柴田賢龍密教文庫「研究報告」

ホームページ「柴田賢龍密教文庫」に掲載する「研究報告」の速報版です。

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称名寺本『勝賢高野参籠記』の和訳紹介

2016-01-12 22:54:20 | Weblog
称名寺本『勝賢高野参籠記.』の和訳紹介

原本は称名寺聖教の第222箱4号「勝賢日記」(外題)一巻であり、鎌倉時代正応四年(1291)に親玄僧正御自筆本を以て定仙法印が書写し、是に称名寺第二世釼阿が識語を加えたものです(和訳紹介後にコメント)。原本2紙の小篇ですが巻子本に仕立ててあります。
勝賢は醍醐寺座主実運(明海)より伝法潅頂を受けたとは云え元来仁和寺の僧でしたから、実運の次に座主に補任された時(永暦元年1160五月)、同じく実運の付法資である乗海を中心とする醍醐生え抜きの僧侶からの反発は激しく、結局数年後に大衆の力によって醍醐寺から追い払われました(応保2年1162四月)。その後勝賢は仁和寺ではなく高野に登山して、しばらく世間の事から離れて隠棲し、これを機会に教学の道に精進したようです。
高野に於いて勝賢は往生院の心覚阿闍梨に会い、その密教の法器たるに感心して、醍醐から随身して持ち来った貴重な聖教の書写閲覧を許し、或いは是を伝授しました。本史料はその時の定海口・元海記『厚双紙』の伝授に関連して勝賢が書き記したものです。尤も勝賢の真撰とする証拠は至って乏しいと言うべきでしょう。特に後半部に於いて、嫡弟唯一人に授ける「唯授一人」を強調する一段には、鎌倉中期以降の筆法が感じられます。その他の内容に付いては、史実に合致するかどうか確認できない点もありますが、特に不審な記述は無いと思われます。
一方、勝賢は実運から詳しい諸尊法の伝授を受ける機会を逸したので、心覚から諸尊に関わる委細の伝授を受けたと考えられます。即ち心覚と勝賢は互いに師資となって密教の研鑽に努めたのです。これらの事に付いて『日本密教人物事典』上巻の「勝賢」と「心覚」の条に項目別に記してあるので、詳しく知りたい方は是非参照して下さい。

和訳(冒頭第一行の右側に8字程小字の書き込みがありますが、底本に用いた影印本では不鮮明であり解読できませんでした):
右の尊法等は祖師大僧都(元海)の自鈔なり。其の旨は記の如し。又誠に宗の秘法を多く注せらる所なり。尤も秘重すべし。而して大僧都、平生の時に此の鈔を以て具に先師僧都[実運]に授けられ了んぬ。先師、又重ねて口決を加えて勝賢に授けらる所なり。爰(ここ)に勝賢は不肖(「肖」は「背」を訂)の身と雖も、偏に師跡を思うが為に之を守ること眼精の如し。然る間、先年不慮の外に本寺(醍醐寺)乱離の尅、世間出世の雑物は一切随身能わずと雖も、件の書籍并に先師の秘記等、凡そ勝覚・定海、又厳覚・寛信等の自鈔等、都(すべ)て皮子三合に納むる所二百余巻、自然に取持せしめたり(「可」を「令」に訂して訓む)。偏に是れ大師の冥助に非ざるや。残る所の書籍も数十巻ありと雖も、全く此の類には非ざるか。勝賢には誤れる所無しと雖も、悪党の結構に依りて量らざる外に寺を離るる事、是れ又宿運の然らしむるなり。敢えて愁う所に非ず。只だ重宝を失わざるを喜ぶ。自余の事は全く■歎するに足らず。就中(なかんづく)住寺の時、世務に依りて忩々(アワタダシキ様)修学に遑あらず。誠に本懐に非ざれば、歎きて年を渡る。而れば今此の難に遭えること、還って善知識と謂うべき者か。仍ち彼の年より当山に籠居すること、偏に修学の本意を遂げんが為なり。爰に心覚阿闍梨は、年来の師弟・骨肉の親■に非ずと雖も、勝賢、殊に彼の遁世と求法の志芳等に随喜するにより、約すること已に深し。就中、秘密(「密」は「蜜」を訂)の器量は末代に遇(「遇」は「偶」を訂)い難き人なり。仍って且(かつう)は師跡を思うが為に、且は佛恩に報ぜんが為、此の鈔并に所伝の尊法等を大略付授し申す所なり。但し此の鈔の中、潅頂の大事は之を留む。其の故は、勝賢は年臈未だ至らざるに依り、入壇の儀は忽ち其の憚りあり。然れば強■の齢に及べば必ず此の事を遂ぐべきなり。凡そ件の一事に於いては祖師成尊・義範・勝覚・定海等、皆病床に臨みて之を授けらる[云々]。実に是れ道の肝心、只此れにある者か。仍って祖師の門弟、其の数多しと雖も、之を伝える者は只嫡弟一人なり。余人は全く名字さえ聞かず。然れば勝賢若し年齢に満たずと雖も、若し病を受くるに及べば必ず授け申すべきなり。偏に佛種を断たざらんが為なり。必ず此の結縁を以て、生々常に善友知識と為って此の法を弘め、永く成佛を期せん。誠に知んぬ、三州五県の契、六親九族の儀に勝れたり。此の事皆、両部諸尊・八大祖師を以て證明と為し奉る。委細の記請(「祈」請か)約諾、具に別紙に載せ了んぬ。
  時に長寛二年(1164)十月八日、沙門勝賢、之を記す。

  正応四年(1291)六月廿二日、親玄太政僧正房より御手ずから勝賢御自筆を賜り書写せしめ畢んぬ。  金剛資定仙

   此の文を勝賢高野参籠記と号す[云々]。
私に云く、上件の口決は去る弘安第八の年(1285)秋、祖師憲―(憲「静」か)上人の秘決を以て先師開山(審海)、授けしむ所の印の口決なり。故に覚洞院(勝賢)の御自筆たるに依るが上、祖師の先師に相附せる相伝たる間、記し留むる所なり。
       ケンア(梵字:kem-a/釼阿)〈花押〉 」

コメント:奥書等に付いて少し説明します。
先ず本文内容と最初の奥書である勝賢識語から此の『勝賢高野参籠記』は、勝賢が高野に於いて心覚阿闍梨に醍醐相伝の重書である元海記『厚双紙』を伝授した後に、伝授を差し控えた潅頂印明の部分を将来必ず授ける事を約した一種の誓約書であると言えます。
太政僧正親玄は一般に地蔵院大僧正の通称で知られています。実勝法印と並んで覚洞院法印親快の写瓶弟子であり、地蔵院流(三宝院流)親玄方の祖とされています。又関東(鎌倉)に於いて若宮(鶴岡)八幡宮別当の佐々目僧正頼助から潅頂を重受して贔屓(ひいき)の弟子と成りました。この頼助と親玄の師弟は執権北条貞時の帰依僧として鎌倉に於ける密教界の巨星であったと云えます。
親玄僧正から当書の書写を許された定仙は鎌倉亀谷(かめがやつ)清凉寺の学僧であり、三宝院諸方のみならず小野諸流を隈なく受法しています。称名寺聖教中には定仙の識語を有する史料が甚だ多く存在していますが、中でも『仙芥抄』は定仙自ら小野諸流の口決を記した抄物であり、鎌倉後期の関東真言のあり様を窺う好古の史料です。
最後の称名寺第二代釼阿識語は異筆の大き目の字で記されていますが、此の奥書に於いて訓み方に迷う所が一箇所あります。それは弘安八年に「件の口決」と同じ口決を授けたのが、憲―上人が先師開山審海に対してか、或いは審海が釼阿に対してなのか、という点です。文脈の上からは後者であるように思われますが、他史料を参照して決定すべきでしょう。

