雑念雑記

雨月更紗が思いついたことを思いのまま…

人生いろいろ

2005-06-26 18:56:25 | 日々の思い
人生いろいろいろある。
やりきれない感情をどう処理すればよいのか、
探し回ってみたり。
こんな気持ち、これまで何度も経験したな。
そんな時、どうしてたんだろう?
やっぱり日記を書いていたか…。
じゃあ、やっぱり書くしかないか。

感情の領域

2005-06-24 06:31:43 | 日々の思い
誰かとなんとか表面的にでも平常な関係を保つためには、自己を消してしまうしかない、と思うことがあります。
そんなの本来、人間がするべきことではないのかもしれないし、普通、そんな関係であれば、すぐに断ち切ってしまえばいいようなものなのですが、そうもできない関係というのもあるのです。だから仕方なくそうするわけです。

自己を消してしまうなんて、本当にできるのか?確かにやろうと思えば、できるようです。ただ、それには、感情を自分の中に押さえ込む、押し込んでその人の前では表に出さないという長期トレーニングが必要となるのです。そんなのもちろん自然なことではないし、私の性格からすれば、全く逆走しているようなものなのです。でも、それを続ければ、その人の前では自己を消してしまうことだって可能になるようです。

何でそこまでして、自己を消したり、感情押さえ込みトレーニングをしなくてはならないのでしょう。そうしないと、その人の関係の中で、自分を消耗し、自滅してしまいそうだから。自分の無力さを感じすぎて、どうにもできない自分が狂ってしまいたくないから。そうならないためには、これしか方法がないから。いわば自己防衛手段のようなものなのです。それができるのであれば、それはそれで良いような気がします。

ただ、ふっと感じたのが、こうしてある人間関係の間で自己を消したり、感情押さえ込みトレーニングをすることで、感情を表しても良いし、表したい人間関係でも、自分が自然に感情を出せなくなってしまっているのではないか、という恐怖感。ある一定の人間関係で自己を消してしまうことよりも、ある一定の人間関係で感情が出せなくなってしまうことのほうがずっと恐ろしいことです。

もしかして…以前はもっと熱い感情があったのかな、という不安が頭をよぎるのです。
でも、これだけ心が痛んだり、悲しいと思ったり、人の優しさに熱いものを感じたりできるってことは、まだ残されているのかも…。そうだといいけど。

人はこんな風に無感情領域と有感情領域とを分けられるものなのでしょうか。1つの人格の中で。できるのであれば、このままで良いのかも知れません。でも、できないのであれば…私はどちらを選びたいのか、また、どうやって片方を処理すれば良いのか…。ちょっと考え中です。

尊敬する人

2005-06-22 08:25:19 | 日々の思い
子どもの頃、よく学校などで「尊敬する人は誰ですか」と聞かれたような気がします。
その頃、なんて自分が答えていたか、あまり覚えていないのですが、結構返答に困っていたような気がします。「お父さん」とか「お母さん」と答える人もいたし、偉人の名前をあげる人も結構いたと思います。
私は自分の両親を「尊敬する人」としてあげたことはありませんでした。好きな小説家の名前でも挙げていたような気がしますが…。

今、同じ質問をされたら、やはり返答に困ってしまいます。偉人は個人的に知っているわけではないので、人間性の細かい部分を知り得ないし、今、生きている身近な人で「尊敬する人」という1つの像を作ってしまうのもなぁ、という気がするからです。

でも、尊敬できる人間性というのはあります。
それは、自分の目的に向かって進んでいる人。そういう人は美しいと思います。あきらめないで、前向きに進みながらも、おごり高ぶることのない人。人の気持ちを理解できる人も素敵です。
このどれも、私が一番自分に求めていることなのかもしれません。

友達関係

2005-06-16 08:19:26 | 子ども
息子はかなりマイペースで、周りがどうであろうと我が道を行くタイプ。
それがとても良いこともあるのですが、時々このままで良いのかな、と思ってしまうこともあるのです。その1つが友達との遊びです。

幼稚園の頃から、園が終わったあとに友達と約束をして遊ぶことはほとんどなく、たまに友達が家に遊びに来たいと言って来ても、途中でけんかになったり、友達は友達、自分は自分で遊んだりすることも多かったのです。友達の家に誘われた時も、行ってみて自分の好きな遊びがなければ、少しだけ遊んですぐに「もう帰ろうか」という具合でした。

いわゆる「仲良し」のお友達というのもなくて、別に本人はそれでも全くかまわないって感じ。近所のおばさんに「幼稚園にたくさん仲良しのお友達がいるの?」と聞かれても、堂々と「ううん、いないんだ。ぼく結構一人で遊ぶのが好きだからね」と言い、実際に幼稚園でも自分の興味のある遊びがなければ、一人で何か遊びを考えて始め、それに誰かが興味を持ってくれば、その子と一緒に遊ぶ、という調子だったのです。
彼の中での「友達」とは、いつも一緒にいる仲良し、というのではなく、もっと親密な関係を言うのかな、と思ったりもしました。別にそれはそれで良いと思いつつも、親としては一抹の不安もあったのです。

