柴田賢龍密教文庫「研究報告」

ホームページ「柴田賢龍密教文庫」に掲載する「研究報告」の速報版です。

東大寺真言院と仏舎利埋納の事

2011-05-27 21:09:46 | Weblog
東大寺真言院と仏舎利埋納の事


金沢文庫保管称名寺聖教の中に外題を『肝心法〔舎利〕』、内題を『駄都秘決』と称する鎌倉末の写本があります(第334函39号)。その中に、
南無阿弥陀仏(俊乗房重源)云わく、宇一(室生)山の宝は
大日髻中の宝なり。東大寺真言院には
釈迦の人黄(にんおう)を埋めらる〔云々〕。
というやゝ風変わりな文章があり気に懸っていました。弘法大師が国家鎮護の為に室生山に如意宝珠を埋めたという伝承はよく知られていて、是を取り上げた記述は各種の書籍・論文等に広く見かける所ですから今は言及しません。問題とするのは東大寺真言院に関する部分です。

辞典類に依れば、東大寺真言院は弘仁年間に嵯峨天皇の御願として同寺別当空海(弘法大師)によって創建され、同十三年(822)に潅頂道場が建立された事などが知られるものの、平安中期には荒廃して廃絶に帰したらしく概して詳しい事は分からないと云えます。上の写本に依れば、その真言院に大師が「釈迦の人黄」すなわち仏舎利を埋納したと云うのです。人黄という言葉は『大日経疏』巻第十に於いて、ダキニ天が食する人間の心肝中の栄養素(エネルギー源)のようなものだと説明されています。しかし今の例は舎利の意味で此の特殊な言葉が使われているのです。
さて上の南無阿弥陀仏の口説と関係する史料として、続々群書類従の『東大寺続要録』「諸院篇 真言院」の中に載せる弘安四年(1281)四月六日付太政官牒があります。是は沙門聖守(1219―1291)の申請を認めて東大寺真言院を鎮護国家の道場とする事を通達した文書です。牒中に転載引用する申請文の中に、弘法大師が同院に摩尼珠と仏舎利を納めたという事が述べられています。その部分を和訳して下に示します。

「就中(なかんづく)摩尼の宝玉を土に埋め、遺身の舎利同じく納む。而るに建立の後、星霜多く移りて破壊せる間、蹤跡(しょうせき)空しく絶え、般若開講の場は荊棘(けいきょく)林を成す。舎利安置の處は莓苔(ばいたい)地を埋めて密壇何くにか在る。春駒徒に荒原の風に嘶き、禅床更に空しく秋鹿独り故苑の露に鳴く。然れども高祖(弘法大師)日々の影向(ようごう)は猶闕念すること無く、旧跡連連の検知に頻りに霊異を示す。重源和尚参詣の尅、鈴音親(まのあた)り瑜伽壇の上に韻(ひび)き、聖慶得業(1153―1175)の瞻礼(せんらい)せる處、瑞光正しく潅頂堂の縱(あと)に現る。加以(しかのみならず)正治(年間)の秋天に紫雲屢(しばし)ば聳え、建保の春日に金篋(こんきょう)忽ち彰(あらわ)る。末世たりと雖も奇独無きに非ず。
爰に聖守、且(かつう)は先王の御願を続(つ)いで金輪(聖王/天皇)の平安を祈り奉り、且は祖師の遺跡(ゆいせき)を崇めて(南天)鉄塔の教法を興さんと欲す。然れば則ち再び(真言院の)基址を祐さんが為に竊(ひそか)に誓願を発(おこ)さしむ。仍って高野山の莓洞に跪きて多年大師の加被を泣請し、(伊勢)大神宮の叢祠に籠りて数廻深く尊神の冥助を仰ぐ。而れば機感の時至って霊託日に新たなり。」

過日、藤原通憲の一族を中心に日本の貴族社会を研究しておられるM.ジャメンツ氏と此の事に付いて話し合った時、氏の方から続群書類従第27輯上の『東大寺縁起』にも関連する文章がある事と、同『縁起』の原本が『真福寺善本叢刊』8の「東大寺記録」である事などを聞かされました。それで更に他にも史料が埋もれているかも知れないと思い、先ずは関連史料を整理して和訳紹介する事にしました(重要な部分は現代語訳で重出)。近日中にHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に掲載発表します。
(平成23年5月27日)

追記
ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の研究報告シリーズに「東大寺真言院と如意宝珠」と題して上記のテーマに関する小論を発表しました。一見して下さい。
(平成23年6月15日)

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新出の洞泉性善の墨書貼紙

2011-03-11 01:45:54 | Weblog
新出の洞泉性善の墨書貼紙

1995年11月30日発行の『佛教藝術』第223号に収載されている林温「新出の八字文殊曼荼羅図について」は、平成七年度に重要文化財の指定を受けた個人蔵「八字文殊曼荼羅図」を紹介解説したものですが、初めの「伝来」の項に於いて本図表具の裏側に付された「旧表具を切り取ったと思われる」貼紙の写真とその墨書翻刻が掲載されています。
此の墨書は本図の改装後に供養導師の依頼を受けた江戸中期の著名な真言学僧である瓶原(みかのはら)貞福寺の洞泉性善(1676―1763)が記したものであり、性善の晩年の動静の一端を示す貴重な史料と判断して敢えて和訳して解説する事にしました。性善は醍醐寺に於いて主として報恩院流(三宝院流憲深方)の研鑽に努めて真言事相の碩学と仰がれるようになりましたが、また戒律にも造詣が深く後に東大寺の真言・戒壇両院の長老職を勤めています。
性善が世上よく名を知られているのは専ら『真言宗全書』に収載されている『三宝院流洞泉相承口訣』に依るものです。本書は題名にやや適切さを欠き、成立の由来を誤解している人が多いので一言して置きます。本書は明治・大正時代に活躍した仁和寺門跡浦上隆応(1856―1926)の編纂になりますが、内容の主要部である諸尊口決は智積院動潮(1709―95)の著作であり、それは宝暦年間(1751―64)に動潮が醍醐寺・東大寺或いは智積院において性善から受けた諸尊法の伝授を主な材料にしたと考えられる手鑑(てかがみ)・私記等です。潅頂部は性善の師僧であった醍醐安養院の運助僧正の著作であり、性善はそれを書写しただけで性善の口決ではありません(運助と性善は共に報恩院寛順大僧正の弟子です)。従って本書は動潮・運助作の隆応編になる変則的な三宝院流口伝集なのですが、動潮口決の本源は洞泉性善が醍醐に於いて相承した三宝院流の口決にあると云うので一応『三宝院流洞泉相承口訣』なる題名を付けたのでしょう。
〈翻刻文の和訳〉
(最初に別紙別筆で画題が記されています)
二四字マンダラ(梵字:matara)〔鼻祖真画〕   新勝院什物」
此の八字文殊の曼荼羅は是れ吾が曩祖遍照薄伽(ばが)の真蹟なり。而れば尤も尊重すべき者か。尓(しか)り。鳩嶺(はとがみね)新勝院の権律師重勝衲子(のうし)、不慮に之を感得せること冥助の致す所なれば衆人挙(こぞ)って称歎せり。奇なるかな。今歳(宝暦五年/1755)乙亥(きのとい)、季夏の天、老夫の之を携え来たりて云わく、院主若し所望あらば応当(まさ)に之を譲与すべし。且(また)他日来りて須らく賞労を受くべし〔云云〕。遂に之を閣(お)きて去り、復た来たらず。謂うべし、不可思議なりと。便(すなわ)ち軸の表紙を改め、開眼を予(性善)の手に乞う。固辞せるも免れず。仍って慎み挙(こぞ)りて之を供養し、聊(いささ)か其の縁起を記し了んぬ。
  宝暦五年九月十六日   瓶原苾蒭(びっしゅ)性善〔満八十才〕
(以上。翻刻は一部『佛教藝術』林論文と相違しますが注記を省略しました。ご了承下さい。)
〈語彙解説〉
○画題の「二四字」は勿論八字の事ですが、八字文殊を此のように表記するのは中古以来の伝統です。
○「鼻祖」は始祖・元祖の意で真言開祖弘法大師を指します。即ち大師の真筆であると云うのです。何でも由来のハッキリしない古仏・古写経等を宗祖や名の知られた祖師の御作と主張する此の種の説は、特に近世に於いては各宗寺院を通じて最もありふれたもので、寺院社会全般が通俗化した様相の一端をよく示しています。
○「新勝院」は後文に出るように男山(おとこやま)の石清水八幡宮の一子院です。正徳元年(1711)刊行の『山城名勝志』巻第十八では「五鳳集」なる書物を引用して、「男山には良い寺が沢山あるが、中でも新勝と云うのが一番である」と言っています。新勝院の什物になった経緯は本文に述べられています。
○「遍照薄伽」は弘法大師のことですが遍照金剛と薄伽梵(ばがぼん)を合わせた造語です。薄伽梵は梵語(サンスクリット語)bhagavanの音写で世尊と漢訳されています。
○「鳩嶺」は石清水八幡宮が鎮座する男山の異称ですが、その西寄りの一段と高い峰を指すという説もあるようです。
○「権律師重勝衲子」は当時の新勝院の院主であった事位しか分かりませんが、性善と親しい事からやはり真言律の僧であったのでしょう。「衲」は僧衣のことで衲子は僧侶の異称です。
○「瓶原」は山城国の南端の木津川沿いにあり(現在は木津川市加茂町)、奈良時代に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)を構えた由緒ある場所です。南には九体仏で有名な浄瑠璃寺があります。性善は此の瓶原の貞福寺を私坊としていたのです。
○「苾蒭」は梵語bhiksuの音写であり、古い音写語である比丘の方が一般的です。真言僧は自らを金剛仏子と称し、律僧は苾蒭/比丘と称しますが、真言律の僧は状況に応じて使い分けます。

(以上)平成23年3月11日


(追加記事)
石清水新勝院重勝律師の新史料

弘法大師の真筆と称する「八字文殊曼荼羅」を老夫から手に入れて是を修補し、瓶原の洞泉性善に開眼供養を依頼した新勝院の権律師重勝に関しては他に知る所がありませんでした。ところが最近の『佛教藝術』第312号に載せる泉武夫「黒漆八角宝珠箱の金銀泥絵像とその意味」の中に重要史料がありました。此の論文は京都の石清水八幡宮が所蔵する範俊僧正(1038―1112)奉納と伝える如意宝珠を納めた盒子(ごうす/ごうし)に描かれた金銀泥の絵像に付いて詳しく解説していますが、此の宝珠を所蔵していたのが他ならぬ重勝律師であった事を明らかにしています。
即ち「一 出現状況と由緒書」に於いて、此の盒子を収納する外箱の蓋裏に貼付されていた重勝記の由緒書が翻刻紹介されていますが、それに依って重勝が八幡宮の中で枢要な地位を占めていたらしい事が伺えます。下に此の由緒書を和訳して示します。
「此の如意宝珠は古神宝録の中ニ範俊僧正奉納ト之あり。去年七月請雨(しょうう)の時、霊験速やかなり。拝見容易ならざらしめんが為に、外箱を新調す。毎日修法の時、予(私)、用心すること之あり。宝朱(珠)の事、当宮に習(ならい/口伝)之あり。   御殿司松本
 宝暦九卯(1759)五月廿八日、権律師重勝」
前年の請雨法に言及していますが、是は重勝が(大)阿闍利として修法を行ったという事でしょうから、重勝は当時の石清水を代表する真言僧であったと思われます。また此の如意宝珠は重勝の所蔵か八幡宮の什物か判然としませんが、何れにせよ重勝が管領していたのです。更に重勝は松本坊の院主として山上御殿司の別当でもあったようです(泉論文の注2参照)。