(以上)
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智証大師と『瑜祇経』

2015-04-17 21:22:58 | Weblog
智証大師と瑜祇経

―円珍・高向公輔共作『佛母曼拏羅念誦要法集』の事―

ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に新しく「北極星と北斗七星の密教化」(仮題)と題して星宿法の成立史等に関する論稿を製作していますが、その過程で『大日本佛教全書』27(智証大師全集第三)と『日本大蔵経』41「台密章疏一」に収載する『佛母曼拏羅念誦要法集』に記す七曜各別真言の本説が気になり当書を通読して、当書の主要部が『瑜祇経』(金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経)の「金剛吉祥大成就品」からの抄出である事が判りました。『佛書解説大辞典』等の仏典解説類にその事は記されていないようなので、ここに撰述者と内容に付いて簡単に述べておきます。
当書に付いては題名をやや異にするものの安然撰『八家秘録』巻上の「佛眼佛母法二」に、
「佛眼佛母曼荼羅要集一巻〔珍和上、高大夫と共に集む〕」
と記載されている本と同じであると考えられます(大正蔵55 p.1119b)。
仏教全書本は京都「花山観中院御経蔵」本に依る高山寺蔵本を底本とし、大蔵経本は石山寺蔵本を底本とし対校に大通寺本を用いています。又仏教全書本は尾題に「佛母念誦法要集」、大蔵経本は同「佛母曼荼羅念誦法要集」と記されています。『秘録』の注記に云う「高大夫」とは慈覚大師円仁の弟子であった湛慶阿闍利(817―80)の事であり、すぐれた学識を有していましたが宮中での不祥事に依って還俗し、高向公輔(たかむこのきんすけ)を称して讃岐守に補任しました。『三代実録』の陽成天皇元慶四年(880)十月十九日の条に「散位従四位下高向朝臣公輔」の卒伝があります。公輔は還俗しても仏法の研鑽に努めていたらしく、その学識は当時の天台僧の珍重する所でした。
その事を示す一例として大正蔵20『宗叡僧正於唐国師所口受』の「慈覚大師(所伝の)大随求印」の夾註に「讃岐守の安然に伝う」と記されています(寛治七年(1093)写の対校甲本)。台密の碩匠五大院安然が讃岐守高向公輔から随求法の伝授を受けていたのです。「珍和上」即ち智証大師円珍も、慈覚の弟子として同門である公輔の学識を恃(たの)んで此の『佛母曼拏羅念誦要法集』を共作したのでしょう。
さて本書はその題名が示すように仏眼仏母尊の念誦供養法を明らかにしようとした撰述書です。但し此の仏眼尊は胎蔵曼荼羅遍智院の尊では無く、『瑜祇経』の「金剛吉祥大成就品」に説く「一切佛眼大金剛吉祥一切佛母」(略して仏眼仏母/金剛吉祥)であり、此の仏眼尊は金剛薩埵の所変身である事が経に説かれています。又その像容は高山寺明恵上人の念持仏であった有名な国宝の仏眼仏母画像に於いて経説の通り忠実に描き出されています。本書の主要部は「金剛吉祥品」からの二箇所の抄出であり、その前後に加筆して以って一部の仏眼仏母法次第の体裁を整えています。
二箇所の抄出部の中、先ず前の部分に付いてその内容を概説します。始めに「爾の時に金剛薩埵は復一切如来の前(みまえ)に於いて、又一切佛眼大金剛吉祥一切佛母心を説く」と云って此の「心(真言)」の功能を説き、続けて「時に金剛薩埵は一切如来の前に於いて忽然として一切佛母身を現作して大白蓮に住す」以下に、一切仏母の一切支分より出生した無数の諸仏が「一字頂輪王を化作(けさ)」し、次いで此の頂輪王の請願に応じて仏母金剛吉祥は「根本明王」を説きます。此の「根本明王」とは諸尊法に広く用いられる仏眼大呪の事です。更に此の真言の功能を説く中で、「一切宿業重障・七曜二十八宿も破壊(はえ)すること能(あた)わず」と述べて、別して七曜二十八宿の障碍(しょうげ)に対する効験を記しています。此の事は平安時代中後期に成立した密教の星宿法に於いて、一字頂輪王(釈迦金輪)と仏眼仏母が果たす役割を考える上でも示唆に富んでいます。この後で仏眼印を説いて抄出前部は終わります。
抄出後部は「画像曼拏羅法」であり三重の八葉蓮花を以って構成されます。その要点は中台に本尊仏母、その前の蓮葉に「一切佛頂輪王」を安じてから右回りに残り七葉の各蓮葉の上に「七曜使者」を旋布します。是が初重の蓮花であり、第二重蓮に「八大菩薩」、第三重に「(八)大金剛明王」を画きます。又これらの諸尊が愛染王と同じく「皆師子冠を戴く」事は『瑜祇経』の著しい特徴を示していて、本経の成立背景を検討する上で重要な手懸りと成っています。
さて此の三重蓮花の曼荼羅に於いて注目すべき事柄として、七曜が中尊仏母金剛吉祥乃至その化作仏である頂輪王の内眷族と成っている点が挙げられます。その事は「金剛吉祥品」に説く「金剛吉祥成就一切明」が七曜の各別略真言から構成されている事とも符合しています(此の事に付いてはHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に掲載する「七曜九執真言の本説の事」第二章末部に於いて詳しく述べました)。即ち本尊仏眼金剛吉祥は七曜が代表する諸星の支配者とも、或いは本地とも考える事が出来ます。又『瑜祇経』が成立したインド的文化圏の世界に於いては、七曜乃至二十八宿の運行(働き)が社会と個人の運命にとって大きな脅威であると考えられていた事が伺われ、北極星(北辰)や北斗七星が中心の中国天文学の世界と大きな対照を見せています。
以上の『瑜祇経』からの抄出に依って本尊の性格とその曼荼羅は示されたのですが、修法次第としては本尊以外の諸尊の真言が必要ですから、続けて頂輪王と七曜・八大菩薩・八大明王の各別真言が記されています。ところが入唐八家の時代に於いては、北極星である北辰菩薩(妙見)や北斗七星を尊崇する多分に道教的な星祭りは盛んであったかも知れませんが、いまだ密教の星宿法は成立していませんでした。従って此の『佛母曼拏羅念誦要法集』に於いて七曜各別真言が記されている事は後の密教星宿法の成立を考える上で大変注目に価します。
それでは円珍と公輔は一体いかなる典籍を用いて是を記したのかが問題に成ります。七曜各別の真言は『大正大蔵経』第21巻に収載する四種の星宿儀軌に見る事が出来ます。それらは一行撰『宿曜儀軌』、金倶吒(こんくた)撰『七曜攘災決』、一行撰『北斗七星護摩法』、撰者未詳『梵天火羅九曜』です。此の中で智証大師と高向公輔の存命中に本邦に請来されていた事が記録に依って確認できるのは宗叡請来の『七曜攘災決』だけです。(『七曜攘災決』は宗叡の請来であろうという指摘を最初栃木県の小林清現師から頂戴しました。ここに改めて謝意を表します。)
即ち入唐請益僧であった宗叡(809―84)が帰朝して、貞観七年(855)十一月に東寺に戻って製作した『新書写請来法門等目録』に「七曜攘災決一巻」と記載されています(大正蔵55p.1111b)。禅林寺僧正宗叡は東密僧ですが、最初潅頂入壇の本師は智証大師円珍であり、又此の請来録に記載された「雑法門」は円珍の法兄である入唐留学僧円載法師(―838―877)の長安西明寺内の住坊に於いて書写されたものです。こうした事情を勘案すれば、智証が『七曜攘災決』を宗叡から借覧書写したとして何の不思議もありません。
『七曜攘災決』の作者である金倶吒の伝歴は、該書の始めに「西天竺国婆羅門僧金倶吒、之を撰集す」と記されている以外に知られる所は無いようです。本書にはインドには無かったはずの「北斗七星真言」(北斗総呪)や「招北斗真言」が記されていますが、是は金倶吒が中国の実情に合わせて書き加えたのでしょう。本書に記載された七曜各別真言の音写漢字を『念誦要法集』と比較するとほぼ同じであると云えますから、円珍と公輔は此の『七曜攘災決』によって七曜真言を記したのであると考えて間違いないでしょう。但し、金倶吒の書には七曜と羅睺星・計都星を合せた九執の各別真言が記されているのですが、『念誦要法集』は此の二星を採り上げていません。それは仏眼曼荼羅の三重蓮花葉の上に此の二尊が存在しないのですから当然でしょう。
弘法大師が請来した『瑜祇経』に対する最初の詳細な注釈は、台密教理の大成者と目される五大院安然(841?―915?)の三巻の疏(『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経修行法』三巻)によって為されました。安然は智証大師円珍よりは一世代後の人ですから、恐らくそれより早く智証大師もそれなりに『瑜祇経』に対する関心を抱いていたのです。智証はその代表作に挙げられる『菩提場経略義釈』(一字頂輪王経疏)五巻の撰述から明らかなように
一字頂輪王に深い関心を寄せていましたから、それとの関連で『瑜祇経』所説の仏眼仏母に興味を持ったのかも知れません。

(以上)
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愛染『秘密要術』と「九佛愛染(愛染曼荼羅)」について

2014-11-08 16:42:19 | Weblog
愛染『秘密要術』と「九佛愛染(愛染曼荼羅)」について


(一)愛染『秘密要術』
大正大蔵経『図像』第五巻の『覚禅鈔』81「愛染法下」に於いて染愛王の形像として法三宮(真寂親王)作とされる『ラギャ(梵字:raga)記』の説を引用した後で、更に続けて『佛母愛染最勝真言法』と『秘密要術』の説を引用紹介していますが、『秘密要術』の説に付いては理性院宗命撰『授心抄』の中でより広範な引用がある事に気が付きました。
先ず『覚禅鈔』の文は以下の通りです。
「秘密要術に云く、其の形は両頭にして左は白、右は赤なり。四臂ありて、左右の(第)一手に刀印を作り、次の左右は三鈷杵にして、赤蓮に坐す〔云々〕。」
次に金沢文庫保管重文称名寺聖教の第18箱1.2『授心抄』巻中の「ラギャダルマ(梵字:ragadharma)」(愛染王法)に於いて、「或る書」に依って記す愛染曼荼羅の文中には上記「其の形は」以下と同文があるので、此の「或る書」とは『秘密要術』なる典籍であると考えられます。以下にその一節を書き出しの部分から紹介します。
「又(先師理性房賢覚の口伝に)云く、或る書の中に愛染王マンダラ(梵字:matara)を説く。〔但し才学の為に記す。云く、毀(こぼ)つべき説なり。之を用うべからず。〕三重マンダラ(梵字:matara)の中央の院に愛染王あり。其の形は四面五首(「目」の誤写)〔額に一目、左右の本目、下に各一目あり〕にして、首(こうべ)に宝冠を戴き、髪は火焔の如くして、身色は皆白色なるが少しき青色なり。四臂ありて、左の(第)一手に弓を持して空に上げ、右の(第)一手に箭を持して胸間に当てて七星を射らんと為しむる相なり。左の(第)二手に彼を取らしめ、右の(第)二手に白蓮華を持して彼を打つ勢なり。四足ありて、左の二足は上に置き、右の二足は下に垂れて金蓮華を踏む。凡て(全身)白蓮華に坐して月輪に住す。彼の座の下に四面の師子あり。四足にして下に各の蛇を踏む。其の師子は口より如意宝珠を雨(あめふら)す。蓮の上、次いで中院に両頭染愛菩薩あり。其の形は両頭なるが左は白、右は赤なり。四臂ありて、左右の(第)一手を刀印に作し、次の左右(の手)に三股杵を依持す。赤蓮に坐して、月輪に住す。是を名づけて東方の衆と為す。(以下略す) 」
此の『秘密要術』に説く愛染曼荼羅は、大正大蔵経『図像』第12巻の別紙37「三面愛染明王曼荼羅」に相当します。『図像』の方は三面ですが、大きく描かれた中央面上の師子面を加えれば四面に成ります。その他は、『図像』の師子座の部分がほとんど欠損しているにしても、両者の尊容は完全に合致していると云えます。

