柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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和訳紹介『曼荼羅供記』第三回

2021-05-21 02:12:11 | Weblog
和訳紹介『曼荼羅供記』
副題『前承明門(ショウメイモン)院御周忌【正嘉二年】/報恩院』

第三回 曼荼羅供当日の事

七月五日【壬(ミズノエ)子(ネ)】天晴
早旦に大阿闍梨(憲深)、京の御宿所【鷹司・万里(マデノ)小路。鷹司の南、万里小路の東、棟門は土門なり。】を御出あり。十弟子・持幡童以下の候人は皆御宿所に参ず。宗円は職衆と為(シ)て霊山(・・・・・)に参ぜるが、法印範成の坊より早旦に出立して土御門大納言の亭に参ず。右近大夫(藤原)長隆を招出して仏事の時刻、道場の様等、何様に候うべきやの由、之を尋ね申す。 返事に云わく、正親町院の御分として臨時の御仏事を此の程に修さるべき處、日次無き間、今朝早旦に之を修さるべきなり。御導師は聖憲法印なり。万荼羅供に於いては其の後に之を行わるべし。其の旨を存じて彼の御仏事以後に御所に参じて、道場を荘厳すべし。治部権少輔(平)高兼、奉行人と為る處、所労の事出来せる間、(藤原)高朝朝臣、之を奉行すべし【云々】。仍って退出し了んぬ。次いで大阿闍梨の宿所に参じて此の由を申し了んぬ。
次いで件の(正親町院御分の)御仏事の間、御宿所に於いて持幡童の装束、執葢等の荘厳、之あり。【但し葢に於いては大阿闍梨の御用意ありと雖も、本所に儲けられし間、持参に及ばず。】此の間、御前に於いて非時(の食事)に預り、能々沙汰を致され畢んぬ。

大阿闍梨の召し具さる職衆五口の内、清浄光院大僧都(雅賢)并に俊円・玄慶両阿闍梨は別宿するも、宗円并に憲位阿闍梨は御宿所に参ぜる者なり。
或いは別宿し、或いは御宿所に参じ畢んぬ。
次に奉行人の許より、御仏事は漸く事終わるべし。御出立あるべき由、之を申し送りき。
次いで御仏事は已に事畢んぬ。早く壇場を料理(弁備/仕度)すべき由、重ねて之を申し送りき。仍って預り【常光】の随身、壇・脇机并に道具・唐櫃等を御所に参ず。
次いで宗円は壇行事と為(シ)て御所に参じ畢んぬ。而るに猶御仏事の布施を撤せざる以前なり。仍って先ず集会所(シュエショ)【随身所】に着座して、僧衆の退出を相待てり。
次いで御導師以下退出の後、□中門廊の東沓脱に於いて公卿の座の前を経て南殿(ナデン)に至り、大壇を料理す。其の間に奉行人、職衆を催して参会す。【今度は張文を略されり。】大壇の荘厳畢って、奉行人に其の由を相触れり。
次いで職衆皆参ぜる後、大阿闍梨に案内を申す。大阿闍梨参入の後、公卿着座す。其の後に莚道を敷く。此の次第は先例なり【云々】。仍って奉行人、先ず案内を大阿闍梨に申す【云々】。
次いで大阿闍梨の御輿、門前に進ましめ給える時、職衆は皆集会所より進出して中門の庇□下に列立す。奉行人は大阿闍梨に早く進参せらるべき由、之を催さる。御返答に云わく、莚道を敷きて後に進参すべきなり【云々】。而るに猶又催し申されき。仍って賢尋を以て御使と為(シ)て申されて云わく、大阿闍梨先ず進参して着座する儀は之無く候う。莚道を敷ける後に門前より烈立あるなり【云々】。仍って早くに公卿着座せるも莚道は猶遅々たる間、暫く大阿闍梨と云い、職衆と云い、立ち乍ら之を相待つ。【其の間、審隆法印の聖憲法印に語りて云わく、列には大阿闍梨乗輿の儀、之あるべからざるか。既に輿より下り立てるは如何【云々】。聖憲云わく、列の時に乗輿の儀ありと雖も、存□儀の人は争(イカデ)か門外より直に乗輿すべきや【云々】。此の条は、列の時に乗輿の儀あるべし。先ず駕輿丁等、之あるべし。今度は之無ければ不審に及ばざるか。】次いで職衆の面々の従僧、物の具を堂前の(職衆の)座に置きて【今度は従僧の烈無し】退出す。【此の次第は聊か違例か。従僧の列無きと雖も、先ず物の具を置き、次いで莚道を敷くべきか。】