(平成23年5月28日)


(追加記事の補説)
上記「由緒書」の和訳中に「御殿司松本」と記しましたが、泉論文の図1に写っている外箱裏の由緒書をよく見ると、「松」字とするのは誤りで「杉」の異体字である事が分かりました。重勝律師の本坊である新勝院は又「杉本坊」と称する由なので是で納得が行きます。
『石清水八幡宮史料叢書 一 男山考古録』の「新勝院〔附、杉本坊〕」の項に、
中谷坂路倉坊の東隣は杉本坊也。新勝院を相続して同名を名乗る。同所なればにや。貞治三年(1364)七月に検校に補されたる新善法寺永清法印が次男空助法眼、御殿司に補されて当院に住て、東谷新勝院と号せり。(中略)御殿司宗真、当院に住し、元応二年(1320)三月八日寂す。宗延又空助等、皆新勝院々主にて杉本坊と号せり。
と解説しています(年記、送り仮名など一部改変しました)。
(平成23年5月29日)




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「現代語訳:二条院三宮空聖の遍智院等譲状」について

2010-10-21 23:00:48 | Weblog
大日本古文書の家分け19『醍醐寺文書』第二巻には、第410号から第413号まで二条天皇の第三宮空聖(1163頃―86―)の起草になる寿海阿闍利(1164頃―1228)宛ての四通の処分状(譲状)が載せられています。これらは遍智院の伝領をめぐる醍醐寺座主勝賢(1138―96)と三宮空聖の相論に関する基本史料であり、従来ほとんど指摘される事が無かった様々興味ある問題を含んでいます。同『文書』には「僧某処分状」等と記されていますが、この「僧某」が三宮空聖である事を最初に指摘したのは『論集日本仏教史 4 鎌倉時代』所載の土屋恵「鎌倉時代の寺院機構」(p.253)でしょう。
当初は此のブログに上記四通文書の和訳を載せ、HP『柴田賢龍密教文庫』に現代語訳を掲載する予定でしたが、原テキストが容易に見れるものなのでブログの和訳掲載を取り止め、ホームページの方には同四通文書に加えて関連の「八条院庁牒」と『玉葉』の記事も現代語訳して掲載する事にしました。今月末までに掲載を完了する予定です。(平成22年10月21日)

ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に新しく「現代語訳:二条院三宮空聖の遍智院等譲状」を掲載しました。(平成22年10月29日)
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金沢文庫の光宝方聖教について

2010-05-23 15:41:23 | Weblog
金沢文庫の光宝方聖教について
(「金沢文庫」とあるのは正確には金沢文庫保管重文称名寺聖教の事です)

光宝方(こうほうがた)は醍醐寺座主光宝(1177―1238)を祖とする三宝院流の支派ですが、東密三十六流の一つに数え上げられている事からも分かるように鎌倉時代中後期には相当大きな勢力を有していました。しかしその後は精彩を欠き、同じ三宝院流の中でも道教方や憲深方が近世に至るまで盛んに伝法がなされたのに比較して影の薄い存在になりました。
現在では相承の印信を別にすれば一般には「光宝方聖教」と云えるものは知られていないのですが、称名寺聖教の中には印信・血脈類以外に偽撰書を含めて相当な数の光宝撰述書があり、現時点で九部の存在が確認できました。その中の二部は信憑性の高い諸尊法口伝集であり、一部は大納言阿闍利仁済(にんせい ?―1204)の口決、今一部は遍智院僧正成賢(せいげん 1162―1231)の口伝です。若し本格的な精査を行えばかなりな分量の光宝方聖教を復元できる可能性があります。此の事は謙順(1740―1812)の『諸宗章疏録』が光宝の撰述を全く取り上げていない事を考える時、驚きに値すると言っても過言では無いでしょう。

光宝方聖教暫定目録(光宝撰述目録):
1. 整理番号252.14『本尊界会法』
2. 整理番号325.2『諸尊法』(仮題)仁済口・光宝記
3 .整理番号116.8.1〜5『秘要抄』成賢口・光宝記
4. 整理番号342.12『潅頂式』(仮題)
5. 整理番号289.38『酉酉(だいご)水丁(かんじょう)口決』
6. 整理番号292.31『酉酉〔座主〕』
7. 整理番号298.41『酉酉大事〔深秘々々〕』
8. 整理番号322.77『酉酉第三重口伝』
9. 整理番号338.46『秘密抄』
(No.5〜9は偽撰の可能性に付いて注意すべき史料です。)

