿田彦と息長水依比賣=猿女=豊受姫との間に生れた比婆須比賣・弟比賣・歌凝比賣・円野比賣の四人の娘を意味しているものとも?と考えています。) 

 

 

百嶋さまは、酒造蔵の玄関先に吊るす『杉玉』のルーツ研究に、我が由布院(木綿の院)に秘密が隠されていると考えられて、ゆふいんの神社研究をされておられたようですが、亡くなられた現在は伺い訊ねる事ができません。

わたくしが棲んでいます由布院では、『宇奈岐日女命(宇那比姫)』神社(通称『六所宮』と呼ばれ、第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月に創祀された。(西暦258年と考えられます)と記され、景行天皇は速津媛(宇奈岐日女命の後裔と考えられます)に迎えられ、土蜘蛛(崇神天皇のことと考えられます)を討伐した時、当地の「二株一幹之霊杉」を見て、皇祖霊と崇め天神地祇皇祖を祀った社であるという。とされ、神紋は十六葉重菊と五七の桐です。國常立尊 國狹槌尊彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊を祀っています。

宇奈岐日女命神社には、『蹴破り権現伝説』があります。

(古代のゆふいん盆地は湖であったのを、宇奈岐日女命が権現に命じて山を蹴破らせ、湖の水を抜いた。との伝承です。)

わたくしの頭の中では、『六所宮』(宇奈岐日女命神社)は表面上の神を祀っており、本当に祀っていますのは『宇奈岐日女命』であり、歴史上の都合で『幣立神宮』同様に隠されたものと想われます。

※ 『幣立神宮』は第20代安康天皇(穴穂天皇)が、安康3年8月9日、皇后と連れ子の『眉輪王』を連れて避暑の為に来ていて、『眉輪王』から殺された場所と考えられます。

此の宇奈岐日女命神社は慶長元年(西暦1596年)の豊後大地震後の大雨に於いて、『椿山』の崩壊が起こり、当時の『』(使者が馬を乗り継ぐ為に、全国の要地に造られていた)の在った馬場浅間ばばせんげん部落が埋まり、『宇奈岐日女神社』も被害をうけ少し移動したものと、研究者に考えられています。

わたくしの考えでは、由布院の『椿山』『椿』の名が、後に、三重県鈴鹿市山本町の『椿大神社』『猿田彦』に繋がっているものと思っています。鈴鹿市には能煩野『王塚古墳』『日本武尊』息長氏が考えられ、秋永町があります。『宇奈岐日女命』の夫は『天足彦国押人命』=『景行(大足彦)』=『日子坐王』=『猿田彦』=『八街毘古命』・・・等々とイメージされます。

『宇奈岐日女命』は『息長水依比賣命』『辛國息長大姫大目うずめ命』『天宇受賣命』『猿女=袁氏の女=漢族』『八街比賣命』『比咩神』『市来島姫』『豊玉姫』・・・等々と同一人物であり、『天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)』とも同一人物である仮定すれば、

宇奈岐日女命が命じた権現さんは『大山咋』と『大土神』を意味しており、母が息子に土木工事を命じた事になります。西暦234年(甲寅)~241年(辛酉)当時、神武=崇神東征頃は倭の大乱第2幕の時期でもあり、多くの人々が近畿に移住したものと考えられますので、それ以前に土木工事を行なったものと考えられます。

この『大山咋』は『酒の神』と謂われ、京都の『松尾大社』で『市杵島姫』=『息長水依比賣命』と伴に祀られています。『大山咋』と『大土神』は、母である『宇奈岐日女命』=『天知迦流美豆比売』から命じられ、騒乱を避け『建田氏』と伴に近畿に渡ったものと想われます。

『杉玉』の発祥は『ゆふいん』かも知れません。百嶋推理は正しかった。と考えられます。

《その後の調査での補追》

ゆふいん町川北の石武に『石光天満神社』が在ります。由緒沿革には、祭神は、菅原神・高オ神・天照皇大神・天御中主命とされ、天照皇大神は字『大久保』、天御中主命は字『谷』に鎮座の處、明治12年本社に合併。菅原神は、川北字『松尾に鎮座の處、大正5年9月29日許可を得て、同年12月28日合祀する。とされ、元『松尾天満神社』の傍では鉢山(八山)=亀山石棺が文化財として出土しており、当時、別府大学の教授であった故、賀川光夫さまが調査に当たられたと謂われています。

わたくしは、この『松尾』が佐賀の『松尾』に『武内宿禰』の父の『彦太忍信命』に繋がり、『山下影姫=宇豆比古の妹』がゆふいん(木綿院)に居たと謂う根拠でもあります。ゆふいんには『山下湖』があり、傍の『小田の池』周辺では鏃が数多く発見されています。

根拠の2としては、ゆふいん町石松に在ります『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)オオゴシャでは、椎根津比古命=宇豆比古命を主祭祀しています。この椎根津比古命は崇神(=勝手に神武と名乗った人)を舵取りとして長髄彦の処へ道案内した。とされています。因みに鳥居の脇に鎮座していますのは、狛犬ではなく狛猿で、ゆふいんに猿田比古命=宇奈岐日女命の夫が居たと考えられる根拠でもあります。このゆふいんの『松尾』は京都の『松尾大社』『日吉大社』にまで繋がり、ゆふいんが『松尾』の根源で在ったと考えられます。亦、丹後半島の元伊勢宮と謂われる『籠神社』でも、海部氏先祖として椎根津比古を祀っており、ゆふいんから『建田背』(宇那比姫=宇奈岐日女の長兄)が移動したものと考えられます。

 

百嶋さまの研究の凄さは、平成12年考の百嶋系図には大足彦(景行天皇)の横に彦坐王と朱字で書かれており、その先の息長水依姫と線で結ばれており、つまり彦坐王と大足彦(景行天皇)は同一人物で在る事を神社研究にて解っておられたのであります。わたくしがこの事を、記・紀と宇佐公康氏伝承を元に解明したのは昨年(平成27年)でした。

亦、熊本県『山鹿灯篭まつり』で歌われます、『ヨーヘホ』『ヨーヘホ』の合いの手は、景行天皇(わたくしの解釈では景行天皇=猿田彦)を褒め称える意味である。相だそうです。

百嶋神社考古研究は、記・紀や先代旧事本紀の不足分を埋める大きなヒントを与えてくれました。先人(研究資料)に感謝であります。生前お会いし、語り合いたかった想いで、残念です

 

考古研究には、フィールドワークが大切であり、其の事に気が付かれました久留米地名研究会の『古川清久』さまは、全国の神社を車中宿泊で調査中であります。鬼気迫る迫力を感じます。古川さまに感謝至極。)

 

 

 

 

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百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その1

2016-02-25 | 古代史

わたくしの説では、崇神天皇(神武天皇)が、久留米市大善寺玉垂宮にて『下照比賣命』と福岡県春日市須久近くに居られた『開花天皇』(若倭根子日子大毘毘命)の間で生まれた事になっておりますが、記・紀・日本神話との整合を考えますと此の時期は倭国大乱(大國主命=神産巣日神派と高木神派の権力争い)の真っ最中でもあり、此の時期の登場人(神)物(大國主命・市来嶋比賣命・ニニギ・木之花開耶姫・火照命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)・豊玉姫・玉依姫・ウガヤフキアエズ・等)がどの様な関係を持っていたのかが、気に為りますが、記・紀では神話的に表現され、如何も真実が伏せられています様に感じ、記・紀には頼れません。高良神社下宮で祀られています『孝元天皇』は早世したと考えられ、記・紀ではスサノオ・天照大神・月読命がイザナギ(男神)の目と鼻から生じた事になっていますが、月読命の事跡は殆んど述べられていません。『大善寺玉垂宮』近くの『月読神社』(貝塚古墳)でひっそりと祀られています。

孝元・開花の時期は激動の部族間の政権争いが続いていた。と考えられます。わたくしの説の考えでは『宇那比媛=卑弥呼』や其の甥であります『建諸隅命』とその子であります『竹野姫』・『開花』の誕生年を推察、編年して、大國主命は西暦140年頃に生まれた事になっています。

『多祁里比賣命=市来嶋比賣命』が『豊玉比賣命』・『龍神比賣命』と同一人物であり、『下照比賣命』が『玉依姫』・『水神=水波能女命』と同一人物に想え、『開花天皇』が『彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)=住吉大神』で、同一人物ではなかろうか?。「苅田市に在ります石塚山古墳(3世紀後半造築)が春日市から苅田に移動した鸕鷀草葺不合尊=開花(若倭根子日子大毘毘命)の墳墓であろう。」との自分勝手な思いの念が以前よりありましたが、記・紀ではそれ以上の情報は得られませんでした。

久留米地名研究会の編集員を為さっておられます古川清久さまよりの紹介で、平成27年10月の百嶋由一郎神社古代史研究勉強会に参加させて貰い、神社古代史研究の第一人者で有られました故百嶋由一郎さまの講演資料とCDを別けて戴き、検討させて頂きました。

講演資料からは、並外れた直感力と洞察で世界史・中国史・中国語の豊富な知識を以ってして日本古代史の解明に生涯をかけられたお方と感じられました。

神社史伝承研究の内容は驚くほど正確で間違いが少ないと思われ、わたくしの知識を超えた、豊富な六十数年のフィールドワークの経験と聡明な頭脳を駆使され、世界史観から大局的に日本史を捉えられ、首を促されます事だらけで大変勉強になりました。

百嶋さま(熊本県玉名市出身で黒木氏の末裔の一之瀬氏=今村氏=元は福岡県太刀洗町高橋区今邑の出身と考えられる由。)の最大の功績は、

記・紀には述べていない天之御中主命以後の五柱の神、高御産巣日(タカミムスヒ)神・神産巣日(カムムスヒ)神・宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)神・天之常立(アメノトコタチ)神の人的関係と、それ以前の神々の人(神)的関係を含めて系図作成に挑まれた事に尽きるでしょう。

神社考古伝承調査と神紋研究、海外を含めての六十数年に亘ってフィールドワークの観察・考察を行い、1万数千回以上の系図変更をして、記・紀とは全く違った系図を完成されておられ、縄文時代の紀元前3千年頃には中国~朝鮮半島経由のヘブライ人が日本に遣って来ており、『神農さま』や青森県に在ります『八戸市』(第一ヘブライ部落から第九ヘブライ部落が)その痕跡であろう。また、人(イスラエル人・アーリア人・フェニキア人)と文化(鉄・赤砂・青銅・楽器・面・薬・機織・染色・発酵食の技術・言葉や祀り等の風習)の渡来の経路は1、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国南部雲南省~海南島周辺から黒潮に乗って台湾~沖縄~九州。2、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国上海周辺から沖縄・九州へ直接。3、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国~朝鮮半島~九州の、幾つかのルートと考えられておられ、(中国・朝鮮・ミャンマー・ベトナムにも、数多く遣って来ている由。)

九州にて最初の国家的な組織形成が為されたと考えておられ、記・紀が述べています人(神)的・系図的内容は、自分の足と目と頭を使って神社研究考察をしますと実際の古代の流れは大きく違っていると考えられるとの事。

記・紀を始めとする当時の書物は以前の伝承を基にしての記述になっており、当時の権力者である藤原氏(春日氏=多氏=太安万侶)により、歪曲・改竄・捏造が行なわれており、『阿蘇氏の暦』で神武紀元2600年(昭和15年)を勝手に創り、積み上げられた歴史は、間違いだらけで信頼が出来ない。と謂う想いがあるようです。

わたくしも、記・紀に置いては『彦座王』の痕跡が『景行天皇』や『孝霊天皇』として、摺りかえられて消されており、スサノオ~大國主命~崇神時代の考察に於いての、拠り所が無くて困っていましたが、百嶋氏さまの神社研究資料は大変な意味をもっており、古代史研究に大きな前進を齎すものと考えられます。

 

わたくしの特に気に留まったのは次の事項であります。

神武天皇と呼んだ人は二人居て、本当(統)の神武天皇(大白太子)は倭の大乱の時、奴の國(福岡)から南九州(宮崎・鹿児島)へ避難され、その後全国各地へ御巡幸をなされている。もう一人の、後の神武天皇は崇神天皇の事で、勝手に神武天皇を名乗っておられる。記・紀での神武天皇の記述(宮崎神話・奈良県橿原神宮)は、殆んどが嘘であり、混乱を生んでおり、信じてはいけない由。

また、人代最初の天皇と成られたのは開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)であり、大宰府の四皇寺山に降臨され、久留米の高羅山で即位された。九州王朝の本体は高羅大社(もう一箇所は佐賀県の久保和泉に在る由)で、大善寺玉垂宮は出張所であろう。神功皇后は最初の夫は仲衷で在ったが、後は開花天皇と夫婦になっていると考えられる。開花はウガヤフキアエズ(=大矢口宿禰)の後を受けて住吉大神に為ったものと考えられる。

と、述べられておられます。

わたくしの考えとは少し違っており(わたくしの説は大善寺玉垂宮が九州王朝の本体で高羅大社が出張所であり、住吉大神はウガヤフキアエズ=開花天皇であろう。四皇寺山に立ったのは神功皇后と思っていました。佐賀県の久保和泉地区から神崎市日隈地区は和邇氏≒秦氏の拠点と考えられ、古代史の秘密が隠されているものと考えられます。)ますが、

『開花天皇は春日四皇寺山(大宰府市北谷)に顕現された』とされ、開花天皇の存在位置がわたくしの春日市須久岡本地区とほぼ一致しており、『崇神天皇(=ツヌガアラシトとされています)が神武天皇を騙っている』も一致し、神社史研究と神紋だけで歴史の本質を看破されており、其の研究考察力に驚きました。

わたくしは、『本当(統)の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)が居られた』と述べられている事に注目しました。わたくしの頭の中では、二人のハツクニシラスの問題は西暦220~258年頃の時間軸で、神武=崇神で決着が付いていたので、別にもう一人の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の存在に驚きました。

 

もう一つの驚きは、系図上にスサノオ(=天日槍とされています)の子として『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』が腹違いの姉妹として記入されて居た事であります。

『辛国息長大姫大目命』が神大市姫=罔象女ミズハノメとスサノオの間の子で記入され、『市来嶋比賣命』がアカル姫=磐(石)長姫イワナガ姫から生れたと記入されていました。

 