(二)「九佛愛染(愛染曼荼羅)」
大正大蔵経『図像』第五巻の『覚禅鈔』81「愛染法下」の裏書644に、
或る抄に云く、一面三目六臂の像を以って中尊と為し、十二臂大日・両頭二臂尊・不動・大威徳・観音・弥勒・宝幢・剣龍を加えて一曼荼羅と為す。
と云い、その図像(図像287)を載せています。但し、「大威徳」は当該図像の持ち物を見る限り三面四臂の不動明王と思われます(次文で再述)。
本図(曼荼羅)は明らかにバークコレクション本「愛染曼荼羅」と同本であり『日本の美術』No. 376『愛染明王像』に於いて両図を並べ掲載していますが(第117,118図)、写真が小さくて残念です。バークコレクション本は平安時代の優れた白描図像であり、そのより鮮明な画像は『在外日本の至宝 1 仏教絵画』の図90に見る事が出来ます。それに依れば、向かって左下の尊が結ぶ印は内縛して二中指を立て合わせる大威徳の根本印(宝棒印)に見えますが、内縛して二頭指を立て合わせる不動の根本印(大独股印)であった可能性も考えられます。面貌は大威徳に相応し、不動の面影はありません。しかし、その尊容は大威徳明王の著しい特徴である六足では無く四臂二足であり、とりわけ左右の第一手に剣と索を持つ事は、何よりも不動明王である事を示唆しています。結局、この尊の正体に付いて確かな事はよく分からないと云えます。
又図90の解説に依れば、紙背左端の識語に「愛染王曼荼羅」と題名を記し、更に伝写の経緯に付いて、
嘉承二年(1107)三月五日、三昧阿闍利(良祐)の□を以って書き了んぬ。
と云い、更に注記して、
件の本に云く、大原僧都(長宴)の御本〔云々〕。
と述べています(掲載写真に依る)。即ち、(皇慶)―長宴―良祐―写本作者、という伝写次第です。
さて『覚禅鈔』の裏書には続けて、
右曼荼羅図は安養房(芳源)の抄にあり。(同抄に云く?)皇慶闍利(云く)、三井の山王院大師(円珍)、愛染王マンダラ(梵字:matara)一幀を(唐より)渡さる。爰に北山隠士(芳源自身を云うか)あり。竊に釈を作りて云く、前後の二尊は慈悲の一双なり。所謂く、弥勒は大慈三昧の尊、観音は大悲行門の士なり。左右の二三昧耶は福智の一双なり。幢は福を表し、剣は智を表すなり。艮坤(向かって右上・左下)の二尊は主伴の一双なり。大日は主、不動は使者なり。巽乾(右下・左上)の二尊(「大威徳」と両頭染愛王)は愛憎の一双なり。其の義は顕然なり。〔彼の大師の御持念目録の中に此のマンダラ(梵字:matara)あるも、其の法名は無し。〕
と云います。四角(よすみ)の尊は図像287と配置を異にしますが今は無視します。此の「安養房の抄」に記す「北山隠士」の釈は、真言宗全書36に収載する蓮道記『覚源抄』巻上末の「第十一。九佛愛染王の事」に於いて、高野伝法院の「(五智房融)源阿闍利の口伝」として記されていますから、上記愛染曼荼羅は高野では九佛愛染とも称されていたのです(「蓮道」は蓮道房宝篋かと思われます。『覚源抄』や宝篋に付いては拙著『日本密教人物事典』の「宝篋」の条参照)。
一方、『覚源抄』は巻上末「第四。一身両頭愛染王の事」に於いて、
是(両頭愛染王)は他門より出でたる事なり。所謂(いわ)く、智証大師の九佛愛染王を作り給えるが、其の(中の)随一なり。説所として分明なる文は無し。只だ是れ随意(意楽/いぎょう)して愛染王の内証を作り顕し給える許りなり。経文には全く見えざる處なり。
と云い、上の皇慶阿闍利の説とは違って、此の愛染曼荼羅は請来本では無くて智証大師の意楽の作であると主張しています。
さて大正図像第九巻の『阿娑縛抄』115「愛染王」には、此の九佛愛染曼荼羅に関する興味ある物語を記しています。始めに、
愛染王の師子無き像あり〔師子の四足に蛇を踏む〕
  私に云く、中尊を加えて九尊あり。角の四(尊)は龍に乗る。
と云い、標題に云う「師子」とは面上の獅子冠の事であり(愛染明王は宝瓶の上の華座に坐しています)、注記の「師子」はここで言及する異像が乗る師子の事です。続けて本文には以下のように記されています。「
恵什闍利云く、清水寺の虚空蔵〔智者〕某(智虚空蔵と称された定深)が始めて造画して出だせし者なり。為隆卿(藤原 1070―1130)、有間(有馬)に於いて院(白河上皇)に進上す。件の本は甚だ異様の事なり〔云々〕。
観雲闍利云く、偽物なり。本院、御湯治の為に有馬に幸せしめ給える時、左大弁為隆は国司たるに依って御儲けを勤仕す。御護りと為(し)て、覚猷法印(鳥羽僧正 1053―1140)を以って愛染王を画かしめたる處、件の像を画けり。観雲、之を拝して云く、此れは是れ偽物なり。法印は此の由を知らずして之を画き進めたり。尤も不便(憫)なり。本院は此の由を聞し食して、故藤中納言〔顕隆〕(葉室 1072―1129)を以って問わしめ給う。仍ち以って陳し了んぬ。頗る法印の失(あやまち)なるか〔云々〕。 」
「私に云く」の注記と芳源阿闍利の弟子である恵什(斉朝)の説に依れば、智証大師が請来、或いは作画した曼荼羅とは別に清水寺の定深が新作した九佛愛染曼荼羅があったのです。それは「師子の四足に蛇を踏む」という注記と「甚だ異様」なる表現からして、『覚禅鈔』同巻の裏書の中にある図像288が是に相当すると考えられます。本図に関する同鈔の記事は以下の通りです。「
或る伝に云く、其の形は四面にして、面毎に五目あり。所謂く、額に一目、左右の本目、下に各一目なり。首(こうべ)に宝冠を戴き、髪は火焔の如し。身色は白色なるが少しく青色なり。四臂ありて、左の一手に弓を持ちて空に上げ、右の一手に箭を持ちて胸間に当つ。左の一手に彼を取らしめ、右の一手の白蓮花にて彼を打つ勢いなり。四足ありて、左の二足を上に置き、右の二足を下に垂れて蓮花を踏む。白蓮花に坐して、日輪に住す。彼の座の下に四面の師子ありて、四足の下に各の蛇を踏む。其の師子は口より如意宝珠を雨す〔云々〕。 」
この後に図像288が入り、続けて、
右の二像(図像287,288)は智証大師の御請来〔云々〕。但し、八体の菩薩等は(図像288では)之を略す。
と云い、図像288に関して清水寺定深の関与に言及していません。又「或る伝」の説は、(一)に述べた『秘密要術』の文に一致します。即ち大正図像第12巻の別紙37「三面愛染明王曼荼羅」が今の「或る伝」(図像288)の全体画像と考えられます。尤も『阿娑縛抄』では「角の四(尊)は龍に乗る」と云っていますが、別紙37では向かって右上角の尊は龍に乗っていますが、左上角の尊は一部欠けてよく分りませんが獅子に乗っているようです。下角の二尊は欠失して全く確認できません。

(以上)平成26年11月15日

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小野静誉方と随心院血脈

2014-07-17 21:05:07 | Weblog
小野静誉方と随心院血脈

小野僧正仁海の遺跡(ゆいせき)である曼荼羅寺は範俊以後百年余りの寺内状況を示す史料に乏しく確かな事は分からないのですが、鎌倉時代の深賢口・親快記『土巨(とこ)鈔』に依れば、範俊は同寺を上足の弟子である良雅や厳覚では無く白河法皇の御子である仁和寺御室(覚法)に譲ったのです。そして同寺経蔵(小野経蔵)に収納されていた「十二合」と称する範俊相承の法門(聖教)や道具類も、法皇御所である鳥羽殿の経蔵に移されてしまいました。しかしながら小野の法流を伝える人達は寺内、近辺で伝法を続けて法燈を護持し、とりわけ厳覚の弟子増俊(1084―1165)が建立した随心院は顕厳を経て第三世の唐橋大僧正親厳(1151―1236)の時代に寺家(曼荼羅寺)に有職(阿闍利)三口を賜る等寺勢の回復を果たしました。以後曼荼羅寺は随心院に依って代表されるに至り、同寺の由緒が現在にまで伝えられる事に成ったのです。従って随心院の法流は増俊―顕厳―親厳と次第相承されたのですが、実には親厳相承の法流は普通に云う「随心院流」血脈より幅の広いものです。
『密教大辞典』に載せる法流血脈譜には奇妙で信じがたい相承次第が多くあります。今の「親厳方」の項に出だす安祥寺流の略系もその一例です。それは、
〔流祖〕宗意 念範 仁済 成宝 淳寛(しゅんかん) 増仁 仁禅 尊念 〔方祖〕親厳 良印 真空 頼瑜 (以下略す)
と云うものであり、年代を考えれば理性房賢覚の弟子である淳寛(1101―50―)が成宝(1159―1227)から受法する事はあり得ません。それでは正しい法流血脈は如何と云えば、政祝の『諸流潅頂秘蔵鈔』の「安祥寺流内。唐橋親厳僧正方」に、
範俊 厳覚 宗意 淳観〔寛か〕 増仁 仁禅 尊念 親厳
と記されていて(『真言宗全書』27 p.348上)、こちらの方は信用できそうです。即ち淳寛は流祖の宗意から直接付法しています。東寺長者・法務・大僧正として著名な親厳は、随心院第二世の顕厳から法流・門跡共に相承して同院第三世と成りましたが、単に「親厳方」と云う時は何故か安祥寺流の伝法血脈を指すようです。
さて親厳は尊念から安流の相伝を遂げたのですが、尊念からは静誉方も受けていて、実には随心院の法流を考える時に此の静誉方の血脈が非常に重要です。『諸流潅頂秘蔵鈔』の「勧修寺〔小野〕 静誉方」の項目に於いて、
成尊 範俊 静誉 〔随心院〕増俊〔阿闍梨〕 禅然 尊任 道範 (以下略す)
なる血脈が示されていて、密大辞「静誉方(一)」の項も是を踏襲し、私も是を信じて拙著『日本密教人物事典』上巻の「増俊」の条第5項に此の血脈を掲載しました。
ところが『金沢文庫古文書』第九輯に載せるNo. 6512「潅頂口伝」血脈や随心院聖教52箱36号「(随心院流系図)」を参照する時、今の『秘蔵鈔』の血脈は誤りであり実には、
範俊 静誉 増仁 仁禅 尊念 親厳
のように訂正すべきであると思われます。増俊は静誉から付法していないようです。一方、親厳は尊念から安祥寺と静誉方の両流を受けた事が分かるのです。越前阿闍梨と称された静誉(1079―1145―)は、小野の血脈類によれば厳覚からも重受して範俊の法流を究めようとした事が伺えます。又『(醍醐寺)研究紀要』第一号所載の『伝法潅頂師資相承血脈』の範俊付法の条では「静誉」に「光明山」なる注記があって、中川(なかのかわ)実範上人終焉の地とされる光明山寺(京都府南部/廃絶)を活動の場としていた事が知られます。
さて親厳の師である尊念は上の「(随心院流系図)」によれば「近江僧都」と称し、亦増俊の付法資である顕厳の潅頂弟子と成っていますから、親厳にとっては師であると共に同門(法兄)でもありました。此の「(随心院流系図)」は特に親厳以後の付法次第が大変詳しく記されていますが、親厳の相承分としては静誉方と増俊の法流を挙げるのみで安祥寺流の記載はありません。
猶、「(随心院流系図)」は『小野随心院所蔵の密教文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその探求』の米田真理子「随心院蔵「随心院流系図」」に影印紹介されています。同「系図」の本奥書に、
 右当流血脈は旧記髣髴にして摩尼と燕石とを分たずと雖も、更に今案加減に非ず而已。
 至徳元年(1384)臘月(十二月)九日
と記されています(一部、文字等を改変しています)。
又、本稿に於いては煩雑を避けて随心院二世顕厳の事績に付いて言及しませんでした。顕厳の伝歴に付いては誤伝もあり、一般にほとんど知られる事が無いので、後日記事にしようと思っています。