1. 整理番号252.14『本尊界会法』
(内容)宝珠法。道場観の種子「ア(梵字:a)」、三昧耶形「駄都」、本尊「本尊界会」として、本尊宝珠の四方に宝部の四菩薩を観想する。
(奥書)
元久二年(1205)孟夏上旬、師伝に依り之を注す。
一宗の大事なり。専ら之を翰墨に載すべからず。只頑迷の性を養い、自行に備えんが為の文なり。一期の終りの十念の刻に法身之偈を唱えて火の中に投ず而已。
   求法沙門已潅頂阿闍利光宝
(コメント)
鎌倉時代初期の勧修寺の宝珠法としては斬新なものですが、発想自体に伝統説からの逸脱が感じられないので一応光宝の真撰とします。「師伝」の師とは恐らく勧修寺長吏成宝(1159―1227)でしょうが確認は出来ません。三昧耶形の「駄都」に付いてはHP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス 13. 仏舎利を駄都(だど)と称する事について」にかなり詳しく解説してありますから参照して下さい。
2. 整理番号325.2『諸尊法』(仮題)仁済口・光宝記
(内容)勧修寺流仁済方の祖として知られる高野真別所の学僧大納言阿闍利仁済(本名尊海)の諸尊法に関する口決集ですが、写本の現状は欠失・乱丁が甚だしいと云えます。第一紙の冒頭に諸尊を息災・増益・調伏・敬愛の四種法に分類した目録が記されていて、その中の息災の部分だけが完全に残っていて「釈迦 聖観音 馬頭 十一面 准胝 不空羂索」六尊を列記しています。全体で二十余の尊法が取り上げられているようです。
(聖観音法の道場観の裏)
建仁元年(1201)三月廿一日、金剛峯寺新別所に於いて慥に此の説を伝う。
(奥書)
右、最極深秘の口伝等、建仁元年三月廿九日、金剛峯寺新別所に於いて面(まのあたり)に大納言阿闍利〔仁済〕より伝え奉り畢んぬ。
     阿闍利大法師位光宝
書き本に云く、
建暦元年(1211)五月六日、之を書き聚む。明師の口伝を以って私に類聚すること、偏に随身の為に専ら肝心を抽ける而已。法眼光宝。生年三十五。
弘安元年(1279)三月十日、書写し了んぬ。
     小野末資増瑜
延慶二年(1309)二月十四日、書写し了んぬ。
       良阿
(コメント)
光宝の師成宝僧正が高野山に於いて仁済から伝法潅頂を受け「灰中の印信」を授けられた事は真言事相史に於いて比較的よく知られている事柄ですが、仁済と光宝の師資関係に付いては従来ほとんど知られていませんでした。光宝も亦仁済からの伝法を遂げていた事を示す大変貴重な史料です。
書写奥書中の増瑜(1219―90頃)は卿阿闍利の通称で知られた真言小野流の学僧で、関東(鎌倉)に於ける鎌倉中後期を代表する碩徳の一人です。
3 .整理番号116.8.1〜5『秘要抄』成賢口・光宝記
(内容)醍醐の遍智院僧正成賢から伝受した諸尊法の口決集であり、光宝方聖教の肝要を為すものです。元は興然阿闍利(1121―1203)の『四巻』に倣って巻物を面(おもて)裏とその上下に四分割して記した一巻の書でしたが(但し実際には「巻物二つ」であったらしい)、佐々目の守海法印が書写する時に現状の如く五巻(帖)に調巻されました。第五巻は建保五年(1217)十二月の醍醐三宝院に於ける光宝の伝法潅頂入壇の記録を別出したものです。
第一巻(面上の巻)は整理番号116.8.3であり、最初に全体の目録が記されています。此の巻には請雨経法以下五種の経法が収められていて、仁王経法の奥に以下の識語があります。「
承久元年(1219)二月三日、醍醐寺遍智院の禅房に於いて前権僧正〔成賢〕の御房より伝え奉り畢んぬ。
   座主権大僧都光宝」
第二巻(面下の巻)は整理番号116.8.4であり、六字経法以下宝珠法まで六種の尊法が収められています。元は最後に伝法潅頂の記があったらしいのですが、前述したように此の部分は守海によって別出されました。鎮壇法の奥に、
承久二年(1220)正月、遍智院に於いて之を伝え奉る。委細は別に在り。
     光宝 
と記しています。
第三巻(裏上の巻)は整理番号116.8.1であり、仏眼法以下七種の尊法が収められています。また第四巻(裏下の巻)は整理番号116.8.2であり、五大虚空蔵法以下六種の尊法等が収められていて以下の奥書があります。「
承久二年秋の比、伝受すること畢んぬ。
  座主権大僧都光宝
     一交了んぬ。」
第五巻(潅頂の巻)は面下奥と裏下端の記を合わせたものであり整理番号116.8.5です。建保五年(1217)十二月二十三日に醍醐寺三宝院に於いて時に東寺二長者であった権僧正成賢から伝法潅頂を受けた時の記録ですが、終りに一括して潅頂印信が記されていて光宝方印信の亀鏡(模範)とすべき貴重な史料です。奥書は以下の通りです。「
写本の奥書に云く、
先師法印大和尚位〔光―〕の口決、自筆の本を以って書写し了んぬ。
御本は巻物二つ計り〔上下〕、面と裏と一巻の御書なり。事の様は勧修寺の四巻抄の如し。此の書は一巻なり。然りと雖も私の意楽(いぎょう)を以って五帖に之を書く。此の一帖に於いては写瓶に非ざるの外は輙(たやす)く写持せしむべからず。其の仁無ければ閉眼の時に火中に入るべし。
   求法沙門金剛仏子守海
時に嘉元三年(1305)十二月三日、守海法印御房自筆の本を以って金沢の宝閣に於いて書写せしめ了んぬ。
  三宝院末資金剛仏子剱阿〔廻季四十五〕
       一交了んぬ。」
4. 整理番号342.12『潅頂式』(仮題)
此の写本は大きく前後乱丁していますが欠失部は無いように思います。書き出しと思(おぼ)しき部分に「三摩耶戒儀式」と題されているので是を以って名称とすべきでしょう。元の本の裏書を本文中に字を上げて小字で書き込んであるので、余計に煩雑な感がします。
是は光宝が寛喜四年(1232)正月に宗禅律師に伝法潅頂を授けた時に使用した三摩耶戒次第であり、以下の奥書があります。「
本に云く、
寛喜四年正月廿一日〔心―、金―〕、宗禅律師、入壇を遂げ了んぬ。
同三月七日、宗禅律師に授け了んぬ。   光宝
寛喜四年正月廿一日、入壇を遂ぐ。醍醐寺三宝院の正流なり。大阿闍利は初度なり。殊に甚深の仰せを蒙れる間、宿縁尤も貴むべし。聊か物詣での間、三月七日に伝受し奉る。仍則、次第等を賜り書写せしめ了んぬ。   金剛仏子宗禅
建長七年七月廿五日、此の式を賜り書写せしめ了んぬ。
勧修寺慈恩(尊)院と校合せしむるに敢えて違わず〔云々〕
     覚宗、之を記す〔已上〕
       交点し了んぬ。」
5. 整理番号289.38『酉酉(だいご)水丁(かんじょう)口決』
外題に「酉酉水丁口決〔三宝院/秘事〕」、内題に「酉酉流大事等〔三宝院〕」と云います。
(内容)初めに伝法潅頂の三重印明の由緒に付いて記し、次いで各重の印明を挙げてそれに関わる口決を述べています。初度(初重)の「師資相伝の習」の中で、五輪塔婆の五大は空大が余の四大を摂する事に付いて図形的な説明を加えていますが、是は鎌倉時代後末期に至って三宝院諸流で製作された潅頂印明に関わる秘伝書の中によく記されている説です。
(奥書)
此の書は真宗の規模の大事、当流第一の深秘なり。輙く注文せしむべからずと雖も、廃亡を恐るゝが故に万事を顧みず書記せしむなり。命尽の時に於いては早く之を焚焼すべし。
建仁二年(1202)三月十一日、之を記し畢んぬ。
   金剛仏子光宝
時に元徳三年(1331)仲夏(五月)第七之天、金沢の勝地なる知足の梵宮に於いて師主阿公上人御自筆の本を賜り之を書写し畢んぬ。
   三宝院末資凞允
(コメント)
建仁二年は光宝が成賢から三宝院流の伝法潅頂を受ける十五年も前であり、又上記『秘要抄』潅頂の巻の記述を参照する時、到底光宝の真作とは考えられません。それでも潅頂印明口伝書として簡潔で要領を得た記述がしてあります。凞允奥書中の「阿公上人」とは金沢称名寺第二世の剱阿(1261―1338)を云うと思われます。
6. 整理番号292.31『酉酉〔座主〕』
(内容)最初に醍醐伝法潅頂の第三重印明を記し、次いで即身成仏に関わるよく知られた諸種の文を並べていますが、途中胎蔵五字明に付いて独自の見解を述べてかろうじて本書を価値あるものにしています。猶第三重の真言は常のアバンランカンケン(梵字avamramhamkham)にウン(梵字hum)を付加していますが、それに付いて特に説明(口決)はありません。
(奥書)
写本に云く、
延応元年(1239)九月七日
粗(あらあ)ら記し了んぬ。此の門人の内、唯一人に授くるの外は外見すべからず。努力々々(ゆめゆめ)。
   法印権大僧都光宝
正和二年(1313)二月十四日、先師上人并に俊公和尚の秘伝に任せて湛睿大法師に授け畢んぬ。
     剱阿〔在判〕
暦応五年(1342)四月十一日、先師阿公和尚の秘決を以って等印大法師に授け畢んぬ。
     湛睿(花押があります)
(コメント)
光宝の入滅年時に付いて醍醐の『伝法潅頂師資相承血脈』に「暦仁元年(1238)四月十四日入滅」と云う事と、潅頂真言が上記『秘要抄』潅頂の巻に記す正説と相違する事、更に取り立てて法流の相承と関係する内容でも無い事などから、鎌倉後期の比較的早い時期に誰か光宝方の学僧によって撰述された書と考えられます。
剱阿識語の「先師上人」は称名寺開山審海(1229―1304)、「俊公和尚」は鎌倉東栄寺開山源俊(1215―82)を云うのでしょう。写本の筆者湛睿(1271―1346)は称名寺の第三世長老です。
7. 整理番号298.41『酉酉大事〔深秘々々〕』
(内容)潅頂印明に付いての口伝書。
初めに「最秘口決」なる書を多用して金剛・胎蔵両界の概説を述べ、次に三重印明を挙げています。此の印言は普通の醍醐の伝とは異なるものですが、その中に「五智和合の外五古印」と云う風変わりな印もあります。それから改めて三宝院の三重印明を出して各種の法文を引用しています。此の三重の各重を『大日経(疏)』の三句法門に配当していますが教理的な説明はありません。
(奥書)
此の書は真宗規模の大事、当流第一の深秘なり。輙(たやす)く注文せしむべからずと雖も、定めて廃忘(はいもう)を恐るゝが故に、万事を顧みず書記せしむなり。朝暮、頚に懸けて片時も身より放つべからず。命尽の時に於いては早く之を焚焼(ふんしょう)せよ。穴賢(あなかしこ)々々。
建保二年(1214)八月十二日、之を記し畢んぬ。
  金剛仏子光宝〔御判あり〕
正和二年(1313)二月十一日、先師開山并に俊公和尚の秘口を以って湛睿大徳に授け畢んぬ。
      剱阿〔判あり〕
暦応五年(1342)四月七日、先師剱阿和尚授くる所の秘決を以って等印大法師に授け畢んぬ。 湛睿(花押)
(コメント)
光宝が遍智院僧正成賢から三宝院の伝法潅頂を受けたのは建保五年十二月である事、また光宝自らその潅頂印明に付いて記した『秘要抄』第五巻(潅頂の巻)を参照する時、このような冗長な記述が光宝によって成される筈もないと思われる事、内容の上からも三宝院の嫡伝を記しているとは考えられない事などにより、光宝に仮託した偽撰の書であると云えるでしょう。
8. 整理番号322.77『酉酉第三重口伝』
当書はNo.7『酉酉大事〔深秘々々〕』と『酉酉第三重口伝』の合本ですが共に題下に「金剛仏子栄宝」と記されています。本文は大きく乱丁していて、この為に『称名寺聖教目録』の奥書は両書が入れ替わっています。又写本の写真帳の文字が大変見づらいので本文は読むのをあきらめました。『称名寺聖教目録』も参照させて頂き奥書だけを載せます。
(『酉酉大事〔深秘々々〕』奥書。但し光宝の分は省きます。)
酉酉異等は信(まこと)には蘓悉地の事なり。塔印に口決あり。内縛、或いは外縛なり。或いは内縛、或いは外縛、内外心□処に任せる許(ばかり)なり。仍って秘するなり。
 永和四年(1378)二月廿六日、栄宝に授け了んぬ。
     権大僧都栄済〔御判あり〕
(『酉酉第三重口伝』奥書)
永和四年二月十八日、栄宝に授け了んぬ。
     権大僧都栄済〔御判あり〕
(コメント)
『酉酉第三重口伝』に付いてはその撰述者も内容も分からないのですが、やはり光宝方で相伝されたものなのでしょう。栄済・栄宝の師資に付いてもよく知らないのですが、栄済僧都は勧修寺の慈尊院法印栄尊(1213/23―1303)の付法資栄済と同一人物かとも思われます。
9. 整理番号338.46(外題)『秘密抄』
(内題)『駄覩法口決』
表紙の題下にキイン(梵字hiyim)と記されていて、No.5『酉酉水丁口決』の奥書中にも名の見える凞允の所持本であった事が分かります。
(内容)醍醐の舎利法即ち駄覩法に関する口決書であり、前半部に於いては『秘抄』の「駄都」道場観の文を「仰せ云く」としてかなり詳しく説明し、後半部では修法次第に付いて各種の秘密口伝を挙げています。
(奥書)
建仁二年(1202)十月七日、遍智院権僧正の御口決を以って私に之を注し了んぬ。未入壇の人に於いては名字を聞かすべからず〔云々〕   金剛仏子光宝
(コメント)
奥書の建仁二年という年時はNo.5『酉酉水丁口決』と同じであり、その点に幾分興味を抱かせますが、既に述べたようにあり得ない事です。
内容的にはそれ程冗漫の感を与えず、鎌倉初期の緊迫感がかろうじて余韻を保っているようです。鎌倉後期の比較的早い時期の製作になるものでしょう。


(以上)
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勝定房恵什と寛信法務

2010-02-03 21:17:13 | Weblog
勝定房恵什と寛信法務

仁和寺の恵什阿闍利(1060―1144―)は鳥羽院政期の真言学僧で本名(前名)を斉朝(最朝)と云い、『十巻抄』(図像抄/尊容抄)の撰者として有名です。『十巻抄』の作者に付いては保寿院流祖の平等房法印永厳(ようげん 1075―1151)の作とする説もありますが此の問題に関しては触れないでおきます。勧修寺の寛信法務(1084―1153)は顕密兼学の真言学僧として知られ、勧修寺長吏のみならず東寺長者・法務、東大寺別当という顕職を歴任しました。又師の厳覚僧都より小野法流の秘伝を写瓶(しゃびょう)され、後世勧修寺流の祖と仰がれています。
研究者の間でもあまりよく知られていないと思うのですが此の恵什・寛信両師の間には密接な繋がりがあります。具体的に云うと、寛信は真言事相に関して恵什から教えを受け、特に恵什が所持していた多くの珍しい真言聖教の書写を許されていたという事です。此の事は信憑性の高い数々の寛信識語(奥書)によって裏付ける事ができます。又是と関連して櫛田良洪著『覚鑁の研究』の第三章ノ一「実範とその周辺」に、
更に「三国真言伝法師資相承血脈」によると、「増蓮〔阿闍利〕―芳源〔阿闍利/安養房〕―寛信/実範」という系譜がのせられている。すなわち実範の師となった僧に芳源があって、石山寺修仁の法燈を寛信・実範が相承している。
と述べていますが(p.126)、此の血脈は元来「増蓮―芳源―恵什―寛信」とあって恵什が欠落したものと考えられます。即ち「石山流人師方(にんじかた)血脈」・「恵什相承胎蔵血脈」等何れも、
淳祐―真頼―雅真―暦海―修仁―増蓮―芳源―恵什
と連なる上、芳源の生没年は未詳とはいえ寛信が受法するのは年代的にやや不自然です。
さて寛信の識語を紹介する前に、行遍僧正(1181―1264)の口説を記した『参語集』の中に、恵什が仁和寺から勧修寺に移って寛信に授法した物語が記されていますから、それに付いて簡単に述べておきましょう(巻第一「勝定房の事」)。同書によれば、白河天皇の御子である中御室覚行(1075―1105)が仁和寺に入御した時に勝定房恵什を以って師範となされた。ところが同寺北院に於いて恵什が授法する時、弟子の覚行は母屋に坐し、師匠の恵什は一段低い庇(ひさし)の板敷きに座らされた。恵什は是を仏法の権威をないがしろにするものと考えて憤慨し、そのまま仁和寺を立ち去って戻らなかった。似たような話は守覚法親王と勧修寺の興然阿闍利にもありますが、世間の権威を意に介さない学究肌の学僧の心意気を示して興味深く思われます。さて寛信は常日頃「いくら身分が卑しくとも稽古と修行に優れた僧に親しんで教えを受けるべきである」と語り、恵什は是を洩れ聞いて勧修寺に移る決心をした。寛信は恵什を「天の与えた師匠である」と歓迎して、様々不審を問いただした等と述べています。
それでは以下年月日順に寛信識語を紹介します。

