「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

再び、彦狭島王に挑む。(第7代孝霊天皇は彦坐王であった。と考えられる。)

2013-03-16 | 古代史

頭を冷やして、再び二人の『彦狭嶋命』に挑みます。

『姓氏』ばかりを考えては正史に辿り着けない事が解り、今回は別の手法で挑む事にしました。その手法とは、記紀と是まで付き合ってきまして、解った事は、双方とも可なり捏造がなされており、その度合いでは日本書紀の小細工が眼に付くようです。例えば、最近では、神八井耳命が綏靖4年に亡くなった。の条項です。古事記の叙述と整合が取れず、明らかに捏造された事が判ります。

そこで、今回は『古事記』と『日本書紀』を照合して不自然さがあるお方を重点に考えを深めてみました。

前回のブログにて挙げました第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇・第9代開花天皇までの記述で、怪しいと感じられますのが、彦坐王であります。日本書紀では「詳細」は全く触れておらず、古事記だけの記述であります。是には何か、述べたくない意図的なものを感じます。

彦坐王は第9代開花天皇の第3子と述べられ、九州から近畿に渡り、陸耳御笠(くがみみのみうけ)と匹女(ひきめ)退治で有名なお方で、四道将軍として有名な「丹波道主命」の父であります。

 

ウィキペディアには、「彦坐王」を、

 

稗史によれば、彦坐王は※1「美濃」を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は「美濃」のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。

時代は下るが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫と称する ※2但馬国造家流れを汲んでいる。

(※1 此の美濃は、田主丸町川会邑=建角身命が瓊瓊杵尊から賜った國 の前に横たわる耳納連山を指しています。傍には崇神の長男豊城入彦命の豊城の地名が在ります。日田の美濃から久留米市御井町高良山迄を指しています。)

 (※2 此の場合の但馬タジマとは、日田の田島タジマ『高躬氏一族』=『稲荷神』を指しています。)

 

と、記入されており、わたくしは驚きました。{ブログの切っ掛けとなった耶馬溪の雲神社の秋永勝彦さまの先祖は、応仁の乱(1467年~1477年)時、若狭から武田氏と伴に豊前に遣ってきています。当時九州に受け皿が無いと不可能であったと考えられ、親族縁者が居たと想われる。として武田(建田)と秋永(息長)の古来よりの関係が窺われます。}

わたくしの説での解釈によりますと、『美濃』の場所は我が秋永(息長)家が代々在った吉井~田主丸から久留米高良山まで屏風の様に東西に横たわる耳納連山の『みの』と考えられ、常陸は武田氏、甲斐も武田氏が考えられ、伊勢・近江・山城・河内・大和には息長氏(秋永氏)が考えられ、若狭は武田氏・息長(秋永)氏双方の存在が考えられます。

越前朝倉氏については、2012年10月4日の『その後の天忍穂耳命の行方。』のブログにて述べています様に、『朝倉』の発祥は近畿の『但馬』では無く、筑前『甘木朝倉』である。として、彦湯産隅命が竹野媛と伴に田主丸『善院』に認められる。と述べており、

 

このウィキペディアの記述を読めば、彦湯産隅命と彦坐王が重なる事になります。

 

しかし、母親の名前が違っており(和邇氏の姥津媛・古事記では意祁都比賣命)彦坐王は香春町から大任町秋永(息長)周辺にて生まれ(此処は遠賀川の田主丸~吉井に当る地域です。)、その後耳納平野に来て河川・治山工事等を行ったものと想われます。

田主「丸」と和邇氏の印が付いているのに合点がいきます。

しかし、竹野姫も和邇氏の元祖とされる「天足彦国押人命」の(義理の)甥(建諸隅命)の子に当り、和邇氏の集落(田主丸~吉井)に棲んでも理解できます。

天孫族の本体である「高木神」(=高躬結び神)を祀る朝倉高木邑黒川とも向かい合っており、間には耳納連山に沿って東から西へ筑後川が流れており、下流の有明海河口部には安曇族の大川市「榎津」の造船施設があったものと、想われます。