{記紀に於いては、大山祇(百嶋説では、=大國主命の父と考えられています)が糸島に居たと考えられますニニギ尊に磐(石)長姫(姉)と木之花開耶姫(妹)の姉妹を差し出しますが、ニニギ尊は石長姫を娶らなかったので、父であります大山祇はニニギ尊(=高木神)の天下が長くは続かないと予想し祈願します。}

 

百嶋系図に於いては、

大山祇(父はウマシアシカビヒコチ、母は天御中主=白山姫=天常立命=小河大神)と、妻であります草野(カヤノ)姫=埴安(ハニヤス)姫との間に、神大市姫=罔象女(ミズハノメ)(=長女)(西暦136年生)、次に大國主命(後に関東にて『武蔵大國魂』と称されます)(西暦142年誕生)と、妹の木之花開耶(コノハナサクヤ)姫(西暦150年生)が記入され、『木之花開耶姫』と『辛国息長大姫大目命』の関係は叔母(木之花)と姪(息長)の関係と謂う事になります。

 

もう一人の神武天皇と、『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』の関係を調べる事が必要に為りました。

 

 

百嶋さまの神社史研究に影響を与えた書物に、高良玉垂宮神秘書(高良大社発行)がある事に気付き、購入することにしました。

2015年10月20日(火)快晴の下、標高300m程の筑後平野を見下ろす、眺めの良い『高良大社』へ出向き購入(¥10000円)し、耳納スカイラインを通り、発心山~鷹取山から田主丸へ降り、平原古墳・大塚古墳・石垣神社を見学して帰って来ました。石垣神社の楼門の屋根の棟瓦には、ダビデの星(ユダヤの六星マーク)が認められ、此処田主丸はイスラエル系の人々(和邇氏=秦氏)が集落を形成していたものと考えられます。

 

高良玉垂宮神秘書は、元は13世紀頃の巻物(1巻34章551か条)で、当時の祭祀儀礼の作法を片仮名で、図混じりに克明に記した典籍であります。

高良記之初に天神七代の第一に 國常立尊 男神 とされています。此の 國常立尊 男神 をウィキペディアで見ますと

『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。

と記入されており、

百嶋由一郎さまも久留米市水天宮(全国水天宮総本宮)に祀られています天御中主命(白山比賣命)は伊勢神宮外宮の豊受大神と同一神(天御中主命の子が大山祇=月読命で、その子が罔象女ミズハノメ)と考えるべきである。久留米市より伊勢に移動された。と考えられる。根拠は神紋である、葵と橘と木瓜=門光は関係があり、伊勢神宮外宮と高良大社の神紋は木瓜=門光で、同じである事)と述べられており、宇摩志阿斯訶備日古遅神(金越智=高麗白山経由?のトルコ系人=匈奴で、現在は出雲大社の客人(マロウド)部屋で祀られているのみで、隠された神である)が天之御中主神の夫である由。

 

わたくしには、日本書紀の記述には、藤原氏の捏造の影が付き纏い、余り信頼できないと考えており、天之御中主神、国之常立神、は同一神(女神)と考えています。

と、謂うことは久留米市瀬の下にあります(白山町の傍に水天宮があります)天之御中主神(白山姫)を祀る水天宮と高良大社の高良玉垂宮神秘書に述べられています国之常立神は同一神と考えられ、此処久留米市が古代史上大きな意味を持った地である事が理解できます。

 

記紀に置いては、高天原から天降りされたニニギ尊は、(わたくしの説では木綿の院=由布院から安心院経由で佐田彦=猿田彦が途中まで案内して福岡県糸島市曽根遺跡まで陸路で行った事になっています)笠狭埼(糸島半島)で大山祇の娘である木花之開耶姫と結婚して、火照命(ホデリ)=(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=(山幸彦)が生れた事に為っていますが、糸島市三雲(曽根遺跡の傍)には『細石サザレイシ神社』が在り、其処では磐長(イワナガ)姫と木花之開耶(コノハナサクヤ)姫を祀っています。

 

神社伝承史研究の大家でありました百嶋由一郎さまの説では、『大山祇』は大國主命の父であり月読命・三夜さんとも呼ばれていて、親は金官伽耶系の金越智(キムオチ)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)で在った由。『大山祇』(月読命)の姉に大市(オオチ)の姫・燕脂(エンジ=オシロイの事)姫(後に奈良県御所市柏原の燕神社として勧請された)がいる由。

『大山祇』(月読命)は、白川伯王(西暦90年頃生){元々は中国雲南省昆明に起因して北鮮経由で倭(熊本)に遣って来た白(ペイ)族で、福岡県糸島の正統の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)(西暦122年頃生)(その後には、勝手に神武を名乗った崇神=ツヌガアラシトも居た由)の招聘で『奴』の国王になり、姉に白山姫(西暦88年頃生)=天御中主命=天之常立神=小河大神が居た。}の子である草野姫(カヤノヒメ=伽耶のヒメ)=埴安姫と結婚をして、神大市姫(カムオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)=姉と、大國主命、妹に木花之開耶姫が居たとの事。

 

木花之開耶姫はニニギ尊=向山土本毘古王(ムコウヤマトノホヒコオウ)との間でコケムス姫(西暦173年頃)を儲けた後、別れます。その後に、前(埼)玉(サキタマ)比賣命に変名して、鹿児島県溝辺町から関東へ渡ったと考えられる人である。ニニギ尊はその後行方不明なので、金海(韓国)に渡ったのかも知れない。

ニニギを追放したのはウガヤフキアエズ=大矢口宿禰と考えられる由。このウガヤフキアエズ=大矢口宿禰は博多湾~豊前苅田~豊後杵築~豊肥祖母山地区で活躍し、老いて開花に『君長=九州王朝王位=十字剣』を譲った。ウガヤと開花の間を取り持ったのが鴨玉依姫(櫛稲田姫と、大幡主=神皇産霊神の子であります処の豊玉彦=鴨建角身=豊國主=秩父大神との間に儲けた子)である由。

 

(『大山祇』=『月読命』は久留米市大善寺玉垂宮近くの『月読神社』や田主丸町の『三夜さん』にて祀られており、草野カヤノ=伽耶の姫?は久留米市草野(田主丸の西側)に地名が在り、関係が頷かれます。)

 

『倭』の『奴国王』である『白川伯王(西暦90年頃生)=刺国大神』の2歳上の姉である白山姫=天御中主命=天之常立神は、金越智(キムオチ)(西暦85年頃生)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)=金官伽耶系新羅金氏=渡来人と結婚をして『大市(オオチ=越智?)の姫』と『大山祇=大土御祖神』=『月読命』を儲けたと謂う事であり、久留米市の水天宮で祀られ、後に三重県伊勢皇大神宮外宮『豊受大神』であるが、隠された本質神は天御中主命と考えられる由。

 

夫であります『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)(西暦85年頃生)』は群馬県前橋市富士見町に在ります『赤城神社』で祭られています『赤城大明神』の事であり、金槐和歌集647にあります、源実朝(1192年~1219年)の和歌

『上毛(カミツケ=コウズケ)の勢多(セタ)の赤城のから社(ヤシロ)=加羅=韓、大和(ヤマト)にいかで足(アト)を跡(タ)れけむ』

が、13世紀当時は『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)』を、上毛国でも大っぴらに祀って居たと考えられ、その後に加羅国の王を祀るのは都合が悪い。と謂う事で

『赤城大明神』に変更された。と述べられており、事情により消された神であり、現在は東京日本橋の『水天宮』の男千木に名残があり、後は大國主命を奉る『出雲大社』の客人(マロウド)部屋にてコッソリと祀ってある。可哀想な相(スガタ)の神と謂う事であります。

 

九州倭、伯方(博多)には、白川伯王(西暦90年頃生れの白族)(西暦88年生れの天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の2歳下の弟になります)の子であります、大幡主命(西暦110年頃生)=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子と、姉が神玉依姫(西暦107年生)、妹に埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)が居て、

大幡主命(白氏)は、金鑚大神(カナサ)(西暦106年頃生れの※モーゼ系嬴イン氏)=金山彦=面足尊(オモタラシ)の4歳妹でありますイザナミ=熊野フスミ(西暦110年頃生れのモーゼ系嬴イン氏)との間に豊玉彦命(西暦132年頃生れの白氏+嬴イン氏)=賀茂建角身命=八咫烏=秩父大神=思兼神=豊国主=天太玉=小若子=豊日別=大耶(弥)彦=弥五郎どん(総べて同一人物で、一般に『山幸彦』と呼ぶ)と、2歳姉に新羅から帰ってきたアカル姫(西暦130年頃生れの白氏+嬴イン氏)=磐長イワナガ姫がいます。

 

※モーゼ系嬴イン氏とは、アレキサンダー王に追われて中国に遣って来たイスラエルのモーゼの親族と、秦国の王嬴イン氏(始皇帝)が姻戚を結び、嬴イン氏を名乗るようになり、秦の滅亡後に、韓国~済州島(瀛洲ヨンジュ)経由で豊前~豊後に遣って来た『秦氏』で、漢族『袁氏』の血が混じっていたものも居た。と考えられます。後に琵琶湖の竹生島の瀛イン神社で弁天様として、天宇受賣命(芸能の神)=猿女=辛(秦?韓?)国息長大姫大目ウズメ命=斎奉る姫(市来島姫)が祀られます。

 

古事記ではニニギが結婚を断った事になっています大山祇の娘となっていますが、木花之開耶姫(西暦150年頃生)とアカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)の関係は、正確には20歳違いの義理姉妹となります

 

アカル姫=磐長(イワナガ)姫(父は博多の大幡主命)を新羅から追って来た(昔氏の)天日槍(アメノヒボコ)は、スサノオ(西暦127年頃生れ)の事であり(スサノオの父はイザナギ=西暦105年頃生れの新羅系昔氏=脱解王系・母はイザナミ=西暦110年頃生まれのモーゼ系嬴イン氏、イザナミの4歳上の兄が金鑚大神カナサ西暦106年頃生=金山彦=モーゼ系嬴イン氏の元祖)、

天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、兵庫県(丹波)から瀬戸内海を通って豊後国東の姫島に来た後、安心院にてアカル姫=磐長(イワナガ)姫(西暦130年頃生)との間で市杵島姫(西暦147年頃生)を儲けていて、その後中津市の古(胡)要神社・古(胡)表宮に来た。と考えられる由。

胡は、胡人=西アジア系ペルシャ人(胡=瀛=秦)を意味しており、後には滋賀県犬上郡多賀町に『胡宮神社』として移動している。近くに在ります『清瀧山』の清瀧も同様に苅田市『清瀧窟』から移動した由。

スサノオはその後に『金鑚大神(カナサ)=金山彦(西暦106年頃生)』と『埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)』との間に出来た『櫛稲田姫(西暦134年頃生)』(熊本県山鹿で生れたと考えられています。スサノオの母の兄の子=姪にあたる)を娶り、『瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫(西暦152年頃生)=建内足尼=武内足尼』と、『彦國瀛津ヒコクニオキツ(西暦150年頃生)』を儲けている。と考えられるとの事。

 

 

瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫は、日本書紀では磯城県=城島県の葉江ハエ=飯江ハエ出身で、尾張連の祖とされ、第5代孝昭天皇の皇后に成り、天足彦国押人と第6代孝安天皇を生み、天足彦国押人の妻に為ったのが、木綿の院=由布院に居た宇奈岐日女=宇那比姫であります。

 

その後の天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、『大國主命(西暦142年頃生れの金官伽耶系金氏+白氏)』の6歳上の姉『神大市姫(カムオチ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』との間に『辛国息長大姫大目命(西暦154年頃生れ昔氏+金氏+白氏)』を、儲けた事になっており、

 

つまり、スサノオは『アカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)』と『櫛稲田姫(クシイナダヒメ)(西暦134年頃生)』・『神大市姫(カムオオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』の三人の女性を娶ったと述べられています。

 

わたくしは、神代は古事記・日本書紀に依って考察をしており、スサノオは西暦80年頃生まれの帥升王年代の登場人物と考えて、帥升王=スサノオと推察をしていましたが、百嶋系図ではスサノオ(西暦127年生)は大国主命(西暦142年生)より15歳年上の年代とされており、『帥升王』はスサノオでは無い事になります。

『帥升王』は、周王朝末裔であります姫氏『委奴の國王』で合ったと考えられます、『委奴』とは(いど・いと)と発音され、『怡土の国王』と解釈されます。西暦90年生まれの(百嶋説では、博多湾を治めていたと考えられます=根拠は博多大博通り=大伯通り=大白通りです。)『白川伯王は、帥升王の依頼で熊本から博多に移動して太政大臣として倭を治めて居て、刺国大神と呼ばれた人』の事と考えられています。

大國主命の母とされています、『刺国若姫』とは白川伯王の子と考えられています。

 

この『白川伯王』の子が大幡主=地禄神=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子(西暦110年生)で、姉が神カム玉依姫(西暦107年生)、妹に西暦113年生まれの埴安姫=草野カヤノ姫(伽耶の姫とも、とれます。)が居た事に為っています。

埴安姫=草野カヤノ姫は、最初は金鑚大神(西暦106年生)との間に櫛稲田姫(西暦134年)を儲け、次に大山祇=月読命=三夜さん(西暦111年生)の間に神大市姫(=罔象女?)(西暦136年生)大國主命(西暦142年生)木花サクヤ姫=前玉サキタマ姫(西暦150年生)を儲けた事に為っています。

 

『白川伯王』の痕跡は博多で(大博通り=太伯=大白)認められ、大幡主=地禄神=神皇産霊神の痕跡は大野城市白木原周辺から博多湾一帯にて残されており、大山祇=月読命=三夜さんの痕跡は、久留米大善寺城島の『月読命神社内の貝塚古墳』や、田主丸の祭り『三夜さん』にて、埴安姫=草野カヤノ姫は田主丸と久留米の間の『草野地区』にて認められます。天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の姿は久留米市の『水天宮』にて、大山祇=月読命=三夜さんの子であります神大市姫(=罔象女?)は久留米市御井町の『御井味水神社』にて認められ、此処では孝霊期(彦坐王)に登場する『朝妻姫』の『朝妻』の地名もあります。彦坐王は田主丸町竹野(草野の隣)で儲けられており、筑後川を挟んで、北側の朝倉市には高木邑があります。高木神やその子であります栲幡千千姫・萬幡豊秋津姫・ニニギ尊が考えられます。高木神=高御産巣日神の正式の名前は『高見』と謂われ、朝倉杷木~千足に『高見』の地名があります。