(一)金剛界連鏡秘密法(『金剛蔵目録』五の第80箱32)
本に云く、法務自筆の批なり。
天養元年(1144)暮秋(九月)、恵什闍利の本を以って写さしめ了んぬ。   寛信
康和四年(1345)八月廿日、高雄の弊房に於いて昨今両日の間に老筆を馳せ了んぬ。此の次第は後入唐僧正(宗叡)の作〔云々〕。秘すべし、々々。
     小野遺老栄―(海)〔生年六十八〕
 一校し了んぬ。
〈訂正〉「康四年」とあるのは「康四年」の入力ミスです。(平成23年3月4日)

(二)『覚禅鈔』の『随求(法)』の「形像の事」(『大正大蔵経図像』第五巻p.97b)
勧修寺法務(寛信)の視聴抄に云く、天養元年(1144)十二月七日、恵什闍利来たり語りて云く、随求八印の右四印は無能勝明王の印、左四印は無能勝妃の印なり。(以下略す)

(三)五秘密次第〔神日〕(『金剛蔵目録』十七の第285箱70)
恵什闍利の記に云く、天養元年(1144)十二月四日、光明山に於いて神日律師の草本を以って書抄し奉り了んぬ。本書は甚だ委しく存ずれば之を略抄し、四句賛は本に任せて指声し了んぬ。年八十五〔云々〕。彼の闍利、同七日に持ち来る。十二日に写し了んぬ。   権大僧都寛信〔六十一〕     (以上本奥書)
(別筆)「正平十年(1355)〔乙未〕正月廿三日、恵什阿闍利自筆の本に比校せしめ、違する所を直注せしめ了んぬ。(後文略す)   賢宝〔之を記す。〕」
〈コメント〉
神日(じんにち 860―916)は円城寺益信の潅頂弟子ですが、水尾(みのお)の玄静(げんじょう)から宗叡の伝を受法するなど広範な学識を有した真言学僧です。
恵什の識語の終りに年齢を書き記しています。是によって逆算すれば生年は康平三年(1060)になります。他に一、二点史料があれば是を確定できるでしょう。
恵什が光明山で12月4日に抄写した本を、わずか三日後の7日に寛信に手渡しているのに少し驚かされます。後代に賢宝が恵什の自筆本を用いて対校したと云うのも感心させられます。

(四)一字頂輪王儀軌音義(『弘法大師全集』第二輯第六巻p.531 原本は東寺観智院金剛蔵本)
天養二年(1145)首夏(四月)十三日、恵什闍利の本を以って之を写す。
   権大僧都寛信

(五)大仏頂広聚陀羅尼経巻第五(『金剛蔵目録』一の第13箱2−4)
(内題)大仏頂無畏宝広聚陀羅尼経巻第五
(尾題)大仏頂無畏宝広聚経巻第五
写本に云く、
天養二年(1145)六月十六日、恵什阿闍利の本を以って写し了んぬ。
     寛信
(以下の賢宝識語を略す)
此の経は慈覚大師の御請来なり。流布は頗る希(まれ)なるか。仍故(よ)って写し置く所なり。(是も賢宝の記か。)

(六)曼荼羅問答〔慈覚問う。法全(はっせん)答う。〕(『金剛蔵目録』十九の特第14箱16)
久安元年(1145)八月、恵什闍利の本を以って写し了んぬ。件の本は芳源阿闍利、之を書く〔云々〕。
     寛信     (以上本奥書)
文和三年(1354)〔甲午〕、勧修寺の三国竹林房に於いて書写し了んぬ。慈覚大師の作なれば彼の門流は殊に以って秘蔵す〔云々〕。門葉に非ずと雖も之を軽んずべからず。
     権少僧都杲宝

(七)金剛界次第法巻第三(『金剛蔵目録』五の第80箱34―3)
天養二年(1145)冬、恵什闍利の本を以って之を写す。
       権大僧都寛信〔六十二〕

(八)『覚禅鈔』の『迦楼羅法』の「勤修の先跡」(『大正大蔵経図像』第五巻p.478c)
法務(寛信)云く、〔恵什之を申す〕、故修理大夫(橘/旧姓藤原)俊綱の其の女(女婿の「婿」欠か)中宮大夫(源)〔師忠〕は上没後に是の如きの恐れを除かんが為に、先師芳源闍利を以って迦楼羅法を行わしむ。此の法は邪魔を除き寿命を延ぶる故なり〔云々〕。
〈コメント〉
年記はありませんが是も恵什が寛信に語った事を、後に寛信が引用したと解して問題無いでしょう。
文章に少し乱脱があるようです。修理大夫橘俊綱(1028―94)は関白藤原頼道の子ですが、讃岐守橘俊遠の養子に成りました。歌人として名を成したのみならず、作庭(造園)にも大変な才能があったようです。中宮大夫源師忠(1054―1114)が俊綱の娘婿であった事は、師忠の子師親の母親が「修理大夫俊綱の女(むすめ)」であるとされているので分かります(『尊卑分脈』第三篇の村上源氏の条)。
此の記事は亦芳源阿闍利と源師忠の関係を示して興味があります。

(九)随心院蔵の栄海撰『付法伝勘注』第三(『随心院聖教と寺院ネットワーク』第一集所載の牧野和夫論文p.88)
裏書に云く、
新渡の大仏頂タラニの序に説く、不空三蔵は北天竺亀茲国の人〔云々〕。彼の序に、那爛陀寺僧の天吉祥と智吉祥の二人は宗(「宋」か)朝に来り之を記録す、と。件のタラニの本は勧修寺に在り。恵什闍利、宋朝の本を感得して寛信法務に与え了んぬ。
〈コメント〉
是は寛信自身の言葉ではありませんが上に見た諸史料に照らして、やはり寛信の識語が元にあったと考えられます。

(以上)

近日中に此の記事の梗概を少し視点を変えてHP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス」欄に掲載する予定です。(平成22年2月4日)
法流相承の問題点という観点から上記HPの「真言情報ボックス」欄に同じく「8. 勝定房恵什と寛信法務」と題して記事を書きました。一見して下さい。(平成22年2月14日)
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金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(その三)

2009-10-27 03:10:11 | Weblog
平成21年10月27日
金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(其の三)
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には金沢文庫保管重文称名寺聖教の事です)

前に賢覚法眼の口説を宗命が記した諸尊法の口決集類を紹介しました。又それらは金沢称名寺第二世の明忍房剱阿が経助法印から譲り受けたものであるらしいと述べました。当初は口伝書類と一具(セット)の形で諸尊の次第類も多数収蔵されていたであろうと思われますが、現在はその多くは散逸してしまってあまり残っていないようです。それでも『称名寺聖教目録』を一覧して五本の次第・口決類を確認したので報告します。見落としもあるでしょうから、実際にはまだまだ関連する余本が存在しているでしょう。

1. 整理番号321.42『結護事』
(奥書)
文永二年(1265)四月四日、書写し了んぬ。
          兼観
私に(云わく)、此の書は刑部卿法印御房(行厳)御自筆の御本を以って書かしめ給うなり。 但し四王供の作法、乃至四天王惣呪は別紙にあり。同じき御草なり。(本次第の中に)書き入れしめ給えり。
永仁六年(1298)四月廿八(或いは廿六)日、之を書写し了んぬ。
     法印権大僧都経助之
(コメント)
四天王の威神力によって四方を結界する作法を記しています。
奥書中の「私に(云わく)」の文は誰が書いたのかよく分かりませんが、若し経助が直接兼観から書写を許されたのであれば経助の記となります。また奥書中の「兼観」二字は特に大きく立派に書かれていますが、恐らく経助が兼観の署名を真似ているのでしょう。

2. 整理番号321.56(外題)『師秘』、(内題)『太元』
(巻中識語)
  已上、本尊加持印言
 源慶 浄秀 定快 賢覚
 相伝は右の如し。余流は蓋し此の秘決を伝えざるか。
 宗命の為に之を授く。
 久安二年(1146)三月廿三日〔判あり〕
 已上の記、秘蔵たるに依り其の(真)言は分明ならず。口伝を以って宗厳に授け了んぬ。 宗命
(奥書)
御本に云わく、
 承久三年(1221)四月十三日、御本を賜り之を書写す。
 書写以前に即ち(伝授を)受け奉り了んぬ。
          行厳
 〔遍智院僧正の御本は御自筆なり〕
  此の法を行厳僧都に授け了んぬ。
      東寺沙門成賢
  永仁六年(1298)四月廿八日、之を書写し了んぬ。
    法印権大僧都経助之
(コメント)
太元帥法の本尊加持と散念誦、護摩等に付いて記したもの。外題「師秘」の「師」は、元は太元帥の「帥」であったかと思われます。
理性院流の正統である行厳が当流の面目である太元法に関わる秘書・秘決を、余流(三宝院流)の成賢僧正から受けている所に興味があります。

3. 整理番号321.150(外題)『摩訶迦羅天』、(内題)『摩訶迦羅神法』
(奥書)
御本に云わく、
 弘安元年(1278)八月廿六日、之を書写す。
伝受し奉り了んぬ。   観高之
永仁三年(1295)二月十九日、証聞院に於いて書写し了んぬ。
伝受し奉り了んぬ。
   法印権大僧都経助之
(コメント)
摩訶迦羅(マカキャラ)は梵語で、漢訳して大黒と云います。即ち此の本は大黒天法の道場観・本尊印言等を記したもので、古くは折紙(おりがみ)に記して伝授していたのですが、鎌倉時代になると此のように一帖にまとめて記すのが一般化しました。
観高(1260―1313―)は証聞院宗遍の弟子で、法流の正統をめぐって仙覚と争論を展開しました。また観高は理性院流の直系としては初めて僧正に任じ、同じく初めて東寺長者(三長者)になった人です。

4. 整理番号339.65(外題)『大元略次第』、(内題)『太元法頚次第』〔略次第なり〕
(奥書)
          沙門行―〔厳〕記
御本の記に云わく、
 伝受し奉り了んぬ。委曲の口伝は別紙に之在り。
 貞永元年(1232)十二月廿日、醍醐寺理性院の東廊に於いて書写し了んぬ。
     求法末資金剛仏子観俊
 文永二年(1265)二月十八日、八幡御山愛染王堂の御宿房に於いて先ず御本を以って伝受し奉り了んぬ。同十九日、同じき御本を以って之を書写す。〔一校し了んぬ。〕
 委曲の口伝は別紙に之在り。
     求法末資金剛仏子兼観
 此の法、弘安五年(1282)二月廿二日に仙覚阿闍利に授与し了んぬ。委曲の口伝も悉く以って之を授け了んぬ。
  法印権大僧都宗厳(「厳」は「遍」の誤りでしょう)
 永仁六年(1298)四月廿二日、本伝を以って之を受く。同廿四日、之を書写し了んぬ。
   法印権大僧都経助之
(一紙空白)
 此の法の委曲の口伝、悉く以って授け奉り了んぬ。
  権少僧都仙覚
(コメント)
理性院行厳作の太元法の略次第です。残念な事に此の本は欠失部が二カ所あり、現状では道場観や本尊印言等の肝要部はありません。肝心の部分だけ抜き取られてしまっています。
奥書はかなり長いものですが、それに依って単純に相承次第を記すと、
行厳―観俊―兼観―宗遍―仙覚―経助
と成りますが、兼観と宗遍は観俊の付法弟子の双璧です。特に宗遍は観俊の嫡弟とされていますが、此の書に関しては相伝せず、同門の兼観から伝領したもののようです。