(平成26年7月17日)
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不動・愛染一体の口決と『毘廬遮那三菩提経』

2014-05-13 20:08:25 | Weblog
不動・愛染一体の口決と『毘盧遮那三菩提経』

先般、HP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス第二集」欄に於いて「愛染・不動合体尊の事」と題して、鎌倉後期の不動・愛染一体の口決に関する諸相に付いて記しました。此の口決の濫觴を尋ねれば平安末期に遡るであろう事が推測されますが、その事を裏付ける信頼するに足る最良の史料として、『園城寺文書』第七巻に収載されている慶範撰『宝秘記』中の一節があります。本書は主として三井寺の大宝院大僧正真円(1117―1204)の口決を記した大部の諸尊口伝集であり、著者の慶範法印(1155―1221)は真円の写瓶資と目される学僧です。亦此の慶範は、同文書同巻の『伝法潅頂血脈譜』に依れば証月上人慶政(1155―1221)に伝法潅頂を授ける等、鎌倉前期に於ける三井寺の法流を知る上で興味ある重要な人物です。同寺の法流は智弁(余慶)の次に智静(観修)方と智観(勝算)方に分かれますが、真円の師である大宝坊良修法眼は両方を相承して是を真円に伝えていますから、『宝秘記』は平安末から鎌倉初の三井寺本流の相承口伝を直接伺う事ができる好個の史料と云えます。
さて『宝秘記』第三十二に「不動・愛染一体事」という項目があり、先ず「
(真円)仰せ云く、台蔵をば不動尊、金剛界にて愛染王、是は愛菩薩なり。不動と愛染王と一体の事は三菩提経に見たり。
建久三―(1192)八月五日(下文に係るか)
仁和寺の勝遍律師云く、不動と愛染王とは一体なる事、随分の秘事なり。法性寺殿(藤原/九条兼実か)御尋ね候いしかば、件の証文・本経并びに儀軌等を検べ申せしに御感あり云々。
予(慶範)申し云く、此の事は如何。
仰せ云く、(不動・愛染)一仏の証文を検ぶ(べき)なり。彼の門跡には秘事とて一仏と習学するか。但し、此の門跡は別して一仏と云いて習う事は無けれども、一仏と云うべきにや。検文等、之あり云々。 」
と述べています。
即ち鎌倉初期に忍辱山流勝遍方の祖とされる勝遍律師が、不動・愛染一体の口決を伝えていた事が確認できます。又真円の「仰せ」に云う「三菩提経」に付いては、『宝秘記』に於いて上文の続きに抄記引用されています。以下の文を示せば、「
毘盧遮那三母提経に云く、ヒルサナ○後に三界の有情の生死に輪転するを見て、大悲台蔵より吽(ウン)字を流出して、調伏の為の故に金剛愛染三昧に入る。神変加持の為の故に三昧より起って「ウン・ウーン」(特殊字の為入力不可)を字輪中に出だして、後に金剛光明郝奕(かくやく)大火光三昧を現す。■諸菩薩の微細煩悩習摂及び所知障を(「破し」か)、後に諸摩羅及び諸部衆を焼く。此の三昧の中に於いて証成せる応身金剛明王聖者を無動明王と名く。〔文〕
  私に云く、大日の愛染三昧等に入り了んぬ、無動尊と名く〔文〕とあり。此の文は愛染即不動を明かす証なるか。
仰せ云く、尤も然るべし。此の文は其の証なり云々。予の申し云く、東寺の人は瑜祇経に証文ある事云々(と云えり)。
仰せ云く、(愛染王の)一字心真言ト(大日経)息障(品)の下文とは、断障の文義相い叶えり。故に彼(瑜祇経)を以って其の証と為す。之を検ぶべし云々。 」
と記されています。
此の『毘盧遮那三菩提経』なる経典の由緒に付いては不詳と云う他ありませんが、平安時代後期に制作された各種の真言典籍にも所見が無いので、一応台密の阿闍利による本邦撰述の経軌であろうと考えられます。又撰述の主要な意図が不動・愛染一体の口決を保証する事にあったろう事も容易に推察されます。
近日中にHP『柴田賢龍密教文庫』に於いて、上の『三菩提経』引用箇所の解説と慶範のコメントを含めて、不動・愛染一体の口決に関する広範な記事を掲載する予定です。

(以上)
(平成26年5月16日)

HP『柴田賢龍密教文庫』の「愛染明王に付いて」の第三記事として『愛染・不動一体の口決に付いて』を掲載し、その第三章に『毘盧遮那三菩提経』引用箇所の詳しい解説を記しました。
(平成26年6月14日)
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金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(其の四)

2013-02-18 18:57:21 | Weblog
金沢文庫蔵理性院流宗命方聖教に関する暫定研究報告(其の四)
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には金沢文庫保管重文称名寺聖教の事です)

前に金沢称名寺第二世の明忍房剱阿が経助法印から譲り受けたらしい理性院宗命方の口伝集と一部の諸尊次第を紹介しましたが、その後折に触れて『称名寺聖教目録』三巻を最初から詳しく見る中で、十数点の宗命方諸尊次第を検出しました。まだ同『目録』第一巻も見終わっていない段階なので、この先更に多くの諸尊供養法を主とする理性院流聖教を見出すことでしょう。とりあえず既検出分を報告紹介させて頂きます。

1. 整理番号244.2「無量寿ダルマ(梵字:dharma)」

(奥書)
(尾題に「無量寿尊次第」と記した後、簡単に「結願作法」を記してから最後に「金剛佛子メイ(梵字:me)之」と云う。)
本に云く、
仁安三年(1168)〔才次戊辰〕仲夏(五月)の比(ころ)、不食長病の間、臨終正念・往生浄刹の為に聊(いささ)か先師の遺訓に任せ、儀軌の旨趣を伺いて、憗(なまじい)に之を記す。偏に令法久住の計(はかりごと)なり。若し遁世の輩にして門跡に付き(理性院の門徒となり)弥陀の行儀を欣ぶ者あらば、此の次第を授くべきなり。観念等の委曲は口伝を聞くべきなり。
〔御本に云く、〕
 正嘉二年(1258)十月八日、鳥羽僧都御房(宗命)の御自筆の御本を賜り書写すること了んぬ。
(コメント)
巻子本の外題に「・・・ダルマ(梵字:dharma)」と記し、末尾に「金剛佛子メイ(梵字:me)之」と書き添える等、理性院流宗命方の諸尊法次第の典型を示しています。「メイ」とは宗命の「命」であり、本次第が宗命の製作である事を示しています。
又外題下に梵字でケンア(kem-a)と記されていて、称名寺剱阿が相伝した宗命方聖教一具の中の典籍である事が伺えます。
次第の構成は、大金剛輪・地結・四方結と道場観の間に召罪・摧罪等の金剛界法の印言数種を加用する典型的な醍醐の別行立次第と成っています。
猶、本次第作者の宗命は当時死期の近い事を覚悟したようですが、結局此の時は大事に至らず三年後の承安元年(1171)七月十日に亡くなっています。

2. 整理番号245.1「阿遮羅那吒(アシャラノウタ)ダルマ(梵字:dharma)」
内題・尾題共に「不動ダルマ(梵字:dharma)」と云い、亦具書目録・支度注文・巻数(かんず)等を記した後、「不動名号義」以下の本文の前に「無動ダルマ(dharma)」と記しています。
(奥書)
尾題の下に「金剛佛子メイ(梵字:me)之」と云いますから、本書も宗命の製作になるものです。
(コメント)
外題の下に「ケン(梵字:kem)□」と記されていて、欠損部は「ア(梵字:a)」に違いないでしょう。即ち是も剱阿相伝の宗命方諸尊次第の一本です。「阿遮羅那吒」は不動明王の梵号acalanathaの音写漢字です。
二種の支度注文を載せる中、始めの分は「支度〔先師(賢覚)〕」と標記してから、
美福門院皇后宮の御時、癌瘡(平癒)の御祈りに之を修され、効験あり。息災(法)にて之を修す。
と注記し、末部に、
右、注進すること件の如し。/康治元年(1142)四月 日  法眼賢覚
と記されています。亦今一つの支度注文は「注進 不動御修法一七ケ日支度事」と題し末部に、
右、注進すること件の如し。
 長承三年(1134)五月十六日、阿闍利大法師賢覚
と記しています。
本不動法はいわゆる「次第書」では無く、古来の折紙伝授の内容を一巻の書としたものであり、一座修法の眼目である道場観・本尊加持秘印・十四根本印等の法用を書き出しています。終わりに賢覚作の慈救呪(じくじゅ)に付いての句義釈を載せていますが、その奥書に、
嘉承三年(1108)四月二日 東寺入寺僧賢覚
と云い、「已上の字義〔句義〕は先師の注尺なり」と注記しています。此の奥書は嘉承三年当時、賢覚が東寺定額僧(入寺)であった事を示す証拠の文として貴重なものと云えるでしょう。

3. 整理番号245.2「能浄眼ダルマ(梵字:dharma)」
内題に「能浄眼法」と云います。
(奥書)
年記は無く、ただ「校すること了んぬ。」と云います。
(コメント)
外題の下に梵字で「ケンア(kem-a)」と記されていて、是も剱阿相伝の宗命方諸尊次第の一本と知れます。
能浄眼法は大正大蔵経第21巻(密教部四)に収載する短篇の不空三蔵訳『能浄一切眼疾病陀羅尼経』を本経とする眼病平癒の為の修法です。
本次第の冒頭に、
先師(賢覚?)授け云く、尺迦を以って本尊と為し、増益に修すべし。
と述べています。本書も次第書では無く種子・三形・印の他に経文を抄出する程度の簡単な内容ですが、最後に、
先師授け云く、本尊加持の処に必ず佛眼・薬師・悲生眼(ひしょうげん)・孔雀明王・千手の印明を用いるべし。
等の口決が記されています。
作者に付いては確実な比定の根拠がありませんが、一応は是も宗命の作とすべきでしょう。

4. 整理番号245.3「吠室羅末那提婆ダルマ(梵字:dharma)」
内題は外題に同じです。
(奥書)
後欠本ですが、末部に異筆で「校すること了んぬ。」と云います。
(コメント)
是も巻子本の外題下に「ケンア(梵字:kem-a)」と記されています。
最初に「具書目録」があり、次いで「功能(くのう)由来」「天王本誓事」「道場建立・作壇・供具弁備事」等の項目を立てて数種の毘沙門儀軌から引用していますが、その後を全て欠いています。恐らく元はかなり長大な毘沙門法次第であった事が推測されます。