 

田主丸の「片の瀬」地区は古来より、筏場の宿地として有名でありました。

ひょっとしたら此処が、中大兄皇子が遣って来た『泊瀬』かもしれません。

筑後川と小石原川の合流地点で、近くには川の『瀬』が在り、磐鹿六雁命イワカムツカリノミコトが棲んでいた。と考えられる鹿刈ロッカリ地区が、唐島秋永地区傍に在ります。

此処が川会邑(ホツマツタエの記述の『カワイの國』と考えられます。)

此処田主丸~吉井が和邇氏の本貫地であったとも考えられ、日子国意祁都命や意祁都比賣命(彦坐王の母)が棲んでいて、此処にて「彦坐王」が生まれたとも考えられます。多分その様であったと考えられます。

そう謂うことであれば、日本書紀の巻6・垂仁天皇・「狭穂彦王の叛乱」条項には、

 

「道主王」は第9代開花天皇の孫にあたり、「彦坐王の子」である。あるいは、「彦湯産隅王の子」ともいう。(日本神話の御殿より転写)

 

と、曖昧に述べられています条項が理解出来ます。

「彦坐王」・「彦湯産隅王」どちらも田主丸~吉井で生まれて居る事になります。

 

と、謂うことであれば、田主丸~吉井で育った「彦坐王」は大任町秋永(息長)から息長水依比賣命を娶り、丹波道主王・水穂之真若王・神大根王(八瓜入日子王)・水穂五百依比賣命・御井津比賣命を儲けている。とも考えられます。

その根拠は、2011年11月18日と11月25日のブログにて、述べています様に、御井津比賣命は久留米市の御井町朝妻(この朝妻の名は伯耆地方の孝霊天皇伝承にも「朝妻姫」として出て来ています。)

わたくしは、

此の『朝妻』にて、雄朝津間稚子宿禰オアサズマワクゴスクネ=第19代允恭天皇インギョウが、『曲水の宴』を催したものと考えています。

従って、子の第20代安康天皇、弟の第21代雄略天皇も秋永地区近くに棲んで居たものと考えています。

水穂之真若王と水穂五百依比賣命は熊本県益城郡益城町秋永にある『秋永の石棺』に存在を考えられる。としており、

今回の水穂之真若王は、近淡海の「安直の祖」と記されて、現在の比定地は滋賀県の野州と考えられています。

近くの三上山の御上神社には息長氏元祖と考えられる天之御影神を祀っており、琵琶湖の竹生島には息長水依比賣命の事と言われる弁財尊天も祀られており、近江息長氏の本拠地でもあり、一般には此処で在ろうと考えられています。

しかし、わたくしの考えでは、当時の孝霊天皇は九州行橋勝山黒田に居られ、息長氏の本貫地は苅田町から香春町・大任町秋永であったと考えられますので、近淡海とは、淡水と海水が交じる筑後川下流域=磯城=久留米・朝倉の『夜須』(筑後平野)を指しています。

また、この「彦坐王」と「息長水依比賣命」の時代(時間軸)では、田主丸と大任町秋永に存在を考えられ、未だ近畿には移動して居なかったとも思われるからです

水穂之真若は甘木朝倉の『夜須町』にも存在を考えられる事になりました。近くの筑前町四三島(しそじま)には4世紀後半の前方後方墳で有名な「焼ノ峠古墳」があり、之が水穂之真若王の墓とも考えられます。この「四三島(しそじま)」の名は、筑後川が、当時暴れ川であって、何本もの川となって中洲を作り流れていた証。と考えられ、近くにも「八丁島」の地名があり、『近淡海の「安」の直』の場所は筑前の『夜須』で有りましょう。

 

そうしますと、「孝霊天皇」・「彦坐王」・「天之御影神」の時間軸が問われます。「孝霊天皇」・「彦坐王」・「天之御影神」三方の時間軸が一致しなければなりません。どの様に解釈すれば良いのでしょうか。

この三人を検証する事にします。

 