5. 整理番号339.83『不動護摩私記』
(奥書)
建長六年(1254)八月廿六日、理性院に於いて書き了んぬ。
同九月一日、伝受し奉り了んぬ。
       求法末資宗遍
(コメント)
常の息災五段護摩の次第です。現行の成賢の次第と比較すると、本尊段と世天段に小異が見られます。

(以上)
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金沢文庫の実賢記『秘法記録』

2009-08-17 21:09:36 | Weblog
平成21年8月17日
金沢文庫の実賢記『秘法記録』
(「金沢文庫」とあるのは金沢文庫保管重文称名寺聖教のことです)

最近『称名寺の新発見資料』なる小冊子を見ていて「28 秘法記録 写本 一巻 鎌倉時代」が金沢文庫の整理番号328.132『秘法記録』と同本である事に気づき、改めて本文を読み直してみました。是は金剛王院大僧正として知られる実賢(1176―1249)が宿願の如意宝珠造顕を果たした事を記した興味ある日記であり、短篇の記録でもあるので、とりあえずここに全文を国訳で紹介し、後日ホームページの「研究報告」欄で現代語訳と解説或いはコメントを掲載します。

秘法記録
寛元四年〔歳次丙午〕閏四月廿五日癸丑〔婁宿、日曜〕。今日より三七箇日を限り加行を始む。金・銀・香木等を加持する作法〔別に在り〕。同五月十二日〔己巳〕、賀茂社〔上宮〕に参籠す。社頭に於いて此の事を遂ぐべきに依ってなり。且つうは神眷を仰がんが為に兼ねて潰肉を去らんが為なり。須らく七ケ日参籠すべしと雖も、去る比の内相府の御祈の事、禅定大閤の別なる教命あるに依って固辞に処無し。憖(なまじい)に延ばして今日に及び畢んぬ。十四日辛未、太相国より御消息あり。御夢相の事なり〔云々〕。十六日癸酉〔斗宿、土曜〕、亥の刻、無為に大事を果遂し了んぬ。其の間の作法・支度等〔別に在り〕は細記に及ばず。高祖遺告の旨を守り、先師勝賢の跡を討ね、管見に任せ、口伝に就きて行を果たせる所なり。倩ら事の情を案ずるに斯の法は密蔵の肝心、門徒の最秘なり。而るに世の澆季に及び、法の襄末に至って、謬って愚昧の質を以って輙く此の大事を果たす事、冥に付き顕に付き、恐るべし、憚るべし。此の事は東大寺の治承回録の時、先師僧正深く之を悲歎し、静賢法印に示し合わせ、重源〔南無阿弥陀仏〕・蓮阿上人等を相勧めて造営の功を励まさしめんと擬す。而るに世襄(みだ)れ、民薄くして莫大の功を成し難ければ、此の宝体を造顕して廬遮那仏の御身に籠め奉るべき由、密かに之を相議し、遂に造立し畢んぬ。其の後、両国〔周防・備前〕を寄付せられ、万人の知識は奉加す。又思いの如くに成就すれば、時に法験なるかと称す。彼の造立時の作法は一向に南無阿弥陀仏の沙汰なり。彼の時の口伝日記を南無阿弥陀仏は蓮阿上人に授け、蓮阿上人は愚老に授く。今粗(あらあ)ら此の儀に付きて造立せしむべきなり。愚老は往年より今に至るまで此の法を修すること、長日の勤めと為て随分の薫修を積む。又造立の大願を発してより多年の淳懊を送る。今機熟して時至り、不慮に果遂し了んぬ。懇念の至誠を思う。若しは宿執の然らしむるか。之に依って世の為に若しは一分の益あるべき者なり。身の為には更に万端の訕(セン/そしり)を顧みざるなり。心中の願望は冥鑑定めて明らかなる者か。
十七日甲戌、晨朝より十二口の衆を結び不断宝篋印陀羅尼を誦す。一百ケ日を限るべきなり。
八月廿九日〔乙卯〕、陀羅尼、百ケ日を満たし結願せしめ了んぬ。日数は昨日満たすと雖も存ずる旨あって、今日を以って結願と為す。
九月四日〔己未〕、天晴る。大相国の御亭に参じて面(まのあたり)に之を授け奉る。事の次第を思うに因縁浅からざる者か。頂して退出し了んぬ。〔愚老実賢、之を記す。〕
 〔本に云く、私に云く、已上は御自筆なり。〕
去年五月十六日、八幡宮に七ケ日参籠して三時の護摩〔秘法〕を修す。祈請の事あり〔一向に宝体造顕の趣きなり〕。別当耀清の来謁し相語らいて云く、去る十二日に夢想の事あり〔云々〕。記〔別に在り〕は同じく重宝の事なり。〔記は別に在り〕。耀清に随喜の気あり。参籠の事は去る十二日より心中に発願する所なり
 〔愚老、之を記さしむ。生年ゝゝ〕
 〔写本に云く、〕
 文永五月〔年か〕八月十六日、山本禅室に於いて書写し了んぬ。
     権大僧都勝―〔円〕〔春秋四十〕
 弘安元年二月廿四日、亀谷尺迦堂に於いて書写し了んぬ。 定仙〔春秋四十七〕
 〔師の口伝に云く、此の抄は実賢僧正、之を記す。〕

(以上。国訳は総て整理番号328.132の本を底本として行いました。『称名寺の新発見資料』本は全文を見ていませんが、掲載写真を見る限りほとんど全同と言えそうです。)

(追記:平成21年9月20日)
ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に現代語訳と解説を掲載しました。一読して下さい。
なお本文の初めの所の上賀茂社に参籠することを記す部分で「兼ねて潰肉を去らんが為」と書きましたが、「肉」の字は写本では草冠に「肉」と見えます。しかし、いくら漢和字書を調べても此のような字は見出すことが出来ませんでした。『称名寺の新発見資料』に翻刻が載せられている事を友人から指摘されて見てみると、「腐」と翻字されていました。恐らく是が本の字であったのでしょう。
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『匡房卿記』と真言記録

2009-07-03 06:42:58 | Weblog
先日「新発見の『匡房卿記』逸文」に対してニールス・グュルベルク氏からコメントが寄せられ、私も『国語と国文学』平成元年十月号に収載する氏の「岩瀬文庫所蔵『言談抄』と大江匡房」に目を通したりしてみました。私は日本史や国文学の専門の研究者では無いので大江匡房についても事典程度の知識しかありませんが、近日中に(今月末を目途に)この欄を使って『匡房卿記』と真言記録について少しく所感を述べたいと思います。(平成21年7月3日)

大江匡房(1041―1111)と真言記録
真言事相に関連して引用される匡房記に「即位潅頂」の淵源に付いて論じる際の『後三条院御即位記』(群書類従7)があります。即位潅頂とは天皇が即位する際に密教の印と真言を結誦して仏の加護を祈念する作法であり、又「四海領掌の大事」とも云います。この即位潅頂に付いて記した最初の記録が上の匡房作『即位記』であると主張される事があります。匡房は当時蔵人(くろうど)として治暦四年(1068)七月に行われた後三条天皇の即位式の始終を間近に見て、それを記録に留めた訳ですから文章自体は信用できます。即位潅頂との関連で引用される文章は、
新天皇は(小安殿から大極殿の高御座に向かう時に笏を持たず)手を結んで大日如来の如くであった。即ち拳印を結んでいた。
と云うものです。大日如来で「拳印」と云うと普通は金剛界大日の智拳印を指しますが、この場合もその意味でしょう。
次に純粋な真言記録の別記として『中御室御潅頂記』(続群書類従26上)があります。中御室(なかおむろ)とは白河天皇の皇子覚行法親王(1075―1105)のことで、寛治六年(1092)三月に仁和寺観音院に於いて寛意大僧都(1054―1101)から伝法潅頂を受けました。匡房の官位はその時正三位参議で左大弁を兼ねていましたが白河院から命を受けて此の仏事に立ち会い、恐らく日記に事の始終を記録したものが後に別出されたものと思われます。伝法潅頂に伴う施設荘厳と参仕の僧俗、また外儀の始終等が詳しく記されています。本文中に潅頂作法が終わってから行われる「歎徳」の文が掲載されていますが、是は勿論匡房の自作でしょう。考えてみるとその大半は散逸してしまったにしても、白河院の近臣として匡房が立ち会った真言供養や御修法(みしほ)の多くが匡房の手に依って詳しく日記に書き留められたに違いありません。
次に『江家次第』(新訂増補故実叢書23)に載せる仏事はほとんど顕教法会に関するものですが、巻第三の「御斎会」の条にわずかながら内論義に於ける「真言僧綱」すなわち後七日御修法(ごしちにちみしほ)阿闍利の加持香水に言及する事と、巻第十三の寛治七年(1093)「法勝寺薬師堂に於いて丈六観音を供養する次第」の条を挙げることが出来ます。此の条は密教の作法による開眼供養の次第が記されています。前条には永保三年(1083)の「法勝寺御塔(供養)会次第」が載せられています。此の塔は純粋な密教の塔なのですが(後文で説明します)、その供養は伝統的な南都の顕教法会によって行われました。
『朝野群載』巻第二には「帥江納言」作の永保五年(三年1083の誤り)十月一日「法勝寺御塔供養呪願文」を採録していますが、是に依って八角九重大塔の中尊が八尺の金剛界五智如来であり、内部の柱絵には金剛界曼荼羅の諸尊が描かれていた事、更には同時に供養された八角円堂が三尺の白檀の愛染明王を祀る堂であった事が分かります。
真言関係の史料が最も多くあるのは『江都督納言願文集』(六地蔵寺前本叢刊3、大日本史料各巻)です。尤も内容を通覧した訳では無く、ただ願文の目録を見てそう言った迄です。それでも少し目を通して気の付いた所を述べてみます。
(1)巻第一 天仁二年(1109)二月二十七日の「白河院(法勝寺)北斗曼荼羅堂」
安置の仏像が金輪仏頂(きんりんぶっちょう)、北斗七星とその眷族等であるから当然と思う向きもあるでしょうが、此の願文は非常に密教色の濃厚なものと成っています。即ち「龍猛(りゅうみょう)・龍智は八葉の花を踏み、瑜伽瑜祇、三密の水を潅ぐ」と云い、又「(阿)頼耶の門を排(おしひら)いて阿字の殿に入る」と述べています。
(2)巻第一 天永元年(1110)十一月二十六日の「真言寺に於いて多宝塔を造立せらるる願文」
「真言寺」とは小野の曼荼羅寺のことです。文中に「検校権少僧正(少は衍字)範俊は朕が宝算を祈らんが為に、朕が玉体を全うせんが為に、弘願を発して浄財を捨て、多宝塔を造り奉る」と云います。巻第一は「帝王」の願文を集成してありますから此の「朕」とは鳥羽天皇のことです。即ち曼荼羅寺検校の範俊が私財を用いて鳥羽天皇の奉為(おおんため)に寺内に多宝塔を建立したのですが、範俊が検校であったからには当時の別当が誰であったのか気になります。
しかし真言事相の面からもっと気になるのは続きの一文です。即ち「等身金色大日如来一体を居し奉る。四面皆,栴檀の香を出だして、虚空界の月に異ならず」と述べていますから、どうやら此の大日如来は一身四面の像であったらしいのです。四面大日自体は金剛智訳の『略出念誦経』巻第一に説かれていますから正統な由緒正しい教説であると主張する事も可能でしょうが、実際にはほとんど取り上げられることも無く、造像の記録も皆無に等しいかと思います(尤も中世後期以降の事はよく知りません)。私事で恐縮ですが、昔醍醐寺に勤めていた頃に曼荼羅寺の後身である随心院の方へ散歩に出かけ、近辺の草むした祠の中に四面大日が安置されてあるのを見て奇異の感を抱いた事を覚えています。ひょっとすると範俊が造立した多宝塔の由緒を伝えていたのかなと思ったりします。
以上、思いつくままに大江匡房と真言記録について記しました。今後も暇を盗んで『江都督納言願文集』や今回全く触れる事が出来なかった『江談抄』を読み、何か興味深い発見等があったら本欄に又報告します。(平成21年7月30日)
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金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(その二)