朝倉甘木には『大己貴神社』にて大國主命の存在が考えられます。

そして、百嶋系図には大國主命を生んだのは、草野姫(=埴安姫)とされ、

日本神話では、神大市姫とスサノオとの間にて、宇迦之御魂神=稲荷神と大年神が儲けられた。と述べられており、宇迦之御魂神=稲荷神は、わたくしの考えでは息長氏(息長水依比賣命?)の事で有り、

(百嶋さまは、宇迦の『ウ』とは熊本弁では『多い』とか『大きい』事を言う。と述べられており、此処では『多氏=阿蘇氏=シナツヒコの御魂神』と解釈を考えられ、『龍神』で有ります息長水依比賣命かその子とされます御井津姫を指す事に為ります。亦、別の解釈としては、宇迦之御魂とはウガヤフキアエズの御魂とも解釈されます。わたくしは、ウガヤは開花天皇と同一神と考えていますので、彦坐王やその妃息長水依姫に繋がり、可能性は有ります)、しかし、『烏ガヤ』と『葺き合えず』で解釈するべきでしょう。

 

百嶋系図でも、神大市姫とスサノオとの間にて、田川(鷹羽)郡香春町の辛(秦?韓?)国息長大姫大目命が儲けられた事になっています。

 

百嶋さまは、辛国息長大姫大目命の『大目』は『ウズメ』と解釈して、天宇受賣命アメノウズメ(古事記)天鈿女(日本書紀)の事であろう。とされています。

天宇受賣命は、『猿女命』とも謂い、古事記では、天照大神の岩戸隠れの場面と、ニニギ尊の天孫降臨の時に登場しています。

 

伊勢神宮外宮の『豊受大神』と、京都伏見稲荷の『宇迦之御魂神』と三重県鈴鹿市の椿大神社の『猿田彦命』の妻『猿女』は豊受姫=豊玉姫=罔象女と、同一人物である。とされ、和歌山県日前神社の鏡は、伊勢神宮外宮の『豊受大神』=『罔象女』が造った。と考えられる。と関連性を述べられています。

 

つづく。

 

 

 

 

 

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『継体天皇』の御陵は福岡にあった。内倉武久さま説を検討する。

2015-09-15 | 古代史

さて本日は、

我が息長氏(秋永氏)の先祖第26代継体天皇とその子であります第27代安閑天皇が九州(倭)で存在を考えられる。と謂うことが『内倉武久』さまによって発表されましたので紹介を致します。

『内倉武久』さまのブログ(うっちゃん先生の「古代史は面白いで」

013「継体天皇」の御陵は福岡にあった

014「継体天皇」の御陵は福岡にあった②。

015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。

 

の3部を拝読しました。

 

013~014「継体天皇」の御陵は福岡にあった。の内容は

 

まず、記・紀に記す『磐井』と『継体天皇』の争いは北部九州倭での出来事であろう。と考えられ、「継体天皇」の埋葬地であります『三嶋の藍』の地名を従来の定説である大阪府高槻市安威(あい)の『今城塚古墳』に疑問をもたれます。

 

内部に納められた石棺のうち一つが九州の阿蘇溶結凝灰岩製で、九州からはるばる運ばれた石棺であることや、付近の古墳から出土している短甲などが南九州の地下式横穴墓の出土品と酷似していること、そして埴輪に九州の熊曾於(熊襲・隼人)族が持っていた相撲の風習を思わせる力士像があることから、こ の古墳群は熊曾於族、というか、九州から派遣された九州政権の官人の墓ではないかと疑問を呈しておられます。

 

つぎに、朝鮮の史書『東海諸国記』には「継体天皇」は16年壬寅みずのえとら(522年)に、初めて九州年号を建元した天皇である。と記録されている事を述べられ、「二中歴」も継体天皇から始まっている事を指摘されます。

{重要なのは、継体天皇は「九州 政権の年号を創始した天皇であろう」ということだ。ということは「継体天皇は九州の王であろう」と考えざるを得ないのである。}

{「継体天皇」は九州政権の王位をめぐる権力闘争の勝者だったと考えられるのだ。諡(いなみ=贈り名)はその戦いに勝ち、政権を簒奪して「跡を継いだ」から「継体天皇」とされたのだろう。}

{さらに『書紀』と『記』では天皇の名前が違う。『書紀』では「男大迹(おほど)」だが、『記』では「袁本杼(えんほんじょ?)で、とても「おほど」とは読めない。別人と考えるほかない」
と、「継体天皇は九州の王であろう」を元に「九州の継体天皇の本拠地」を考察されます。

 

和名類聚抄(和名抄)から「三嶋」の地名を見つけられます。場所は朝倉市上座郡です。

「藍」の場所についてはブログ本文より転写します。

 

「明治十五 年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。するとなんとそこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。

旧朝倉町は筑後川中流域の北側に広がる街で、『書紀』には斉明〝天皇〟が白村江の戦い(六六二年)に参加するために中大兄皇子と滞在した「朝倉の宮」の所在地であると書く。

 

 

以上のように『三嶋の藍』の地名は筑前朝倉の地で認めることが出来る事を発見され、御陵に相応しい古墳として、直径80m程の国内最大級の円墳「長田大塚古墳」を比定地に考えられて居られます。

 

 

015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。では、「継体天皇」の本拠地と御陵が朝倉に在ったのであれば、第27代安閑天皇の御所が気に為ります。内倉氏は次のように述べておられます。

 

『記紀』による と、「安閑」の都の名は「勾金の橋(箸)の宮」という。「『記紀』に記す天皇はすべて大和にいた」と勘違いしている国史学者らは「まがりのかなはしの宮」と読んで、奈良県橿原市曲川(まがりかわ)がその遺称地だと主張している。岩波書店の権威ある史料として名高い日本古典文学大系『日本書紀』や『古事記』もそう解説している。

しかし、都の名は「勾金(まがりかね、あるいは、まがりのかなはし)」であって決して「曲川」ではない。奈良県立橿原考古学研究所がこの周辺を発掘調査したが、それらしい遺構はまったく発見できなかった。当然の結果であろう。

宮内庁は安閑天皇の御陵を大阪府羽曳野市古市にある前方後円墳であるとする。しかし、ここには「安閑天皇」と古墳を結び付ける伝説など全くない。平安時代に作られた「延喜・諸陵式」の記載に基づいた指定である。「安閑」は大和にはいなかったのだからこれまた当然だ。

 

と謂う事で「安閑天皇」の都を朝倉の山向こうの田川(鷹羽)郡香春町勾金の事であろう。と次のように述べられます。

 

田川郡香春(かわら)町に「勾金(まがりかね)」の地名が残っている。『書紀』によれば、田川郡一帯は古くは「高羽」とか「鷹羽」という誇らしく雄大 な名の場所で、「豊(前)の国」に属する。熊曾於族の夏礎(なつそ)姫が君臨していたといい、「夏吉」という地名も残っている。

 

香春町一帯は銅な どの鉱物や石灰の一大産地として知られる。この地域のシンボル的山は香春岳である。郡内のあちこちから眺められる。三つの山塊が南北に並び、現在は上質紙の製造やセメントに使う石灰の産地である。一の岳(たけ)は山の頂上付近から順に採掘が進み、山塊は半分ほどに削られて今は見る影もない。「採銅所」の地 名もある。古来、宇佐八幡に奉納される鏡もここで造られてきた。

香春町の隣は田川市、大任(おおとう)町、赤村、川崎町で、北側は北九州市小倉南区である。大任、川崎町一帯は往古「桑原」と呼ばれた地域である。「安閑」がいた場所を探すには、『書紀』に記録された「屯倉」の所在地を探れば手っ取り早い。

それによると「安閑」は、この勾金のすぐ南側に「桑原の屯倉(みやけ)」を設置、赤村にも「我鹿(あか)の屯倉」、大任村に「喜原の屯倉」(『太宰府管内志』)を置いた。


さらに周辺の「穂波」「嘉麻」「滕崎(しつさき?)」「肝等(かとの?)」「大抜(貫)」にも置いたという。「大抜(貫)」は京都郡苅田町境いの小倉南区にある。

「みやけ」は「官家」とも書く。これは天皇家の直轄地とされる。「屯倉」は軍事的な施設で米などの食料や武器の貯蔵施設である。

「安閑」はこのほか「火の国」「播磨」「紀国」「尾張国」「駿河国」などにそれぞれ一、二か所屯倉を置いたという。が、なぜ田川郡とその周辺に屯倉が集中して置かれたのか。

 それは「安閑天皇」の都がここにあったからである、と考えざるを得ない。

 

本拠地周辺に軍事的な防衛施設を設けたり、緊急用の備蓄米などを置くのは古今の常識だ。大和にあったという都を守るのに、とんでもない遠地の九州に備蓄物資を置いてどうするのか。

 ただ『書紀』には奈良や大阪の小墾田(おはりだ)、桜井、茅渟(ちぬ)山にも屯倉を設けたと記される。国史学者らはこれら三か所の屯倉は、「大和政権の安閑」が身近に置いたものだろうと考えている。

「小墾田の屯倉」 についてはよくわからないが、「桜井の屯倉」が奈良の桜井市のどこかに置かれたとすると、話は違ってくる。この周辺の古墳からは九州製の石棺が数多く発見されている。たとえば慶雲寺古墳、ミクロ谷古墳、兜塚古墳などがそうだ。発掘調査が進めばもっと増えるだろう。しかも、当地には朝倉、三輪、海石榴市(つ ばきいち)など北部九州と同じ地名がたくさんある。要するにここにいたのは九州政権の人々であり、関西における拠点の一つであったと考えてよさそうな地域なのだ。

 

「茅渟山の屯倉」が置かれたのが大阪府和泉市周辺であるとすると、ここにいたのは紀氏と大伴氏、熊曾於族の内氏らであったらしい(『書紀』雄略紀・紀小弓の項など)。両方とも九州政権の中枢部にいた氏族である。

要するに「大和政権」とは関係のない「屯倉」であると断ぜざるを得ないのである。あるいは同じ地名がある九州内に置かれた「屯倉」かもしれない。国名を記していないからだ。

 

 『書紀』は同じ地名が各地にあるのを利用して、たくみに古来から列島の中心は大和・畿内にあったかのように記載している。わざと国名を記さず、国史学者らが北部九州の地名を奈良や大阪の地名であると勘違いするように仕向けている。歴代の国史学者らの「思い込み」による対応は実にずさんきわまりないといえよう。

と、従来の国史学者らの「思い込み」を糾弾され、正しい歴史を解明する為には洞察力が求められるようです。続いて、

 

「勾金」では整備された官庁街の遺構も発見されている。遠賀川水系金辺(きべ)川の支流のひとつ「御祓川(みはらいがわ)」の東側で発見された。浦松遺跡(写真 矢印。後方は香春岳一ノ岳。福岡県教委発掘調査報告書から)である。方向をそろえた大型建物の跡が少なくとも八棟分発見されている。貴人が住まったり、大極殿にも使われた庇(ひさし)付の建物跡もある。

出土した土器から、奈良時代の遺跡、とされている。しかし奈良時代にこのあたりに「官庁街」が建設されたというデータはなにもないし、その必然性もない。九州の土器は近畿の同じ形の土器より百五十年ないし三百年ほど古いことが放射性炭素(C14)の年代判定でわかっている(「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房、ある いはインターネットブログ「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」NO・5「九州の土器は古い」参照)。九州歴史資料館など九州の考古学研究者のなかにはこのことにことさら目をそらし、相変わらず土器による年代判定のみにこだわり、結果的に日々いかがわしい古代史像づくりに励んでいる人が多い。もちろんこ こ浦松遺跡でも理化学的な年代測定はいっさいされていない。

現在採用されている「土器による年代判定」は、古来九州は辺地であり近畿より文化度が低かった、という思い込みによる「年代判定」である。とんでもないことだ。放射性炭素の年代測定は全世界の物理化学界、考古学界が支持しているもっとも確実な年代測定法である。浦松遺跡は安閑の都の一部である可能性が高い。周辺の地下からは時折「巨木」が発見される。都への導水施設か建物の用材、あるいは何らかの防御施設の跡であろうと思われる。柱の残痕や木材を放射性炭素によって年代測定をすればすぐに時代が判明しよう。

大任町にある桑原神社の祭神のトップは「安閑天皇」だという。昭和三十一年、榊原宮司の覚え書きにはっきりと記載されている。安閑と神社を結び付ける伝説が今は伝えられているかどうかわからない。しかし、安閑がこのあたりに都を置き、かつ「桑原の屯倉」も置いていたという 『書紀』の記述からすれば、神社は安閑と深い関係にあったことが偲ばれる。

『書紀』によると 安閑は、三十五歳前後で若死にし、在位年数も二年ほどしかなかったらしい(注1)。九州から関東、東北までの支配権を「筑紫の君・磐井(いわい)」から奪った偉大な父親「継体」の跡を継いだものの、自らの勢力を構築する間もなく、この世を去ったらしい。継体が死ぬ直前に譲位されたとも書く。対外的な業績 はほとんどなかったようだ。

父親の「継体」の後ろ盾は熊曾於族の「三島の宿祢(すくね)」で、「継体」自身も熊曾於族ではなかったかと推察した(同ブログ)。『書紀』安閑紀にそれを裏付ける記述があった。国々に「犬養部(いぬかいべ)を置く」ように命令したという。なぜ「犬を養育する施設」を国ごとに置くよう命令したのか。おそらく熊曾於族がもっていた「犬祖伝説」を具体化し、犬を尊重する施策であろうと考えられる。ただ単に「犬好きの天皇」という理解では考えられない施策である。息子が熊曾於族なら、父親も当然熊曾於族であろう。

また、「安閑」の后(きさき)は春日山田皇女(はるひのやまだのひめみこ)という。国史学者らは「春日」を「かすが」と読んで、安閑が大和の奈良の春日と関係があるかのごとく考えている。

だが地図で見る通 り、勾金の西南、田川市に「春日町」「春日橋」「春日神社」、嘉麻(かま)市に「山田」の地名が残る。「山田」は朝倉郡や京都郡などにもあり、かなり広い地域をそう呼んでいたと思われる。「春日」の西南には「口春(くちはる)」という地名もある。「春日」への入り口、という意味である。であるから、ここの 「春日」は「はるひ」と読むべきではなかろうか。

『記紀』によればお后(きさき)は又の名を「山田の赤見の皇女」というという。「勾金」の南側、「赤村」との関係もありそうだ。ここには現在も「我鹿(あか)神社」が鎮座し、「我鹿の屯倉」が置かれたところでもある。