滋賀県の御上神社の由緒書(社記)によりますと、「天之御影神」は孝霊6年6月18日に三上山に降臨されたと記されていますので、この時期に行橋(勝山黒田)から、孝霊天皇と伴に近畿に渡ったものと考えられ、当然娘である「細媛」である息長大姫大目命も一緒に往ったものと考えられます。

しかし、滋賀県近江には息長大姫大目命の痕跡・伝承は無く、在るのは、息長水依比賣命の伝承です。これは如何解釈すれば良いのでしょうか、

2011年11月12日のブログ「秋永氏探求から紐解く息長古代史6」では息長大姫大目命と息長水依比賣命は姉妹と謂う解釈をしていましたが、別の解釈として今回は、この二人は同一人物と考えて思考を進めますと、第7代孝霊天皇と彦坐王(ひこいますのみこ)は同一人物であると結論着けられます。

 

「細媛」を古事記では、十市県主の祖である大目の娘。と記していますが、

日本書紀では、最初は「大日本根子彦太瓊」(第7代孝霊天皇)の母親「押媛」を「これは天足彦国押人命の娘であろうか。」と疑問調の記述をされており、その後「細媛を皇后とした。あるいは春日の乳早山香媛とも、十市県主等の先祖の一族の真舌媛ともいう。」と曖昧に述べており、

はっきりと伝承をはしておらず、その前の第6代孝安天皇の条項でも同じようになっています。

次の孝元天皇の欄、母親の項にて、「細媛」を、「今度こそ磯城県主の娘である。」としており、(古事記では十市県主の祖である大目の娘。と記されています。)

いい加減な(伝承が曖昧と解る)記述になっております。

 

(わたくしには、第8代孝元天皇より以前の天皇の伝承は、ハッキリとは解ってはおらず、曖昧さが窺われます。

初代と記される神武天皇の条項は明らかに記紀編纂時に第12代景行天皇の兄弟の業績を繰り上げ、トップに持って来て、克明に描写をするが如く、述べています。この辺の疑念を研究者の方々は放置しています事は、真に残念で古代史の本当の姿を明治時代の「天皇勅許」のまま、放置することになっております。

神武天皇の正しい時間軸の位置と場所を確定する事が正しい歴史の第一歩と思えます。その鍵は宇佐公康さまの伝承と日本書紀に記入されています嗛間丘(ホホマのおか)での神武天皇の言葉であります。)

 

もし、この二組の二人の(第7代孝霊天皇と彦坐王・息長大姫大目命(細媛)と息長水依比賣)お方が同一人物であれば、三人の時間軸が整合し、人的関係を残し、納得できます。

孝霊天皇が娶った「細媛」は「息長水依比賣命」であり、彦坐王の娶ったのも「息長水依比賣命」と謂うことであり、孝霊天皇と彦坐王が重なる事になり、天之御影神との関係も整合する事になります。

 

彦坐王が何時近畿に渡ったかは不明でありますが、後年、久留米市大善寺玉垂宮の「崇神天皇の命」を受けて、息長水依比賣・山代之大筒木真若王・丹波道主王と一緒に田主丸若しくは大任町大行事秋永辺りから「孝霊天皇」として近畿に渡ったと想われます。

(孝霊天皇の勝山黒田と大任町大行事秋永は距離的に近く、後世に、彦坐王が孝霊天皇と呼ばれたものとも想われます。)

そして二人の実在時間軸は彦坐王側に在ると考えられ、第7代孝霊天皇は、実績の捏造・若しくは実在しない事を考える事が出来、第7代孝霊天皇時代の「彦狭島王」は編纂者の捏造であると考えられます。

わたくしには、第7代孝霊天皇時代の彦狭島王を何故に記入したのかの疑問が残り、考えてみました。何と無く記紀編纂者の良心の呵責を感じました。「此処が捏造をしている場所ですよ。後世の人解りますか。」と聞こえてくるようであります。

 

第7代孝霊天皇が存在しないと考えますと、神武天皇から5代前は第6代孝安天皇時代となり、宇奈岐日女命と重なり、時間軸が整合致します。「天照大神」は170~240年代のお方であると考えられます。