2009-03-02 04:16:13 | Weblog
金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(その二)
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)

(平成21年3月2日)
7. 整理番号272.4『祈雨抄』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
理性房賢覚法眼が請雨経法に関する小野僧正仁海と勝覚僧正の口伝を書き記した書(奥書の中で「此の文」と云う)。それを宗命が書写した本の転写本です。
(奥書)
天養元年(1144)九(月)七日、此の文を賜り、同九日〔卯の刻〕許に書き移し了んぬ。三日三夜の間に書き了んぬ。(法眼)御房の御自筆を以て書き了んぬ。   最極秘なり。
 故僧正御房(勝覚)の口伝并に故小野僧正御房の口伝の祈雨、即ち此の文に皆書き了んぬ。
故僧正御房、法眼御房に授けしめ給える祈雨□、此の文に皆書き了んぬ。
 (行アケ)
文永五年(1268)十月七日、書写すること了んぬ。即ち交し了んぬ。鳥羽上綱(宗命)御自筆の御本を以て書き了んぬ。     兼観
 (行アケ)
             一校し了んぬ。
(コメント)
本書は理性院流の請雨経法に関する根本口決書と言う事が出来るでしょう。又三宝院流や金剛王院流に相伝する口決を検討する上でも重要な基準を提供していると云えます。
天養元年に(法眼)御房の自筆本を以て書写した人物が宗命であると断定はできないにしても、又一方に於いて兼観の奥書を疑う必要も無いでしょう。宗命は鳥羽殿の壇所に於いて修法に精励した事から鳥羽僧都と称されましたが、今の「鳥羽上綱」なる尊称が宗命を指すことは兼観の法流からして間違いない所です。

8. 整理番号272.5『軍荼』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
理性院宗命作の真言事相に関する雑記。初めに「求法沙門メイ(梵字)記」と記しているが「メイ」は勿論宗命の「命」のことで、元来宗命はシュウミョウでは無くシュウメイと称していたらしい。
題名からすれば始めに軍荼利明王に関する口伝が述べられていそうであるが、実際には最初護摩法について記し、別段軍荼利法に関する記事は見られない。中程に康治二年(1143)十二月八日の宗命の潅頂入壇記があり、又久安六年(1150)の年記が数箇所にあります。
(奥書)
文永五年(1268)十一月十三日〔亥の尅〕、鳥羽僧都御房(宗命)御自筆の正本を以て書写すること了んぬ。
交すること了んぬ。       兼観
 (行アケ)
永仁六年(1298)十二月朔日、之を書写し了んぬ。
           法印権大僧都経助之
    校合し了んぬ。
(コメント)
奥書はここに紹介する一連の宗命方聖教に於ける一典型を示しています。即ち兼観が宗命自筆の本を以て書写し、それを経助が書写すると云うものです。
更に云えば、その本を金沢称名寺の剱阿が伝領あるいは購入して現在に至るまで称名寺聖教として伝えられて来たのです。

9. 整理番号272.6『雑記』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
「五指量事」の前に「雑記口伝集」と云い、是が草本の題名であったかとも思われます。
諸尊法について理性院宗命が雑々三十一箇条を記した書です。多くは本師理性房賢覚法眼の口説に依ったものと考えられます。「金門鳥敏(かのととりのとし)」の条に「法眼御房の語り仰されて云く」と言う等、何箇所かに賢覚の口説である事を書き示しています。
(奥書)
本に云く、
 文永五年(1268)十一月十三日、書写すること了んぬ。
 交すること了んぬ。       兼観
 (行アケ)
 永仁六年(1298)十一月三十日、書写すること了んぬ。
       法印権大僧都経助之
 (行アケ)
          一校し了んぬ。
(コメント)
後年に宗命が諸尊法に関する口伝を記して『授心抄』三帖を完成する以前に、諸尊法に関する各種の草本を執筆していた事を伺わせて興味深く思われます。

10. 整理番号272.8『対聞記』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
理性房賢覚の口説を宗命が記した真言事相に関する雑記。受法の年記や祖師に付いて記す条が多くあり、真言宗史の立場から史料的価値が高いと云えます。
本文の初部に篇目(目次)を記した貼紙がありその初めに「対聞記篇目〔私に之を注す〕」と言います。此の貼紙に更に貼紙をして「対聞記、桑門メイ(梵字)之」と記していますが、8−『軍荼』に述べたように「メイ」は宗命のことと考えられます。
(奥書)
本に云く、
文永五年(1268)十月十三日、書写すること了んぬ。
  即ち交すること了んぬ。       兼観
 □仁□年(永仁六年1298)十一月廿六日亥の剋許(ばかり)、書写し了んぬ。
            法印権大僧都経助之
 (行アケ)
          一交すること了んぬ。
(コメント)
特に言う事もありません。後日ホームページに「研究報告」欄を新設して内容を抄出します。

(平成21年3月8日)
11. 整理番号272.9『太』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
太元帥法以下の諸尊法や事相上の問題に付いて理性房賢覚の口決を宗命が記した書です。久安二年(1146)、同四年、同六年の年記が見られますが一例を挙げておきます。
久安四年〔歳次己亥〕六月十三日〔亥の刻〕、法眼御房(賢覚)より後七日御修法并に御薬加持作法を受く。(久安四年の歳次は「戊辰」であり「己亥」は誤写と思われます。)
(奥書)
 (ナシ)
(コメント)
写本の最後に賢覚が「五宮」/「故宮」に進呈した「観音法事」と「観音供事」の二箇条を載せています。此の「五宮」とは普通は鳥羽院の第五皇子である紫金台寺御室覚性(1129―1169)を言いますが、宗命の寂年が承安元年(1171)である事などを考え合わせると本書に於いて覚性を「故宮」と称することに少し問題があるように思えます。

12. 整理番号272.11『別法』
表紙左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
是も理性院宗命が賢覚法眼の口伝を記した諸尊法の口決集です。題名の「別法」とは別尊法すなわち諸尊法のことを言っているのでしょう。
見開きの貼紙に「別法〔篇目。私に注す〕」と題して「仁王法御加持呪」以下二十五条を挙げています。
(奥書)
 (ナシ)
(コメント)
巻中識語と云うべき「求法沙門宗命受法記」があり、それに依れば宗命は保延四年(1138)七月の19歳の時から賢覚に随逐師事し来ったと言います。ホームページ「研究報告」に全文を紹介する予定です。

13. 整理番号272.7『十八道頚(くび)次第』
内題に「十八道頚次第〔付如意輪〕」と云う。
(内容)
小野流諸派で四度加行に用いる延命院元杲(914―995)作の『如意輪次第』を簡略にしたものと思われますが、流布本の元杲次第と比較して項目の前後相違や出没(しゅつもつ)が見られます。
(奥書)
文永四年(1267)五月 日、理性院に於いて之を書写すること了んぬ。
               仙覚
(コメント)
上野僧都仙覚(1250―1304―)は前にも記したように兼観律師と宗遍法印の潅頂弟子であり、その他に中性院法印頼瑜からも諸流の伝法を遂げています。又理性院の院主代を勤めもした鎌倉時代後期の理性院流を代表する学僧の一人です。猶お同時代に『万葉集』研究家として知られた天台の仙覚律師(1203―72―)がいて近世の僧伝類で混同されている場合があります。
さて今の写本の書写あるいは伝領の経緯はよく分かりませんが、理性院流宗命方の嫡流を相承する仙覚の書写本であると云う理由で、この第272函の剱阿が収集した宗命方聖教と一具にして保管されて来たのでしょう。

14. 整理番号18.1.1〜3『授心抄』上中下三帖
本書は理性院僧都宗命作の諸尊法口伝集として『青表紙』と並んで古来名の知られた書です。本文に記す所から内容の大半は理性房法眼賢覚の口説を集記したものである事が確認できます。
此の写本は三帖総て表紙左下に梵字で「ケンア」と書き記されています。又詳しく言及することは出来ませんが、残念ながら本写本は成立以後に相当数の尊法が抜き取られているようです。
14−1. 整理番号18.1.1『授心抄』巻上
見開き部に篇目(目次)を載せ、「守護(経法)」以下十六法を書き示しています。是に依って本帖の場合は欠落部が特定できます。
(奥書)
 (ナシ)
14−2. 整理番号18.1.2『授心抄』巻中
篇目はありません。愛染王法以下の諸尊口決集です。
(奥書)
 (ナシ)
14―3. 整理番号18.1.3『授心抄』巻下
篇目はありません。不動法以下の諸尊口決集です。
(奥書)
正安元年(1299)十一月二日未剋許(ばかり)に/書写すること了んぬ。
   正本の第二転なり。
        法印権大僧都経助本
(コメント)
他の奥書から推測すれば「正本の第二転」とは、先ず宗命の自筆原本を以て兼観が書写し(初転本)、それを経助が書写したとも考えられます。しかし兼観の奥書が無い事からすれば、誰か兼観以外の人物の初転本を以て書写した可能性が高いように思われます。

(平成21年3月10日)
(総評)
称名寺の明忍房剱阿は真言事相の諸法流を相承することに大変な熱意を以て尽力した人であり、現在国の重要文化財に指定されている称名寺聖教に於いても剱阿の書写或いは収集した文書群が質量ともに異彩を放っています。理性院流の相承に関しては櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』に依れば、剱阿は理性院流賢信方を願海と覚照から相伝し、また同流宝心方を定仙から受けています(p.558,559)。しかし理性院流諸派の中でも嫡流と思(おぼ)しき宗命方を相承した形跡は一向に見られません。従って剱阿が宗命方聖教を入手した経緯もよく分かりませんが、奥書中に名を記す経助法印から譲与された可能性が高いようです(同書p.391,400,572参照)。もう一つ注意すべきは剱阿は又三宝院勝覚、三密房聖賢、理性房賢覚などの付法弟子である醍醐の淳観阿闍梨の法流を受けていますが、その相承次第の中に5『肝心集』の書写奥書を記した宗遍の名が見える事です。即ち同書に相承血脈を示して、
範俊 勝覚 賢観 増仁 (中略) 真空 観俊 宗遍 静怡 智照 剱阿
と云いますが(p.559)、ただ「賢観」は諸資料に照らして「賢覚 淳観」の誤りです。
さて江戸時代の智積院謙順(1740―1812)が増補校訂した『諸宗章疏録』には理性院宗命僧都の著作として「授心抄」と「秘密鈔三帖」を挙げていますが、謙順自身は恐らくこれら両書を実見に及んでいないと考えられるので、果たして両書の同異如何という問題もあります。『密教大辞典』の「宗命」の項では更に「真言肝心抄二巻」を挙げています。
一方、中性院頼瑜法印(1226―1304)の『秘鈔問答』に於いては、理性院流の口伝を紹介する為に宗命の「授心抄」と「青表紙」がしばしば引用されています。『青表紙』は上の謙順録に於いては理性院宝心阿闍梨の作と成っていますが是は間違いです。例えば『秘鈔問答』の「孔雀経法」に引く「青表紙」の文(大正大蔵経79,p.365a)は上に紹介した12『別法』にありますし、同書「転法輪法」に引く「理性院青表紙」の文(同p.468a)は8『軍荼』に同文があります。
以上の事から『青表紙』に付いて一つの推論が成り立ちます。それは宗命が理性房賢覚から受法した口決類を記した一群の伝受録、乃至はそれらを一部にまとめた書を『青表紙』と云い、後年に至って宗命が賢覚の口伝に依って系統的に諸尊法について記した書が『授心抄』と称されたという事です。