5. 整理番号246.2「軍荼利ダルマ(梵字:dharma)」
(内題)甘露軍荼ダルマ(梵字:dharma)
(尾題)軍荼利ダルマ(梵字:dharma)
(奥書)(ナシ)
(コメント)
巻子本の外題下に「ケンア(梵字:kem-a)」と記されています。
内題下に「金剛佛子宗命之」と云い、是も剱阿相伝の一具の巻子本宗命方諸尊次第の中の一本であると知られます。
いわゆる次第書の形式を取っていますんが、道場観・本尊印言等は丁寧で貴重な尊法書と云えるでしょう。

6. 整理番号246.5「胎心抄〔守護ソタラン(梵字:sutram)〕」
(内題)能与無上悉地最尊ソタラン(梵字:sutram)
(尾題)守護経ダルマ(梵字:dharma)
(奥書)
永万元年(1165)三月の比(ころ)、後見の為、先師の遺訓并びに先徳の次第と本経の文等により敢えて之を記す。求法の輩、咲(わら)うこと勿れ。是れ偏に名利を得るために非ず。令法久住を存する意なり。/金剛弟子
附法に人無ければ此の□□早く破り、之を火中に抛(なげう)つべし。努努(ゆめゆめ)此の語に違すべからず。
  弘安九年(1286)五月日 御本を賜り書写すること了んぬ〔云々〕。
(コメント)
外題の「胎心抄」の意はよく分りません。『密教大辞典』の「宗命」の項にその著作として「真言肝心抄二巻」を挙げていますから、「肝心抄」の事かも知れません。
巻子本の外題下に梵字で「ケンア(kem-a)」と記されています。
冒頭に般若三蔵訳『守護国界主陀羅尼経』十巻が本経である事を示し、次いで高祖大師の『性霊集』と本経の文を載せています。その次に支度注文と巻数(かんず)を載せ、共に末尾に「阿闍利法眼和尚位(賢覚?)」と云いますが、具体的な年記を欠いています。中古の真言学僧の説によれば、大師は守護経法の勤修を奏請したけれども実修の事は未詳であり、その後も勤修の先例は確認できないとされていますから、此の支度注文と巻数も実際に御修法所に提出された文書では無いのでしょう(『密教大辞典』の「守護経法」の項を参照して下さい)。そう考えると、(宗命が)奥書で「咲うこと勿れ」と云っている意もよく理解できます。
後半部の始めに、
行法次第〔大師の御次第云々。以上、本経を引載せり。/本経の文の意は此の次第に具すると見たり云々。〕
と云い、次いで「守護国界経念誦次第」と題して修法次第を記してから、終わりに「已上、大師御次第〔云々〕」と云います。

7. 整理番号247.5「北斗ダルマ(梵字:dharma)」
(内題)北斗
(奥書)
(ナシ)
(コメント)
巻子本の外題下に「ケンア(梵字:kem-a)」と記されています。
道場観と諸真言(真言は梵字)の次に「北斗護摩法」を記していますが、此の護摩次第は後火天段を用いる六段護摩に成っているので広沢の次第らしい事が分かります。次に巻数(かんず)と支度注文を載せていますが共に具体的な年記はありません。次いで「本命星供(ほんみょうじょうく)」「本命星作法」等を記した後に、天仁三年(1110)四月日の年記を有する仁和寺成就院の「法印権大僧都寛助」(1057―1125)による「大北斗御修法一七ケ日(いっしちかにち)支度」を載せ、更に元辰星(がんじんせい)を知る法と北斗七星の形像に付いて記しています。
又裏書きには『大日経疏』の引用を始めとする各種の文があり、特に当年星供(属星供)に用いる九曜(九執)各別真言が梵字で記されているのが注意を惹きます。表側には「七曜惣呪」と九曜の中の羅睺(らご)・計都両星の真言だけが記されています。
本書は仁和寺の北斗法次第ですが、巻子本の体裁が宗命方諸尊次第一具のものと同じであるので、一応宗命方聖教の中に数えさせて頂きました。

8. 整理番号248.1「金剛童子法次第」
(内題)金剛童子ダルマ(梵字:dharma)
(尾題)金剛童子ダルマ(梵字:dharma)
(奥書)
(尾題の次行下に)金剛佛子メイ(梵字:me)之
是は全く名利を貪らん(が為)に非ず。偏に令法久住の為なり。散々に(よくよく苦心して)習学せる書籍も後跡(後の門徒)には悟り難からん。之に依り、之を結集(けつじゅう)す。
       金剛佛子宗命之
(コメント)
巻子本の巻頭部を欠損していますが、全体の体裁からすれば他の宗命方次第と同様に、外題下には梵字で「ケンア(kem-a)」と記されていた事でしょう。
前半部に長承三年(1134)五月十六日付けの「阿闍利大法師〔某〕」による支度注文と、年月日未詳の「阿闍利法眼和尚位」による巻数を載せていますが、此の両阿闍利は理性房法眼賢覚のことでしょう。大法師賢覚が法橋上人位に叙されて僧綱に成ったのは保延六年(1140)正月十四日の事ですから支度注文の位記に合致します(詳しくは拙著『日本密教人物事典』上巻の「賢覚」の条を見て下さい)。
本書も次第法用を書き列ねたものでは無く、折紙を集め記した如き尊法次第です。

9. 整理番号248.3「倶摩羅ダルマ(梵字:dharma)」
(識語/奥書)
是は全く名利を貪らん(が為)に非ず。偏に令法久住の為なり。散々に(よくよく苦心して)習学せる書籍も後跡(後の門徒)には悟り難からん。之に依り、之を結集す。
       金剛佛子宗命之
(コメント)
現在、此の写本の写真帳が所在不明という事で影印は見ていません。
『称名寺聖教目録(一)』に依れば、本書は只一紙の巻子本であり、巻頭以下の本文を全く欠いているようです。直前の第248.1号と識語/奥書が全同なのも気になりますが詳しい事は分かりません。

10. 整理番号251.13「寿延経護記」
(内題)寿延経護(まもり)造進記録
(端裏題)寿延経護記
(奥書)
承安三年(1173)十月、浄蓮房阿闍利御房(宝心)の
御本を以って之を書写す。        沙門宗命
     一交すること了んぬ。
(コメント)
巻子本の外題は端裏題を用いて新補したものらしく思われます。
最初に醍醐寺開山聖宝僧正以下の祖師先徳による寿延経護(御守り)の施主への造進記録を載せています。但し仁海僧正は施主の為では無くして「自身の為に之を造」りました。記載された先徳の名前は、
聖宝僧正、仁海僧正、成尊僧都、勝覚僧正、賢覚法眼、宗命僧都、宗厳〔大〕僧都、行厳法印権大僧都、観俊法印権大僧都、宗遍法印権大僧都、観高僧正、経助僧正
であり、宗命書写の本に後代の人々の分が書き加えられた事が分かります。亦経助僧正が最後に成っていて、これら理性院流宗命方の一具聖教が元は経助の所持本であった事を裏付ける有益な一史料であると云えます。
一方、施主の名前から、鎌倉時代に於いては理性院が九条家(乃至一条家)の祈願所であった事が伺えます。
又祖師先徳の名前を書き出した後にかなり長い「延命抄奥書」の文を記していますが、此の『延命抄』は「賢覚法眼の最極秘抄なり」と注記しています。又此の「延命抄奥書」の末尾に、
久寿第二年(1155)□秋第五日   賢覚
と記されています。

11. 整理番号252.3「御念誦作法」
(内題)晦日御念誦源由作法
(奥書)
文永五年(1268)十月十一日、巳の半より(始めて)午の終に至り書写すること了んぬ。〔名交し了んぬ。〕/兼観
〔私に云く、後七日御修法勤修の長者は其の年毎月晦の御念誦と、并びに毎月十八日の観音供を勤めらるなり。〕
永仁六年(1298)五月三日、午の始より(始めて)酉の始に至り、観音供〔二間〕作法と并びに奥砂子平(おうさしびょう)、此の法三巻□□
      法印権大僧都経助
    校合すること了んぬ。
(コメント)
本書も理性院流宗命方の諸尊次第の中の一巻ですが、今までの明忍房剱阿相伝の一具次第とは体裁を異にしているので、同じく称名寺聖教中の宗命方諸尊次第と云っても相承の経緯に付いて区別して考える必要があります。
晦念誦の実修濫觴(らんしょう/始まり)に付いて確かな史料はありません。ただ弘法大師の『(二十五箇条)御遺告』の「東寺座主大阿闍利耶、如意宝珠を護持すべき縁起第二十四」を根拠として、東寺長者の修すべき作法とされていました。その作法は如意宝珠(仏舎利)の念誦であり、大師が室生山精進峯に埋納なされた「能作性(のうさしょう)の如意宝珠」を別して観念する事にその特徴があります。毎月晦日の夜に修し始めて三日三夜を経た三日の初夜に結願するので、晦念誦と称されるのです。
「観音供〔二間〕作法」は、清涼殿の御寝所の隣室である二間(ふたま)に於いて護持僧(東寺長者)が修したので、「二間」と注記したのです。
「奥砂子平」法の事は『御遺告』の第二十五条に記されていますが、その解釈には諸説があります(『密教大辞典』の「オウサシヒョウホウ」の項を参照して下さい)。当写本の本文には奥砂子平法に関する言及はありませんが、第二十三条に説く「避虵(びゃくじゃ)法」に付いて「如意宝珠法の別名なり」と述べていて、晦念誦と避虵(蛇)法とは同じであると考えているようです。
奥書中の兼観(1232―1274)は理性院観俊の潅頂弟子で小納言律師と称されました。剱阿相承の宗命方聖教はほとんど全てが経助からの伝領らしいのですが、その相承次第には観俊―宗遍と、観俊―兼観という二種の系統があります。その中でも剱阿が梵字の自署を記した本流の聖教は宗遍相承の分であり、兼観相承の分は傍流と見て区別していると考えられます。

12. 整理番号252.4「金剛薬叉法」
(尾題)金剛薬叉ダルマ(梵字:dharma)