「春日」の東側一帯は古来「奈良(なら)」と呼ばれていた。「勾金」の東側も古来「大坂」と呼ばれ、「大坂山」(飯岳山)がある。その東側は「京都(みやこ)」と呼ばれる。

 関西の地名の多くは九州からもたらされたものであろう。中国、朝鮮に近く、権力の発生地でもあった九州から人々の移動にともなって、地名も関西、関東、東北へと広がっていったのである。この地域一帯に住んでいた人々が関西に進出し、そこに故郷の名前をつけたと考えられる。

后は三代前の「仁賢天皇」の娘であるという。事実であるとすれば当然、「仁賢天皇」もこの近くにいたことになろう。

田川、京都(みやこ)郡地域、「豊の国」は中国の史書に言う「倭国」の中心地のひとつであった可能性が高い。


と、締めくくられています。

 

 

わたくしは、継体天皇(袁本抒命)は越前福井に棲んでいたものと考えていましたので、衝撃を受け再考をしましたが、如何も内倉氏の考察は間違い無いものと思えます。

 

三嶋の藍』が朝倉上座郡三嶋にあり、継体が朝倉に居たのであれば、烏集院や宮野の地名や第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いたとされ、田主丸(和邇氏の本貫地)には秋永氏が(息長氏)が現在も存在しており腑に落ちます。

亦、『安閑天皇』が香春町勾金の周辺(浦松遺跡が大いに考えられます。)にいたのであれば、此処は天之御影神と息長水依比賣命=辛国息長大姫大目命の居た息長氏(秋永氏)の本貫地であり、当然の事と思えます。

東峰村は福井村と合併しており、『日本書紀』の『期年』の記述は藤原氏の捏造があったと考えられ、当てにはなりません。わたくしは、『期年』に付いては『古事記』を信じて考えるように勉めています。

 

 

元興寺伽藍縁起并流記資財帳には

大倭国(やまとのくに)の仏法は、斯帰嶋宮(しきしまのみや)にて天下を治めた天国案春岐広庭天皇『欽明天皇』の世、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていた時、天皇在位七年戊午(538年)十二月に伝わった。とされ、逆算をしますと『欽明天皇』の即位は531年になり、斯帰嶋宮は久留米市大善寺玉垂宮の解釈になります。『欽明天皇』の和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらのみこと)となっており、此れは朝倉の広庭宮で産まれたと考える事が出来ます。何故なら、第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いた場所が『朝倉広庭宮』と呼ばれ、此処朝倉三嶋には父であります継体(袁本抒=息長氏=秋永氏)が居た場所であると考えれば、道理が適います。

 

継体が没した年が百済本記を参考にして日本書紀では『辛亥かのとい』(531年)に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとされていますが、日本書紀の記述は信頼が出来ません。527年説もあり、はっきりしていません。

 

『古事記』には『丁未ひのとひつじ』(527年)と記され、此の年は『磐井の乱』が起こった年であります。百済本記では『日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨』とあり、此れは天皇と皇太子と皇子が次々に亡くなった。と解釈されます。

天皇は継体に相当し527年に崩御、皇太子は香春の勾宮に居た『安閑』で、皇子は大分葛木高田に居た『宣化』と想われ、此れは継体家に対する遺恨が暗殺(叛乱)として現れたものと考えられます。

《その後の考察による追補》

『宣化天皇』が居たのは『檜之隈宮』とされ、大分葛木高田では無く、佐賀県神崎市の『日隈』地区であった。と考えられます。神崎市教育委員会に訊ねますと、この地区には6世紀頃の100個以上の古墳が未掘で存在しており、今後調査の必要を感じている由、でありました。

佐賀県立博物館入口ロビーに置いてあります4世紀頃の石棺は日隈地区横の久保和泉に在ります熊本山から出土しています。此の久保和泉から日隈地区に掛けては大集落が在ったと考えられ、『丸』の名前が付く和邇氏の里であった。とも考えられます。今後の調査が待たれます。

 

欽明が531年に久留米市大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)で磐井の後を継いで天下が治まった。ものと考えられます。

 

継体の出自については、わたくしは、彦主人王ひこうしのおう(汙斯王)=継体の父は従来通りの説近畿近江高島市に居たものと解釈をします。

日本書紀の記述を信じますと、継体は福井県坂井市で育ち上がったものと考えられ、其処に九州から大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが近畿に遣って来た。と謂う解釈になります

ですから、20年もの間、倭(やまと)=九州に這入れなかった理由が腑に落ちるのです。

倭が近畿纏向に在って、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが福井県に迎えに行ったのであれば距離的・時間的にも可笑しな論理になり、研究者を納得させる事が出来ません。

 倭(やまと)は九州に在ったと考えざるを得ません。

 

と謂うことで、内倉武久さまの『継体は福岡に居た。』の考えは、間違いなく正しい解釈と思われ、古代史研究の大きな重要な発見であり、今後の研究に大きな成果を齎すと考えられます。

 

『やまと』の名称は福岡県山門郡(大善寺玉垂宮を含む)と、香春町~勝山黒田に並列状態で存在していたもの。と考えており、その後倭の大乱第2幕(神武=崇神東征)が起こり、日子坐王(=景行天皇=孝霊天皇)が大和の名称を近畿纏向に持ち込み(謂わば出張所)、懿徳・孝元・日子坐・安閑等々の居た香春のヤマトは藤原氏によって消され、人々から忘れられて、近畿の『大和』と福岡県の山門郡の『山門』が現在に残っているものと考えられます。

 

                        大分県ゆふいん温泉在住  秋永 祥治

 

 

 

 

 

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西暦240年頃、息長水依比賣命(辛國息長大姫大目命)に由って『護摩焚き』が齎された。と想われます。

2015-09-11 | 古代史

仏教が中国に齎されたのは紀元前2年~紀元67年頃とされ、当時は仏陀のことを浮屠(ふと)と呼んだそうであります。わが国に齎されたのは、欽明天皇の御世の戊午つちのえうま(538年)とされています。しかし、538年は宣化天皇(535~539年)の時代になり、根拠とされた『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の御世の『戊午つちのえうま』とされ、混乱が生じています。現在では『仏教伝来』を使わずに『仏教公伝』を使う様です。

 唐の時代に渡って仏教を日本に齎した最澄(天台宗)・空海(真言宗)は拝火教(ゾロアスター教=祅教)の影響を受けている。と考えられております。

拝火教は火を崇める特徴があり、ウズベキスタンとタジキスタンの一部のソグディアナ地方(安国=ブクハラ・康国=サマルカンド・石国=タシケント等のオアシス都市)に棲んでいたイラン系の人々(ソクド人)が、遅くとも後漢時代には交易を求めて頻繁に中国に遣って来ていたと謂われ、シルクロード交易の中心を担う人々が河南省『洛陽』の町に集ったと考えられます。このソクド人が集って行なう祭祀の儀式が、天御影神と息長水依比賣命(=辛国息長大姫大目命)によって倭に持ち込まれたものと考えています。

後の北魏~隋~唐の時代にはゾロアスター教を管理掌握する職務として『薩宝』制度を儲けていますので、大変盛んであったと思われます。

 

洛陽には『袁氏』が有力豪族として居り、帥升王(スサノオと考えられます)に拉致され、後漢安帝に西暦107年に生口(役に立つ者)として献上された106人もの倭人の中に息長氏(秋永氏)も混じっていたものと想われます。

此の107年頃は、前漢末(西暦2年)の人口(5767万人)から、後漢初め(西暦57年)には(2100万人)人口が半減以下になっており、人口の増加が課題であったと考えられ、献上された倭人も倭人町での人口の増加を理由に、自由を許されたものと想われます。100年後の西暦157年には5648万人に回復しております。若しかしたら、帥升王は其の人口減を耳にして、106人と謂う大勢の生口(役に立つ者)を安帝に献上したものと考えられます。

袁氏との知遇を得た息長氏は血縁をも結び出世をしたものと考えられます。

 

そもそも、息長氏(秋永氏)は磯長(シナガ)とも科長(シナガ)とも呼ばれ、中国雲南省に在ります支那の地名に由来するシナツヒコ(同族に多氏=阿蘇氏=内氏)が南九州大隈半島曾於郡に上陸したのがルーツと考えられます。

 

 わたくしは、洛陽で世代を重ねた息長氏が護摩焚き(ゾロアスター教の儀式)を西暦240年頃、倭に持ち込んだものと考えています。

 

わたくしの2011年11月23日のブログ『秋永氏探求から紐解く息長古代史17』では、次のように述べています。

 

天霊の神とは八大弁才尊(はちだいべざいそん)、息長水依比売命は弁才尊天と謂う事にも考えられ、天霊系の元になります。地霊の神とは、笠法稲荷大明神(かさのりいなりだいみょうじん)の事だそうです。笠法稲荷大明神のモデルは、どうも鍛冶神の祖と謂われている天之御影神(あまのみかげしん)と思えてきます。

 と述べ、真言宗では弁才尊天と笠法稲荷大明神は大日如来尊や不動明王(大日如来尊の化身)と伴に最も大切な扱いをされています。

 

福岡県糸島市長野に在ります(仲哀天皇の遺体を仮埋葬したと伝わります)宇美八幡神社の伝承には、三韓征伐から帰還の折、神功皇后(息長帯比賣命)が船上にて神懸かり、『自分は清瀧権現である。』と述べられた。とあります。

 

息長氏(秋永氏)と弁財尊天と笠法稲荷明神と清瀧権現は真言宗にて繋がります。

 

亦、空海(唐滞在3年)・最澄(唐滞在8ヶ月)と一緒に唐に渡った近江出身の『息長丹生真人長人』(45歳の時に唐に渡った)は唐にて『霊仙三蔵法師』の称号を憲宗皇帝より日本人で唯一人授かっています。

『息長丹生真人長人』(759年生~827年没 在唐23年 山西省五台山にて68歳の生涯)や『空海』は、五百数十年先祖の息長水依比賣命(=辛国息長大姫大目命)が魏から『ソクド人が持ち込んだゾロアスター教の火を使った護摩焚き』と『中国に伝来した原始インド仏教』を倭(香春)に持ち込んだ事を知っていたものと推察されます。

此処豊前は秦氏(新羅経由の秦にルーツする中国人と考えています)の本貫地であり、英彦山・求菩提山・等は古代より息長水依比賣命や秦氏が齎した修験者の聖地であり、修験者は祈祷師と施薬師・医術師を兼ねていたものと考えられ、最澄や空海は渡唐前後の時間を近畿熊野・近江の修験地では無く、香春(豊前)の地を暫くの間うろついています。

また、第31代用明天皇=橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(第29代欽明天皇の子)の病気の時、『豊国法師』を呼んだと用明記には述べられ、大任町には『大行事』の大字名が残っており、最新の施術師を求めて豊前(香春~大任~彦山)には修験者の賑遇いが有ったものと考えられます。

大任町大行事には秋永の小字名があり、姓氏辞典では、秋永の発祥は田川(鷹羽)とされ、近くの香春神社では辛国息長大姫大目命=息長水依比賣命(息長氏として最初に登場されたお方)がおられ、神紋・家紋が『違い鷹羽』で一致し、息長氏と秋永氏が繋がり、

息長氏の発祥は、此れまでの近江息長氏をルーツに唱える近畿説を覆した『宝賀寿男』さまの最新説であります『田川(鷹羽)が息長氏の発祥である』が正解でありましょう。

 《追補》

最初に香春に居た天之御影神(稲荷大明神)と秦氏は近畿に渡り、『秦伊呂巨はたのいろこ』が後の京都伏見稲荷神社を創っています。此れは 天之御影神が秦氏等から崇拝されて居たと考えられ、一部の秦氏は天之御影神(息長氏)と伴に倭に遣ってきたものとも考えられます。

応神天皇期には弓月君(ゆづきのきみ)が大勢で豊前に来ており、此の弓月君はウイグル・カザフスタンの近くの弓月国(クンユエ)=景教(初期ユダヤ教=拝火教)の王であったと謂われ、ソクド人も初期ユダヤ教(景教)と関係・影響を受けたものと考えられます。ひょっとしたら、息長水依比賣命(辛國息長大姫大目命)が齎した『護摩焚き』に影響を与えた儀式は原始インド仏教と景教(ユダヤ教)であったのかも知れません。それとも、ソクド人は出イスラエルのユダヤ人であったのかも知れません。

 

 

 

 

 

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天皇家(皇室)には『袁氏』(漢族)の血が這入っている。と考えられます。

2015-08-23 | 古代史

2015年7月12日(日)わたくしの秋永氏(息長氏)の本貫地であります、(福岡県田川(鷹羽)郡大任町大行事秋永の地名が在ります)大任町レインボーホールにて内倉武久氏の講演を伺いに行きました。

鹿児島県大隈半島肝属市出身で、現在大阪府在住の内倉氏は朝日新聞在籍時代より、多くの古代史研究者に関わりを持たれており、中国古代史・中国民俗人類学・日本の考古学・文献学を、幅広いジャーナリストの立場の視野で考察をなされておられ、考古学的な状況証拠(例えば近畿にあります巨大前方後円墳の石棺に九州熊本産の石が運ばれて使用されている事。)でも古代には九州(倭)に天皇(すめらのみこと)が居られた。と考えておられ、九州の熊襲は、周に繋がる姫(紀・木・基・杵)氏であり、熊本・鹿児島が源流で、その後列島を席巻した。と研究者の注目を大きく集めておられます、『倭(ゐ)の根源』を客観性をもって研究されています最新の論者であります。

その説の中で、熊襲と謂われています熊本県菊池市の『松野連』の系図(国会図書館に収められている)の中で、松野某氏の名前の但し書きにて『姫氏』と入れられており、松野氏は紀元前473年、周太白(しゅう・たいはく)に繋がる呉が滅んで沖縄~奄美の南方経由で熊本に遣って来た『姫氏』が『紀氏』に成ったものであろう。と述べられており、

此れまでの『紀氏』は熊襲ではなく、新羅経由で遣って来た天孫族であろう。と考えられて来ていた概念を覆す古代史研究の大きな問題提起であります。亦、倭(い)の五王(讃・珍・斉・興・武)も『松野連』の系図に記入されており、九州に狗奴國(こうどこく)と邪馬台国(やまいこく)、即ち倭国(ゐこく)が在ったのは明白であろう。と考えておられます。