次に上堂の列。先ず法螺吹き二人【左を以て上臈と為す】、法螺を以て莚道の外の左右に立つ。次に職衆【下臈を前にす。左を以て上臈と為す。香呂を持たず。】、莚道の端に左右に列立す【鐃持ちは鐃□の従僕、之を勤む】。次に持幡二人【左を以て上臈と為す】、玉幡を捧げて莚道の左右の端に立つ。次に大阿闍梨【乗輿無し】、執葢役三人。次に十弟子【左を以て上臈と為す】、左右各(オノオ)のコイトリニ列立す。一臈は居箱(スエバコ)、二臈は香呂箱、三臈は草座、四臈は座具なり。猶従僧・大童子は中門の外に留まる。
次いで職衆は正面の階(キザハシ)を曻(ノボ)り【(左右に)折れ登りて一行】、簀子(スノコ)に群立す。但し正面の間に当たりて散花机を立てられて、其の左右は捷少なる間、列立すること能わず。即ち下臈は前に道場内に進み登りて、各の職衆坐(座)の前に列立す。鐃持ちに於いては便宜能うべからざる間、階下に止まり畢んぬ。仍って職衆は鉢許り之を突く。
次に大阿闍梨の長押(ナゲシ)を登御せしむる時、十弟子は同時に左右の脇より進出して【右は香呂箱と座具、左は居箱と草座】、居箱は左脇机の南端に之を置き、草座は御座(大阿闍梨の座)の畳上に之を敷き、座具は礼盤に之を敷く。【如意は兼ねて右脇机に之を置く。仍って(その)役人は之無し。】
其の後に二人、玉幡を以て大壇の前足に之を結い付く【紙捻(コヨリ)は兼ねて之に付け候いき】。二人は左右に之を扶し立て、今二人して各の之を結い付くるなり。
次に大阿闍梨は香呂を以て三礼す。次に礼盤に着御す。次に十弟子は西の公卿着座の前を経て、南殿と御持仏堂(の間)に候う簀子に着座せしむ。【□□□□】(十弟子の)路次を以て、其の座先例なる由を以て、奉行人の之を示しき。持幡童は幡を進めし後に御宿所に帰る。還列には前以て(道場に)帰参す。次に無言行道【衲衆。下臈前なり。】三迊(ソウ)すること畢って着座す。此の時、讃衆も鉢音を止めて同じく着座す。法螺も同じく音を止む。此の如き間、大阿闍梨は先ず方便畢りて、香呂を以て惣礼(ソウライ)を催さる【聊か御気色(ミケシキ)あり】。其の時、職衆は皆香呂を以て三度礼拝す。次に驚覚(キョウガク)の鈴なり。次いで大阿闍梨は香呂を取る。次に金(キン)二つ之を打つ【金の役は憲位阿闍梨、之を勤む。第八臈なり。】。
次に唄(バイ)【清浄光院大僧都雅賢、第五臈なり。御随身の職衆の一臈なり。】、先ず二句之を唱う。其の間に堂童(子)二人【名字   】進出して花筥(ケコ)を賦(クバ)る。 次に散花の頭【宗円、之を勤む】進出す【法則(ホッソク)は別に在り】。対揚(タイヨウ)畢んぬ。【金(キン)一打】 次に開眼【仏眼真言 丁/大日真言 丁】。 次に表白(ヒョウビャク)。 仏経の尺(釈)。 旨趣。 次に経題を揚ぐ【丁】。次に発願(ホツガン)。 四弘(誓願) 小祈願。 一切諷誦(フジュ)【丁】 次に小読経。 止経の金【丁】 次に諷誦□□□役【玄慶阿闍梨、之を勤む】、先ず諷誦文一通を以て之を(大阿闍梨に)進む。【御所の預り松□ 彼の人、堂下に鐘を催す。】達進(ダッシン)を出す。 次で諷誦文【頼通、重ねて之を奏す】之を進む。即ち前の諷誦文を以て賜りて、呪願を乞う【立って之を乞う】。呪願は職衆の一臈智円法印、之を勤む【立つ】。堂達(玄慶阿闍梨)は其の後に本座に着く。後の諷誦には鐘声を催さずして之を打つ。 次に又堂達は出て諷誦を賜りて呪願を乞う。【智円法印、前の如し。】