(奥書)
(ナシ)
(コメント)
巻子本の外題(表紙)は後補されたものです。
冒頭に保延二年(1136)四月廿二日付の「阿闍利大法師」による支度注文と勧請・発願両句を載せ、次いで「金剛薬叉ダルマ(梵字:dharma)」と記してから本文が始まりますから、此の「金剛薬叉ダルマ」が内題であると云えるでしょう。
是も次第法用を書き連ねたものでは無く、本尊印言・道場観・曼荼羅等の肝要事を書き出しただけの次第書です。最後に、
深秘(の)口伝に云く、此の法は王業相続(皇位継承)・皇后昇位・三后懇望(こんもう)の時、専ら此の法を修せしむべし〔云々〕。或いは不食(ふじき)の病の時に此の法を修せしむべし〔云々〕。
等と述べています。

13. 整理番号253.2「(求聞持法)」
(尾題)求聞持ダルマ(梵字:dharma)
(奥書)
本に云く、
文永五年(1268)十一月十六日、書写すること了んぬ。
交し了んぬ。       兼観
〔私に云く、
授心抄に云く、振鈴に於いては、用否は行者の意に有るべし。但し、鈴は結願の時に振鈴を用うべからざるか。洒水(しゃすい)・塗香に於いては、必ず之を用うべし〔云々〕。而れば今の指図と相違すなり。此の図は結願の図なり。鈴杵を除き、洒水器并に例の散杖を置くべきか。〕
本に云く、
正安元年(1299)十月十七日、戌の刻に書写并に点すること了んぬ。校合し了んぬ。
       法印権大僧都経助之
(コメント)
巻子本の表紙(後補)に外題は記されていません。
尾題の下に「金剛佛子メイ(梵字:me)之」と記されていて、理性院僧都宗命の製作になる次第であると知れます。
冒頭「大師求聞持法伝法相承事」を記し、次いで「大師求聞持勤修効験事」、次に「求聞持法功能事」二十二箇条、「求聞持略次第」と続き、その後に、
少僧、往年の比(ころ)、高野山に参籠せる間、日月蝕の時に値(あ)わずと雖も、三七カ日、此の法を勤修せしめ畢んぬ。
と記しています。

(以上)
今回報告分は以上ですが、第10号「寿延経護記」は短篇ながら中世史に於ける寺院と施主の有り様について興味深い記事に満ちているので、近いうちに別途詳しく翻刻解説する予定です。(平成25年3月5日)

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星祀り(当年星供)と七曜九執真言の事

2013-01-29 20:17:26 | Weblog
星祀り(当年星供)と七曜九執真言の事

節分の前後には多くの真言宗寺院に於いて厄除けの「星祭り」が催されます。一般に星祭りという名称で知られる此の行事は、正式には「当年星供(とうねんしょうく)」或いは「属星供」という密教修法によって諸個人に影響を及ぼす星を勧請(かんじょう)供養して一年間の息災安穏を祈る法会です。
それでは、一体いかなる星を勧請、即ちお招きして供養(接待)するのでしょうか。
星に対する信仰は、恐らく人類の歴史と同じくらい古いに違いありません。数万年前に描かれたスペインのアルタミラ洞窟壁画には、既に当時の高度な天体観測技術の存在を伺わせる星座図があるそうです。またエジプト・中近東・インド・中国・中南米等、何れの古代文明に於いても天文学が発達して、その成果が建築や農耕技術に生かされていた事もよく知られています。また人々の星に対する関心はそのような実用的な方面に限らず、夜空を覆い尽くす無数の星々と人間の運命との関係に付いて様々な思索と憶測が廻らされた事でしょう。
その場合、太陽と月を別にすれば、星の中には他の無数の星々とは別の動きをする五つの星がある事が注目されたに違いありません。それは火・水・木・金・土の五惑星です。惑星には他に天王星と海王星もありますが、この二星は肉眼で見る事が出来ませんから、近代に成って天体観測に望遠鏡が使用されるようになるまで知られていませんでした。日・月と五惑星を合わせて「七曜」と総称しますが、密教修法の当年星供に於いて本尊として祀り供養するのは此の七曜です。
もう少し詳しく云うと、当年星供の本尊は七曜神に羅睺星(らごせい/蝕星)と計都星(けいとせい)の二星を加えた「九執(くしゅう)/九曜」神です。羅睺星というのは、日蝕と月蝕を引き起こす蝕星です。日蝕は地球・月・太陽が一直線に並んだ時の月の影であり、月蝕は太陽・地球・月が一直線に成った時の地球の影ですが、古代インドに於いては普段は見えないけれども蝕現象を起こす暗黒の星があると考え、此の蝕星を羅睺(ラーフ)と称しました。計都星は彗星の事です。又九執と称する理由は、九曜は各々に人の境遇・運命を「執持(しゅうじ)」すなわち支配すると考えられたからです。
七曜九執の中の一星が個々人の特定の年齢(数え年)に応じて当年一年間の吉凶を左右する(少なくとも運勢に影響する)とされ、九曜それぞれと年齢との配当(相関関係)は九年周期に設定されていますから、九年毎に同じ星が当年星として回って来ます。是に対して個人の生涯にわたってその運命に影響を及ぼすと考えられた星があります。それは春の夜空の中天を支配する巨大な北斗七星です。即ち生年の十二支と対応する北斗七星中の一星が個人の一生の運命に大きく関わっていると信じられ、その星の事を「本命星(ほんみょうじょう)」と称しました。
実は平安時代を通じて貴族社会に於ける星に対する信仰は基本的に本命星に関わるものであり、具体的には北斗七星(の中の一星)を祀り供養する密教修法である「北斗法」乃至「北斗護摩」が大いに発達しました。その過程で九執・十二宮・二十八宿と云った他の星宿に対する知識・関心も深まって、平安末に成ると九執を本尊として一年間の息災安穏を祈る当年星供が行われるようになり、以後徐々に盛行していつしか本命星供を凌駕するように成ったのです。
「十二宮」に付いては少し説明しておく必要があるでしょう。十二宮は黄道十二宮とも言い,天弓上の太陽の軌道である黄道に位置する十二の星座であり、月毎に太陽神が滞在する宮殿として設定されたものです。太陽の軌道は夏至に最も北寄りに成り、冬至には最も南下しますから、一年を通じた天弓上の軌道はかなり幅の広いベルトになり、是を黄道と称します。又日中は見る事が出来ませんが、太陽の位置(背景)に存在する星座も季節によって大きく変わります。その事は、日の出か日没時の星座を見れば簡単に分かります。従って太陽が一カ月毎に天弓上の住居を変えると仮定して、黄道上の十二の星座を選んで十二宮としたのです。「二十八宿」は黄道周辺の二十八個の星座です。

それではここから本題に入りましょう。星宿法に於いて最も大事な真言の一つが七曜九執の総真言であり、是は護摩の世天段にも用いられるよく知られた真言です。カタカナで表記すれば、
ノウマクサンマンダボダナン・ギャラケイジンバリヤ・ハラハタ・ジュチラマヤ・ソワカ
です。此の真言は『大日経』巻第四の「密印品第九」に出る「一切執曜」の真言であり、『大日経疏』巻第十四には真言の句義釈が記されています。そうすると当年星供の九執総真言の本説は『大日経』であるとして何の問題も無いと考えられがちですが、実はそうでは無いのです。少なくとも直接の典拠は『大日経』では無いと云えるのです。真言自体にも小異があります。『大日経』・同『疏』・『青龍寺軌』では「ジュチラマヤ」の句が「ジュチマヤ」であり(漢字で表記すべきですが煩雑になるのでカタカナにします)、一方平安末以降に製作された東密の星宿法に関する次第・口決は「ジュチラマヤ」で統一されていて「ジュチマヤ」の例はありません(勿論実見した史料は全体の一部に過ぎません)。
又『青龍寺軌』では此の総真言を「七曜十二宮神九執真言」と称していますが、是は作者の法全(はっせん/840頃)が『熾盛光軌』の「請召十二宮天神真言」を参照して命名したのであると考えられます。此の名称は小野流胎蔵法の根本次第である醍醐寺延命院の元杲僧都(914―995)作『胎蔵界念誦私記』に採用されて「七曜九執十二宮神」と記され(真言は「ジュチラマヤ」)、後の『玄秘抄』『秘鈔』等の諸尊法に於いても同『私記』の名称を見る事が出来ます。
次に九執の各別真言の問題があります。各別真言は『大日経』や同疏に説かれていない上、平安後期には各種の説が流布していたので、その本説に付いて一概に調べ述べる事は困難であると云えます。又一行(683―727)撰とされる複数の星宿法儀軌に七曜九執各別真言を説いていますが、これらの典籍が請来された経緯は不明であり、一行の製作と云うのも信じがたい事は言うまでもありません。ところが実には智證大師の請来経軌の中に、東密の当年星供で普通に用いられる七曜各別真言を説く典籍が存在していたようです。それは円珍撰『佛母曼拏羅念誦要法集』の中に此の真言が記されており、亦本書に付いては安然の『八家秘録』に同名書の記載があって「珍和尚、高大夫(高向公輔)と与(とも)に集む」と注されていますから、智證真撰を疑う必要も無いと考えられます。
しかし中古の東密学匠が此の書籍を読んでいたとは考えられません。東密の諸尊法集の中で当年星供に用いられる九曜各別真言を記している早い例として仁和寺の成就院大僧正寛助(1057―1125)撰『別行』(七巻抄)がありますが、残念ながら出典に関する注記はありません。亦本書に於いては他に『(梵天)火羅図』所説の九曜略真言も載せています。一方、既に石山寺の淳祐内供(890―953)が製作した有名な『石山七集』に於いても『梵天火羅図』所説の七曜各別真言が説かれていますが、是は一部を除いて当年星供の真言と一致しません。此の『梵天火羅図』はその特異な名称からして大正大蔵経第21巻に収載する『梵天火羅九曜』と同本かと思われますが、実際には『石山七集』等各種典籍の引用文と大正蔵本との間にかなり大きな相違があり、大正蔵本に「又真言/明」の類いを多く載せている事とその奥書に、
文治五年(1189)八月に書写す。四本を以って之を校す。玄証
と云う事等を考えあわせると、平安末には内容に相当異同のある諸本が流布していたようです。
最後に『密教大辞典』が「常の真言」と称する九執(七曜)の略真言に付いて言及すれば、それは『瑜祇経』の「金剛吉祥大成就品第九」に説く「金剛吉祥成就一切明」が根本の経説である事が明らかです。

師資相伝の口決を以って経軌の本説より重しとする傾向がある真言事相の世界では、一般的に云って本説の探究が大変困難です。中古中世に於いては現在と全く違って『大日経』『金剛頂経』を始めとする密教の経典儀軌を自由に閲覧するのはほとんど不可能であり、又その事とも関連して一方に於いては古くから多数の偽経・偽撰書の類いが流布していました。そうした学術環境の下で秘密の師資相伝が行われていたのですから、事相の典籍には元来学術研究と相容れない面があると云えます。しかし何代にもわたって厳密な師資相伝が行われたのであれば、意外と秘密相伝の口決に関わる本説が判明する場合も少なくありません。
当年星供の成立とその所用真言の本説に対する考究は、そのような真言事相の性格を理解する上で有益な一視点を提供しています。近日中にホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に「七曜九執真言の本説の事」と題して研究成果を報告します。

