「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

何んと!!!杵築市には1000を越える夥しい古墳が在った。

2014-05-14 | 古代史

わたくしは、囲碁を打ちませんが、囲碁がお好きな方に伺いますと、囲碁で大切な事は『大局』を見る眼であると述べられます。之は『一事が万事』で、遥かなる古代を考える上でも同じ事であると思われます。

(研究者全員がその時代に遡り、同時に視て確認しない限り)完全なる証拠は在り得ず、現象である遺物を眺めたり、伝承を信じたりして「多分、想であろう」を元に歴史は語られている訳ですが、学者は往々にして「木を見て森を見ず」の感があり、現象面を重要視する余り、想像力を持ち合わせて居られない方が多いようです。

近畿説では納得の行く論理の繋がりが有りません。例えば『神武天皇の東征』の解釈であります。

(日本書紀では)神武天皇は難波から生駒山を越えて大和を目指したと解釈されていますが、その解釈によると、途中生駒山近くで長髄彦の軍と遭遇し、長男の五瀬命が矢傷を負い退却します。

その時に五瀬命が『われは日の神の御子と謂われているが、日(太陽)に向かって戦をしたのが良くなかった。この後は日(太陽)を背にして戦をしよう。』と述べて船にて南に向かい廻り込んだ血沼之海で傷を癒した後、更に船にて進み廻りり男之水門(おのみなと)にて亡くなるのですが、

近畿説では難波から生駒山へは、西より東へ行軍した事になり、太陽に向かって戦をしたとはとても考えられません。この事だけでも近畿説は矛盾が生じており、研究者を悩ましています。

亦、神武天皇が倒れた熊野の解釈は、紀伊半島和歌山県田辺市本宮の熊野本宮大社附近と解釈され、八咫烏が天(高天原)より遣わされて、此処熊野から奈良県吉野を通って大和の長髄彦の処へ行った事とされています。

しかし、多くの研究者の間にて八咫烏を遣わした天(高天原)の位置と元々八咫烏の居た場所の解釈が、論理上で疑念が残り、(疑いが)晴れていません。

血沼之海の(チヌマノウミ)の解釈は、地名であろうとして、大阪府和泉市辺りを古くは「チヌ」と呼ばれていた伝承があると考え出され、チヌは「茅渟」や「血沼」とも書かれる事で、ここら辺りの海を指すものと近畿説の研究者は信じて来ました。

しかし、確たる証拠は無く、古事記には船が廻り込むと述べられており、この辺りの解釈の説明が成されていませんし、地図上でも符合しません。

其れに対して、わたくしの『神武天皇の東征』は九州であった説では、神武天皇(その後の考察にて、崇神天皇の事)は北九州市小倉南区朽網辺りで

(古代は白肩の津とか難波と表現していたものと考えています。)

古事記に於いては、白肩の津に着いた時点にて北九州市登美の長髄彦軍が攻撃して来て、防戦の為上陸し楯を並べて、矢を防ぎますが五瀬命が矢傷を負う事になっています。

日本書紀にては、難波(朽網)から上陸して南下し、福岡県京都郡苅田町近衛ヶ丘(孔舎衛坂と書かれています。)にて矢が飛んできて五瀬命が傷を負い、

此処で、五瀬命が『われは日の神の御子と謂われているが、日(太陽)に向かって戦をしたのが良くなかった。この後は日(太陽)を背にして戦をしよう。』と述べた事になり、記紀の記述と合致致します。

退却して船にもどり、南下し、国東半島を廻り込んで別府湾に入り、血の池地獄(温泉)にて傷を治そうとした解釈であります。

此処でも記紀の記述と合致しており、腑に落ちます。

その後、傷が悪化して船に戻り、別府湾をぐるりと回り、大分市鶴崎坂の市の『王の瀬』(男の水門ミナト)にて亡くなり、取り敢えず、石棺にて近くに埋葬し、後に大分県で一番大きな前方後円墳である『亀塚古墳』を造ったものと考えています。