以上


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金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告

2009-01-30 04:45:46 | Weblog
平成21年1月30日
金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(その一)
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)


三宝院流・金剛王院流と並んで醍醐三流の一つに数えられる理性院流は権僧正勝覚の付法弟子理性房法眼賢覚(1080―1156)を流祖と仰いでいますが、賢覚の潅頂弟子はおよそ三十人の多数にのぼりました。その中には高野に大伝法院を建立して鳥羽上皇の帰依を一身に集めた覚鑁上人も含まれますが、後世理性院流の名を高からしめたのは宝心・宗命という二人の写瓶(しゃびょう)弟子であったと云う事が出来ます。金沢文庫には第272函を中心にその宗命方の聖教群が収蔵されていますが従来あまり注目される事がありませんでした。この「研究報告」ではそれら宗命方聖教に関する内容の概略と奥書を報告し、後日ホームページ『柴田賢龍密教文庫』に「研究報告」蘭を新設して話題性のある記事を抄出してより詳しく紹介します。

金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教暫定目録:
1. 整理番号272.1〜6 これは大正新修大蔵経第78巻に収載する『小野六帖』と同本ですが理性房法眼賢覚之本を祖本としている点が異なります。もっとも更に遡れば鳥羽殿の経蔵の本を覚鑁上人が書写校合し、それを三宝院権僧正勝覚が写した本が元に成っている点では同じです。又大正蔵本の巻次は暫定的なものですが、金沢文庫本には元の巻次が記されていて貴重です。今此の文庫本『小野六帖』を元の巻次に従って紹介します。
2. 整理番号272.10『二条』 これは元来『小野六帖』九帖の中の一帖であったかと思われるものです。「二条」とは大師の『二十五箇条御遺告』の第24・25両条を言います。作者不明。
3. 整理番号272.12『ユキ惣記』 これは真寂法親王作『瑜祇惣行記』ですが、是も元は『小野六帖』九帖の中の一帖になっていたと考えられる書です。
4. 整理番号118.6『授与記』 賢覚口・宗命記の諸尊口決。
5. 整理番号272.2『肝心集』 賢覚口・宗命記の諸尊口決。
6. 整理番号272.3『キウ日記 三宝院/雨』 先に続群書類従第25輯下にも収載する『永久五年祈雨日記』を筆記し、後に「夢記」以下の七箇条があります。宗命記。
7. 整理番号272.4『祈雨抄』 賢覚記。請雨経法に関する仁海と勝覚の口伝を記したもの。
8. 整理番号272.5『軍荼』 宗命作の真言事相に関する雑記。
9. 整理番号272.6『雑記』 賢覚口・宗命記の諸尊法に関する雑記。
10. 整理番号272.8『対聞記』 賢覚口・宗命記の真言事相に関する雑記。
11. 整理番号272.9『太』 賢覚口・宗命記。太元帥法以下の諸尊法に関する口決を記したもの。
12. 整理番号272.11『別法』 賢覚口・宗命記の諸尊法口決集。
13. 整理番号272.7『十八道頚(くび)次第』 四度加行(しどけぎょう)に用いる十八道次第(如意輪法)のやや簡略なもの。
14. 整理番号18.1.1〜3『授心抄』上中下三帖 賢覚口・宗命記。『青表紙』と並んで宗命作の広範な諸尊法に関する口伝集として古来よく名の知られた書です。



平成21年2月2日
内容の一部訂正:
『小野六帖』の書写次第に関して上に、覚鑁上人の本を三宝院勝覚が写した旨を記しましたが、是は全くの間違いです。以下に紹介する奥書類に明らかなように上人が鳥羽殿に於いて『小野六帖』を書写校合したのは長承二年(1133)の事であり、それを勝覚(1057―1129)が写すことはあり得ません。訂正してお詫びします。勝覚の本は義範僧都乃至範俊僧正の本を書写したものと考えられます。詳しくはホームページの「研究報告」に記す予定をしています。
又大正大蔵経の『小野六帖』と金沢文庫本とは同本では無く、異本と云うべきです。重ねて訂正してお詫びします。


(平成21年2月9日)
1―1. 整理番号272.1.2『宿曜私記〔付古事要文、北斗事〕』
写真帳の最初に『小野六帖』の原包紙かと思われる写真があり、その紙の左下に「小野六帖〔九帖〕」と記されています。次の写真はその裏側らしく『小野六帖』九帖の題目が列記してあります。普通の六帖以外の三帖は、「ユキ惣記一帖/二条一帖/万廿糸大六人一帖」です。猶大正大蔵経の『小野六帖』には巻第七「伝法潅頂〔昼行式〕」が収載されていますが、この包紙裏書によって金沢文庫本には元来此の巻の無かった事が確認できます。
(奥書)
理性房法眼(賢覚)の本を以て書交し了んぬ。
其の後三密房(聖賢)并に三宝院(定海)の本を以て交し了んぬ。
理性院の本は権僧正御房(勝覚)の本を以て書かる〔云々〕。
(見せ消ち)「治承二年(1178)六月廿日申尅、白河房に於いて書写せる本。遍智院の二合篋の本なり。」
〔元暦元年(1184)、校し了んぬ。燕脂を以て之を点す。
本に云く、長承二年(1133)七月十七日、交点す云々。六并に九の内〕
覚バン(梵字)上人、鳥羽御蔵の本を申し出だして或いは書写し、或いは校合し了んぬ。件の本を隆アザリ(梵字)より借請す。而して校合し、而して燕脂を以て之を点す。
  已上墨并に燕脂は写本に之を記す。
  〔承元四年(1210)八月十二日云々。 行兼云々〕
第一帖〔宿曜 北斗 古事 要文〕
 勝倶胝(しょうくてい)院僧都(実運)、外題を書かれ了んぬ。
     一交し了んぬ。
(コメント):
此の帖は大正蔵本『小野六帖』では巻第六とされています。
やや煩雑な奥書です。理性房の本を書写し、その後三密房と三宝院の本を以て校合した人物が誰かは未詳です。次の「第二帖」のコメントを見て下さい。
又治承二年に遍智院の本を以て書写し、更に元暦元年に隆アザリから覚鑁上人の本を借り出して校合結果を臙脂で記した人物も亦未詳です。「隆アザリ」に付いては272.1.4『大師伝法潅頂私記』の奥書に出る「隆位阿闍梨」かと考えられます。参照して下さい。
承元四年に此の帖を書写したらしい行兼なる人物は、理性院宝心阿闍梨の孫弟子に当たる覚円房行兼らしく思われます。最初にも記しましたが宝心阿闍梨は宗命と共に賢覚法眼の写瓶弟子として当時高名を馳せた僧です。宗命は亦宝心の写瓶弟子でもありました。

1−2. 整理番号272.1.1『胎疏并儀軌等序要文千心』
(奥書)
(見せ消ち)「治承二年(1178)八月一日、白河房に於いて書校す。写本は遍智院の御本なり。」
(見せ消ち)「本□記」
遍智院の本は理性房法眼(賢覚)の本を以て書写せしめ御す。其の後三密房并に三宝院の本を以て交合せられ了んぬ。
理性院の本は権僧正(勝覚)の御本を以て注され書写せらる〔云々〕。
〔長承二年(1133)七月日、(鳥羽)槻御蔵の本を以て密厳院聖人(覚鑁)は之を校合す。其の後件の本を以て□□□年に校合し、燕脂を以て之を点す。〕
   已上墨并に燕脂は写本の記なり。
(コメント):
写本の裏表紙の左肩に「第二帖」と記されています。
此の帖は大正蔵本『小野六帖』では巻第五としています。
「千心」とは『小野六帖』の編著者である小野僧正仁海(951―1046)を言います。
奥書中の「遍智院の本」の「遍智院」が誰を指しているかと云えば、恐らく遍智院律師林覚の弟子で同院を譲られた行朝法橋(―1115―72―)であろうと考えられます。行朝は亦三宝院定海と三密房聖賢の潅頂弟子であり、永治二年(1142)には大僧正定海の推薦によって白河尊勝寺の供僧に成っていますから(『醍醐雑事記』巻第七p.252)当然白河に住房を構えていた筈であり、奥書の記述に合致します。但し理性房賢覚と行朝の関係はよく分かりません。
「理性院の本」とは理性院に相伝する正本の意味で、即ち「理性房法眼の本」の事です。

1−3. 整理番号272.1.5『雑私記大師記〔不断修法結番作法〕』
(内題)大師御筆次第
(奥書)
(見せ消ち)「写本□云く」
天養元年(1144)十二月廿八日、理性房法眼(賢覚)の本を以て書写し校すること了んぬ。〔此の本は権僧正御房(勝覚)の本を以て書写せらる云々。〕
重ねて三密房(聖賢)の本を以て校し了んぬ。
其の後三宝院(定海)の本を以て見合わせ了んぬ。
(見せ消ち)「治承二年(1178)七月八日、白河房に於いて書写し校すること了んぬ。本は遍智院上綱の御所持なり。」
〔元暦元年(1184)九月廿三日、高野の本を以て安養山に於いて校合し了んぬ。燕脂を以て之を点す。件の本は鳥羽御蔵の本を以て長承二年(1133)七月十六日に交せしめ給い□なり。〕
  已上墨并に朱は写本の記なり。
第三帖
   一交了んぬ。
(コメント):
此の帖は大正蔵本『小野六帖』の巻第四に相当します。
「遍智院上綱」の上綱とは、この場合は院主のことを尊敬して言っているのでしょう。具体的には前項に述べた如く行朝法橋を指すと考えられます。
「高野の本」とは、高野大伝法院の覚鑁上人の本という意味です。
「安養山」に付いては未詳ですが次項の奥書を参照して下さい。