熊襲であります狗奴國の『狗』とは犬を表し、『犬祖伝説』を持つ中国南部(福建省・浙江省・雲南省・湖西省)の少数民族畲族(しぇ・そを) ・ヤオ族・リー族(海南島)が黒潮海流に乗って遣って来ているものと考えるべきであろう。と述べられ、房総半島に伝わる『南総里美八犬伝』の物語も『犬祖伝説』を持つ中国南部の人達が日本に遣って来ている証拠の名残りと考えられる由。

鉄や馬の日本=倭(ゐ)への伝播も、海流の問題で手漕ぎ船での対馬海峡横断より、中国南部の広州~海南島方面から遣って来る海流(最大4.5ノット平均3ノット前後・1ノットは1,852m)を利用して奄美・沖縄経由で遣って来た方が現実的あろうと考えられる。と、野生馬で有名な串間市都井岬や串間市から出土した33.2センチ・重量1.6キロも有ります中国(広東省)南粤(なんえつ)(BC203年頃の建国BC111年滅亡)に繋がると考えられます日本國国宝の『玉璧』を述べられ、縄文から弥生に掛けては熊襲(九州隼人)にての人・馬・鉄器・稲作・焼畑・墳墓(地下竪穴式横穴墓)の中国文化流入が考えられると述べられています。

亦、京都の下賀茂神社で行なわれます馬と弓矢を使った流鏑馬(やぶさめ)も、源流は南九州鹿児島~宮崎であろう。とされ、千葉県銚子近くにあります『鴨川』・『内之浦』の地名を挙げられ、全国各地に熊襲(賀茂氏・内氏)が進出したものと考えられる。と述べられています。

内倉氏は建内宿禰命(たけし、うちのすくね)や内色許賣命(うちしこめ=大矢口宿禰の子)に繋がる和邇・賀茂海人族と関係が深い『内』氏であり、

『内』氏の本貫地は鹿児島東部~串間辺りで、『畲族(しぇ)は自分たちをソヲ族と呼び、『ソヲ』は曽於郡が重なり、『玉璧』{中国(広東省)南粤国(なんえつ)から遣って来ていると考えられます}と一緒に在ったとされます三十数本の『鉄族・鉄器』・都井岬の『自然馬』・宮崎の『焼畑』・鹿児島の『墳墓』(竪穴式横穴墓)を挙げられ、倭(ゐ)=九州の人達は南方の中国~ベトナム辺りから遣って来ているであろう。』と考えておられます。

実に説得力のあります論理で、首を促され、わたくしの説の根幹であります、狗呉{天孫降臨以前に倭に遣って来た人々}と天孫{秦に繋がる秦氏(幡)が新羅経由で遣ってきた人々}の関係を再構築しなければならない認識に至りました。

 

わたくしの考察でも、狗奴国(こうどこく)は菊池市に考えられ、下照比賣命(伊香色謎命=玉垂命)とその子であります崇神が久留米市の城島(しき)に居た。と考えており、狗呉と組んだ崇神(卑弥弓呼)が糸島~博多湾辺りから船出して長髄彦命=日子坐王の居る苅田市富久町を目指したもの。と解釈しています。しかし、『紀氏』そのものが『熊襲』(熊・曾於)であれば、『天孫族』(海人族)の定義が大きく変わり、認識を変えねばなりません。

『崇神』そのものが物部熊襲(狗呉)であった事になります。

『崇神』と争った和邇氏から生れた『日子坐王』も『熊襲』(熊・曾於)であったろう。と謂うことに考えられます。しかし、邪馬台国の卑弥呼(宇那比姫)は漢民族と考えられます魏を頼って狗奴國と戦っており、此の『和邇氏』・『尾張氏』は秦氏(幡氏)に繋がる漢民族系で有ったとも感じられます。

記・紀では、高木神の娘であります『萬幡豊秋津師比売命』(よろづはたとよあきつしひめのみこと)と須佐之男と天照大神の倭に残した遺児とされている『天忍穂耳命』が結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を生んだと述べられ、瓊瓊杵尊が韓国と向きあう笠沙の岬(糸島と考えられます)へ天孫降臨をした事になっており、如何も高木神と和邇氏・尾張氏は『新羅経由の秦氏一族』(天孫族=漢民族系)であったと感じられます。

わたくしのブログの切っ掛けに為りました耶馬溪雲八幡宮の秋永勝彦さまが若狭から五人で九州へ遣って来られ、別れた残り四人の秋永氏の末裔は佐賀県多久市東多久納所に住み着いたものと考えられ(納所地区10軒の秋永さまの家紋が『花剣菱』で、秋永勝彦さまの家紋と一致していました)、此の多久地区から大和町に架けては秦の末期に徐福一行が大勢遣って来ているとの伝承があり、お茶の発祥の地とも謂われています。

古事記においては、第2代綏靖天皇が師木(城島)県の河俣毘賣命(かはまたびめ命)・第3代安寧天皇が波江(山門郡の飯江)の阿久斗比賣命(あくとひめ命)・第4代懿徳天皇が師木(城島)県主の子である飯日比賣命(いいひひめ命)を続けて3代に亘り久留米~大川~山門郡辺りの豪族から娶っていますので、此処有明海沿岸は熊襲(狗呉)の本貫地でありますので、

王家にも可なりの熊襲の血が流れている事が解かります。

しかし、天皇家は如何も、自分たちは熊襲(狗呉)とは考えては無いようです。記・紀では『熊襲』『犬』と蔑視した表現を使っており、此の疑問を今日は考えてみようと思います。

 

 

わたくしは、『息長氏』のルーツは『海棠槙人』さまが述べられています、沖縄(おきなが→おきなわに変化)の『翁長氏』(おきなが→おながに変化)と考えており、製鉄技術を齎した『天御影神』の先祖は南方経由で来ている。と考えていましたが、内倉武久さまの説でも『古代製鉄』は越方面経由で来ている。と考えられるとの事。記紀に出てくる『天御影神』の先祖は多分、南方経由で来たものと考えられます。

鹿児島県では、磯長氏(息長氏)が認められ、カルフォルニアワインを開拓した磯永彦輔(長澤鼎)は鹿児島市出身で、息長氏と考えられます。天御影神の先祖は鹿児島~串間市辺り=曽於郡が本貫地で有ったろうと想えます。

その後西暦107年に須佐之男命が息長(磯長)氏を始め九州各地のリーダーであります反対勢力を後漢(洛陽)に生口として献上したものと考えられ、洛陽には倭人町があった、と考えられます。

洛陽で世代を重ねた息長氏は後漢の豪族『氏』(漢民族)の援助を受け出世したものと想われます。

氏』の発祥は黄河の南の河南省で、此処河南省に洛陽もあります。後漢時代後期三国志の有名人は袁紹袁術が居り、袁術の父の袁逢や其の父にあたる袁湯が有名であります。漢民族では『氏』は名門で、遠祖は五帝のひとり『』に遡る。と謂われております。

天御影神と娘の息長水依比賣命及び『氏』達が倭に遣って来ているものと考えられます。

田主丸で生れた『日子坐王』の妃であります『祁都比賣命』は渡来人の『氏』のの入ったと考えられ、ひょっとしたら『息長水依比賣命』と同一人物かも知れません。(天御影神は『氏』を名乗っていたのかも知れません。)

また、第26代継体天皇は古事記には『本杼』(おほど?)と述べられ、『氏』の末裔を感じます。天皇家には漢族『氏』の血が這入り、熊襲(狗呉)との差別化が行なわれたものと考えられます。

 

 

 

 

 

 

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崇神天皇は西暦258年10月に景行天皇に殺された。(倭の大乱第3幕)と考えられます。

2015-05-11 | 古代史

下照比賣命は玉垂宮にて開花天皇との間で崇神を儲け、和邇氏と高木神への怨念復讐を崇神に託します。

開花天皇は、一方で『木綿の院』(由布院=橿原の宮)から田主丸に進出して居た和邇氏の意祁都比売命(おけつひめのみこと)=竹野姫を娶り、第一子の彦湯産隅命=彦坐王を儲けています。

此の兄になります彦湯産隅命=彦坐王は、崇神に執っては母(下照比賣命)と祖父(大國主命)祖母(多祁理比賣命)の仇である高木神と其の一派の和邇氏であり、如何しても許せなかった人物と察せられます。

 

此れが、彦坐王が田主丸より移動して、崇神の居る久留米市玉垂宮より遠くに離れています(勝山黒田~苅田)みやこ郡辺りに『都』を構えた原因の一つと考えられます。

 

もう一つの要因は、高天原(由布院=橿原の宮)に棲んでいた卑弥呼であります宇那比媛(宇奈岐日女命)(建田氏≒尾張氏≒和邇氏)が、西暦238年魏への卑弥弓呼(崇神)との不和での調停依頼で西暦240年に苅田~田川(鷹羽)に遣って来たと考えられます天御影神とその娘であります息長水依比賣命です。

熊本県菊池市に在ります狗奴國が呉を後ろ盾にしており、其れと組んだ崇神(狗古智卑狗)が有明海~博多湾の物部氏の強力な軍事力をもって、苅田市登美能那賀須泥毘古(とみのナガスネヒコ)=彦坐王=孝霊天皇を攻めますが、攻め切れません。高木神・和邇氏派の登美能那賀須泥毘古(とみのナガスネヒコ)=彦坐王=孝霊と卑弥呼(宇奈岐日女命=宇那比姫)は魏に難升米と都市午利を派遣して助けを求め(西暦238年)、親魏倭王金印紫綬を受領します。

魏志倭人伝では、正始元年(西暦240年)に大守弓遵が答礼使として、建中校尉『梯儁』(たいしゅん・ていしゅん)等を倭に派遣し『倭王』に拝仮したとされています。わたくしは、此の『倭』に派遣をされた(中に居た?)のが、以前に須佐之男(帥升王)が倭から後漢に生口106人の中の末裔の息長氏(天御影神)であったと考えています。此処に出てきます『倭王』とは、『彦坐王』(長髄彦)であった。と推察出来ます。

京都、東寺に有ります高野大師行状図画には、天御影神は『魏の大臣』と記入されており、須佐之男が以前に生口として後漢に献上した狗呉のリーダーの末裔息長氏が倭語との『通訳』と『魏の大目役』として、『調停』を兼ねて遣って来たものと想われます。

 

 天御影神については、その後の考察にて、息長水依比売命が秋永水依比売命で有れば、秋永の発祥の地は田川郡大任町。隣町と謂う地理的条件から香春神社の辛國息長大姫大目命と同一人物と考えられ、『大目』の発音は、当時はオオメでは無くて、ウズメ(鈿女)と呼んでいた(百嶋氏研究より)このことから、ゆふいんの『高天原』で、天女の舞をして、八百万の神々を喜ばせた『天鈿女アメノウズメ』とは辛國息長大姫大目命の事であることが判明し、豊玉姫=市祁島姫=龍神姫=多祁理比売命=弁天さま=豊受大神が同一人物であることが分かったのであります。豊玉姫=市祁島姫=龍神姫=多祁理比売命の父は須佐之男命で有りますので、秋永水依比売命(息長水依比売命)の父は天御影神、即ち須佐之男命=豊玉彦=竜王=海人族の王と理解できます。

須佐之男命(天御影神)は魏から任命された大臣=倭王であったと考えられます。帥升王は須佐之男命では無くて、百嶋氏研究より、博多湾の白川伯王が帥升王と考えられます。

 

呉(隈氏族)との関係があります崇神(卑弥弓呼)は西暦234年(甲寅)12歳時に塩土翁=博多の大幡主命=神御巣日神の話を聴き『東征』を決意します。筑後の久米将軍を立て安曇族・狗呉族と伴に博多湾から船で出発して、苅田町近衛の丘辺りで(古事記では孔舎衛坂となっています)衝突が起きたものと考えられます。

海路で失敗した幼い崇神は豊後杵築熊野から賀茂建角身命(八咫烏)の案内で、陸路にて山国町吉野を通って一旦久留米へ帰ります。途中に和邇氏の本拠地浮羽~朝倉がありますが、巧く帰還したものと考えられます。

倭(北部九州)は崇神派(久留米・有明海沿岸・博多湾沿岸)と彦坐派(苅田・香春・行橋・朝倉・田主丸・浮羽・小城・武雄)に分かれていたと想われ、崇神の本拠地久留米(城島=師木=磯城)でも、兄弟でどちらに味方するかが、分かれていたものと思われ、兄磯城・弟磯城が対立し、弟が兄を崇神に密告し殺します。

物部安曇族も真二つに分かれて、伯仲していたものと考えられます。

 

崇神二度目の遠征は、福永晋三さまの研究の通り、若宮~鞍手方面より、攻めます。

辛うじて防御して危機感を感じた卑弥呼と彦坐王は、魏から『倭の大目』として(『梯儁』=天御影神と想っています)遣って来たと考えられます天御影神の娘であります息長水依比賣命を西暦240年以後に娶ったと想われます。

魏の後ろ盾を得た勝山黒田の彦坐王に対して、崇神はもう一度攻めます。

が、攻略は出来ず小康状態が続きます。

其処に、近畿に渡った開花天皇の兄であります大彦命から彦坐王に対して、『兄弟喧嘩をせずに近畿~中部東海~関東を治めた自分の下に来なさい。』との知らせが有ったものと勘繰られます。

将来も、弟との戦が続くのに嫌気をさした彦坐王は、後ろ盾の卑弥呼(宇奈岐日女命)も248年頃に亡くなっており、息長水依比賣命の父である天御影神の勧めもあり、西暦251(辛未)年近畿に移住を下したものと想えます。天御影神は近江に、彦坐王と息長水依比賣命は奈良県纏向に住み着いたものと考えています。

 

 

福永晋三さまの研究では、神武(崇神)は、最初は海路にて行い、その後に陸路にて二度行なっており、筑豊鞍手~田川~豊前犬ヶ岳辺りを徘徊している模様で、如何も『香春一の岳(香春神社があり)・二の岳・三の岳』周辺(勝山黒田も含む)が『やまと』だそうです。わたくしも同感で、一致しております。

崇神(神武)は日本書紀に拠りますと、辛酉(しんゆう)の年に橿原宮にて即位した事になっていますので、わたくしの説にての解釈は、西暦241年(辛酉)に、倭国の任命権(実務の『王』を宣言出来る)を持っています卑弥呼(宇奈岐日女命)が居た、木綿の院(由布院)に安心院方面から遣って来て、卑弥呼に即位認証を迫ろうとしたものと考えられます。