ところが、学校に入って変わりました。もちろん全員といい感じで遊ぶわけではありませんが、本当に楽しそうに話をしながら、遊びの世界を広げていける友達が何人もでき、そういう友達とは時間を忘れて遊びます。学校が終わったあとも一緒に遊びたがるのです。
これまでずっと友達と一緒に何かをやるのが苦手なのかな、なんて思っていたのですが、同類の興味を持つ友達とは、相談しながら物を作ったり、何かになったつもりであそんだり、一緒にきれいな石を集めたり。それは、まるで水を得た魚のようです。もしかしたら学校に入ってやっと、本当に気の合う友達を見つけられたのかもしれません。

それにしても、ここまではっきりと自分のやりたいこと、好きなことがわかっているのは、私からすれば、ある意味でうらやましくもあり、時にこのままでいいのかな、と不安になったりもするのですが…。

したいことをする時間

2005-06-14 08:27:48 | 日々の思い
しなくてはならないことが多すぎると、自分のしたいことは何なのかが分からなくなってきます。そしてたとえそれが分かったとしても「~しなくてはいけないから」と自分に言い訳をして、したいことをやらなくなってしまうのです。
でも、本当にしたいことというのはいつまでも頭の中に残っていて、それができないと欲求不満となり、文句もつい多くなりがちに。
じゃあ、しなくてはならないことが全部終わるとしたいことができるか、というとそうとも限りません。だって次のしなくてはならないことが出てくるから。

人は生きている以上、必ずどこかにしなくてはならないことが存在しているものです。完全に消え去ることはまずありません。でも、そのしなくてはならないことを常に第1優先しないといけないか、と言うと必ずしもそうではないのです。後回しにできることもあるし、したいことと一緒に同時進行できることも実際には多いのです。ただ、ちょっと工夫しなくてはいけないし、柔軟にいろんなことを考えなくてはいけないだけなのです。

したいことなんて、しなくてはならないことを片付けてゆっくりやろう、とか、まとまった時間ができたらやろう、なんて思っていたら、一生できないで終わってしまうかもしれません。
ほんの少しの時間をうまく利用したり、しなくてはならないことで、急ぎでないものは後回しにしたり、しなくてはならないことをやりながらやることで、やっとしたいことの時間を作ることができるのかもしれません。
それがなかなかできないでいたような気がします。

このように考えられるようになっても、やはり常にしなくてはならないことを優先し、したいことを後回しにするようであれば、もしかしたらそれは本当に自分がしたいことではないのかもしれません。または時間以外の何かがそれをさせないでいるのかもしれません。それは精神的なものであったり、体力的なものであったり。
それがなんであるかを見極めると、新たな道が開けてくるのかもしれません。

自分の人生を生きる

2005-06-11 07:06:25 | 日々の思い
人はどこまで自分の人生を生きるのだろう。
人はどこまで自分に対して自由でいられるのだろう。
自分の人生を歩むことをもはや止めてしまい、
身も心も第3者に委ねるという選択。
それを選ぶことも1つの生き方だし
ある意味でその人の人生なのかもしれない。
でも、その人を愛するものにとっては、
そういう人生の選択はあまりにむなしく、悲しい。
その人の精神はすでに死んでしまっていると感じるから。
凍りつくような寒さと、悲しみが残る。
その人の本当の最後、生命が絶える時は、
もう、ここまで悲しくはないだろう。
人の人生は、その人の心臓が打つことを止めた時に終わるのではなく、
その人が自分の人生を生きることを止めた時、
すでに終わっているのかもしれない。
だから、最後まで自分の人生を生き抜いた人は、
死後もその魂が人々の心に宿り、
永遠に生きることを止めない。
でも、その人は、もう自分の人生を生きることを止めてしまった。
むなしい。
何もできない無力感が残る。
あきらめることさえしなければ、自分の人生を生きる道は、
どんな状況にあっても、決して閉ざされることはない。
どこかに必ず、その道は残されており、
真剣に探せば、きっと見つかるはずなのに。
無念だ。

自信

2005-06-07 07:59:52 | Weblog
「自信」なんて思い込みの賜物なんだと思えるようになった。
自分のことを「これでよし」としてしまえば、
そこに自信も生まれ、今の自分を認めることだってできる。
でも、自分のことを「まだ足りない。まだダメ」と思い続ければ、
永遠に続く苦しい道を行くことになる。
考えてみると当たり前のことなのだけど、
それをすんなり受け止めることができないでいた。
人との比較。
誰かより上手いと思っても、その上を見る。
常に上を上を見て比較していれば、
これまたゴールのないレースをしているようなもので、きりがない。
人はどこかサディスティックなところ、
自分より下のものを見てほくそえむところと、
マゾヒスティックなところ、
上を見続けダメな自分を責めているようなところがあると思う。
よく考えてみると、どちらも無意味なことで、
本当に必要なのは、常に自分自身を認め、
尊重してあげることではないか。

勉強がよくできる?