1−4. 整理番号272.1.4『大師伝法潅頂私記』
(奥書)
(見せ消ち)「治承二年(1178)八月廿九日、遍智院の御本を以て書写し畢んぬ。
本の日記」
遍智院の本は理性房法眼の本を以て書写せしめ御す。其の後三密房と三宝院の本を以て交され了んぬ。
 理性房の本は権僧正の御本を以て書写せられ畢んぬ。
           隆位阿闍梨の大神宮に詣でる時に
〔元暦元年(1184)九月廿三日、高野聖人(覚鑁)の本を以て安養山に於いて校し了んぬ。燕脂を以て之を点す。〕
校本の日記
〔本に云く、長承二年(1133)七月十九日、鳥羽殿に於いて四合の正本を以て校合し了んぬ。六并に九の内〕
   已上黒并に燕脂は写本の記なり。
      〔一交了んぬ。〕
第四帖〔金剛峯旧風〕
(コメント):
此の帖は大正大蔵経の『小野六帖』では巻第一とされています。
1−1第一帖の奥書にある「隆アザリ」に関する記事と合わせると、治承二年に遍智院本を書写した人物が六年後の元暦元年に当時伊勢大神宮に参詣に来ていた隆位阿闍梨から覚鑁上人の本を借りて校本とし、安養山に於いて臙脂を用いて校合結果を記した事が分かります。
此の隆位阿闍梨は、高野大伝法院の学頭であった隆海法印の潅頂弟子の大納言阿闍梨隆位(1147―1195)と考えられます。その法系は、覚鑁―兼海―隆海―隆位となります。
又「安養山」の寺院名は未詳です。
「四合」とは鳥羽殿の経蔵に収蔵されていた「小野聖教十二合」(普通は「四合・八合」と云う)の中の小野僧正仁海自筆の聖教四合分を言います。

1−5. 整理番号272.1.3『大潅頂作法次第』
(奥書)
(何故か一部同じ記文が二つあるので、その中の前の分を略します。)
本記に云く、
天養元年(1144)十二月廿九日、理性房法眼の本を以て書き畢んぬ。件の本は権僧正御房の御本を以て書写せらる者なり。
久安二年(1146)正月七日、三密房の本を以て重ねて校すること了んぬ。又三宝院の本を以て校し了んぬ。
  治承二年(1178)九月四日、白河御房に於いて遍智院の御本を以て書写し校すること了んぬ。
〔元暦元―(1184)校し了んぬ。校本は高野密厳院の本なり。
本に云く、長承二年(1133)七月十八日、鳥羽殿に於いて本を写し了んぬ。
同じき本を以て点すること了んぬ。四合の内。
  六帖の内。〕
    已上、墨并に燕脂は写本の記なり。
  建治元年(1275)六月廿五日、書写すること了んぬ。 道昭
       〔一交し了んぬ。〕
第五帖
              〔一交し了んぬ。〕
(コメント):
此の帖は大正蔵本『小野六帖』では巻第二とされています。
「密厳院」は密厳院聖人覚鑁を云う。大伝法院が伝法会を行う晴れの道場であったのに対し、密厳院は覚鑁の私的な修法道場であった。覚鑁上人に付いては正覚房・高野・伝法院・密厳院などがその通称として普通に用いられました。
「道昭」は報恩院憲深僧正の潅頂弟子の道昭上人(1235―)らしく思われます。道昭の書写奥書は此の帖にしか見られず、他の帖も道昭の筆写になるものか不明です。

1−6. 整理番号272.1.6『バザラダト(梵字)』
「バザラダト」は「金剛界」を意味します。
(奥書)
天養元年(1144)十二月廿八日、書き了んぬ。
本は理性房法眼賢覚の所持なり。
此の本は権僧正御房の御本を以て書写せらるなり。
久安二年(1146)正月六日、酉の尅許(ばかり)、聖賢阿闍梨(三密房)の本を以て重ねて交し了んぬ。
同じき夏、三宝院の本を以て見合わせ了んぬ。
  〔治承二年(1178)九月十二日、白河の御房に於いて遍智院の御本を以て之を書く。〕
  已上墨并に燕脂は写本の記なり。
第六帖〔印信〕
(コメント):
此の帖は大正蔵本『小野六帖』の巻第三「伝法潅頂千心(仁海)私記」に相当します。
以上1−1〜6の奥書を検討して明らかなように、此の金沢文庫本『小野六帖』の書写伝領経緯は理性院流宗命方とは直接の関係はありません。ただ理性房賢覚の本が祖本になっている為に、一群の宗命方聖教と一具にして此の第272箱に納められたのでしょう。



(平成21年2月17日)
2. 整理番号272.10『二条』
(奥書)   (ナシ)
(コメント):
弘法大師空海作とされてきた『御遺告〔二十五箇条〕』の中、第二十四、二十五両条の頭句と空海識語を書き出し、その後で語義に関する雑記を加えた短篇です。『御遺告(ごゆいごう)』第二十四条は東寺座主(長者)が相伝の如意宝珠を護持すべき事を述べ、此の相伝の如意宝珠に関して種々の口伝書・口決類が製作された事は周知の通りです。又第二十五条は「奥砂子平法」なる秘法について述べていますが、是に関しても各流毎に口伝が伝承されました。
上の1−1『宿曜私記』の初めに記したように、此の『二条』なる書は極めて短篇ながらも『小野六帖』九帖の中の一帖と考えられます。

3. 整理番号272.12『ユキ(梵字)〔惣記〕』
(尾題)瑜祇惣行法私記
(奥書)
本の奥
長暦四年(1040)三月三日、小野御房に於いて最密を受け奉り了んぬ。密中の密なり。
本記に云く、長承二年(1133)九月十九日辰の尅、鳥羽殿に於いて書き了んぬ。九帖の内(なり)。
鳥羽殿の槻御蔵の本を以て密厳院上人(覚鑁)、長承の比(ころ)に之を書写す。件の本を以て元暦元年(1184)九月廿三、書写すること了んぬ。
已上、墨并に燕脂は写本の記なり。
承元四年(1210)八月十六日に書き了んぬ。
          一交了んぬ。
(コメント):
上の1−1、4の奥書に照らして本書も元暦元年に伊勢参詣中の隆位阿闍梨から借り受けた本を以て安養山に於いて書写が行われたものであり、その後また承元四年に是を書写した人物は覚円房行兼であろうと考えられます。
上に記したように本書も『小野六帖』九帖の中の一帖です。又本書の内容については『密教大辞典』の「瑜祇惣行記」の項などを参照して下さい。


(平成21年2月21日)
4. 整理番号118.6『授与記』
外表紙の左下に梵字で「ケンア」と記されていて金沢称名寺二世の明忍房剣阿の所持本であった事がわかります。
(内容)
理性房法眼賢覚より受法した諸尊口決を宗命が記した伝受録です。文中に「(法)眼の授与し云わく」なる書き出しが三箇所にあって、『授与記』なる題名の由来を知ることが出来ます。以下、内容理解に役立つかと思える二、三の文を記します。
久安五年(1149)正月廿六日に習い奉り、聊か之を記す。」
久安六年七月三日より一院(鳥羽上皇)の御祈りに北斗法を勤修せしめ給える様を仰せられ云わく」
女御立后(にょうごりっこう)の祈祷の時に修すべき法の事
義範 勝覚 賢覚 宗命〔授与口伝〕」
(奥書)
本に云わく、
 文永五年(1268)十月十六日、書写すること了んぬ。
          兼観
 永仁六年(1298)十一月廿日、書写すること了んぬ。
       法印権大僧都経助之
(コメント)
現在此の写本は第118函にありますが、元来は第272函にある一群の宗命作の聖教と一具であったと考えられます。
書写奥書を記した兼観(1232―1274)は理性院観俊の潅頂弟子で小納言律師と称されました。又経助は理性院仙覚の潅頂弟子で後には僧正に成っています。仙覚は兼観の付法弟子でもあり、経助は兼観の孫弟子に当たります。

5. 整理番号272.2『肝心集』
外表紙の左下に梵字で「ケンア」と記す。
(内容)
三宝院勝覚が定賢法務より受法した諸尊法の肝要なる口決に関して、宗命が理性房賢覚より伝受した所を記したものらしく思われます。
本文の最初の一行に梵字で「バンvam ウu ムmu」、次の行に「水去第文力抄」と記されています。第二行の「水去」は「法」字を左右に分割したもの、「第/文力」は「務」字を左右に分割し更に右半分を上下に分けたもので、全体として「法務抄」の意であると考えられます。
以上を踏まえて初行について検討すれば、先ず梵字のvamは当時の悉曇(しったん)学で「バウ」と訓むことが出来ますから全体として「バウ ウ ム」>「バウム」>「ハウム」、即ち「法務」と解することが出来ます。「ハウ」に敢えてvam字を使用したのは此の字が金剛界大日如来の種子(しゅじ)だからでしょう。
(奥書)
久安四年(1148)二月廿九日、子の尅許(ばかり)に事了んぬ。
深く密語を仰ぎ鳥□の筆墨を染む。  生年三十
久法久為なり。後に見る人は必ず随喜すべきなり。 (梵字)「ナモアミタブ」
 (一行アケ)
宮僧正御房〔覚源〕は花山院の第十一鳥〔云々〕。
故法務御房(定賢)、習い奉り給える諸法を移す事。
 (一行アケ)
 文永六年(1269)六月十七日、書写すること了んぬ。
 同事多々□心得ざる分、正本の如くに書写し了んぬ。  宗遍
 (一行アケ)
          一校了んぬ。
(コメント)
最初の二行に「法務(の抄)」と記すが、始めに述べたように定賢法務の抄物そのものでは無い。
奥書の二行目に「生年三十」と云うから、久安四年から逆算して元永二年(1119)の生まれとなって宗命僧都の生年に合致します。
宗遍(1236―93)は光明峯寺北谷(毘沙門谷)の証聞院々主で理性院流宗命方の嫡系を相承していた人物です。その法流血脈(けちみゃく)の概要を示せば、
賢覚―宗命―宗厳―行厳―観俊―宗遍―観高―
と成ります。

6. 整理番号272.3『キウ〔日記 三宝院 雨〕』
「キウ」は梵字で「hi u」と書かれています。又表紙の左下に梵字で「ケンア」と記します。
(内容)
宗命が続群書類従第25輯下にも収載する『永久五年(1117)祈雨日記』を書写し、その後に「夢記」以下七条を記したものです。『永久五年祈雨日記』は三宝院勝覚の口述に基づいて源師頼が撰した書です。是の書写識語(奥書)に、
久安三年(1147)七月十六日。生年廿九。此の日記を賜り書き移せる間、書くに随い涙の筆端に落つ。効験の空しからざるを敬い仰ぐ〔云々〕。
と云い、次に、
嘉応元年(1169)七月十四日、夢想(以下略す)。
と記して後半部が始まります。
(奥書)
〔本に云わく〕
 久安四年八月廿四日、灸治の為に灸治を請ぜる間に集注すなり。助君(すけのきみ)家にて灸治す。生年三十なり。
 (行アケ)
  文永五年(1268)十月十三日、書写すること了んぬ。
  即ち交すること了んぬ。       兼観
  永仁六年(1298)十二月三日 子の尅許に書写すること了んぬ。
          法印権大僧都経助之
 (行アケ)
                一校し了んぬ。
(コメント)
識語中に記す久安三年、同四年の「生年」は共に元永二年(1119)の誕生である事を示して理性院宗命の生年に一致します。
本書の成立事情に付いては、「夢記」に云う嘉応元年と他の久安年間の年記との間に二十年もの隔たりがあって不審と云わざるを得ません。
奥書中の兼観と経助については4.『授与記』のコメントに述べた通りですが、兼観は証聞院宗遍と並んで理性院観俊法印の付法弟子中の英傑と評された学僧です。


(以下は字数制限の関係で新規投稿とします)
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