卑弥呼であります宇奈岐日女命(宇那比姫)は和邇氏と関係がある尾張氏であり、彦坐王の後ろ楯でもあり、非常に窮するものと想われます。推測ですが、宇奈岐日女命は木綿の院(由布院)から避難脱出して、大分市の東院(とい)に隠れたものとも考えられます。

根拠は、わたくしの説では、大分は神武(崇神)に対して快く思っていない『層冨県(そほのあがた)の波多丘岬の、新城戸畔(にいきのとべ)』(わたくしの説では大分市錦町)や、『臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのおかさき)の猪祝(いのほふり)』(わたくしの説では大分市明野葛木)が棲んでいた場所であり、勘注系図に有ります葛木の高田姫(宇那比姫=宇奈岐日女命の兄であります建田背の妻)は此処の出身と想われます。(高田橋があります)此処は尾張氏・海部氏・津守氏の本貫地であります。

卑弥呼(宇奈岐日女命)が居なくなった木綿の院(橿原宮)=王都を占拠した崇神(神武)は(西暦241年)即位を一方的に宣言したものと想われます。

 

崇神は即位宣言の前に、和邇氏の本貫地朝倉~田主丸~浮羽も掌中に収めたものと想われ、即位宣言後の崇神8年10月(西暦245年10月)筑後國高橋邑(太刀洗町上高橋の)の『活日』(いくひ)に酒を造らせ、和邇氏の本貫地高橋邑(老松神社)で宴を催し、大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)(大國主命)を祀らせて酒を献上させ、祖父の大國主命への感謝と、平和が何時までも続く事を祈願しているものと考えられます。

 

『此の神酒は、我が神酒ならず、倭成す、大物主の、醸みし神酒、幾久、幾久。』

 

木綿の院(由布院)=(葛城の室の秋津嶋宮)には、往還があったと考えられ、滞在して(日本書紀巻3では神武31年夏4月と記されています)(西暦256年頃)、有名な腋の上の『ホホマの丘』(福万ふくま山)での言葉を残しています。

 

『あなにえや(何んと素晴らしい事であろう) 国を得つる事は 内木綿の 真狭き国ではあれど 蜻蛉(あきづ)=(トンボの事)の臀呫(となめ)=(交尾)をするが如し(盆地が細長くて、山々が連なっている様子)』の感慨の言葉を発しています。

 

また、古事記には『彦太忍信命』が、木綿の院(由布院)に居たと考えられる木(杵築)國造の祖、『宇豆比古命』の妹である『山下影姫』を娶り、『武内宿禰』を生んだと述べていますので、(由布院には山下湖があり直ぐ傍の小田の池周辺から弥生~古墳時代の鏃が出土しています。)『大杵社』(木へんではなく、禾へんで、オオゴシャと呼びます。)には、樹齢数千年の天然記念物の大杉があり、この社では椎根津彦=宇豆比古命を祀っています。『武内宿禰』は由布院で生れたのかも知れません。

 

西暦251年頃、彦坐王(長髄彦)が近畿に移住して『倭』から居なくなり、崇神(神武)は久米将軍の勧めにて安心院の妻垣神社(足一騰宮)の多祁理比賣命の末裔で有ったと考えられます莵狭津比賣(媛蹈鞴五十鈴比賣命)を娶ります。遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)が莵狭津比賣で有ったのかも知れません?

その後の崇神は、宇佐公康さまの『古伝が語る古代史』の通り、その後は安岐の市来島に移り二人の男子{宇佐都臣命(宇佐稚屋)と御諸別命}を儲け、其処にて亡くなった。とされています。わたくしの考察では崇神は西暦258年に亡くなっているものと考えられ、二人の男子は西暦253~258年頃に生れた事が解ります。

崇神の子であります宇佐都臣命が伊予の越智宿禰女常世織姫を強奪して、生れましたのが宇佐押人で、此の宇佐押人と叔父であります御諸別命が、後の戦で息長帯比賣命(神功皇后)と武内宿禰との間に出来た誉田別命を破り、近畿纏向(?)軽?(香春)の豊明宮にて応神天皇として即位した事になっています。

 

宇佐公康さまの『古伝が語る古代史』では、『神武の兄が景行天皇である。』と述べられており、此れをどの様に理解するか、これまでは理解不能の謎でありましたが、漸く解明できたようです。

『神武が崇神である。』のであれば、『崇神の兄は彦湯産隅命=彦坐王』であります。

 

『古伝が語る古代史』では、『景行』が『彦坐王』で有ると謂う事を述べていることになります。

 

日本書紀には次のように景行の事跡を述べております。

 

熊襲が九州で叛き征伐のため、景行12年8月に纏向を出発し豊前國京都郡勝山黒田に行宮を設けて10月に豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅して、11月に日向国に這入っています。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げます。日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町三ケ敷と考えています)で六年過ごし、18年3月に都へ向け出発し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(熊本県葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年9月に近畿纏向に帰還します。

 

わたくしの解釈は、『豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅した』の条項は、豊後国杵築で崇神を殺した。と謂う事になります。

2014年5月14日のブログ『何んと!!!杵築市には1000を越える夥しい古墳が在った』で述べていますが、此れは西暦258年10月頃に彦坐王が崇神にリベンジに遣って来て討ち果たしたもの考えられます。

その後、崇神は杵築の小熊山古墳に埋葬されたもの考えられます。

 

 

 

 

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古事記にある『ひな振り』(不定型の歌)から読み解かれます、『玉垂命』の名前の由来。

2015-04-28 | 古代史

わたくしの、秋永氏が福岡県田主丸以真恵に代々居たのは、由布院(木綿の院)にルーツする和邇氏(天足日子国押人・宇那比媛・建田背・建諸隅)にあり、(古事記では)意祁都比売命(おけつひめのみこと)=(日本書紀では)姥津媛命(ははつひめのみこと)=竹野媛が田主丸(竹野に『善院』の地名と三明寺『井の丸井戸』が残っています』に棲んで居て、福岡県春日市(須久・岡本遺跡あり)から若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)との間に彦坐王=彦湯産隅命が生まれ、田川(鷹羽)香春神社にルーツがあります、息長氏(秋永氏)の息長水依比賣命と結婚して、その後福岡県みやこ郡勝山黒田~苅田辺りに拠点を造り棲んだものが、秋永氏(息長氏)の初めと考えています。

彦坐王には義理の弟(母は伊迦賀色許売=下照姫と考えられます)がおり、御間城入彦(みまきいりびこ)と謂って、久留米市大善寺城島(しき)=師木の瑞垣宮(玉垂宮)で育ったものと考えられます。(根拠に挙げていますのは玉垂宮傍の『天皇屋敷古墳』です)

 

此の二人を仮説として、倭の歴史を北部九州にて論を組み立てますと、記・紀に述べられています、高天原・須佐之男・天照大神・大國主・多祁理比賣は九州での存在が繋がり、欠史八代の王達も九州にて存在を考えられる事になります。

 

元々九州には、中国の『周』に繋がる三苗(狗呉)の人々が何度も大陸から沖縄~奄美~南九州~北部九州に渡って来て、棲んで居たと考えられ、当然リーダーであります『王』も存在をしていたと想われます。

古事記では、第二代綏靖天皇は師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)を娶ったとして、師木津日子玉手見命(第三代安寧天皇)を産んだとしています。その安寧も師木県主の波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)を娶った事に述べられています。

わたくしの説での『師木』とは、久留米市の『城島(しき)』の事で、『波延(はえ)』は、福岡県みやま市高田町『飯江(はえ)』と考えられ、此処有明海沿岸は隈氏に代表されます狗呉豪族が各所に居て、紀元後に新羅経由で遣って来た天孫族は盛んに婚姻を通して、融和を図ったと想われます。

紀元107年頃に天孫族の帥升王(須佐之男と考えられます)が武力によって各地の狗呉のリーダー達を捕らえ、後漢へ106人もの生口を献上(ルーツである中国へ送り返したものと想われます)しております。

此の生口の中に、沖縄の『翁長氏』に繋がる『息長氏』が居たものと考えています。後漢の王は洛陽に日本人町を造り、居住させていたものと考えられます。その後、後漢は西暦220年『魏』に禅譲されます。

 

倭(北部九州)では、須佐之男の行為に対しての、狗呉族の反発(敵対行為)に天孫族は困り、須佐之男を倭(北部九州)から追放して狗呉との融和をして、治めようとします。

倭を追放された須佐之男は曽尸茂梨(ソシモリ)経由で島根県出雲に落ち着き、現地の豪族の『八岐の大蛇』を滅ぼし、天叢雲剣(あめのむらくもけん)を高天原(由布院塚原)の天照大神に献上します。

此の天叢雲剣は記・紀ではニニギ尊に天降り時、手渡された。と述べられていますが、ホツマ伝では、カンタチ(神産巣日神)の子、フキネが大穴持(大國主命)の事で、フキネの妻がサシクニワカヒメと述べられており、フキネが天叢雲剣を持って居て、ツクシ(筑紫)を治めており、弟の豊祇彦(とよつみひこ)=(少彦名日子命)が豊(とよ)を治めていたと述べられています。

サシクニワカヒメの刺國とは福間~宗像地方を意味している。と思われ、多祁理比賣命の事を指していると考えられます。

古事記では天之冬衣神(フキネ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)の子が大國主になっており、母の刺国若比賣命が八十神からの迫害を逃れる為、大國主を連れて高天原(由布院)の神産巣日神(少彦名日子命も一緒に居たのもと考えられます)を頼って行き、以前に須佐之男が居た地であります豊後杵築で豪族として居た、大屋毘古命(五十猛神)に匿って貰いますが、追ってきた大勢の八十神(和邇氏)が大屋毘古命に大國主の引渡しを求めますが、船にて逃がして、伊予を経て出雲の須佐之男の地へ辿り着きます。伊予國『風土記』逸文では、大國主命が少彦名日子命を速見(別府)の湯を運んで生き返らせた。とあり、

 

此の大國主派と高木神(和邇氏)派の争いが『倭の大乱第1幕』であろう。と考えています。

須佐之男は、出雲にて櫛名田比売命と結ばれ、須勢理毘売命が生まれます。此の須勢理毘売命を大國主命が娶り、出雲に居着こうと決意します。多祁理比賣命が(此のお方は、須佐之男と天照大神との間に高天原(由布院町塚原)にて生まれた後、安心院経由で宗像の沖の島にて巫女をした後、筑紫を治めていた大穴持と結婚し、迦毛大神=阿遅鋤高日子根神と下照比賣=高比賣命=御井神=木俣比賣を産みます)、夫の大國主命が家に寄り付かないので、失望して下照比賣命を木の俣に挟んで倭(北部九州)へ帰ったとの伝承があります。

多祁理比賣命は、国東半島の奈多宮(市来島)に上陸の後、安曇族宇佐氏により、安心院の妻垣神社に匿われ、高木神と和邇氏の眼から逃れたものと考えられます。

 

母から出雲に置き去りにされた下照比賣命は、大國主命の国譲りの二番目使者であります『天若日子命』と結婚をしましたが、高木神(和邇氏)の刺客に依って、就寝中に殺されます。下照比賣命の悲しみの泣き声は風に乗って高天原(由布院)まで届いたと記されています。葬儀の喪中に下照比賣命の兄の味鋤高彦根命が遣って来て、死人である『天若日子命』が生き返った。と間違われた事に腹を立て、十掬(とつか)の剣にて喪屋を壊すのでありますが、古事記では、高媛=下照比賣命(妹)と味鋤高彦根命(兄)の登場の条項に『ひな振り』(不定型の歌)が挿入され、次のように述べられています。

 

(稗田阿礼の誦習)「そして、アヂシキタカヒコネが怒って飛び去った時に、同じ母をもつ妹ごのタカヒメは、その名を明らかにしなくてはと思うたのじゃろうの、こう歌うた。」

 

あめなるや おとたなばたの

うながせる 玉のみすまる

みすまるに あなだまはや

みたに ふた渡らす

あじしきたかひこねの神ぞ

(訳)

高天の原にいます 若い織り姫が

首にかけたる 玉の首飾り

その首飾りの 穴玉よ、輝くごと

深い谷を 二つまたいで輝きわたらせる

アジシキタカヒコネの神にいますぞ

 

(三浦佑之訳 口語訳 古事記より)

 

わたくしには、『玉垂命』の名前の由来は古事記に述べられています、「首に掛け垂らしたる 玉の首飾り」から引用されたものと考えられ、下照比賣命を指している証拠と考えられます。

 

、『伊迦賀色許売』(いかがしこめ)については、固有名詞の名前とは考えられず、伊迦賀(いかが)と(しこめ)に分けて解釈しますと、伊迦賀(いかが)は『如何』と謂う疑問形を表し、色許売(色謎命)は『謎の美女』と思われ、『謎の美女』とは誰の事でしょう。の意味に解釈されます。

 

下照比賣命はその後、母(多祁理比賣命)を慕って倭(北部九州)へ帰還したものと考えられ、師木(城島)の玉垂宮にて玉垂命(伊香色謎命)として祀られる事になったものと察せられます。

大善寺玉垂宮(水沼君=水潴=三潴郡)から久留米市北野大城の赤司八幡宮(道主の貴=豊比=多祁理比賣命と想われます)を通って安心院の三女神社・宇佐の大善寺・宇佐神宮への往還が長く執り行われていたのは、親子の愛の証拠と考えられます。

 

 

 

 

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神武天皇は崇神天皇と同一人物であり、東征の本質が解明されました。

2015-04-11 | 古代史

宇佐公康氏『伝が語る古代史』に依ると、神武天皇の墓所は『安芸(国東安岐)の市来島宮(八幡奈多宮)の傍の弥山(みせん)に埋葬した』の伝承と、わたくしの考察での崇神天皇の墓所(小熊山古墳)の位置が合致しており、此れは神武天皇と崇神天皇が『同一人物』である証拠と考える事ができます。

と、謂う事であれば、『神武東征』は『崇神東征』である考える事が出来ます。

崇神天皇は、博多湾から安曇族と伴に北九州苅田市富久町(とみひさまち)(3世紀造営の石塚山古墳あり)に居た登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)と戦った。と考える事が出来ます。

(崇神時代の)当時、此処苅田から勝山黒田に居た那賀須泥毘古(長髄彦)とは、わたくしの説での考察では、崇神天皇の兄弟であります『彦坐王』(彦湯産隅命)=孝霊天皇であります。