(平成25年1月29日)

ホームページ『柴田賢龍密教文庫』「研究報告」欄に研究成果を書き下ろし掲載しました。(平成25年2月8日)
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恵果授空海印信に擬せられた覚寛(観)授清泉印信

2012-11-07 20:44:00 | Weblog
恵果授空海印信に擬せられた覚寛(観)授清泉印信

現在、高野山・醍醐寺等に弘法大師が入唐して恵果阿闍利から授けられたと称する印信の写本数種が蔵されています。しかし大師の『御請来目録』や『付法伝』を始めとして中古の真言学匠の撰述(著作)類に至るまで、大師入唐時に師匠の青龍寺恵果和尚(かしょう/わじょう)から伝法印信を授けられたという文言を見る事はできません。尤も鎌倉時代後期になると数知れない種々の偽撰書が製作されるようになり、その中には弘法大師授受の印信類もあったようです。広沢方所伝の潅頂口決類を類集した弘融撰『シンジャ(梵字shimca)要秘鈔』(正慶元年/1332作)は巻第七「潅頂印可」の冒頭に於いて「高祖弘法大師後記」なる書物に載せる恵果和尚より相伝した印信を記しています。著者の弘融は当該印信に付いて「此の記、正否弁じ難し」と述べていますが、一応は正本と判断して筆を進めています(印信の内容は大日本佛教全書52p.134下を参照)。しかし、現在から考えれば此の種の印信を正本と信じるのは難しい事です。

従って大師も亦その潅頂弟子に対して印信を授ける事は無かったであろうと思われます。確かに古くから(鎌倉中期以降)、「天長の大事」という口伝に付随して大師の「天長の印信」が相伝されて来ました。是は天長二年(825)三月五日に東寺に於いて大師が真雅に授けたと云う印信で、『瑜祇経』に説く両部大阿闍利印明が記されていますから「瑜祇の印信」とも言います。また大師は真雅以外の弟子には此の印信を授ける事が無かったので、是に関連する秘密口決を又別して「唯授一人の大事」と称して尊重して来ました。ただ既に江戸時代の慈雲尊者(1718―1804)は此の印信の信憑性に疑問を呈しています。また『弘法大師諸弟子全集』巻上には、天長二年三月十一日に東寺に於いて大師が実恵に授けた潅頂印信が採録されています。是はいわゆる「小野の初重」印信で、伝法潅頂印信としては最も普通のものです。更に同『全集』巻中には天長八年(831)六月七日付けの大師が東寺に於いて真雅に授けた又別の印信が載せられています。是は両部一印二明であり「小野の第二重」と似ていますが真言を異にします。

しかし、これ等の大師が真雅、或いは実恵に授けたとされる印信類に付いては、最初に述べた蓋然性を考慮すれば、総じて疑わしいと言わざるを得ません。印信の授受は元来伝法の証(あかし)として師資の間で内密に行われる事であり、決まった書式があったとも思われないので、平安中期以前の東密印信の真偽を決するのは大変難しい事です。ただ東密諸師の潅頂印信に関して勧修寺流の立場から詳しく論じた栄海(ようかい)作『ゲンビラ鈔』十九巻の巻第六の中で、著者の栄海僧正(1278―1347)は、般若寺僧正観賢(853―925)から数えて七代分の発給者自筆の潅頂「血脈」(相承の由来を記した紹文)が鳥羽殿の宝蔵に存在している旨述べています。此の事も今と成っては確かめようがありませんが、一応平安時代の中期以降は、東密に於いても潅頂印信を授けるようになったと考えて置きましょう。

「東密に於いても」と云ったのは、元来付法に際してその証明書である印信を祖師以来発給し続けたのは台密祖師の方々であったからです。伝教大師が天台山に於ける伝法を終えて越州泰岳霊巌寺の順暁阿闍利の下で密教を受法した時、師の阿闍利より貞元二十一年(延暦二十四年/805)四月十八、十九日付の三種悉地真言を記した付法状を授けられました。此の事は古くからよく知られていますが、現在大阪四天王寺と京都山科毘沙門堂に分蔵されている古写本は実に順暁自筆の原本である可能性が高い事が報告されています(『佛教藝術』第96号の大山仁快「最澄伝受順暁阿闍利付法印信」)。又智証大師の場合も長安青龍寺の法全(はっせん)阿闍利の下で大悲胎蔵・金剛界・大阿闍利位の三度の潅頂を受けた後、師より大中九年(斉衡二年/855)十一月二十一日付の付法状を授けられました。是は独立した文書では無く、智証大師の『青龍寺求法目録』の奥に法全が加筆したものであり、入壇・受法の事を証明していますが真言等は記されていません。是も原本が三井寺に現蔵されて国宝に指定されています。慈覚大師の場合はよく分りませんが、台密の場合はこの様に祖師入唐の時点から付法状(印信)にこだわった様子が伺われ、して見れば三大師以降の印信授受を疑う事は出来ないでしょう。

前置きが大変長くなりましたが、空海が恵果阿闍梨より授与されたと伝える印信として『弘法大師全集』巻第七(第二輯所載)に採録されている「潅頂印信」(p.714~)があります。『全集』の編者注に、
編者曰く、此の印信は成賢の記なる八家潅頂印信に載する所なり。
と云い、必ずしも真実恵果授与の印信とは断定していないようです。ところが是と全同の印信が金沢文庫保管重文称名寺聖教の第247函第1号(外題)『汀(かんじょう)酉酉(だいご)〈各別流々〉』(鎌倉時代写)の中にあり、印信末尾の注記に此の印信の由緒を述べて、
此の印信は、播磨国書写山大納言阿闍梨覚寛、同山薬房清泉に授くる本なり。件の潅頂は醍醐寺流具支潅頂なり。
と云い、別して弘法大師に関する言及はありません。書写山阿闍梨覚寛(観)は三宝院権僧正勝覚の付法資であり、『血脈類集記』巻第四によれば大治三年(1128)十二月三日に伝法潅頂を受け、「印信を賜った」と云います。特に印信に言及している事は大変注目すべきですが、その時の印信が『汀酉酉〈各別流々〉』所載の覚寛が清泉に授けた印信と同じものとは思えません。それと云うのも、此の印信が記す潅頂印言は両部阿闍利位印明にそれぞれ三身説法印言を付加したものであり、常の醍醐(小野)の印信とは全く趣きを異にするからです。又それ故に、時代が下がって此の印信の由緒が分からなくなった時、印信の作風が大変古様である事を以って恵果が空海に授けた印信に擬せられたのであろうと思います。猶覚寛阿闍梨に付いては、拙著『日本密教人物事典』上巻の「覚観」の条を参照して下さい。
印信の文は前述したように『弘法大師全集』の「潅頂印信」と全く同じですから(一字だけ違いがありますけれども)翻刻文を紹介しませんが、『汀酉酉〈各別流々〉』に付いて簡単に紹介します。当写本は巻子本仕立てで、内題に「潅頂 酉酉流 別人流」と云い、「伊定阿闍梨」(「定」は恐らく「豆」で仁寛阿闍梨)の所伝を嚆矢(こうし)として三十一種の醍醐(小野)所伝の潅頂印明が類集されています。注記の類いは至って少なく、成立の古さを伺わせます。奥書は一種で「写本に云く」として、
右、件の書は度々所望を致すと雖も、宗の源底たる間、輙(すなわ)ち之を許し賜わらず。然れども北院御室(守覚)御作筑園の中、水秘(潅頂秘密)帖を以って僧正〔親―〕に進上せる間、感悦の到りに此の書を許し賜われる者なり。時に永仁四年(1296)九月廿四日、聊か之を記し了んぬ。     定仙
と記されています。即ち『仙芥集』の作者定仙が東寺長者・醍醐寺座主の親玄僧正に申請して、遂に書写を許された事が見て取れます。
又覚寛が清泉に授けた印信は第三番目に採録されていますが、その後に、
而して此の如き説は、三人の受くる印信の様、皆是れ相違す。異説□能○
二界各一印 言根本 遍知院御房(成賢か)に能々尋ぬべし。
と述べています。「三人」に付いて確かな事は云えませんが、さし当たって仁寛・遍智院(林覚)・覚寛かと思われます(比定の理由は煩雑になるので割愛します)。三人とも三宝院勝覚僧正の弟子ですが、林覚は定賢法務の潅頂資であり、勝覚からは伝法潅頂を受けていません。

(以上
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東大寺真言院と仏舎利埋納の事

2011-05-27 21:09:46 | Weblog
東大寺真言院と仏舎利埋納の事


金沢文庫保管称名寺聖教の中に外題を『肝心法〔舎利〕』、内題を『駄都秘決』と称する鎌倉末の写本があります(第334函39号)。その中に、
南無阿弥陀仏(俊乗房重源)云わく、宇一(室生)山の宝は
大日髻中の宝なり。東大寺真言院には
釈迦の人黄(にんおう)を埋めらる〔云々〕。
というやゝ風変わりな文章があり気に懸っていました。弘法大師が国家鎮護の為に室生山に如意宝珠を埋めたという伝承はよく知られていて、是を取り上げた記述は各種の書籍・論文等に広く見かける所ですから今は言及しません。問題とするのは東大寺真言院に関する部分です。

辞典類に依れば、東大寺真言院は弘仁年間に嵯峨天皇の御願として同寺別当空海(弘法大師)によって創建され、同十三年(822)に潅頂道場が建立された事などが知られるものの、平安中期には荒廃して廃絶に帰したらしく概して詳しい事は分からないと云えます。上の写本に依れば、その真言院に大師が「釈迦の人黄」すなわち仏舎利を埋納したと云うのです。人黄という言葉は『大日経疏』巻第十に於いて、ダキニ天が食する人間の心肝中の栄養素(エネルギー源)のようなものだと説明されています。しかし今の例は舎利の意味で此の特殊な言葉が使われているのです。
さて上の南無阿弥陀仏の口説と関係する史料として、続々群書類従の『東大寺続要録』「諸院篇 真言院」の中に載せる弘安四年(1281)四月六日付太政官牒があります。是は沙門聖守(1219―1291)の申請を認めて東大寺真言院を鎮護国家の道場とする事を通達した文書です。牒中に転載引用する申請文の中に、弘法大師が同院に摩尼珠と仏舎利を納めたという事が述べられています。その部分を和訳して下に示します。