次に供養法は例の如し。 神分・祈願等の時に、承仕は鐃を持ちて進出して鐃打ちの前に置く。次いで続香を捻して、燈明を挑(カゝ)げ、本座に着く。
次に勧請(カンジョウ)・五大願・小祈願等【常の如し】。
次に前供養の讃三段【四智(梵語) 心略漢語 次秘讃【一伝の讃なり。助音無し。宗円は此の曲を伝うと雖も、子細あって今度は助音せず。】玄慶阿闍梨、之を勤む。】 次いで普供養・三力の偈畢んぬ【金一丁】。此の時、讃(?)衆は仏眼真言を念誦す。次に振鈴。此の時、又大日真言を念(誦)す。 次に大阿闍梨は散念誦畢って、一字(金輪)の金を催す御気色之あり。此の時に金一丁す。讃(?)衆は一字(金輪)の呪を唱う。 次に後供養 振鈴
次に讃三段【吉慶(キッキョウ)漢語の奥二段、金剛サタ(薩埵)讃、之を誦す。】 次に香呂を取りて【金一丁】回向。 次に回向方便【雅賢大僧都、之を出す。】
次いで解界等、了る。【金一丁】
次いで香呂を置きて下礼盤。
次に香呂を取って三度礼拝す。
次に香呂を置き、扇を取って下座に着御す。此の時、十弟子の上臈二人は進出し、一臈は脇机の居箱を取って大阿闍梨の左に畳上に之を置き、草鞋を取り直して本座に着く。此の間、同時に二臈は脇机の香呂箱を取って、大阿闍梨の右に畳上に置いて帰る。即ち礼盤の上の座具を取って本座に着く。□替座具役人 次に承仕二人は進出して職衆の前の鐃并に経机・散花机等、之を取り出す。芸装束【浄衣】の承仕等両三人、庭上に於いて清めて之を取り、撤(?)して西の御持仏堂の縁上に置く。鉢に於いては布施を置く時に煩い無き上、還列の時に道場より随身すべき間、之を取り出さず。 次に職衆の面々の従僧、進出して物の具を撤す。【草座に於いては□より之を出して従僧に賜うなり。】
(「第四回」に続く)

[コメント]
●憲深僧正の宿所の事
始めに大阿闍梨を勤める憲深僧正の京都(洛中)の宿所は、「鷹司・万里小路。鷹司の南、万里小路の東。」である旨、注記がされています。此の住所は、南北朝期に三宝院賢俊が創建した法身院の場所に近接していて興味をそそられます(同所の可能性もあります)。法身院の住所も「土御門/鷹司・万里小路」であり、是は「永嘉門院御所の跡」であったと記録されています(『醍醐寺文書之十四』No.3297「伝法潅頂等覚書」、『東寺長者補任』巻第四の応安三年(1370)条)。又永嘉門院(1272―1329)は鎌倉六代将軍宗尊親王(後嵯峨院皇子)の娘瑞子であり、母親は堀川家の祖である大納言通具(土御門内大臣通親の子)の息男左中将具教の娘ですが、後宇多上皇の猶子/後宮に成っています。
●霊山(リョウゼン)の事
職衆の宗円(改名通海)は仏事当日の早朝に「霊山」の「法印範成の坊」より出立して、土御門大納言通行の邸宅に参じた旨が記されています。当時霊山なる通称で知られていた京都の寺院に、実相房円照上人(1221―77)が住持していた東山の鷲尾山金山院があります。金山院は平安時代に栄えた雲居寺(ウンゴジ)の跡です。しかし東山の霊山の麓(今の円山公園の南方。高台寺の近辺)には他にも寺院があったでしょうから、今の「霊山」を比定する為には更に詳しい検討が必要です。
●正親町(オゝギマチ)院御分の仏事の事
当日は「本所」(前承明門院御所か)に於いて、曼荼羅供の前に「正親町院の御分」として別して追善の御仏事が行われました。正親町院(覚子内親王/1213―85)は土御門天皇の皇女であり、母親は弟宮である後嵯峨天皇と同じく源(土御門)通宗の娘通子です。土御門宰相と称された通宗(1168―98)は内大臣通親の長子であり、後に左大臣正一位が追贈されています(『尊卑分脈』第三篇p.499)。
即ち覚子内親王は承明門院の孫娘ですが、弟宮の天皇と同様、幼少期より祖母の女院に養育されていました。その事に付いて『本朝文集』巻第68に収載する「正親町院、承明門院周忌の奉為(オゝンタメ)に功徳を修す願文」(藤原明範作)に於いて、