記・紀で述べられています『東征』とは、『彦坐王』(彦湯産隅命)を倭(九州)から近畿へ追い遣る戦いであった。と捉える事が出来ます。

神武は戦いでは長髄彦には勝てず、古事記では宇摩志麻遅が長髄彦を殺して終決した事になっていますが、長髄彦は安日長髄彦(あびながずねひこ)とも考えられており、生き延びた。との伝承があるようです。

『彦坐王』(彦湯産隅命)=長髄彦は近畿纏向に渡り、孝霊天皇として大彦命の後の大王になったものと想われます。

 

わたくしは、神武東征は『彦坐王』(彦湯産隅命)が以前に棲んで居た勝山黒田の地『やまと』を日葉酢姫が産んだ兄弟四人で、長髄彦から奪還した第12代景行天皇の時代の熊襲退治の事跡であろう。と述べて、神武は四男の若木入日子命の事と考えていましたが、之は間違いで、記・紀の神武東征の記述の本質は、崇神時代(3世紀中頃)の『彦坐王』との戦(倭の大乱第2幕)である。と結論着ける事に訂正致します。

 

 

 

 

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大水口宿禰から導かれます崇神天皇陵(小熊山古墳)

2014-12-08 | 古代史

豊後国東半島の『六郷満山』を旅したお方は、挙って「歴史の古さを体感した」とおっしゃいます。わたくしも同感で、日本の歴史の原点を感じ取れます。

杵築市・安岐町・国東町・豊後高田市には夥しい古墳や遺跡・遺構があり、宇佐市には宇佐八幡宮が鎮座しています。

わたくしの考えでは、崇神天皇が杵築市の『小熊山古墳』に、成務天皇が『御塔山古墳』に埋葬されて居るものと想われ、平成26年11月20日晴天の下、伺う事にしました。山辺の道で案内標識が整備されていなくて困っていたところ、後から来た車を止め、小熊山古墳への道を尋ねました所、其のお方の家の前に小熊山古墳があるので、後について来る様との経緯で簡単に辿り着けました。親切な20代と思しき青年に、手帳を渡してお名前を書いて頂きました。小熊山古墳や御塔山古墳は未整備で、一般の来訪者には、わかり難いと思われます。杵築市の整備が望まれます。別府湾を眺めおろす小高い山に造られており、雑木林の向こうに穏やかな別府湾の海が見え、心の休まる良い場所でありました。

帰宅後、手帳を眺めますと、水口博貴さまと記入されていました。わたくしは驚きました。日本書紀の崇神紀7年8月7日条項に『大水口宿禰命』が登場していたからです。

 

ウィキペディアには、

系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。

『新撰姓氏録』では、伊香賀色雄の子とも、神饒速日命の六世孫とも伝える。

一方、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では出石心大臣命(いずしこころのおおおみのみこと、饒速日尊三世孫)の子と記され、系譜に異同がある。なお、同書では伊香色雄命(伊香賀色雄)は饒速日尊六世孫とされる。

記録条項には、

大水口宿禰は倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。

また、同書垂仁天皇25年3月条では「一云」の中で、倭大神が大水口宿禰に神憑り、倭大神を祀ることを告げたことが記されている。

 

と述べられており、

如何も、大水口宿禰は『祭祀を司る行為』つまり神官を行なっていたものと感じられます。

 

大水口宿禰は、『崇神期』と『孝霊期』に存在が述べられており、二人の大水口宿禰が居た事になり、亦、新撰姓氏録には大水口宿禰を伊香色雄命の子としており、系譜上に関しては、研究者を悩ましていますが、仮に、わたくしの説であります「孝霊は彦坐王である」を採用して考えれば、崇神と彦坐王は兄弟でもあり、『孝霊期』に登場するのも時間軸は合致し、納得が行きます。

わたくしは、伊香賀色謎命が下照比賣命の事で、玉垂命でも有った。とも述べており、その子が崇神であり、伊香色雄命と伊香賀色謎命は兄妹とされており、新撰姓氏録の記述を信じれば、崇神と大水口宿禰は従兄弟(いとこ)であった。と考えられます。

 

 

わたくしは、水口博貴さまと『大水口宿禰』は関係があるのでは???と考えられ、もしも水口氏が古来より杵築の小熊山古墳近くで棲んで居たのであれば、崇神天皇の存在の可能性が一段と増すことが考えられ調査を行なう事にしました。

平成26年11月25日午後0時由布院を出発。1時間程で小熊山古墳前の水口博貴さま宅に着きました。父親の水口士郎さまが居られ、何時頃から此処に御住いかを訊ねました処、小熊山に入植して登って来たのは第二次大戦の終戦後でありますが、其れまではすぐ下の海辺の位置に代々棲んでいた。現在親族を含めて水口姓は4~5軒ありますが、水口本家の若者は都会へ出て老人は亡くなり、現在は誰も居ない由。水口士郎さまの親族の『水口博継』さまを紹介され、話を伺いに行きました。

『水口博継』さまのお宅は八幡奈多宮から1キロ程離れた狩宿海岸に在りました。明治時代から棲んで居たのは間違い無いが、江戸時代以前の事は解らないので、菩提寺である安岐町の最広寺の過去帳で調べてくださいとの言。家紋は両家とも『橘紋』でありました。

八幡奈多宮前を通って塩屋交差点先の隣の安岐町まで足を延ばしました。最広寺に着くころから雨が落ち始め、最広寺に着いて生憎の外出中?

 

住職とも遭えず残念な想いで帰り始めました。せっかく来たので、途中に在った市杵嶋岩礁で有名な八幡奈多宮に参って帰ることにしました。

此の八幡奈多宮宇佐八幡宮とも関係が深く、古来は宇佐八幡宮の八月の薦枕『行幸会』の最終地にされていました格式の高い宮であり、キリシタン大名で有名な大友宗麟も、奈多宮の大宮司である奈多鑑基(なたあきもと)の娘を正妻にしています。

 

シトシトと雨が落ちる中、海岸の松を中心とした林の砂道を300m程歩き、社殿前に着きました。社殿の先瓦は菊の紋でありました。参拝を終えて社殿周辺を散策。社殿に向かって左手側に田道間守命(多遅麻毛理)の碑が在りました。

此の田道間守命は、崇神の子である垂仁天皇に命じられ、常世の国(海外)に渡って10年かかって『非時香菓』の実(ときじくのかぐのこのみ)=『』(たちばな)の枝を持って帰りますが、垂仁天皇はすでに亡くなっており、悲しみのあまり『橘』の枝を皇后垂仁に捧げて亡くなったお方で、戦前の唱歌にも成っていて、天日槍の子孫とされて兵庫県但馬國のお方と考えられています。

 

天日槍はアカル姫を追って倭に遣って来たお方で、(アカル姫は豊後国東半島の姫島に隠れた。と考えられています)田川(鷹羽)の息長大姫大目命とも関係がある。とも考えられ、後に但馬國(兵庫県)に居ついたとされています。多分但馬國田道間守命の出身地と考えられます。

 

此の但馬國は、実は古事記に於いては、『彦坐王』と田主丸の『袁祁都比売命』(おけつひめ)との間に生れた『山代之大筒木真若王 』( やましろのおおつつきのまわかのみこ)の子、『大多牟坂王』(おおむさかのみこ)が『多遅摩國造の祖』と記されており、如何も此の息長氏の『大多牟坂王』が『田道間守命』の事かも知れません。多分その様に考えられます。

 

垂仁は、嘉穂出身の狭穂姫を失った後、彦坐王の子である丹波道主命(田主丸か田川郡大任町の出身で後に近畿に渡ります)と由布院(木綿の院)川上出身の川上麻須女の間の女子四人を娶り、その『日葉酢姫』から大足彦忍代別天皇(景行天皇)が誕生しています。

この大足彦忍代別天皇(景行天皇)は景行12年の熊襲平定の折、祖母川上麻須女の出身地である由布院を訪れて、速津媛命(兎狭津媛=媛蹈鞴五十鈴比賣命)に天御中主命を祀るように命じています。

景行天皇の弟である若木入日子命彦狭島命の事であります。豊城入日子命の子である八綱田の子。との記紀の記述は間違いか捏造と考えられ、記紀では神武天皇の東征の業績も捏造されており、研究者を悩ましています。

 

杵築市の産物は『杵築みかん』で有名です。『橘』とはみかんを指している。とも考えられ、菓とは当時は果物の事を指していたようです。

みかんは『キシュウみかん』が最初とされ、此れは和歌山県の紀州の事である。と考えられていますが、国東半島の杵築(紀州)から福岡県立花町(山川みかん)へ安曇族が齎したものとも考えられます。その後、熊本・佐賀・山口・愛媛・和歌山・静岡等へ広まっていったと考えられます。

しかし、みかんの前は『』とされ、日本には在来の橘があり、魏志倭人伝によると酸味が強く食用にはされておらず、不老長寿の薬草を求めて田道間守命は常世の國へ渡った事になっていますが、垂仁は、食用に出来る外来種を求めて、田道間守命に託したものとも考えられます。

 

わたくしは田道間守命の像を見て、先ほど訪れた水口家の家紋『』を思い出し、関係があるのでは?と感じられ、一段と期待感が増して来ました。何とか水口氏が古代より国東に棲んでいた事を証明したい願望が湧き出て来ました。

 

辺りを、皿を嘗め回すように注意深く観察していきました。社殿の外に、造営寄付金の石碑があり、大勢の方のお名前が刻字されており、わたくしは、水口氏が気に為り水口の名前を探しました。すると、高額寄付の初めの方に『水口忠宏』さまが目に留まりました。上には何んと『宮司』と刻印されています。わたくしは驚き、一刻も早くお会いしてお話を伺おうと、1キロ位杵築寄りの『水口博継』さまのお宅へ再度伺い、成り行きを話しました。

親族ではないが、奈多宮の先の安岐町塩屋地区にお住いの方で、この間まで奈多宮の『宮司』を為さっておられた由。電話番号を教えていただき、電話を掛けました処、言葉使いに上品な奥様が御出でになられ、夜に帰られるとの事。一旦自宅に帰って電話を掛ける事に致しました。

 

受話器の先に聞こえる『水口忠宏』(みなくちただひろ)さまの声は、上品な穏やかさがあり、見識を持たれた人柄の良さを感じうけました。

水口家は、自分で43代目に当り、鳥羽天皇の時代に神官として仕えて、奈多宮の宮司は4代前の忠吉―忠次―忠公―忠宏と続いて来た由。父の忠公(ただたか)は宇佐神宮の神官も兼ねて居た由。現在棲んで居ます塩屋地区から少し離れた処に小字に山口と下山口が付いた地があり、元は其方で棲んで居たものと考えられるとの言。

亦、昔は国東~安岐~杵築地区は安岐郷(あきのごうり)と呼んでいたと教えて頂きました。家紋は『双葉葵』との事。

 

わたくしは、受話器を置いた後、古墳マップを開き安岐町~国東町の古墳を調べました。下原古墳・心月寺古墳・熊野社古墳・塚山古墳・北浜古墳・塩屋条里遺跡・荒巻古墳・・・等々数多くの遺跡を確認し、年代の古さを確認しました。

大矢口宿禰命と大水口宿禰は兄弟とされ、『矢口』と『山口』の地名は何か関係があるとも勘繰られます。

 

わたくしは、『大水口宿禰』の本貫地は(滋賀県水口町では無くて、)豊後國国東安岐郷山口であったと確信しました。そして、天孫族の本隊は此の国東半島に最初に上陸したものと考えられます。

やはり、小熊山古墳は崇神天皇が眠って居られる可能性が高いようです。

 

 

 

 

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古代史編年 その2 (広開土王碑に刻まれた『辛卯』の解釈は、西暦331年が正しい。と考えられます)

2014-11-05 | 古代史

次の若帯日子天皇(成務天皇)は八坂入姫命から生れて、(日本書紀では)景行14年から成務60年6月11日とされ、此れは、景行の期間が60-14=46(23年間)成務の期間は60年の半分の30年間、何故か景行と同じ、合計で53年の生涯です。(西暦371年)

しかし、古事記には、成務の没年は『乙卯』と述べられており、この干支を西暦で考えますと295年か355年に成り、仮に355年に亡くなったのであれば16年の差(長生き)があり、古事記を信じれば、成務は37歳位での生涯であった。と想われます。改めて、成務の生存時期を考えてみましょう。

 

景行は最初に皇后にしたのは、播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおおいらつめ)であります。若建吉備津日子女(わかたけるきびつひこめ)とも呼ばれ、彦坐王(孝霊天皇)の子であります吉備津日子命の子とも考えられます。三人の男子を儲け、次男と三男は双子で生まれており、三男が小碓皇子(日本武尊)です。

小碓皇子(日本武尊)の子が第14代の仲衷(帯中日子天皇)に成ります。播磨稲日大郎姫は早く亡くなったものと考えられ、景行は、その後に崇神の孫であります八坂入姫を皇后にして、毎年のように12名の子を儲けて、その長男『若帯日子皇子』(成務)を後継者にします。

順番的には小碓皇(日本武尊)子の次に生れてきたのが、若帯日子(成務)であると考えられます。仮に1歳の差と考えますと成務の誕生年は西暦283年と捉えられます。(同じ年月日に生れたのが建内宿禰です。)

仲衷(帯中日子天皇)は、『日本武尊』と『両道入姫命』(垂仁の娘)が儲けた子の次男であり、生存年を推測致しますと、日本武尊は西暦282年に生れて西暦312年頃に亡くなったお方と考えられ、仲衷(帯中日子天皇)は、日本武尊の17歳頃に誕生した。と仮定しますと、西暦299年頃の誕生になります。

ウィキペディアでは、仲衷は、成務18年~60年、仲衷9年2月6日没とされ、二倍暦で考えますと25歳~26歳で亡くなっています。仲衷が25年生きたと考えれば仲衷の崩御は324年頃と想われます。

此れは、成務が355年に亡くななるのには、不可思議さが伴いますが、考察の一つには、西暦320年頃『成務』は病に倒れ、仲衷への禅譲が行なわれたものとも解釈を考える事が出来ます。

 

もう一つの解釈では、

成務は建内宿禰と生年月日が同じで、父で有る景行天皇は建内宿禰を成務に仕えさせますが、宇佐公康氏の伝承では『成務』は子が無ったとされ、生存期間は短ったものと考えられます。

恐らく10歳前半にて亡くなったものと思われます。建内宿禰はその後仲衷に使えます。仮に、成務が12歳(西暦295年)で亡くなったとすれば、日本武尊も景行天皇も存命中であります。此れをどの様に解釈するかを問われます。