「就中(なかんづく)摩尼の宝玉を土に埋め、遺身の舎利同じく納む。而るに建立の後、星霜多く移りて破壊せる間、蹤跡(しょうせき)空しく絶え、般若開講の場は荊棘(けいきょく)林を成す。舎利安置の處は莓苔(ばいたい)地を埋めて密壇何くにか在る。春駒徒に荒原の風に嘶き、禅床更に空しく秋鹿独り故苑の露に鳴く。然れども高祖(弘法大師)日々の影向(ようごう)は猶闕念すること無く、旧跡連連の検知に頻りに霊異を示す。重源和尚参詣の尅、鈴音親(まのあた)り瑜伽壇の上に韻(ひび)き、聖慶得業(1153―1175)の瞻礼(せんらい)せる處、瑞光正しく潅頂堂の縱(あと)に現る。加以(しかのみならず)正治(年間)の秋天に紫雲屢(しばし)ば聳え、建保の春日に金篋(こんきょう)忽ち彰(あらわ)る。末世たりと雖も奇独無きに非ず。
爰に聖守、且(かつう)は先王の御願を続(つ)いで金輪(聖王/天皇)の平安を祈り奉り、且は祖師の遺跡(ゆいせき)を崇めて(南天)鉄塔の教法を興さんと欲す。然れば則ち再び(真言院の)基址を祐さんが為に竊(ひそか)に誓願を発(おこ)さしむ。仍って高野山の莓洞に跪きて多年大師の加被を泣請し、(伊勢)大神宮の叢祠に籠りて数廻深く尊神の冥助を仰ぐ。而れば機感の時至って霊託日に新たなり。」

過日、藤原通憲の一族を中心に日本の貴族社会を研究しておられるM.ジャメンツ氏と此の事に付いて話し合った時、氏の方から続群書類従第27輯上の『東大寺縁起』にも関連する文章がある事と、同『縁起』の原本が『真福寺善本叢刊』8の「東大寺記録」である事などを聞かされました。それで更に他にも史料が埋もれているかも知れないと思い、先ずは関連史料を整理して和訳紹介する事にしました(重要な部分は現代語訳で重出)。近日中にHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に掲載発表します。
(平成23年5月27日)

追記
ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の研究報告シリーズに「東大寺真言院と如意宝珠」と題して上記のテーマに関する小論を発表しました。一見して下さい。
(平成23年6月15日)

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新出の洞泉性善の墨書貼紙

2011-03-11 01:45:54 | Weblog
新出の洞泉性善の墨書貼紙

1995年11月30日発行の『佛教藝術』第223号に収載されている林温「新出の八字文殊曼荼羅図について」は、平成七年度に重要文化財の指定を受けた個人蔵「八字文殊曼荼羅図」を紹介解説したものですが、初めの「伝来」の項に於いて本図表具の裏側に付された「旧表具を切り取ったと思われる」貼紙の写真とその墨書翻刻が掲載されています。
此の墨書は本図の改装後に供養導師の依頼を受けた江戸中期の著名な真言学僧である瓶原(みかのはら)貞福寺の洞泉性善(1676―1763)が記したものであり、性善の晩年の動静の一端を示す貴重な史料と判断して敢えて和訳して解説する事にしました。性善は醍醐寺に於いて主として報恩院流(三宝院流憲深方)の研鑽に努めて真言事相の碩学と仰がれるようになりましたが、また戒律にも造詣が深く後に東大寺の真言・戒壇両院の長老職を勤めています。
性善が世上よく名を知られているのは専ら『真言宗全書』に収載されている『三宝院流洞泉相承口訣』に依るものです。本書は題名にやや適切さを欠き、成立の由来を誤解している人が多いので一言して置きます。本書は明治・大正時代に活躍した仁和寺門跡浦上隆応(1856―1926)の編纂になりますが、内容の主要部である諸尊口決は智積院動潮(1709―95)の著作であり、それは宝暦年間(1751―64)に動潮が醍醐寺・東大寺或いは智積院において性善から受けた諸尊法の伝授を主な材料にしたと考えられる手鑑(てかがみ)・私記等です。潅頂部は性善の師僧であった醍醐安養院の運助僧正の著作であり、性善はそれを書写しただけで性善の口決ではありません(運助と性善は共に報恩院寛順大僧正の弟子です)。従って本書は動潮・運助作の隆応編になる変則的な三宝院流口伝集なのですが、動潮口決の本源は洞泉性善が醍醐に於いて相承した三宝院流の口決にあると云うので一応『三宝院流洞泉相承口訣』なる題名を付けたのでしょう。
〈翻刻文の和訳〉
(最初に別紙別筆で画題が記されています)
二四字マンダラ(梵字:matara)〔鼻祖真画〕   新勝院什物」
此の八字文殊の曼荼羅は是れ吾が曩祖遍照薄伽(ばが)の真蹟なり。而れば尤も尊重すべき者か。尓(しか)り。鳩嶺(はとがみね)新勝院の権律師重勝衲子(のうし)、不慮に之を感得せること冥助の致す所なれば衆人挙(こぞ)って称歎せり。奇なるかな。今歳(宝暦五年/1755)乙亥(きのとい)、季夏の天、老夫の之を携え来たりて云わく、院主若し所望あらば応当(まさ)に之を譲与すべし。且(また)他日来りて須らく賞労を受くべし〔云云〕。遂に之を閣(お)きて去り、復た来たらず。謂うべし、不可思議なりと。便(すなわ)ち軸の表紙を改め、開眼を予(性善)の手に乞う。固辞せるも免れず。仍って慎み挙(こぞ)りて之を供養し、聊(いささ)か其の縁起を記し了んぬ。
  宝暦五年九月十六日   瓶原苾蒭(びっしゅ)性善〔満八十才〕
(以上。翻刻は一部『佛教藝術』林論文と相違しますが注記を省略しました。ご了承下さい。)
〈語彙解説〉
○画題の「二四字」は勿論八字の事ですが、八字文殊を此のように表記するのは中古以来の伝統です。
○「鼻祖」は始祖・元祖の意で真言開祖弘法大師を指します。即ち大師の真筆であると云うのです。何でも由来のハッキリしない古仏・古写経等を宗祖や名の知られた祖師の御作と主張する此の種の説は、特に近世に於いては各宗寺院を通じて最もありふれたもので、寺院社会全般が通俗化した様相の一端をよく示しています。
○「新勝院」は後文に出るように男山(おとこやま)の石清水八幡宮の一子院です。正徳元年(1711)刊行の『山城名勝志』巻第十八では「五鳳集」なる書物を引用して、「男山には良い寺が沢山あるが、中でも新勝と云うのが一番である」と言っています。新勝院の什物になった経緯は本文に述べられています。
○「遍照薄伽」は弘法大師のことですが遍照金剛と薄伽梵(ばがぼん)を合わせた造語です。薄伽梵は梵語(サンスクリット語)bhagavanの音写で世尊と漢訳されています。
○「鳩嶺」は石清水八幡宮が鎮座する男山の異称ですが、その西寄りの一段と高い峰を指すという説もあるようです。
○「権律師重勝衲子」は当時の新勝院の院主であった事位しか分かりませんが、性善と親しい事からやはり真言律の僧であったのでしょう。「衲」は僧衣のことで衲子は僧侶の異称です。
○「瓶原」は山城国の南端の木津川沿いにあり(現在は木津川市加茂町)、奈良時代に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)を構えた由緒ある場所です。南には九体仏で有名な浄瑠璃寺があります。性善は此の瓶原の貞福寺を私坊としていたのです。
○「苾蒭」は梵語bhiksuの音写であり、古い音写語である比丘の方が一般的です。真言僧は自らを金剛仏子と称し、律僧は苾蒭/比丘と称しますが、真言律の僧は状況に応じて使い分けます。

(以上)平成23年3月11日


(追加記事)
石清水新勝院重勝律師の新史料

弘法大師の真筆と称する「八字文殊曼荼羅」を老夫から手に入れて是を修補し、瓶原の洞泉性善に開眼供養を依頼した新勝院の権律師重勝に関しては他に知る所がありませんでした。ところが最近の『佛教藝術』第312号に載せる泉武夫「黒漆八角宝珠箱の金銀泥絵像とその意味」の中に重要史料がありました。此の論文は京都の石清水八幡宮が所蔵する範俊僧正(1038―1112)奉納と伝える如意宝珠を納めた盒子(ごうす/ごうし)に描かれた金銀泥の絵像に付いて詳しく解説していますが、此の宝珠を所蔵していたのが他ならぬ重勝律師であった事を明らかにしています。
即ち「一 出現状況と由緒書」に於いて、此の盒子を収納する外箱の蓋裏に貼付されていた重勝記の由緒書が翻刻紹介されていますが、それに依って重勝が八幡宮の中で枢要な地位を占めていたらしい事が伺えます。下に此の由緒書を和訳して示します。
「此の如意宝珠は古神宝録の中ニ範俊僧正奉納ト之あり。去年七月請雨(しょうう)の時、霊験速やかなり。拝見容易ならざらしめんが為に、外箱を新調す。毎日修法の時、予(私)、用心すること之あり。宝朱(珠)の事、当宮に習(ならい/口伝)之あり。   御殿司松本
 宝暦九卯(1759)五月廿八日、権律師重勝」
前年の請雨法に言及していますが、是は重勝が(大)阿闍利として修法を行ったという事でしょうから、重勝は当時の石清水を代表する真言僧であったと思われます。また此の如意宝珠は重勝の所蔵か八幡宮の什物か判然としませんが、何れにせよ重勝が管領していたのです。更に重勝は松本坊の院主として山上御殿司の別当でもあったようです(泉論文の注2参照)。

(平成23年5月28日)


(追加記事の補説)
上記「由緒書」の和訳中に「御殿司松本」と記しましたが、泉論文の図1に写っている外箱裏の由緒書をよく見ると、「松」字とするのは誤りで「杉」の異体字である事が分かりました。重勝律師の本坊である新勝院は又「杉本坊」と称する由なので是で納得が行きます。
『石清水八幡宮史料叢書 一 男山考古録』の「新勝院〔附、杉本坊〕」の項に、
中谷坂路倉坊の東隣は杉本坊也。新勝院を相続して同名を名乗る。同所なればにや。貞治三年(1364)七月に検校に補されたる新善法寺永清法印が次男空助法眼、御殿司に補されて当院に住て、東谷新勝院と号せり。(中略)御殿司宗真、当院に住し、元応二年(1320)三月八日寂す。宗延又空助等、皆新勝院々主にて杉本坊と号せり。
と解説しています(年記、送り仮名など一部改変しました)。
(平成23年5月29日)




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