弟子(正親町院)は未識の曾初より撫育の洪恵を蒙りて、一日も禅床(承明門院)の近側を離れず。多年共に仙院の崇号に並べり。(中略)三聚浄戒は早くに受くる所なり。
と述べています(p.419下)。因みに『系図纂要』第一に依れば、覚子内親王は寛元々年(1243)六月廿六日に門院号の宣下を受けて正親町院を称しました。「尼と為る。(法名)真如覚」とも記していますが、出家の年月日は未詳です。しかし「多年共に仙院」と称されたと云いますから、門院号の宣下より数年後かとも思われます。
●御導師聖憲法印の事
又女院御分の周忌仏事は御前僧五人が中心になって営まれたと思われ、其の中の聖憲法印が「御導師」を勤めた旨を記しています。上記の女院願文に於いては「廼(スナワ)ち法印大和尚位聖憲を屈して(招いて)唱導師と為す」と述べていますから(p.419下~)、聖憲の説法/唱導が御仏事の眼目であったようです。
聖憲法印は『尊卑分脈』第二篇に於いて、藤原通憲(信西入道)の子息貞憲(弁入道生西)の孫である法印権大僧都貞実(山門僧)の真弟子とされています(p.487)。貞実は、安居院流唱導の祖澄憲法印(1126?―1203/貞憲の兄弟)の孫である隆承法印(同篇p.492)の弟子であり、又論義会の証義を勤める程の学識があった人です。但し同篇の頭注に依れば、聖憲の実の父親は貞実の兄弟である山門僧貞雲です。
以上の事から聖憲も亦安居院流唱導に堪能であったと推測されますが、実際「文治(年間)の澄憲、文永(年間)の聖憲」と評される程、その技量は卓越したものであったと伝えられています(『中世文学』第27巻の福田晃「安居院と東国」p.51)。
又後文に見る如く、聖憲法印は続いて行われた曼荼羅供に於いても、御前僧五口の一員として職衆に参仕しています。
●莚道の施設に付き大阿闍梨、奉行を指導する事等
職衆の一員であり壇行事役の宗円律師は、当日早旦(早朝)に土御門大納言通行の亭(邸宅)を訪ねて右近大夫(藤原)長隆に面会し、仏事の開始時間や道場設営等に付き問いただした所、長隆は平高兼が奉行人を勤める予定であったが所労(体調不良)の為に(藤原)高朝朝臣に変更された旨伝えています(高兼に付いては第二回を参照して下さい)。
以後の文章では「奉行人」としか記されていませんが、高朝朝臣が正親町院御分と曼荼羅供両方の仏事を奉行したのでしょう。高朝は勧修寺流藤原氏の大蔵卿為隆の子孫であり(九条流)、父親は中納言忠高ですが自身の官職は右(衛門)権佐止まりでした(『尊卑分脈』第二篇p.69)。
さて庭儀曼荼羅供は大阿闍梨以下の僧衆が庭上の莚道を進列する事から始まりますが、奉行人は莚道の施設を済ませる前に大阿闍梨(憲深)に対して早く道場に進参するよう案内しました。是に対して憲深は、先に莚道を敷かなければ事が始まらない旨を伝えたので、急ぎ莚道を敷く作業が始められました。此の作業が遅々として進まず、参列の公卿が道場に着座した後も続けられて、僧衆は進列の起点である中門に於いて立ちながら待機する破目になった事が記されています。
 ●表白と諷誦文(願文)の事等
追福(追善)の仏事に於いては、供養の仏像(仏画)の開眼が行われた後に導師表白があり、続いて供養の仏経の題目が職衆中の題名僧に依って読み上げられます。次いで堂達(職衆中の下臈の役)が施主の追善願文である諷誦文を大阿闍梨に進め、大阿闍梨は一見の後に是を堂達に返し渡します。次いで堂達は是を呪願師に進めて願意を読み上げるよう乞います。今回の仏事では諷誦文が二通ありました。又堂達(諷誦文役)は玄慶阿闍梨、呪願は山門僧の智円法印が勤めました。