わたくしには、成務は妃を2人娶っていますが、皇后は娶って居らず、若くして亡くなっているのもと感じられます。亦、後を継いだ仲衷(帯中日子天皇)に付いた建内宿禰は景行・成務・仲衷・応神・仁徳の五王に仕えたとされ、成務と仲衷は若く亡くなったものと考えられます。

仲衷は長戸國(下関)から香椎宮に移し筑紫~筑後の『従わない熊襲(狗呉族)』退治をしますが、仲衷(帯中日子天皇)は西暦324年頃突然亡くなります。

その後(324~325年頃)、息長帯比賣命(神功皇后)と一緒する建内宿禰は(大善寺『高良廟』貝塚古墳に埋葬されている。と考えられます下照姫=伊香賀色謎が孝元天皇との間にて、生んだ『彦太忍信命』は、建内宿禰の祖父になりますので、まだ久留米市高良台周辺か佐賀県武雄市で生存して居たとも考えられます。)熊襲退治(甘木の羽白熊鷲・八女の田油津媛)の後、

 

西暦331年建国したばかりの新羅遠征を狗呉族と伴に行い、従わせます。

 

一般の研究者は、神功皇后の新羅遠征を『広開土太王碑』に刻まれています書の第1面の8行から9行にかけての、

 

『百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民』

 

(訳)   高句麗は、かつて百済と新羅を属民とし、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は辛卯(かのと・う)年よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□して、百済と新羅を臣民とした

 

(東京大学教授 早乙女雅博著 広開土王碑の拓本 より転写させて頂きました)

 

という刻字があります。

 

辛卯』(かのと・う)の解釈を、晋書の高句麗『好太王』(西暦374年~412年頃)の即位時期であります西暦391年に求め、神功皇后の征韓時期との整合を図るために、(固持付けて)西暦391年を導いて解釈し、疑いを持っておられませんが、

わたくしの『辛卯よりこのかた』は『西暦331年よりこのかた』と解釈され、「而」(しかして、しこうして)の解釈が為されていません。

 

わたくしの古代史編年方式では、西暦331年が神功皇后の新羅遠征の時期に導かれます

研究者は『辛卯』の解釈であります『西暦391年』の再検討の必要を感じます。

 

神功皇后と建内宿禰は倭(北部九州)での地位を固めて、近畿へ攻め上り、香坂・忍熊両皇子を殺し、天下を暫く治めますが、蜂起した東國15カ国の王『御諸別命』と『宇佐押人』軍が息長帯比賣命(神功皇后)と建内宿禰・品陀和気皇子の軍に戦いを挑んで破り、西暦335年頃、近畿纏向豊明宮にて宇佐押人『応神天皇』として即位したものと考えられます。

『応神天皇』(宇佐押人)(生存年は西暦306年頃~西暦394年頃の88歳)は、『崇神』の子『豊城入彦命』の孫とされています(わたくしには?マークが付きます)『彦狭島王』が(このお方の業績が神武天皇の業績、『神武東征』に『記・紀』では置き換えられています。景行天皇の弟である若木入日子命である。と考えられます)『宇佐津臣命』と『御諸別命』を儲けて、『宇佐津臣』が四国伊予の越智氏の娘『常世織媛命』を奪い、生ませたのが、『応神天皇』に為った『宇佐押人』であります。

『応神』は和邇氏全盛の纏向で生きるには、『和邇氏』と『彦坐王』の血縁が必要と考え、『仲姫命』(なかつひめ)と妹の『弟姫命』(おとひめ)、和邇氏と考えられます『高木入日賣命』(たかきのいりひめ)、和邇氏の『宮主宅媛命』(みやぬしやかひめ)と妹の『小甂媛命』(おなべひめ)『息長真若中比賣命』(おきながまわかなかつひめ)を娶る事で、地位を磐石にします。

『息長真若中比賣命』(おきながまわかなかつひめ)の生んだ、『若沼毛二俣王』(わかぬけのふたまたおう)が、後の26代継体天皇に繋がる高祖父であります。

 

後に、第48代称徳天皇(764年~770年の間の即位)が『道鏡』を天皇にさせるべく、和気清麻呂を『宇佐神宮』の宣託伺いに上がらせるのも、応神天皇の出身地が豊後『宇佐』で有ったからでありましょう。

 

『応神天皇』は古事記では『甲午』(きのえうま)に亡くなったとされていますので394年頃崩御したものと想われます。

 

杵築に居た、『八坂入彦命』(『大海媛』と『崇神』の間の子)は岐阜県可児市に渡り『八坂入媛命』を生み、この八坂入媛が景行天皇の皇后に為って『成務天皇』を儲けます。

此の『成務天皇』は(乙卯)年3月15日に崩御したと古事記にあり、『沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)』に御陵を造ったと述べております。

これは海辺の近くが想像され、由布院塚原に在ります『霧島神社』には『成務天皇』が来訪の伝が残っており、(『大海媛』・『崇神』・『八坂入彦命』と、『縁』が有ります)杵築市に在ります御塔山古墳』は『成務天皇』の墳墓かも知れません。考慮の必要を感じます。

西暦295年頃に(12歳位)亡くなったものと考えられます。

 

中国の史書(晋書・宋書)に表された西暦413年から502年の『倭の五王』(讃・珍・済・興・武)は、九州王朝(狗呉王朝)の王と考えるべきでしょう。

 

 

 

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古代史編年を試みる。その1 (高橋氏の本貫地は筑後國御原郡高橋邑。から推測出来ます崇神天皇)

2014-10-24 | 古代史

九州での『豊鍬入姫命』の意志を継いだのが『垂仁』と『日葉酢媛』の子であります『倭媛命』で有ります。『倭媛命』は近畿纏向で生れ、近畿一円を廻り、日本書紀に拠りますと垂仁25年3月『丙申ひのえさる』(西暦276年)(垂仁12~13年頃と考えますと西暦271年に勘定され、5年の差が出ます。)天照大神を三重県の伊勢に祀ります。

 

垂仁は24歳の時(西暦259年頃)狭穂姫と結婚し、26歳~27歳(垂仁5年=垂仁2~3年)で狭穂姫を失い、喪があけて、その後日葉酢媛と外3名を娶ります。

景行(大足彦忍代別命=次男)の誕生は垂仁31歳頃(西暦266年頃)(彦座王46歳位)と考えられ、当時としては晩い子造りであった。と考えられます。

ですから、九州で熊襲が叛いた時、(景行12年=景行6年)(22歳で皇太子になって6年後の28歳時と捉えます。)(西暦294年頃)景行は7年(三年半)も九州に滞在して、日本書紀では「日向の高岡宮」に六年滞在(3年位)した。と記入されて場所の特定が為されていませんが、此の「高岡宮」は、わたくしの解釈では高良山から高良台にかけての場所の事であろうと、思われます。

高良山(高良台)に行宮を造り、狗呉の娘?『襲武媛』(そのたけひめ)を娶り、『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)=『水沼の君』に任じます。外2人の都合3人を儲けて『狗呉族』の押さえ込みを図っています。

しかし、句呉族同士での争いも起こっていたと考えられ、西暦367年には、佐賀市大和町川上峡の、同じ句呉族と考えられます『桜桃沈輪』(ゆすらちんりん)が、大善寺(師木)の玉垂宮(瑞垣宮)を占拠して、隈氏(狗古智卑狗)は高良山に1年程退避してその後368年に『瑞垣宮』を取り返しています。西暦248年に遣って来た魏の使者一行も、この高良山から高良台辺りに滞在をしていたものと考えられます。曲水の宴を行なった痕跡が認められた御井町辺りが候補として考えられます。

 

景行19年(景行9年半)に纏向に戻り、景行20年(景行10年頃=西暦298年頃・景行32歳位)日本武尊(小碓命16歳)に佐賀県の川上タケル(狗呉族)の討伐を命じます。(小碓命は、西暦282年頃の生れと考えられ、双子の弟です。小碓命誕生の時の景行は16歳、垂仁47歳・彦坐王62歳位と考えられます。)

日本武尊は川上タケル討伐の後、出雲タケルを討ち(古事記のみ)、纏向へ帰りますが、東国の遠征を命じられ、伊勢で天照大神を斎祀していた叔母である倭姫命から『草薙剣』を頂いて遠征します。最後は三重県亀山市の『能褒野』(のぼの)にて30歳で没したとも述べられています(日本書紀)ので、此れを信じますと日本武尊は西暦312年頃の没で有ります。此の時期は景行の年齢は46歳位が考えられ、垂仁(77歳)や彦坐王(92歳)はもう亡くなっていたと考えられます。

日本書紀では、『景行天皇』は景行60年まで生きたと述べられ、二倍暦で考えまして30年間と仮定しますと、西暦318年(53歳)の生涯であったと想われます。

 

日本書紀では、景行53年10月に日本武尊を偲んで「小碓が平定した東国(関東)を見てみたい。」と船にて、皇后の八坂入媛命や磐鹿六雁命(孝元天皇の子であります、大彦命の孫になり、筑後國御原郡高橋邑、現在の三井郡太刀洗町高橋区の高橋氏の祖とされています)等を連れて東國視察を2ヶ月間しています。(日本で最初の観光団体旅行?)とも考えられます。

磐鹿六雁命は蒲を襷に掛け、白蛤(うむき)と鰹(かつお)の、なます料理を出して景行ほか皇后の八坂入媛命が大層喜び、『膳大伴部』に命じられます。)磐鹿六雁命は褒美に『若狭國造』に任ぜられ舞鶴市『高橋郷』の地名が残っています。

此の高橋氏は垂仁か、景行と伴に近畿纏向に渡り、奈良市に『高橋神社』を残していますが、磐鹿六雁命は、後年は筑後國御原郡にて生活をし、亡くなったものと考えられ『屋主太忍男武雄心命』が宣命使として景行天皇から派遣されています。

筑後川の南岸の田主丸(和邇氏)地区に『鹿狩』(ろっかり)区が在り(むつかり→ろっかり)に為った。と考えられます。

高橋』の語源は『高倉』に掛けた『梯子』からとされ、此の御原郡は筑後川の氾濫に苛まれ、穀物倉庫として、高床式家屋が必需であったものと考えられます。

 

この筑後國御原郡高橋邑は、崇神8年10月に高橋邑の『活日』(いくひ)に酒を造らせ大田田根子に『大神』(おおみわのかみ)=大國主命を祀り、宴を持った場所でも在ると考えられます。此処は太刀洗町『上高橋』に在ります『老松神社』での祀りと宴であったと思われます。此処の本殿左手には、『大己貴命』魂石を祀っています。

下高橋区に在ります『竈戸神社』は、後に、大蔵氏が『高橋邑』に遣ってきて『高橋城』(平城)を築いた跡地とされ、此処は筑後平野の中心に位置しており、遺跡が多くある由。

之の高橋邑の日本書紀崇神紀8年10月項の記述は、わたくしの説(崇神は下照姫命の子であり、久留米市城島の玉垂宮=師木の瑞垣宮に棲んで居た)の裏づけと成る。ものでもあります

 

景行55年2月5日には、宇佐島(由布院~安心院~院内)に居た『彦狭島』に(景行天皇の弟の『若木入日子命』の事で、記・紀では彼の業績が神武天皇の東征の業績に置き換えられています。『彦狭島』の生存年は大方西暦270年頃~西暦315年位の45歳没が考えられます。)東国15国の王に命じていますが、『彦狭島』は赴任途中で亡くなり、翌景行56年8月に『彦狭島』の子である26歳位であったと考えられる『御諸別命』が(生存年は西暦290年~西暦350年位が考慮できます)東国15カ国の王として命じられて、大勢、『宇佐島』や『愛媛』から関東へ赴いて往っています。

 

 《その後の考察による追補》

景行は彦坐王=彦湯産隅命のことで有ります。福岡県田主丸の和邇氏竹野姫と開花天皇の間にて、西暦220年頃に誕生して、田川=鷹羽の地で西暦240年頃息長水依比売命=辛国息長大姫大目命を娶り、田川~行橋~苅田町を中心に倭を治めて居た人であります。記紀に於いては神武東征での長髄彦命と述べられ、捏造されています。

久留米の城島=シキの瑞垣宮=玉垂宮で、大国主命と多祁理比賣命=市来島比賣命の間の娘であります下照姫=伊香賀色謎命が、春日市須久の若倭根子日子大毘毘命=開花天皇との間にて御真木入彦命=後の崇神天皇を儲けます。

此の崇神が腹違いの兄である彦坐王が居た田川~行橋黒田~苅田を西暦234年(甲寅)に攻めます。海路で1回、陸路で2回試みます。之が記紀ではヤマトの地を奪う『神武東征』に為っており、和邇氏親族尾張氏の宇那比賣命=宇奈岐日女命=由布院=高天原に居た卑弥呼が崇神派の優勢で大分市東院(トイ)に避難した後、高天原であります木綿の院=由布院=橿原宮にて崇神=神武が西暦241年(辛酉)即位を一方的に宣言したものと考えられます。宇奈岐日女命=宇那比姫は西暦247~248年に亡くなります。

長髄彦=彦坐王は、西暦248~250頃近畿に渡って孝霊天皇として中国地方を主に活躍し、251年景行天皇として近畿纏向にて即位します。その後西暦258年(戊寅)8月=景行12年8月に崇神を討って国の統一をする為に倭(九州)に遣って来ます。

行橋黒田に行宮を作り、木綿の院(由布院)の宇奈岐日女命の後継者の速津姫に崇神の情報を伺い(宇那比姫の兄の『建田背』若しくは『建宇那比命』の子が『建諸隅命』で、『大海姫』は『建諸隅命』の姉若しくは妹で、『崇神』の妻に為って杵築市で暮らしていた。と考えられます。此の『大海姫』が『宇佐津姫』で有ったろう。とも、考える事が出来ます。

速津姫から情報を聞いた景行は杵築で崇神を討ち、その後は熊襲(崇神の後ろ盾)を誅し、崇神の本拠地の城島=シキの玉垂宮近くの高良台で数年(6年?若しくは半分の3年?)暮らして国乳別皇子の他2人を儲けて、纏向に帰りますが、数年後には佐賀県川上峡の和邇氏(彦坐王の出身地田主丸と同属別れ)と考えられます川上タケルが叛乱を起こして、景行の子である倭タケルが派遣され収めます。

 

 

 

 

 

 

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