神武天皇(崇神天皇)は、その後、杵築市熊野に上陸しますが、病に臥せります。この場所が日出町大神の愛宕神社辺りと考えられます。

実は、地形的に視ますと、『高天原』である湯布院町塚原高原の北東先端から、日出町や杵築市が眺め下す事が出来、狼煙(ノロシ)を使っての連絡が可能であります。

であれば、高倉下や鴨建角身命(八咫烏)に連絡をするのは容易と考えられ、真実味が増します。

日本書紀にて記述の『名草』の地名も玖珠町森に認められ、遺跡も発掘されており、鏡・勾玉等が玖珠町役場にて保管されています。

丹敷戸畔ニシキノトベは、大分市に敷戸地区が在り、大野川の傍に丹生川が在り、岡遺跡が在ります。

古代王朝近畿説を信じる学者は、記紀の記述を丸呑みにして、『神武天皇の東征』を信じ、自分の頭を使わず、考えず、明治天皇の勅許である橿原神宮を中心に論理を組み立て、無理やりに日本史を構成しようとしていますが、大方の研究者は近畿説に疑念を抱いていました。

邪馬台国が九州にあり、「高天原と姓氏の本貫地が大分県で在った。」と考える事で、歴史の論理が繋がり、九州王朝(倭)が中国~近畿~東海に移動した事は間違いないものと考えられます。

 

 

平成26年4月30日(水曜日)大分県立図書館に行きました。郷土史資料室にて、杵築在住の中世史の郷土史家で在られます久米忠臣さまの著『杵築史私考』昭和48年発行を手にして、文章に眼を遣りますと驚きました。

『千以上ともいわれる、わが杵築の古墳は何を物語るのであろうか。その分布は、奈狩江、大内、八坂に多い。そしてその場所は海岸よりあまりはなれていない、小高い山の平地に多い。・・・』と記述されています。大分県に報告した墳墓の数は109も在る由。

杵築市の観光ガイドパンフレットにも古墳の件は皆目記載が無く、わたくしも杵築市の中心部へは何度も行っていますが、途中、古墳らしき墳墓は見受けた記憶がなく、その数の多さに衝撃を受けました。

翌日久米忠臣さまに電話をし、確認した処、間違いなく在る由。何処かの某先生が調査をされたが、余りの数に飽きられ、調査を止められたとの事。呆れます

杵築の歴史は、九州最古の円筒埴輪を出土した全長130mにも及ぶ、大分県で2番目に大きい前方後円墳と謂われます小熊山古墳(4世紀初頭)や御塔山円墳が有名でありますが、

その外に数え切れない程の古墳が認められるそうです。1394年に『木付氏』が台山(杵築小学校附近)に城を築いたのが史書に現れる最初とされ、其れ以前のことが載っている書物が無く伝承として三河能見の『松平氏』(大屋氏)が覚えていたものと考えられます。

此処杵築が『紀氏』の本貫地である事を認識している人が少なく、増してスサノオや大國主命・少彦名命・多祁理比賣命・賀茂大神(高倉下)・大屋毘古命・鴨建角身命・神武天皇(若木入日子)も繋がっていたとは、誰も想像出来ないでしょう。{神武天皇(崇神天皇)と兎狭津比賣命は安芸(安岐)多祁理宮(奈多宮)で御諸別命を生んで、此処にて亡くなり、弥山(見立山か豊洋小学校横の亀山古墳)に葬られた。と宇佐公康氏の伝承があります。}

 

現在杵築市は江戸時代の城下町を観光の柱として、市長以下職員全員で努力され頑張っておられ、江戸時代の『城下まつり』が大変好評を得て居ますが、是からは古代の『紀氏の故郷、杵築市。』『須佐之男祭』『杵築古墳祭』『大屋毘古命祭』『多祁理宮祭』『神武天皇祭』『賀茂氏祭』も加えることも可能です。

天(海人)族(豊後紀氏)は此処杵築市より全国に散らばったものと考えられます。

 

 

 

 


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