2005-06-05 00:12:44 | 日々の思い
実は私は中学・高校と非常にできの悪い子どもだったのです。
あっ、成績が悪かったという意味です。
それを特に隠していたわけではないのですが、なぜか周りの友達も、受け持ち以外の先生も、近所の人も、みんななぜか私のことを勉強ができる子どもだと思っていて、それがひどく重荷でした。
何でそう思われるのだろう、と真剣に考えたものです。
メガネをかけていたから?本が好きだったから?書くことも好きで、いろんなことを書いていたから?
未だによくわかりません。成績は悪くても、いわゆる不良ではなく、見た目は真面目そうだったので、そう思われたのかな?
メガネをかけてたのは、もちろん単に目が悪かっただけだし、本が好きなのは、言ってみれば切手集めが好きとか、スポーツが好きというのと大差はないし、書くのが好きなのも同様だと思うのです。ただ世間の画一的なイメージは読書・メガネ、イコール勉強ができるということになっているのかもしれません。本人にとっては、これってすごい重荷になるものなのですが。

よくよく考えてみると「勉強ができる」というのも曖昧なことばで、これってどういう意味なんでしょう?たいていの場合は「成績が良い」ということなのだと思うのですが、私自身は小学校から高校までを通して、テストでよい成績をとったから「あ~勉強がよくできた!」と思ったことは1度もありませんでした。私にとって勉強とは、興味とともに知識も広げていくことで、そこに面白さがあり、知識を広げていくすべを知ることも勉強の大きな要素だと思っています。そういう意味では、小学校から高校までは、あまり「勉強をした」という感覚がなく「練習をした」とか「必要事項を覚えた」だけに過ぎなかったように思います。

初めて勉強の面白さを知ったのは、大学の時で、自由に読み、調べ、深めていけ、そのために時間が与えられることを本当に嬉しく思いました。また、そこから自分が引き出した結論をことばで表現して書いていくのもワクワクするほど楽しいものでした。そのとき初めて「これぞ勉強だ!」と思い、「あ~勉強って楽しいな」と感じたのです。小学校から高校までの間に言われていた「勉強」って、つらくて、努力しなくてはならず、苦しみながらやるもののように感じていましたが、私のイメージする、私の中での本当の「勉強」は実はとっても楽しいものだとわかり、ほっとしたのでした。

自分の子どもには、大学になって初めてそれを知るのではなく、小学校の頃からそれを感じて欲しい、と思っているのですが、どうなるでしょう?それには、それなりの環境、周りの見方などもある程度影響してくるので…。



日記帳

2005-06-01 14:07:03 | お気に入り
子どもの頃から文房具が好きで、しゃれた文房具屋があると入らずにはいられません。
初めてお小遣いをもらい始めた頃、その殆どを文房具に使ったのを覚えています。
中でも日記帳にはかなりのこだわりがあります。小学3年生の頃からつけ始めた日記。今、いったい何冊目をつけているのかも分かりません。失くしてしまったものもあるし。
でも、それぞれの時に、とても気に入ったものを自分でかなり選んで買っています。
いつも1冊が終わる時ってかすかな感動をおぼえ、新しい日記の1ページ目を書く時は、ちょっとした興奮を味わうことができます。
パソコンで書く日記では味わえない感覚です。
ペンを持って字を書くのと、キーボードを打って字を書くのとでは、やはり少し違いがあり、そこから生まれてくる文章も、違うように思います。
それもあってブログで日記のようなものを書きながらも、手書きの日記も止められません。
日記を書くのは自分自身と向き合える時間。
新しい自分と出会える時間。
もう1人の自分から何かを得られる時間。
だから毎日は書かないまでも、心に変化があったとき、日記帳を開かずにはいられないのです。
これまで何度となく日記に助けられ、生きる力を与えられてきたから。

これまで書いていた日記帳は右のゴッホの絵が書いてあるもの。同じような大きさの、同じような形の日記をずっと探していました。
やっと見つけたのが左側の赤い日記帳。無印良品で見つけ、すぐに買いました。

懐かしい人

2005-06-01 02:10:55 | 日々の思い
このところ懐かしい人から電話やメールをもらうことが多いのだけど、今日は中でも最高でした!
10年も会ってない友達から突然「6月1日に帰国するので、2日間とめてもらってもいい?」というメール!6月1日って、明日じゃん!
嬉しくて心が躍りました!
彼女とは10年も会ってないし、それまでも私がポーランドに行っていたり、彼女が外国に行っていたりで、会った回数からすれば、そんなに多くないのだけど、心が通じていると言うか、感じ方が似ていると言うか…精神的にとても身近に感じられるのです。だから、長い間会っていなくても、精神的に近い状態からすぐに話しに入れるのです。そういう友達って、そんなに多くないから、私にとってはとても大切な人です。
今回も、ここ数日彼女はどうしてるかな、と考え、あって話したいと思っていたので、まるで心が通じ合ったような帰国の知らせでした!
10年も会っていないのだから、話したいことも山のようにあり、とても2日では足りない!もっと長くいてくれないかなぁ。
他にも、別の懐かしい人からちょっと嬉しい話もあり、なんか気持ちの弾んだ1日でした。