 

そして、田主丸川会邑唐島秋永地区に存在する秋永(息長)は彦坐王と息長水依比賣の末裔であるとも考えられます。

 

 

 

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安本美典さまの卑弥呼(天照大神)を考える。

2013-03-09 | 古代史

わたくしが棲んでいます由布院には天照大神や宇奈岐日女命・速津日女命(媛踏鞴五十鈴媛命)・萬幡豊秋津師姫が住んでいたと考えられますが、宇奈岐日女命は宇奈岐日女命神社にて認める事ができ、速津日女命は金鱗湖の天祖神社にてその痕跡を認められますが、天照大神と萬幡豊秋津師姫は全く認められません。萬幡豊秋津師姫は天之忍穂耳命と一緒に朝倉~彦山方面に移動したものと考えられ、納得出来ますが、天照大神は何故か町内の何処にも痕跡が無いのです。之は不思議であります。

 

安本美典さまと仰る、高名な古代史家が居られます。安本氏はまず、何天皇の時代であるかの論証を、統計を用いた『世紀別天皇平均在位年数』や『中国』・『西洋』の王との比較在位を調べ、初代神武天皇から現在までの『天皇の代と没年』のグラフを表して、検討され、グラフの延長線での神武天皇(初代天皇の意味)は西暦280年~290年、卑弥呼(239年頃)は天照大神に考えられる。と考察され、また、『神話のなかの地名』を拾い出され日本の各地域に振り分けられ、西海道と山陰道が圧倒的に多い事、畿内大和郷と筑前夜須町の地形と地名の酷似の疑惑の考察、弥生時代の九州での人口の分布、遺跡と遺物の数の比較検討、等々の実証統計学の論証で、邪馬台国は九州の甘木・朝倉辺りに在って、その後『地名』と伴に近畿に移動した。と謂う『邪馬台国東遷説』(邪馬台国九州説)を採られて卑弥呼に迫られており、『邪馬台国とは天照大神のいた場所である。』『「古事記」「日本書紀」では、その場所は「高天原」となっています。この高天原とは邪馬台国の事が神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。』

と述べられ、数多くの支持者を抱えられており、わたくしも、この科学的な(研究者の主観を入れてない事)論証の手法は無視出来ないと考えていましたが、わたくしの、息長氏探求による古代史考察では、239年頃の卑弥呼は、時間軸にて天照大神ではなく宇奈岐日女命である。との結論に至ったので天照大神を退けましたした。が、最近は此の『天照大神が卑弥呼である説』『甘木・朝倉が天(海人)の中心地であった』考えは、高木神が由布院から朝倉に移動して棲んでおり、的を射ており、正しかったと考えています。

安本美典さまは関東にお住いの様でありますが、善く九州を研究され、甘木・朝倉を発見されたと関心致し、その論証の手法が正しい事を確信しました。

 

最近のわたくしの頭の中では、宇奈岐日女命が天照大神を祭祀していたと想われるからです。

 

天照大神の本体は太陽神であり、天(海人)族を照らし繁栄を司る神であったと考えられ、宇奈岐日女命の本体は天照大神を祭祀する巫女であったと考えられます。それであれば、由布院には宇奈岐日女命の痕跡が在っても、天照大神の痕跡が無いのが理解できます。

と、謂う事であれば、『宇奈岐日女命』と『天照大神』は同時代のお方と解釈できます。一般の研究者からは、荒唐無稽な考え方と思われましょうが、わたくしには、荒唐無稽とは考えられないのです。

記紀には神武天皇の5代前に天照大神が居たと述べられているからです。神武は景行の時代のお方であります。景行天皇から5代遡りますと第7代孝霊天皇の時代になり、第6代孝安(日本足彦国押人)や天足彦国押人に繋がり、宇奈岐日女命とも繋がるのです。

そして、宇奈岐日女命は、別名『天造日女命(あまつくるひめみこと)』と呼ばれており、天(海人)を造った日女と解釈出来、『天照大神』の別称が考えられるのです。

 

