誰かとなんとか表面的にでも平常な関係を保つためには、自己を消してしまうしかない、と思うことがあります。
そんなの本来、人間がするべきことではないのかもしれないし、普通、そんな関係であれば、すぐに断ち切ってしまえばいいようなものなのですが、そうもできない関係というのもあるのです。だから仕方なくそうするわけです。
自己を消してしまうなんて、本当にできるのか?確かにやろうと思えば、できるようです。ただ、それには、感情を自分の中に押さえ込む、押し込んでその人の前では表に出さないという長期トレーニングが必要となるのです。そんなのもちろん自然なことではないし、私の性格からすれば、全く逆走しているようなものなのです。でも、それを続ければ、その人の前では自己を消してしまうことだって可能になるようです。
何でそこまでして、自己を消したり、感情押さえ込みトレーニングをしなくてはならないのでしょう。そうしないと、その人の関係の中で、自分を消耗し、自滅してしまいそうだから。自分の無力さを感じすぎて、どうにもできない自分が狂ってしまいたくないから。そうならないためには、これしか方法がないから。いわば自己防衛手段のようなものなのです。それができるのであれば、それはそれで良いような気がします。
ただ、ふっと感じたのが、こうしてある人間関係の間で自己を消したり、感情押さえ込みトレーニングをすることで、感情を表しても良いし、表したい人間関係でも、自分が自然に感情を出せなくなってしまっているのではないか、という恐怖感。ある一定の人間関係で自己を消してしまうことよりも、ある一定の人間関係で感情が出せなくなってしまうことのほうがずっと恐ろしいことです。
もしかして…以前はもっと熱い感情があったのかな、という不安が頭をよぎるのです。
でも、これだけ心が痛んだり、悲しいと思ったり、人の優しさに熱いものを感じたりできるってことは、まだ残されているのかも…。そうだといいけど。
人はこんな風に無感情領域と有感情領域とを分けられるものなのでしょうか。1つの人格の中で。できるのであれば、このままで良いのかも知れません。でも、できないのであれば…私はどちらを選びたいのか、また、どうやって片方を処理すれば良いのか…。ちょっと考え中です。