 

 

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安曇氏と八面大王について。

2013-03-04 | 古代史

前回のブログ以降、頭に混乱が生じました。暫く彦狭島から離れます。今回は安曇氏のお話です。

日本人のルーツは海人族とされ、海を渡って来ている人々であるとされています。その代表格でありますのが、志賀之島にある『綿津見(海)神社』の宮司を代々受け継いでおられます阿曇さまや家具で有名な大川市にあります神功皇后所縁の『風浪宮』の宮司の阿曇さまであります。この阿(安)曇族は渡海技術に優れた集団であったものと考えられています。全国に痕跡を残しており、山形県温海町・福島県熱海町・新潟県関川村安角・富山市安住町・石川県志賀町安津見・静岡県熱海市・岐阜市厚見・愛知県の渥美半島の『渥美』・滋賀県高島市安曇川町・兵庫県一宮町安積・米子市安曇、等長野県に在る『安曇野』も安曇族が住み着いて名付けられたとされ、最近は各地の安曇氏を集めての『全国安曇氏サミット(金印シンポジウム)』なるものを開催して安曇氏のルーツ探しが行われています様ですが、

わたくしの説での考えでは、『安曇』のルーツの本拠地は間違い無く『安心院(安曇)で在ったろう。』と為ります。

天孫族本体が最初に上陸をしたと考えられる地点は苅田町から中津~宇佐国東~別府湾大分辺りと考えられ、特に国東半島の奈多宮は比賣大神が上陸した地である。とされ、この比賣大神は多祁里比賣命のことであり、安心院に在る三女神社や妻垣神社と関係を考えられ、之は、高天原(由布院)に居られた『天之御中主神』・『天照大神』・『高御産巣日神』・『天三降命』とも繋がり、亦、宗像神社・志賀海神社・風浪宮に繋がり、理に適います。

天孫族は豊前~豊後に上陸後、斥候を使って、倭の各地の様を調査し、外洋を航海出来る造船条件(木材の確保・木材運搬の河川・潮の満干の大きな潟の確保)の揃った地を探し、これに適した大川市『言奴気子(榎津)』にて、外洋船の建造をしていたものと考えられます。此処が風浪宮の事で、神功皇后が征新羅後、少童尊(住吉三神)を祀る為、訪れた場所と謂われています。近くの八女市から矢部川のクリークが風浪宮(榎津)まであり、造船の為の木材を運搬するために、早くから土木工事をしたものと考えられます。しかし、此処には『隈さま』に代表される少数派の『狗呉族』が以前から棲んでおり、大層、天孫族は気を使っていたものと考えられます。

亦、北九州の遠賀川周辺でも造船を行っていたものと考えられ、弥生時代と思われる箱式石棺の中や周辺から鉄族の『鑓鉋(やりかんな)』が数多く出土しています。遠賀川中流の彦山川今任近くには『伊加利(いかり)』の地名も残っており、遠賀川を利用しての木材運搬と造船が下流域にて盛んに行われていたものと考えられます。

 

志賀海神社は倭への入国税関と言って過言無く、通過する船は此処にて検閲を受けていたものと考えられます。天孫族はこの地を確保する事で交易(鉄・銅・綿・絹・家畜・奴卑等)の利権を確保し、入国者・物の選別をしたものと考えられます。

 

安曇族の本体は安心院(宇佐)に在った事は謂うまでもありません。

論拠は、近くに在る『母なる山』と崇められています『八面山(はちめんざん)』別名、箭山(ややま)であります。

この地から、大型外洋の造船に適した大川市の『榎津』や北九州遠賀川~宗像周辺に移動した安曇族の一部は『八面山』を偲び、八女(八面)の地名を名付けたものと考えられます。その後、安曇族は北陸・近畿・東海・関東等、全国に散らばります。

長野の安曇野では『八面大王説話』が伝承され、このお方は『八女の大王(やめのおおきみ)』の事であろうと考えられています様ですが、宇佐安心院出身の『八面大王』であった。とも可能性を考えなければならないでしょう。

 

 

 

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